「野戦郵便旗」の「日の丸部落」の項は、9月16日付の「貴腰湾」の項の次にあり次項の「軍司令官の片影」「空襲」に続いて、「コレラ」が9月18日付なのでこの前後のことが書かれていると考えられます。 場所は「山室部隊の上陸地点で呉淞から揚子江の本流を遡り、四里ほどのところである。」と、ありますが、宝山の町よりずっと川上で川沙鎮のすぐ東ということになります。ちなみに、第十一師団の川沙鎮上陸が8月23日ですから、3週間ほど経っているわけですが、少なくとも、南京進撃途上の話ではなく、第二次上海事件開始直後の記事ですね。[by ja2047さん]
203高地に次ぐ悪戦苦闘・・・9月16〜18日はまだ激戦の真っ只中
宝山は抗日戦の聖地でもある(中国中学歴史教科書)
上海攻防戦地図〜呉淞クリーク突破戦
いまは上海市宝山区
日本軍初の「慰安所」が開設されたところだそうです
センブ村「日の丸部落」
笠原「南京事件」写真誤用について
「襷の少年」と「通訳の少年」は同一人物かも(^^)[by 熊猫さん]
(3)
襷をしている少年は、「村長さん格におさまっている田窪忠司部隊長」の隣にいるようです。[by ピッポ]
(4)引用
段落を設けました。また、雞は「鶏」としました。
実際は旁(つくり)が「鳥」でなく「隹」のニワトリです。[by
pippo]
筆者である佐々木元勝氏は、戦場として巻き込まれた人々の悲惨を克明に記録しようと努めています。陰惨な死体からも目をそむけていません。(青字)
天幕張りの小屋の中である、目覚まし時計で眠が醒める。払暁から海軍機が飛び出す。快晴。朝私は二度濾したという水で顔を洗う。郵便夫たちは四日も顔を洗ってないと言う。
八時、平井軍曹が先頭になり兵五名と吉田書記、吉川書記同行徴発に出かける。兵隊二名は銃を持っている。畑の道で担架に乗せられてくる傷病兵に逢う。手足は垢だらけである。瞼が紫色に膨れているものもある。幅高半ぐらい泥水が少し流れているクリークに沿って行くと中に馬が二匹死骸になって横たわっている。
この地方の農村は家長制の大家族主義で多くの家が一廓に集まり、竹やぶが茂りクリークを外濠としている。一里ほど歩いて日の丸部落にくる。ここはなかば焼け残って二十六人の支那人が助かっている。
「此部落の住民は皇軍の為種々便益を与へた、親日の良民であるから殺傷してはならぬ」と部隊長名で廃屋に幾つも貼紙がしてある。入口が一間あまり焼かれた居酒屋があり、日の丸の旗が数本出ている。旗は兵隊が置いていってやったのである。この部落は日の丸部落といわれている。
店の中には老人や子供がいる。お産をしたばかりらしい三十くらいの蒼ざめた女が嬰児に乳をやっている。疲れた鈍感な眼である。この家には通訳をする十七の少年がいるのである。上海の日本人商店に勤めていたが、事変直前この部落の生家にもどり、ここを進撃する我が軍のために通訳をし、いろいろ便宜をあたえたのである。いわばこの部落の救世主である。通訳の少年がもどってくる。瘠せて年よりも小さい身体であるが答弁はなかなかあざやかである。平井軍曹は津軽の人でこっちの方が発音がわかりずらい。
小学校一年の可愛い男の児がいる。軍曹が万年筆で一、二、三、四とか父母とか漢字を書くと、それをおとなしく読む。支那は子供の方が学者である。十くらいの眉目の整った女の児もいる。みんな蒼い顔をして元気がない。年寄どもはぼんやり傍に腰掛けている。老爺は眼を病み白い髭に鼻汁を垂らしている。入口の土間に籠があって、一、二歳の児がはいっている。口の右端が裂かれ腐って金蝿がたかっている。はじめ私は頬瘻なのかと思ったが、これは刀傷であった。母親に抱かれているのを後から親ごと斬られたのである。重藤部隊の将校が死ぬまで預ってやれと言ったのでここに連れてきているのである。軍医が腕にも繃帯してやっている。キャラメルをやると無心に喰べる。この子供の裂かれた口、その傷にたかる金蝿、戦争がいかに悲惨なものであるか、私は電撃された。
兵隊が通訳の少年に言う。「支那軍がもどってきたらお前は殺されるぞ。日本にこい」通訳の少年は淋しい微笑を浮かべる。
居酒屋を出て徴発に向かう。焼跡に支那男が二人かがまり、小刀がないのか鋏で鶏を料理している。クリークの向うには焼け落ちた家の材木がさかんに燃えている。クリークはかなり岸が高く石の橋がかかっている。これを渡り、日の丸部落を出て杜の多い畑となる。どこの農家でも薄暗い土間に白蚊帳を張った四角な寝台がある。これが関房というものであろう。兵隊が一人新しい朱塗りの樽を抱えてくる。飯櫃にするつもりなのである。「そりや便器だぞ」と言われ、大慌てにあわて捨ててしまう。
焼けた家に鶏の一群を見つけ一同竹棒で追い廻す。なかなかつかまらない。叩き過ぎて呼吸の絶えたのは捨て八羽ほど獲得する。農家の垣根の間の細道を大きな黒豚三匹が仔を連れてやってくる。吉田君が拳銃を貸してくれたので、私は引返し、よちよち逃げて行く豚の尻を二間くらいのところから三発ぶっ放す。ダン、ダン、拳銃の反動が掌にこたえる。
爆撃でもされたらしく屋根がひっくりかえっている農家がある。折れのめった棟や崩れた屋根瓦の中に母親らしい死休が一つ。近くに五つくらいの子供が仰向けになって死んでいる。それを見ると涙が出てくる。平べったい大笊にはそら豆がたくさん干してある。農家だから探しても何もない、襟巻だとか支那足袋だとかランプなどが目ぼしい物である。
ある一軒の農家はまったく死の家であった。家屋は破壊されていないが庭に面した土間に老婆が二人頭をつき合せるようにして血に塗れて横たわっている。 蝿が二、三十匹たかっている。隣の部屋の寝台には幅一尺、長さ二尺くらい、赤いペンキを流したごとく血糊でぬらぬらである。次の奥の暗い土間に三十くらいの男が顔を仰向けになりかかって死休になっている。死体のある土間から土間へ小さい鶏が逃げ廻っている。実に気味が悪い。
裏の竹薮には荷物類が出されてあり、兵隊が何かを探し銅銭が散らばる。いま一軒の焼けた家に行くと裏から老婆がうおー、うおー、と変な声を出して連れられてくる。吉田君が後から拳銃を突きつけている。
「此老婆殺すべからず」
「此老婆不可殺」
と老婆を立たせた白壁に私が消炭で書いてやる。大柄な老婆はただ手を合せておがむ。
パンパン銃声がするので一同緊張する。白服の水兵が二名現われる。この水兵が拳銃を撃ったのである。生々しい血糊に塗れて死体が転がっている「死の家」の骨髄に泌む気味悪さに、生きている老婆が出てきたのでぞっとしたのである。そうしてもっと気味の悪い家に私たちははいった。それは農家の薄暗い寝室の白蚊帳の中に一歳くらいの子が横たわり眼をばっちり開けていたことである。鬼気迫り恐怖で足が浮くようである。この「生の家」の気味悪さ。子供はどうするのであろう。母親の乳がなければみすみす死んでしまう。
私たちが立ち去ると老婆はすぐ逃げた。水兵が後からやってきてそう言う。彼らはどこかに隠れているに違いない。棉の花が黄色く咲き残っている畑の道に、老婆の死体が風呂敷を背負って横たわっている。その横顔が私の伯母そっくりである。黒い水牛がところどころにいて私たちをじっと見ている。大きく張った角がとても兇猛に見える。兵隊が銃に弾を装填する。何事もなく水牛のいる傍の道を通り過ぎてほっとする。
四角な赤い食卓二つを獲得し一同担いで帰る。竹薮の中の家々が濠々と焼かれ、血のように赤い火を吐いている。手相弾を投げるごとくパンパン、竹のはぜる音がする。クリークに細い木の橋がかかり、たもとに子供の死体が股を開けて腐っている。この下流の水を濾して貴腰湾の連中は顔を洗い、また沸かして湯としているのである。
焼かれた豪家の庭に鳳仙花が赤く咲いている。畑中をくるとクリークに子供と母親らしい死体が寄り添って腐っている。
飛行機が飛びやがて河岸の方に汽船のマストが見えてくる。荒れた棉畑に青竹に突き刺された首がある。蛆だらけで腐って、黒いかぼちゃみたいである。郵便継立所近くの宿営部落にくると道端に捨てた物が、まったく文字通り味噌も糞もごじゃごじゃで胸糞が悪い。
天幕小屋にもどったのは一時過ぎである。飯なんか気持が悪くて食えない。私は氷砂糖を噛りパンにウイスキーを泌ませ喉に押し込む。天気が悪く雨となる。
連絡船駆逐艦「鵯(ひよどり)」に乗る。甲板には麻の布で区切られ傷病兵が六、七名横たわっている。貴腰湾から田野の奥約二里の羅店鎮を攻撃する永津部隊の最前線まで出かけた衆議院の慰問団の一行が乗っている。代議士の二名は支那軍将校用の深い鉄兜を土産に持って帰っている。濃緑の鉄兜の後頭部の出っ張りが前廂であるとかちがうとかおかしな論争をしていた。
雨の降りしきるなかを呉淞に着く。代議士一行はここで軍艦を降り、出迎えの自動車ですぐに上海に向かう。私は人手がないので郵便行嚢を一個担いで降りる。表門茅屋の局舎に立寄ると局長新谷書記が赤痢らしく、狭い奥に臥床しており、壁など消毒で白くなっている。
(5)判ったこと
(6)参考
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