当掲示板は南京事件等日本の戦争犯罪をなかったものにしよう、正当化しようとする言説に対抗して設置された掲示板式資料検証集です。
【否定派の写真検証を批判的に再検証するページとしてはタラリさんのページや、渡辺さんが問答有用に投稿したのなどがありますが、そういった再検証のまとまったサイトというのが欲しいと思うようになりました。

ともかく、肯定的な人でさえ、写真に捏造が多数あると思っている人も多いんです。私が知る限り、「捏造」されたものなんて知らないです。誤用はあっても。写真が南京事件を証明するもの、あるいは虚偽としたからといって南京事件を否定するものであるわけはないのですが、中国の印象を悪くする手段としてそうした捏造断定キャンペーンが行われている面が大きいわけです。】
と言う靴屋さんの発言をきっかけに設置しました。
投稿者は限定いたしますが、特に資格等はございません。歴史修正主義に対しきちんと反論せねばならない、とお考えの方はどんどんご利用ください。

当掲示板における写真資料等に関する考え方は当掲示板の目的を参照してください。
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画像資料攻撃典型例
アポロの月着陸は嘘
911事件はアメリカの陰謀
【南京事件 「証拠写真」を検証する】
(東中野修道著)徹底批判
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[108]九七式軽装甲車1. 熊猫 05/4/1(金) 3:36 [添付][添付]
[109]九七式軽装甲車2. 熊猫 05/4/1(金) 16:54 [添付][添付][添付]
[111]Re(1):九七式軽装甲車2. とほほ 05/4/1(金) 19:25
[112]反対になっていました(汗) 熊猫 05/4/1(金) 20:12
[128]Re(1):九七式軽装甲車3. とほほ 05/4/3(日) 2:22 [添付]
[121]Re(2):九七式軽装甲車3. 熊猫 05/4/2(土) 18:07 [添付][添付]
[139]Re(2):九七式軽装甲車3. 熊猫 05/4/5(火) 23:00
[385]Re(3):九七式軽装甲車3. msq 05/5/16(月) 21:55 [添付][添付]
[386]Re(4):九七式軽装甲車3. 熊猫 05/5/17(火) 0:32
[130]Re(1):九七式軽装甲車3. ja2047 05/4/3(日) 6:14 [添付]
[125]九七式軽装甲車4. 熊猫 05/4/3(日) 17:10
[127]東中野氏の自信? ピッポ 05/4/3(日) 0:20
[129]Re(2):.東中野氏の自信? 熊猫 05/4/3(日) 4:08
[131]Re(1):九七式軽装甲車1. 熊猫 05/4/3(日) 17:05

[108]九七式軽装甲車1.
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 熊猫 E-MAIL  - 05/4/1(金) 3:36 -

引用なし
パスワード
   すみませんm(__)m
熊猫さんのこの記事と画像がありませんm(__)mm(__)m

熊猫さんに新規に投稿してもらってもツリーが崩れてしまうので、私のほうに投稿文と画像ファイルをメールしてもらえませんでしょうかm(__)m
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[109]九七式軽装甲車2.
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 熊猫 E-MAIL  - 05/4/1(金) 16:54 -

引用なし
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[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : 94kei00.jpg
・サイズ : 45.1KB

[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : 94kei01.jpg
・サイズ : 171.5KB

[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : 94kei02.jpg
・サイズ : 63.9KB
  
添付画像【94kei00.jpg : 45.1KB】 添付画像【94kei01.jpg : 171.5KB】 添付画像【94kei02.jpg : 63.9KB】


今回提示した写真は全て九四式軽装甲車です。
■左側の写真は、南京戦に使われた型式です。
■中央の写真は、九四式軽装甲車の足廻りを改良したタイプで九七式軽装甲車に引き継がれました。後輪に着目されたし、中国大陸用に改良されたタイプです。
■右側の写真は、初期の型式です。車両の大きさが判りやすいと思って提示しました。

九四式軽装甲車は、兵士の間では「豆タンク」の愛称で呼ばれていました。
南京攻略戦においては、戦車中隊内の1コ小隊は軽装甲車で編成されており、戦車大5大隊の他に2コの独立軽装甲車中隊が参加しています。

『南京事件「証拠写真」を検証する』東中野修道(P178)より
【引用開始】--------
写真109と後輪の大きさが違っている
【引用終了】--------

九四式と九七式は後輪の大きさで見分けるものではありません。中央の写真を見て「九七式軽装甲車」なんて言ったりしたら間違いです。
また重砲においても九四式33mm砲を、無理やり装着した九四式軽装甲車がありますから笑えます。九四式と九七式の違いは、車体の形状で判断するしかありません。


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[111]Re(1):九七式軽装甲車2.
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 とほほ E-MAILWEB  - 05/4/1(金) 19:25 -

引用なし
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   ▼熊猫さん:
>南京攻略戦においては、戦車中隊内の1コ小隊は軽装甲車で編成されており、戦車大5大隊の他に2コの独立軽装甲車中隊が参加しています。

上海派遣軍の直属部隊として、
戦車大隊が2、独立軽装甲車中隊が4。

第十軍の直属部隊として、
独立軽装甲車中隊が1。

と秦、南京事件ではなっているのですが、だから戦車大隊2大隊に5コの独立軽装甲車中隊ではないのですか?
秦郁彦が間違っていたら悲惨、私これを元にもう一ヶ月も編成表を作っているのですが(やっと上海派遣軍が終わった)無駄になる(T_T)
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[112]反対になっていました(汗)
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 熊猫 E-MAIL  - 05/4/1(金) 20:12 -

引用なし
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   あっ!戦車大隊と独立軽装甲車中隊の数が逆になっていました!
ご指摘、有難うございます。

上海派遣軍
戦車第1大隊・戦車第5大隊
独立軽装甲車第2中隊・独立軽装甲車第6中隊・独立軽装甲車第7中隊・独立軽装甲車第8中隊

第10軍
独立軽装甲車第9中隊

正しくは
戦車大隊→2
軽装甲車中隊→5
1,683 hits

[121]九七式軽装甲車3.
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 熊猫 E-MAIL  - 05/4/2(土) 18:07 -

引用なし
パスワード

[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : 97kei01.jpg
・サイズ : 70.8KB

[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : 94kei03.jpg
・サイズ : 63.4KB
  
添付画像【97kei01.jpg : 70.8KB】 添付画像【94kei03.jpg : 63.4KB】


■左側の写真は1937年9月に造られた九七式軽装甲車です。南京事件当時に九七式軽装甲車が無かったというのは嘘であることが解ると思います。
写真から確認できる範囲内ですが、通常の九七式軽装甲車と、異なる点を列挙します。
1.通常は無い、出入り用の扉が後部にある。
2.後輪にクランプが使われている。
3.通常は前にあるマフラーの排気口が後にある。
1.と3.は、九七式の特徴であるリアエンジンではなく、操縦席の横にエンジンがあった証拠です。九四式と同じエンジンの配置で、九四式をベースに開発されていたことが解ります。九七式の試作車の一台です。

1937年11月にはリアエンジンの九七式軽装甲車が完成しております。後方からの写真であれば、出入り用の扉の有無で確認することが出来ますが、右側面からの写真の場合はマフラーの噴出し口が、前なのか後なのかで判断するのが解りやすいと思います。このスレの最初に提示した九七式軽装甲車の写真と比較すると判りやすいのではないかと思います。

■右側の写真は、独立軽装甲車第2中隊と第6中隊の中華門の写真です。
左右の軽装甲車の形状が異なるように見えます。『一億人の昭和史 日本の戦史 3日中戦争1』には、後方より撮影した九四式軽装甲車の写真がありますが、左の軽装甲車の写真はそれらと違っています。画像が不鮮明ですが、九四式以外の軽装甲車が南京戦で使われていた可能性はあると思います。

不鮮明な画像で判断するべきではないと思っています。南京戦には火炎放射器などの、最新兵器は使われていましたし、試作車両が使用されていても不自然ではありません。車両台数や形状はわかりませんが、既に完成していた九七式軽装甲車を試験的に投入していた可能性はあり、「九七式軽装甲車だから南京ではない」というのは根拠のない論説です。

写真109(スレの最初に提示)の九七式軽装甲車の上にある丸いものの検証は私には出来ません。
出入り用の上蓋であるなら、他の九七式とは開く角度が違います。試作用に造られたものなのか、東中野氏の主張する火炎放射器なのか、この件については判断を保留します。


1,779 hits

[131]Re(1):九七式軽装甲車1.
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 熊猫 E-MAIL  - 05/4/3(日) 17:05 -

引用なし
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   >1939年の生産台数は、119台です。
119台とは誤りで217台が正しいです。お詫びして訂正いたします。
1,639 hits

[127]東中野氏の自信?
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 ピッポ E-MAIL  - 05/4/3(日) 0:20 -

引用なし
パスワード
   ▼熊猫さん:
>誰が「火炎放射器を使って火を放った」と言ったのでしょうか?
>元戦車隊所属の陸軍将校岩田義秦氏が、火炎放射器と鑑定したのであれば事実かも知れません(^^)。だとすると、写真109検証は、『歴史写真(昭和16年4月)』とは大きく矛盾しています。

この項の説明は、平成11年の「ザ・レイプ・オブ・南京の研究」P76〜81の説明を踏襲しています。今回はそれを要約しています。

97式がまだ生産されていなかったことは、「ザ・レイプ・オブ・南京の研究」では次のように書いています。

「南京虐殺が38年春まで続いた」というのがそもそもウソだが。38年春でも「97式軽装甲車」は存在しない。防衛庁防衛研究所戦史編纂部所蔵の資料をもとに、「97式軽装甲車」の生産経過を少し詳しく見てみよう。
「97式軽装甲車」は、昭和12年に型式が仮制定された。同年11月、試作を開始したが、その後の完成車の生産台数は次のようになっている。(ディーゼルエンジンは池貝鉄工、兵装は日本製鋼所、装甲は神戸製鋼が担当した)。

昭和13年・・・・・・0台
昭和14年・・・・274台
昭和15年・・・・284台
昭和16年・・・・・・0台
昭和17年・・・・570台
合計生産台数・1128台

あいにく、昭和13年にはただの1台も生産されていない。
「97式軽装甲車が第1戦部隊に配備されたのは、昭和15年11月30日、熊本の捜索48連隊に支給されたのが最初だった。かくして、なにも知らずに本を書いているアイリス・チャンの苦し紛れのウソは、木っ端微塵に粉砕された。
なお、とうぜんのことだが、「97式軽装甲車」には火炎放射器はついていない。写真では、火炎放射して家に火を放ったようにも見えるが、これは民家の屋根の端の白い線のためそう見えるだけである。装甲車の通過と火炎との間に直接の関係はない(この項に関する資料は、もと戦車隊所属の陸軍将校・岩田義泰氏のご教示による)。

東中野教授は今でも自信満々のようです。他の項では、少しずつ論点の変更を施しているのに、ここでは変更はありません。

しかし、私が不思議に思うのは資料出展が明記されていないこと。それから、「歴史写真」の2枚の写真と合わせて3枚の写真が、装甲車の「通過」ではなく、装甲車の「滞在」を物語っていることです。とくに人物の存在。
※「歴史写真」の2枚の写真と較べられるのはココ。http://www2u.biglobe.ne.jp/~sus/tank.htm
1,704 hits
<sage>

[129].東中野氏の自信?
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 熊猫 E-MAIL  - 05/4/3(日) 4:08 -

引用なし
パスワード
   247台というのは、274台の記述ミスですね(^^)。
それなら私も納得ですが.......274台説があることは私も知っていました。
火炎放射器は、あたかも写真が偽物であるという印象操作でしょう。
意図的に『歴史写真(昭和16年4月)』の提示を伏せたのか知らなかったのか......。火炎放射器など使われていないことは一目瞭然なのに、知りながら騙される私も意地悪でしたかね(^^)。

私の読んだ本にも昭和14年は217台(一説には274台の説がある)と書かれています。実際には「台」ではなく「両」と記述されています。
1992年に出版された戦車マガジン4月号別冊の、274台が気になっていたのですが、一説(274台)の根拠は「防衛庁防衛研究所戦史編纂部所蔵の資料」だったんですね。どうやら東中野氏は数値の解らないところ、つまり資料のない箇所はだと決め込んだようですね。昭和17年の570台は合計台数の見間違いかと思います、どう考えても1942年に570台はありえません。アメリカ合衆国戦略爆撃調査団の集計をオーバーしてしまいます。1128台というのは、提示した数字を自分で合計したのではないかと思います。確認の必要はありますが、戦車マガジンの方が使用した資料は遥かに多く、また「偕行社」「防衛学会」「機甲会」等からも聞き取り調査をして書かれており信憑性は高いものと思って間違いないと思います。
数量の違いを比較して見ます。

昭和13年・・・記述なし台(東中野0台)
昭和14年・・・・217台(東中野274台)
昭和15年・・・・284台(東中野同数)
昭和16年・・・・・不明台(東中野0台)
昭和17年・・・・・35台(東中野570台)
合計・・・・・・570台(東中野1128台)
不明となっている箇所は「昭和16年から激減した」と書かれており0といことではありません
1,687 hits

[128]Re(1):九七式軽装甲車3.
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 とほほ E-MAILWEB  - 05/4/3(日) 2:22 -

引用なし
パスワード

[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : keisoukou.jpg
・サイズ : 142.7KB
  
添付画像【keisoukou.jpg : 142.7KB】 中華門に突進する独立軽戦車隊


【左写真:真相・南京事件、畝本正巳、文京出版】
【右写真:熊猫さんがアップしたもの】
> 画像が不鮮明ですが、九四式以外の軽装甲車が南京戦で使われていた可能性はあると思います。

不思議ですね、丁度同じ時に撮ったもののようですが道の左側と右側から撮っている、違う人物が撮影したように見えますね。それこそこの写真はたくさんあるんじゃないですかね?日本軍の威風堂々たる、って奴のやらせ写真(^^;
内地向け宣伝用の写真みたいな感じですね。

私が今回アップした写真の方がわかりやすいと思いますが、熊猫さんどうですか?

大体、東中野修道はこの畝本正巳氏に聞けば、わかるんじゃないですか(^^;
この人独立軽戦車隊小隊長で南京戦に参加しているんだから、しかも否定論者だし(^^;
ただし東中野のような嘘吐き否定論者ではないと思うけどね。


1,674 hits

[130]Re(1):九七式軽装甲車3.
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 ja2047  - 05/4/3(日) 6:14 -

引用なし
パスワード

[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : type97_light_tank.jpg
・サイズ : 23.0KB
  
添付画像【type97_light_tank.jpg : 23.0KB】


>写真109(スレの最初に提示)の九七式軽装甲車の上にある丸いものの検証は私には出来ません。

出入り用の上蓋であるなら、他の九七式とは開く角度が違います。

指揮官用のハッチですね。
火炎放射のためのガソリンタンクとかではありません。
こんなところにガソリンタンクなど追加したら危なくって仕方がない(^^;
ほぼ同じ角度の写真があります。

模型の方が解りやすいかも。
http://homepage2.nifty.com/ms06/teke/teke.htm


↓とてもわかりやすい、97式軽装甲車の解説
http://www.geocities.co.jp/Playtown-Bingo/2357/japan/Type97_FM/index.html


1,649 hits

[125]九七式軽装甲車4.
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 熊猫 E-MAIL  - 05/4/2(土) 20:57 -

引用なし
パスワード
   写真109への突っ込みを更に続けます(^^)。
『南京事件「証拠写真」を検証する』東中野修道(P177)より
【引用開始】--------
「軽装甲車」は戦闘用の戦車とは異なり、最前線まで武器や弾薬などを開発された特殊鋼鉄車である。敵と交戦するための重砲は持つが、火炎放射器は持たない。したがって火を放つこともあり得ないのである。
【引用終了】--------

誰が「火炎放射器を使って火を放った」と言ったのでしょうか?
元戦車隊所属の陸軍将校岩田義秦氏が、火炎放射器と鑑定したのであれば事実かも知れません(^^)。だとすると、写真109検証は、『歴史写真(昭和16年4月)』とは大きく矛盾しています。
軽装甲車は海軍をはじめ多くの部隊で使用されており、その用途は部隊ごとにより異なるものです。当初の設計者の意図に関係なく、第一線の部隊では臨機応変に使用されました。
特に中国大陸では、掃討作戦や毒ガスの散布、または戦闘で使用され南京戦でも牛首山で4台の九四式軽装甲車が中国軍によって破壊されています。

岩田氏の鑑定が正しい場合
『歴史写真』のキャンプションの「民家に放火して敗走する敵を追撃−中支那戦線遂平南方にて、吉松戦車隊の奮戦」は嘘であり、火炎放射器で、民家に放火する日本軍の証拠写真となります。そもそも、写真109は、戦時中の日本の雑誌に掲載されている写真です。

『歴史写真』が正しい場合
岩田氏の鑑定は間違っており、火炎放射器など使われていないことになります。民家への放火は、火炎放射器ではなく他の方法で行われたものであり、東中野氏は信憑性の無い論説を提示していることになります。
1,714 hits

[139]Re(2):九七式軽装甲車3.
←back ↑menu ↑top forward→
 熊猫 E-MAIL  - 05/4/5(火) 23:00 -

引用なし
パスワード
   たしか畝本正巳氏は独立軽装甲車第2中隊の小隊長として南京戦に参戦していますので、有名な中華門の写真のどれかの車両に畝本正巳氏が乗っているでしょうね。
軽装甲車が、実際に戦闘目的で使用されていたことは『証言による南京戦史』を読めば解ることですね。
東中野氏は、偕行社までも否定する気でしょうか(^^)
このばで私が『陸軍兵器発達史』木俣滋郎(光人社NF文庫)の記述を提示する必要はないようです。
1,684 hits

[385]Re(3):九七式軽装甲車3.
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 msq  - 05/5/16(月) 21:55 -

引用なし
パスワード

[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : 94tkref2.jpg
・サイズ : 26.7KB

[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : 97tkref.jpg
・サイズ : 29.9KB
  
添付画像【94tkref2.jpg : 26.7KB】 添付画像【97tkref.jpg : 29.9KB】

こんな写真がありました。写真109のタンクは、97式のように見えるのですが。


太平洋戦争研究会編著『戦場写真で見る 日本軍 実戦兵器』(銀河出版 1996年)を見ると、最前部の形とフックの位置が、94式と97式では大きく異なるように見えます。

写真Uと同じ写真が、ピーター=チェンバレン、クリス=エリス著『世界の戦車』(大日本絵画 1996年) の215頁にでています(砲塔に「榮」または「柴」というような文字があります。残念ながら書店の立ち読みで画像がありません)。この本には、94式改軽装甲車が1936年から生産されていたという記述があります。大きな後輪の写真もあります。これを東中野さんは見たかも知れませんね。


[管理人一回修正:タグ]
1,764 hits

[386]Re(4):九七式軽装甲車3.
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 熊猫 E-MAIL  - 05/5/17(火) 0:32 -

引用なし
パスワード
   はい、写真の左は九四式、右は九七式軽装甲車です。
>写真109のタンクは、97式のように見えるのですが。
写真の鑑定は間違っておりません。九七式であることは一目瞭然です。
問題は九七式軽装甲車が1937年或は1938年当時にあったのか、無かったのかということです。1937年9月には九七式は完成しており、南京戦に使用することは可能でした。
但し、通常九七式といえばリアエンジンですが1937年9月に生産された九七式は運転席の右側にあるサイドエンジンなのです。
写真109の角度から見分けるには、マフラーの噴出し口(排気口)が、前にあればリアエンジン、後にあればサイドエンジンであると考えられます。
写真109には私も随分と悩みましたが、マフラー後部の車体の形状より、リアエンジンと判断し1937年9月に生産された九七式ではないと判断します。また、写真は九四式37mm戦車砲を装備していますので南京事件当時のものでないと判断します。排気口の位置に気をとられて、他の鑑定項目を見落としておりました。写真109では、マフラーの噴出し口の形状が、リアエンジンのものとは異なるように見えますが、戦場で修理の際にありあわせの物を取り付けたのではと推測しております。

>この本には、94式改軽装甲車が1936年から生産されていたという記述があります。
部隊配属は昭和10年(1935)ですので、1年間違えていると思います。
九四式軽装甲車の生産台数は1935年に300両、1936年に246両、1937年に200両と何故か、需要があるにもかかわらず減少しています。1938年以降は殆んど生産されておらず、九七式への切り替えが検討されていた為か、或は生産能力に問題があったのかも知れませんね。[129]で、1939年の九七式の生産台数の説が分かれているのは、それ以前に生産された九七式があったためではないかと思われます。
1,766 hits

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