16枚の写真帳-4、斬首(n-070-5)

No. P. 内容 撮影者
初出誌
東中野氏の否定根拠 画像
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否定根拠への疑問 検証記事リンク 写真判定
EXc 138 斬首 (日本兵)
ナンキン
[恥]帳にはない 
影の検討のため、ザ・レイプ・オブ・ナンキンから引用、挿入。冬ではない。
なお、この兵士の軍靴は日本軍のものではないようだ
  冬でないかもしれないが、この計測方法は誤差が大きい(笑)
地下足袋が日本兵の必携品だったようですが・・・検証[424-438]
"n/143-65-80"影

検証271

検証72

 
 
70 131 斬首 (日本兵)
[恥]帳
(場所の同一性検討はあっても、内容検討は無し)   どう見ても、これらの写真は"演技"でも"やらせ"でもありません。

  どの写真も首が刎ねられる瞬間をねらったもの。ポーズ写真だったp.86の写真6とは、そこが違う。

  写真72などは血しぶきが写っている。モノクロ写真ではわかりずらいが、カラー写真だったらかなり凄惨な情景だ。ここに集まった百名を超える兵士達は、赤い血を見て興奮しているに違いない。もちろんカメラマンも。

  写真74写真75には、3人のカメラマンが写っている(南京大虐殺と「証拠写真」より)。これらの写真を写した人物を含めると、カメラマンは最低4人以上いたということになる。

  東中野氏は、写真帳の6枚、すなわち写真70、71、72、73、74、75のほか、写真14、15、EX-C を併せた9枚が、同じ日の同じ場所での公開据え物斬り斬首大会の写真だといっている。私もそれに同意します。

  撮影者が一人で、1枚の写真はどこまでも1枚だ、という根拠の無い東中野流の縛りを解いて考えれば、さまざまなルートで写真が流布したことに、何の不思議も無い。

  カメラマンが4名以上いたならば、羅瑾氏が勤務する南京の写真館以外に、上海の写真館にもフィルム現像が依頼され、そこから漢口へ写真が流出したというLook誌の記事とも辻褄が合う。検証161、167

  やがて、残虐写真の流出とその利敵作用に気が付いた中支派遣軍上層部は、撮影禁止令を発したのである。1938年10月24日付「軍人軍属寫眞撮影製作取締規定」のこと。

※追記
そもそも、日本兵士が戦場でカメラを持つようになったのは、上海事変が終ったらさっさと日本に帰れると思った兵士達が、免税で3分の1の金額で買える外国製高級カメラに群がり、日本へのみやげ物として手に入れたからであったそうだ。
 
71 131   (日本兵)
[恥]帳 
(場所の同一性検討はあっても、内容検討は無し)    
72 131 斬首 (日本兵)
[恥]帳 
(場所の同一性検討はあっても、内容検討は無し)

 
 
73 131 斬首 (日本兵)
[恥]帳 
(場所の同一性検討はあっても、内容検討は無し)
 
 
74 131 斬首 (日本兵)
[恥]帳 
(場所の同一性検討はあっても、内容検討は無し)
 
 
75 131 斬首 (日本兵)
[恥]帳 
(場所の同一性検討はあっても、内容検討は無し)
 
 

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