No. | P. | 内容 | 撮影者 初出誌 |
東中野氏の否定根拠 | 画像 click |
否定根拠への疑問 | 検証記事リンク | 写真判定 |
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140 | 221 | 中華門外側より撮影 | 村瀬 |
(東中野氏の村瀬否定論) 1、「第一線に近づくにつれて、部落を通過するたびに、虐殺死体が目立ちはじめました」ということからしてウソくさい。そもそも、戦場に好き好んで残る村民はいない。 2、村瀬氏の部隊が足止めされたという言い方が気にいらない 3、婦人や子供も混じっているようでした、は目撃談ではない。 4、対岸に逃亡しようとした中国兵の戦死体か、上流の激戦地から流れ着いた戦死体に決まっている。 5、だから、軍服を脱いで湧o.ノなった中国兵なのである。 |
(撮影者本人による解説文) 南京の攻略が大幅に遅れたので、第一線部隊の兵隊は、厳しい命令を受けて、目が血走っていました。 小休止で一緒に休んだ時の話をきくと、「南京一番乗りは師団の至上命令だ。南京へいけば、女はいくらでもいるし、酒もある。速くいったものは、やりたいほうだい、なんでもやれるぞ」と上官からハッパをかけられているのです。 戦国時代の将軍が、敵の都市を攻略するときに、部下の将兵に、獲物を与えたと同じやり方が、南京攻撃にも使われていたのです。 十二月十日午後五時、脇坂部隊がようやく光華門の城壁に、日章旗を翻し、続いて十三日夕刻には、十六師団が中山門を占領し、完全に南京を制圧しました。 私達輸送部隊はなぜか、二週間ばかり、城内に入ることを許されず、城外に足止めされていました。 |
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138 | 219 | 下関埠頭の河岸を埋める死体(1) | 村瀬 | (撮影者本人による解説文) (17)大虐殺のうわさが… ようやく足止めが解除されて、ある日、荷物受領に揚子江岸の、下関埠頭へ行きました。すると、広い河岸が一杯に死体でうまっているのです。 岸辺の泥に埋まって、幅十メートル位はあろうか、と思われる死体の山でした。 揚子江岸で大虐殺が行われた、というその現場でしょうか、軍服を着た者はほとんどなく、大部分が平服の、民間人で、婦人や子供も交じっているようでした。 死体に油をかけて、焼こうとしたため、黒焦げになった死体も、数多くありました。 死臭で息もつけない中を、工兵部隊が、死体を沖に運んで流す作業をやっていましたが、こんなやり方では、一〜二ヵ月はかかりそうでした。 (撮影者本人によるキャプション) 揚子江岸には、おびただしい死体が埋められていました。虐殺した後、河岸へ運んだのでしょうか、それとも河岸へ連行してから虐殺したのでしょうか。 (東中野氏のトンデモ論に返答) A0,不可思議なのは、東中野氏は他では写真引用元のキャプションを紹介して批判しているのに、村瀬氏の写真に限って撮影者本人でありながらキャプションは一切無視しています。読者が村瀬氏に近づくことを妨げているかのようです。(知りたい方は:私の従軍中国戦線 新版 村瀬守保写真集) A1,好き好んでではなく、残らざるを得ない、逃げるのではなく隠れる、というのが農民です。 A2,入城を許されなかったことを足止めという。一兵士がのこのこ虐殺を確かめに行くはずが無い。 A3,目撃していなかったら、「婦人や子供も混じっているようでした」とは普通いわない。ただし、「そのようでした」になると伝聞にちかづく。 A4,手を後ろに縛られた死体は、縛られてから逃亡したのか、縛られてから戦闘したのか? 妙な理屈だ。『虐殺は無かった』を守るために長々と戦闘の描写をしているが、激しい戦闘があったからといって、虐殺が無かったことの根拠にはならない A5,湧o.ノなったのはなぜか? また、なぜ上半身湧o.ナ後ろ手に縛られているのか? |
タラリ 「プロパガンダ写真研究家」松尾一郎の目の節穴度: 村瀬守保撮影写真編 [写真とは別:参考]生きながら焼かれた記録 |
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139 | 219 | 下関埠頭の河岸を埋める死体(2) | 村瀬 | |||||
139 x |
油をかけられて焼かれた死体 | 村瀬 | (撮影者本人によるキャプション) 虐殺されたのち薪を積んで、油をかけられて焼かれた死体。ほとんどが平服の民間人でした。 |
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141 | 225 | 遺体を沖に押し流す | 村瀬 | 6、虐殺を隠蔽する船の作業のように思えるだろうが、疫病予防の観点から沖に押し流していたのだ 7、当時はだれも「虐殺」だなんていっていない |
(撮影者本人によるキャプション) 工兵隊が死体に鈎を引っ掛けて、沖へ流す作業をしていました。一回に数体ぐらいですから、こんなやり方では二ヵ月以上もかかりそうでした。 A6,「虐殺を隠蔽する船」とは村瀬氏もいっていない。それに隠蔽し様も無い。アホな想定をしてそれを貶す、詭弁術入門。 A7,表立って「虐殺」だなんていったら、上官や司令部に対する批判になってしまう。東中野氏の頭の中の「皇軍」は、上官や司令部を批判することも自由な、空想の軍隊らしい。 虐殺と言う言わないもありません。戦争がキレイ事でないとはこういうことです。藤原審爾氏の小説、「みんなが知っている」(1957年) の一節です。 さて、現場で、私たちは将校から屍体を揚子江へ投げ込む作業を命じられました。その時には誰しもが慌てて手拭で鼻と口を覆ったほど、名状しがたい悪臭がたちこめていて呼吸苦しいくらいでした。 |
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142 | 228 | 遺体を沖に押し流す | 井出 | このように下関の死体を見たり、実際に水葬に携わった人たちが多くいた。しかしその人たちの誰ひとりとして、当時虐殺体という人はいなかったのである。 |
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