当掲示板は南京事件等日本の戦争犯罪をなかったものにしよう、正当化しようとする言説に対抗して設置された掲示板式資料検証集です。
【否定派の写真検証を批判的に再検証するページとしてはタラリさんのページや、渡辺さんが問答有用に投稿したのなどがありますが、そういった再検証のまとまったサイトというのが欲しいと思うようになりました。

ともかく、肯定的な人でさえ、写真に捏造が多数あると思っている人も多いんです。私が知る限り、「捏造」されたものなんて知らないです。誤用はあっても。写真が南京事件を証明するもの、あるいは虚偽としたからといって南京事件を否定するものであるわけはないのですが、中国の印象を悪くする手段としてそうした捏造断定キャンペーンが行われている面が大きいわけです。】
と言う靴屋さんの発言をきっかけに設置しました。
投稿者は限定いたしますが、特に資格等はございません。歴史修正主義に対しきちんと反論せねばならない、とお考えの方はどんどんご利用ください。

当掲示板における写真資料等に関する考え方は当掲示板の目的を参照してください。
メンテ中検証板のメンバーの方は改めて登録する必要はありません。
登録するには[留意事項]をお読みください。
画像資料攻撃典型例
アポロの月着陸は嘘
911事件はアメリカの陰謀
【南京事件 「証拠写真」を検証する】
(東中野修道著)徹底批判
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[1]笠原「南京事件」写真誤用について とほほ 05/3/17(木) 6:25 [添付]
[2]Re(1):笠原「南京事件」写真誤用について ピッポ 05/3/18(金) 21:38
[3]Re(2):笠原「南京事件」写真誤用について とほほ 05/3/19(土) 12:19
[319]表情は明るくない 熊猫 05/5/6(金) 12:14 [添付]
[321]襷をしている少年 熊猫 05/5/6(金) 13:59 [添付]
[323]Re(1):襷をしている少年 ピッポ 05/5/6(金) 14:24 [添付][添付]
[324]Re(2):襷をしている少年 熊猫 05/5/6(金) 14:50
[375]Re(2):襷をしている少年 熊猫 05/5/14(土) 18:37 [添付][添付]
[377]Re(3):襷をしている少年 熊猫 05/5/14(土) 19:53
[320]破壊された宝山 熊猫 05/5/6(金) 13:07 [添付][添付][添付]
[322]Re(1):破壊された宝山 ピッポ 05/5/6(金) 14:14
[325]Re(2):破壊された宝山 熊猫 05/5/6(金) 15:00
[327]Re(3):日本軍初の「慰安所」が開設されたところ ピッポ 05/5/6(金) 16:41
[328]Re(4):中国にとっては、抗日軍事反抗の輝かしい... ピッポ 05/5/6(金) 16:50
[329]Re(5):中国にとっては、抗日軍事反抗の輝かしい... ピッポ 05/5/6(金) 16:54
[330]Re(6):現在は、上海市宝山区 ピッポ 05/5/6(金) 17:02
[332]Re(7):現在は、上海市宝山区 熊猫 05/5/6(金) 18:39
[333]Re(8):現在は、上海市宝山区 ピッポ 05/5/6(金) 20:12 [添付]
[338]四行倉庫 熊猫 05/5/7(土) 16:28 [添付][添付][添付]
[339]Re(1):四行倉庫 熊猫 05/5/7(土) 16:32 [添付]
[326]宝山の農作業 熊猫 05/5/6(金) 15:25 [添付][添付][添付]
[331]Re(1):宝山の農作業 ピッポ 05/5/6(金) 17:50
[334]Re(2):宝山の農作業 ja2047 05/5/7(土) 8:19
[335]Re(3):宝山の農作業 ja2047 05/5/7(土) 10:01
[336]Re(4):宝山の農作業 ピッポ 05/5/7(土) 10:17
[337]Re(5):日の丸部落「野戦郵便旗」よりUpしました ピッポ 05/5/7(土) 12:55
[341]Re(6):日の丸部落「野戦郵便旗」よりUpしました 熊猫 05/5/7(土) 18:07
[342]Re(7):日の丸部落「野戦郵便旗」よりUpしました ピッポ 05/5/7(土) 18:39
[344]宝山 熊猫 05/5/8(日) 0:28
[346]宝山県の地図 熊猫 05/5/8(日) 1:33 [添付]
[347]Re(1):宝山県の地図 熊猫 05/5/8(日) 1:42 [添付]
[351]Re(2):宝山県の地図 ピッポ 05/5/8(日) 10:14 [添付]
[340]Re(1):宝山の農作業 ピッポ 05/5/7(土) 17:37
[378]先頭を歩く少女 熊猫 05/5/15(日) 0:26 [添付][添付][添付]
[7]『日寇暴行実録』(宝山の写真) 熊猫 05/3/19(土) 19:20 [添付]
[9]Re(1):『日寇暴行実録』(宝山の写真) ピッポ 05/3/19(土) 20:02
[10]Re(2):『日寇暴行実録』(宝山の写真) 熊猫 05/3/20(日) 1:40 [添付]
[107]鈴木貞吉の名前 ピッポ 05/4/1(金) 1:56
[181]Re(1):鈴木貞吉の名前 熊猫 05/4/11(月) 3:20
[29]『支那事変写真全輯−中』p.146 に掲載された写真 靴屋 05/3/23(水) 1:05 [添付]
[182]当時の戦争写真は節度なく掲載されていました。 熊猫 05/4/11(月) 16:19 [添付][添付][添付]
[188]Re(1):当時の戦争写真は節度なく掲載されていま... 渡辺 05/4/13(水) 13:10

[326]宝山の農作業
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 熊猫 E-MAIL  - 05/5/6(金) 15:25 -

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添付画像【niko17-6.jpg : 56.9KB】 添付画像【niko17-7.jpg : 57.4KB】 添付画像【niko17-8.jpg : 88.4KB】

何故か、大人の男たちの姿が少ないような気がします。
成年男子は、農作業をしなかったのか?或は他の重労働をしていたのか?


私が写真を見て最初に疑問に思ったのは、手ぶらで野良仕事に行くだろうか?でした。
提示した写真を見る限り、「手ぶら」もありかなと......。帰りも手ぶらということは収穫した物は何処へ?
小作人の集団かも知れません。


[管理人一回修正:タグ]
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[327]Re(3):日本軍初の「慰安所」が開設されたところ
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 ピッポ E-MAILWEB  - 05/5/6(金) 16:41 -

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   ▼熊猫さん:
>
宝山城内の残敵掃蕩なり・・・・・・・・・

>と、なっています。

宝山といえば、第1次上海事変後に、日本軍初の「慰安所」が開設されたところだそうです。
宝山県の歴史的栄誉は「日の丸部落」だけではなかったようです。

第2次上海事変の残敵掃蕩のあとの宝山にも、「慰安所」が設立されたのでしょうか?


秦郁彦
慰安婦と戦場の性   第三章 中国戦線と満州では

1 上海で誕生した慰安所
 
 慰安婦のつくすあわれさ明日はなき
   兵のかなしさ睦むと言えど
    ── 朝日歌壇 ──

   1 上海で誕生した慰安所

 日本軍専用の慰安所が生れたのは、第一次上海事変(一九三二)時の上海でというのが通説になっている。

 上海事変は、満州事変が飛び火する形で、三二年一月二十八日、中国の第十九路軍と日本海軍陸戦隊(兵力ニ千弱)の間で始まったが、十数倍の中国軍に包囲された陸戦隊を救援するため、日本内地から上海派遣軍司令官白川義則大将の指揮する陸軍部隊が急派された。

 激戦が一か月近くつづいたのち、反撃に成功した白川軍司令官は三月三日戦闘中止を声明、五月五日に停戦協定が成立して、陸軍は全兵カを引きあげた。

 このように事変は三か月余という短期間で収拾されたのであるが、三月から警傭体制へ移行した派遣軍は、強姦事件などの頻発に悩まされた。

 高級参謀岡部直三郎大佐は、三月十四日の日記に「この頃、兵が女捜しに方々をうろつき、いかがわしき話を聞くこと多し・・・積極的に施設をなすを可と認め、兵の性問題解決策に関し種々配慮し、その実現に着手する。主として永見中佐これを引き受ける1.」と書いた。

 永見(俊徳)は作戦参謀だが、若い頃に上海駐在の経験がある中国通だったので、この任務を割り当てられたのだろう。五年後の南京攻略戦で、やはり中国通の長勇参謀が同じ仕事を引き受けたのと事情は似ていた。

 岡部日記はその後の段取りに触れていないが、軍参謀副長岡村寧次大佐(終戦時の支那派遣軍総司令官)の回想録は「海軍にならい、長崎県知事に要請して慰安婦団を招き、その後全く強姦罪が止んだので喜んだものである」と記す。2.

 対応する送り出し側の記録は見つかっていないが、長崎は上海に出征した混成第二十四旅団の郷土でもあったから、丸山遊郭を中心とする業者は喜んで要請に応じたものと思われる。3.

 『満州事変陸軍衛生史』によると、「公認集娼制」の主旨で集めた慰安婦(公文書では接客婦と呼称)は長崎ばかりではなく、「青島、長崎、平壌等より日鮮支那人を集めたるも採用時の検査厳重にして不合格者甚だ多数を出せり」とのことであった。4.

 内訳は不明だが、「軍娯楽場」と名づけた施設は、上海の中華電気社宅を改造した場所に約八○人、呉淞(ウースン)の仏教学校を改造した場所に約五〇人で、工費と設備費に約二万円を要した。他に宝山県城へ歩兵第六旅団のために約二〇人、呉淞鎮に歩兵第七連隊(金沢)のために約一〇人の接客婦がいた。

 利用規定は、四月一日付で上海派遺軍が制定した「軍娯楽場取締規則」(全文は巻末付録を参照)に詳しい。要点は次のとおり。

(1)営業家屋は軍が指定し、必要な設傭と損害は営業者の負担。
(2)利用者は制服着用の陸軍軍人、軍属に限る。
(3)毎月一回憲兵が指定する定休日を設ける。
(4)営業を許可された者は接客婦名簿(雇主、氏名、国籍本籍、芸名、生年月日、略歴を記入、写真を添付)を憲兵分隊に提出する。
(5)毎週一回、軍医が憲兵の立会いで接客婦を検診し、不合格者は接客を禁じる。
(6)コンドームおよび消毒薬を用いる。
(7)営業時間は午前十時〜午後六時 午後七時〜午後十時(下士官のみ)
(8)遊興料は
  内地人 一時間一円五十銭
  朝鮮人・中国人 一時問一円
(9)接客婦は許可なく指定地外へ出ることを禁じる。
(10)営業者が接客婦に対する利益の分配などで不当の行為斌ある時は営業停止を命じる。


 これを見ると、軍の許可、指定の枠内で業者が商業べースで経営したこと、憲兵が立ち合い軍医の検診による性病対策を重視したこと、業者と慰安婦の利益配分に軍が介入しうる体制だったことなどがわかる。日中戦争以後に普及した軍専用慰安所の原型と見てよいだろう。

 ともあれ、陸軍の撤兵が予想外に早かったので、この「慰安所」第一号は短命に終る。開店の月日は不明だが「本則は昭和七年四月六日より之を実施す」とあるから、その前後として、「五月二十八日を以て軍娯楽場より(接客婦を)全部退去せしめたり」となれば、たかだか二か月弱で閉鎖されてしまったのではあるまいか。

 上海総領事館警察が三二年十二月末に作成した「邦人の諸営業」と題する報告書には、「海軍慰安所」の「開業一七軒、閉鎖三軒、現在数一七軒、芸妓二七五名、酌婦一六三名5.」はあがっているが、「陸軍慰安所」は短期間のため調査洩れになったのか、開業数も閉鎖数も登場してこない。

 岡村が「海軍にならい」と書いたように、海軍は前年末の時点で三軒の指定慰安所を確保していた。ただし、上海市が首都南京につづいて二九年に公娼廃止を宣言していらい、領事館警察は便法として料理店酌婦制度を設けていた。それに該当するとしても、陸軍の慰安所と同一視してよいか、多少の疑問は残る。

 慰安所開設の目的は岡部、岡村の回想では強姦防止と読めるが、名だたる私娼天国上海の病毒汚染も念頭にあったにちがいない。

 『中国年鑑』の一九三〇年版は、妓女六万(一九二〇年)が、「現在に於ては少くとも十万は突破している筈であり之に諸外国売笑婦を加うれば十数万の多きに達するであろう」と解説している。

 いささか誇大ではないかと思うが、この解説記事は、上海の売春事情をあれこれと紹介、中国人私娼の妓女や野鶏(ヤーチー)の「末路」について、上は「金満家官吏商人農夫の妻或は妾となるもの」、中は「老鴇(女将)となり妓女を抱えて商売するもの」「郷里の貧乏人、苦力、車引の妻となるもの」、下は「死亡又は生涯病毒に悩まさるるもの」「乞食となるもの」と分類している。

当時の陸軍幹部はシベリア出兵(一九一八〜二二)の経験者が多く、少なからぬ部下兵士が性病にかかり戦力低下を招いた故事を記憶していた。

 『満州事変陸軍衛生史』も、三二年三月三十一日現在の軍入院患者五八七人のうち性病(花柳病)患者が八五人に止まったことを特筆し、慰安所の設置と同時に定めた「花柳病予防方策」の効果が大きかったと評価している。

 どうやら、この時期までは日中戦争期とちがい、陸軍の軍紀はかなり厳正で、強姦対策はあまり念頭になかったらしいが、ここで各戦役における性病問題を観察しておきたい。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


1. 『岡部直三郎大将の日記』(芙蓉書房、一九八二)
2. 『岡村寧次大将資料戦場回想編』(原書房、一九七〇)三〇二ぺージ。
3. 警察統計によると、一九三一年末現在で長崎県に登録された芸妓は一一一七人、酌婦が一六一四人、娼妓は一五五五人であった。
4. 陸軍省『満州事変陸軍衛生史』第六巻(一九三七)八三四ぺージ。
5. 吉見資料集No.1


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[328]Re(4):中国にとっては、抗日軍事反抗の輝かしい...
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 ピッポ E-MAILWEB  - 05/5/6(金) 16:50 -

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   中国の歴史教科書より

(人民教育出版社『中国歴史』第4冊 50ページ〜55ページ)

≪神聖なる抗戦の開始≫

<戦場と化した場所>

 北平・天津侵略後、日本軍は中国に対したちまち全面的進攻をすすめ、北においては華北を進攻する一方で、南方では8月13日には上海へ大挙をしたがえて進攻し、南京にも脅威を与えた。これを“八・一三”事変(日本語の第二次上海事変)とよぶ。日本の作戦は早期決戦という、3ヶ月のうちに中国を滅亡しようとするものであった。国民政府は戦場において幾つもの戦闘をおこない、日本の侵略に抵抗した。

 “八・一三”事変の勃発後、中国護衛軍も攻撃に転じ、中日両軍による激戦が上海とその周辺において3ヶ月続いた。これを“淞滬会戦”という。11月、上海は陥落し、淞滬会戦は終結した。

 淞滬会戦にて、国民政府は40万人もの軍を投入し戦闘し、一時は中国軍が日本軍の進攻を後退させたものの、日本軍はすぐに20万人の軍を増強し、性能の高い武器によって猛烈に反撃した。

 宝山県城は500名の中国官兵は守っていたが、30隻もの日本軍艦の砲撃と飛行機による爆撃に遭い、城内は火の海と化した。営長である姚子青ひきいる守城勇士は「城を守り、息あるうちは徹底的に奮闘する」と心に決め、二日にわたる激戦で、死んでも退かずという精神で、最後には両軍入り乱れての戦いの末、壮絶な犠牲となった。当時の上海の新聞は「このたび姚営は全滅したが、それは偉大なる壮絶死であり、人々の心を震えさせ、敬いの念を起こさせる。これは中国人の栄光のみならず、全人類の栄光である。そして、この偉大なる功績は永遠、不朽のものとなるであろう」と報道で賞賛をした。

 10月下旬、日本軍は上海市内に進攻、これを謝晋元団長率いる800の戦士が四行倉庫を死守し、主力部隊の撤退を援護した。四行倉庫は蘇州河の北岸に位置する七階建ての鉄筋コンクリート建築である。この時、倉庫は西側と北側を日本軍に陣取られ、東側と南側は公共租界であった。戦士達は孤軍奮闘し、日本軍の進攻を何度か退けた。戦闘が熾烈を極めた時、楊恵敏という一人の女学生が生命の危機もかえりみず、公共租界から蘇州河を渡って四行倉庫へ国旗を送った。その国旗は四行倉庫の屋上に掲げられ、戦士達に無限の勇気と力を与えた。そして彼等は四昼夜、戦った後、任務を完了し、公共租界へと撤退した。

 盧溝橋事変から、すぐに日本軍は山西省に進入し、太原を手に入れようと企てた。国民政府はこれに対し太原会戦を組織、八路軍が山西の前線として会戦に参加した。9月に横暴な日本軍が平型関に向けて進軍を開始、平型関の東側に潜伏していた八路軍115師団がそれを攻撃した。この攻撃によって、1000人を超える日本軍を壊滅させ、多くの軍事物資を手に入れたが、これは“平型関大捷”とよばれる、中国抗戦以来の大捷(大勝利)であった。

 平型関は地形が険しく、八路軍はまた豪雨に立ち向かった。真っ暗い夜に道路の両わきの山にひっそりと隠れ、日本軍を射程距離まで引き込んでから、八路軍戦士が向かっていった。まず、手榴弾で日本軍の後方の車両を破壊し、前方の車両を後退できないようにした。そして日本軍が防備しようがなくなった時に襲撃をおこなった。八路軍は日本軍を5キロメートルの峡谷に包囲し、格闘に持ち込み、一日足らずで決着をつけ、日本軍をのした。

 1937年12月、日本軍は南京を陥落。国民政府は重慶へ移り、重慶を戦時の首都と定めた。

 翌春、日本軍は山東に二手に分かれて南下、徐州に進攻をした。国民政府は徐州会戦を組織し、第五戦区司令長官の李宋仁が中国軍を指揮し、日本軍の一隊を山東の臨沂で、もう一隊を山東の台儿庄で阻止しようとした。両国軍は台儿庄では激戦を繰り広げ、結果、日本が大敗を喫した。台儿庄において壊滅した日本軍は1万人を数え、国民政府にとって抗戦以来、最大の勝利となった。

 台儿庄の戦いが激烈を極めていた時、中国軍の陣地には毎日6、7000もの爆弾が落とされ、その後、日本軍は戦車で庄内を猛突進した。中国軍には戦車も戦車を迎え撃つ大砲もなかったが、血と肉を武器として戦い、敵と格闘まで持ち込んだ。そして、庄内の3分の2が日本軍によって攻略された時、日本のラジオ放送では既に台儿庄は全て占領したと報道されたが、中国軍は数百人の決死隊を組織し、夜間において何度も反撃を行い、奇跡的にほとんどの街を奪い返した。間もなく、中国軍は全面反撃を開始し、日本軍は壊滅した。

 中国軍の勇敢なる抗戦によって、日本軍の早期決戦の企てはもろくも崩れ去り、中国を絶滅させるという狂った計画も泡と消えたの。だが、国民政府は抗日戦争中に人民が政府や軍の抗戦に頼るだけで、自らは動かないという状況を恐れていた。この理由によって、太原・徐州など相次いで日本軍の狂ったような反撃の前に阻止することも出来ず、また、1938年10月には、広州・武漢も日本軍に占領された。これで中国は華北・華中・華南の主要領土を全て失ったのである。

<南京大虐殺>

 日本侵略者は至る所で焼き殺し、略奪、強姦など悪事の限りを尽くした。日本軍は南京占領後、南京人民に対して血なまぐさい大虐殺をおこない、これ以上にない罪を犯した。南京で平和に生活していた住民は、射撃の練習代とされ、刀剣の試し切りの対象となり、ある者は生き埋めにもされた。戦後の極東軍事裁判による統計では、日本軍は南京占領後の6週間にわたって何も持たない中国住民や、武器を手放した兵士を30万人以上も虐殺したという。

 1937年12月15日、既に武器を手放した中国軍人と警官3000人余りが、南京漢中門外にて日本軍に機関銃で射殺された。その後、まだ死亡していない者も死亡者とともに焼かれてしまった。

 16日、中国難民5000人余りが日本軍によって南京中山埠頭へ集められ、両手を結ばれ、整列させられた後で機関銃射撃され、死体は長江へ捨てられた。その中から、たった二人が生き延びた。

 18日には南京幕府山で老人と子供5.7万人が鉛線で結ばれながら、南京下関草鞋峡まで移送され、機関銃で打たれた。その血の海の中でうめき声をあげながら、何とか生きようと必死になっていた者は刀剣で突かれ、最後は日本軍によって全て焼かれてしまった。その中に生存者はいない。

 12月、日本の『東京日日新聞』上で「紫金山下」という表題で次のような報道がされた。「日本軍向井少尉と野田少尉は百人切りの試合を開き、野田は105人、向井は106人を切り殺した。だが、どちらが先に100人目を切ったかはわからず、勝負はつかず、再び誰が先に150名切るかで再び賭けが始められた。」


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[329]Re(5):中国にとっては、抗日軍事反抗の輝かしい...
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 ピッポ E-MAILWEB  - 05/5/6(金) 16:54 -

引用なし
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出所は、
http://66.102.7.104/search?q=cache:KAe_jJQwsOoJ:plaza.rakuten.co.jp/nandon/diary/2004-08-10/+%E5%AE%9D%E5%B1%B1%E7%9C%8C&hl=ja
です。

中学教科書だそうです。
2,034 hits

[330]Re(6):現在は、上海市宝山区
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 ピッポ E-MAILWEB  - 05/5/6(金) 17:02 -

引用なし
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   http://66.102.7.104/search?q=cache:twn_i7WjlDQJ:www2.ezbbs.net/cgi/reply%3Fid%3Dsh1%26dd%3D39%26re%3D1094+%E5%AE%9D%E5%B1%B1%E7%9C%8C&hl=ja

1094.宝山区って、どんなところですか?

宝山区は上海中心街から北へ、タクシーで約50分のところにあります。解放前には宝山県城があったところです。
宝山区は人口約100万人で長江に面しています。長江の堤防上を宝山から呉淞への散歩もよいものです。
8年前のNHKドラマ「大地の子」にでてくる製鉄所建設は宝山区でした。
製鉄所の周りは従業員用アパートが100棟以上?建っており、ホテル、レストラン、百貨店、商店なども多くあります。製鉄所周辺以外は田舎町です。

とか

日産も、その地区にあるのですか。。教えていただきありがとうございます
その濫川路あたりの交通は、どのように利用できますか?

日産があるところです。
走路の名前が悪いですね!  氾濫する河という意味です、今工事中です!

とかだそうです。
2,086 hits

[331]Re(1):宝山の農作業
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 ピッポ E-MAILWEB  - 05/5/6(金) 17:50 -

引用なし
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   ▼熊猫さん:
>何故か、大人の男たちの姿が少ないような気がします。
>成年男子は、農作業をしなかったのか?或は他の重労働をしていたのか?
>
>私が写真を見て最初に疑問に思ったのは、手ぶらで野良仕事に行くだろうか?でした。
>提示した写真を見る限り、「手ぶら」もありかなと......。帰りも手ぶらということは収穫した物は何処へ?
>小作人の集団かも知れません。


どうも、「日の丸村」は、日本軍のショーウインドウみたいな村だったようですね。

上海 支那事変後方記録
2004年 08月 18日
1938年、東宝文化映画部。三木茂撮影、亀井文夫編集。ナレーター・松井翠声。

にもあるようです。
http://sen1818.exblog.jp/m2004-08-01/#886436


(前略)
空襲や市街戦で瓦礫と化した建物やトーチカ、そこここに建てられている日本兵の名が書かれた卒塔婆(命を落とした地点のようです)等、あくまで事実は事実として羅列しつつも、その中から戦争の持つ悲惨な実相が浮かび上がってきます。
途中、日本軍のパイロットが、笑顔で南京の爆撃の戦果を自慢し合っている光景には、なんだか唖然としました。
無論、彼らとて軍人としてただ当然の任務を遂行しているに過ぎないのですが、「ちょっとそこまで買い物に」ぐらいの、あまりに軽い感覚での会話だったため、ぞっとしてしまいました。
しかし、この映画を観た日本の人々は、まさか数年後に自分たちの住む町もこんな風に瓦礫と化すとは、夢にも思っていなかったに違いありません。

カメラは、日本軍の宣撫工作も捉えます。
子供に「日本兵が好き」と言わせるのはどの国もやる常套手段でしょうが、「日の丸村」というアジールのような部落も登場します。
その実態はともかく、たしかにその当時「日の丸部落」と呼ばれる日本軍が保護する中国人部落が存在したそうですから、ある意味貴重な記録と言えるでしょう。

ラスト、日本に避難していた上海居住日本人が次々と戻ってきて復興が進むさまが描写された後、難民の保護に当たっていたジャキーノ神父による日本軍への感謝の言葉が流れて(これも実際に、資金援助を行っていたそうです)、映画は終ります。
(後略)


また、「野戦郵便旗」1973年:佐々木勝元にも「日の丸村」の描写があるというが、
どなたか、お持ちの方、お読みの方、心覚えはありませんか?
2,195 hits

[332]Re(7):現在は、上海市宝山区
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 熊猫 E-MAIL  - 05/5/6(金) 18:39 -

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   宝山県は揚子江と上海からの支流が交差する場所にあり、上海戦にとって重要な軍事拠点です。住民を保護していたというよりは、監視していたと言うべきでしょう。
日の丸部落と言うよりは、傀儡の自治委員会を結成して管理したのは、当初は諸外国の非難をかわすのが目的ではないかと思います。占領と言う言葉を使わないように配慮していただけです。
2,073 hits

[333]Re(8):現在は、上海市宝山区
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 ピッポ E-MAILWEB  - 05/5/6(金) 20:12 -

引用なし
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[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : shanghai.jpg
・サイズ : 64.2KB
  
添付画像【shanghai.jpg : 64.2KB】 試しに、
位置を地図に書き込んでみました。
間違っていたら
直ぐに撤回いたします。


▼熊猫さん:
>宝山県は揚子江と上海からの支流が交差する場所にあり、上海戦にとって重要な軍事拠点です。住民を保護していたというよりは、監視していたと言うべきでしょう。
>日の丸部落と言うよりは、傀儡の自治委員会を結成して管理したのは、当初は諸外国の非難をかわすのが目的ではないかと思います。占領と言う言葉を使わないように配慮していただけです。
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[334]Re(2):宝山の農作業
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 ja2047  - 05/5/7(土) 8:19 -

引用なし
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   ▼ピッポさん:
>また、「野戦郵便旗」1973年:佐々木勝元にも「日の丸村」の描写があるというが、
>どなたか、お持ちの方、お読みの方、心覚えはありませんか?

P74〜P78ですね。
ちょっとテキストを起こしてみましょう。
屋根がひっくり返った家があったり、血塗れの老婆が横たわっていたりと、あまり「平和」な光景ではないです。
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[335]Re(3):宝山の農作業
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 ja2047  - 05/5/7(土) 10:01 -

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   ▼ピッポさん:
>また、「野戦郵便旗」1973年:佐々木勝元にも「日の丸村」の描写があるというが、
>どなたか、お持ちの方、お読みの方、心覚えはありませんか?

「野戦郵便旗」の「日の丸部落」は1937年9月16日に貴腰湾に出かけた際の
翌朝の話として出てきます。
場所は「山室部隊の上陸地点で呉淞から揚子江の本流を遡り、四里ほどのところである。」と、ありますが、宝山の町よりずっと川上で川沙鎮のすぐ東ということになります。
ちなみに、第十一師団の川沙鎮上陸が8月23日ですから、日本軍の占領後3週間ほど経っているわけです。

一部抜粋しますと、こんな具合です。
「幅一間半ぐらい泥水が少し流れているクリークに沿って行くと中に馬が二匹死骸になって横たわっている。この地方の農村は家長制の大家族主義で多くの家が一廓に集まり、竹やぶが茂りクリークを外濠としている。一里ほど歩いて日の丸部落にくる。ここはなかば焼け残って二十六人の支那人が助かっている。
「此部落の住民は皇軍の為種々便益を与へた、親日の良民であるから殺傷してはならぬ」と部隊長名で廃屋に幾つも貼紙がしてある。入口が一間あまり焼かれた居酒屋があり、日の丸の旗が数本出ている。」(P74)
「爆撃でもされたらしく屋根がひっくりかえっている農家がある。折れのめった棟や崩れた屋根瓦の中に母親らしい死体が一つ。近くに五つくらいの子供が仰向けになって死んでいる。それを見ると涙が出てくる。平べったい大笊にはそら豆がたくさん干してある。農家だから探しても何もない、襟巻だとか支那足袋だとかランプなどが目ぽしい物である。ある一軒の農家はまったく死の家であった。家屋は破壊されていないが庭に面した土間に老婆が二人頭をつき合せるようにして血に塗れて横たわっている。蝿が二、三十匹たかっている。隣の部屋の寝台には幅一尺、長さ二尺くらい、赤いペンキを流したごとく血糊でぬらぬらである。次の奥の暗い土間に三十くらいの男が顔を仰向けになりかかって死体になっている。死体のある土間から土間へ小さい難が逃げ廻っている。実に気味が悪い。裏の竹藪には荷物類が出されてあり、兵隊が何かを探し銅銭が散らばる。いま一軒の焼けた家に行くと裏から老婆がうおー、うおー、と変な声を出して連れられてくる。吉田君が後から拳銃を突きつけている。
「此老婆殺すべからず」
「此老婆不可殺」
と老婆を立たせた白壁に私が消炭で書いてやる。大柄な老婆はただ手を合せておがむ。パンパン銃声がするので一同緊張する。白服の水兵が二名現われる。この水兵が拳銃を撃ったのである。生々しい血糊に塗れて死体が転がっている「死の家」の骨髄に泌む気味悪さに、生きている老婆が出てきたのでぞっとしたのである。」(P76)
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[336]Re(4):宝山の農作業
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 ピッポ E-MAILWEB  - 05/5/7(土) 10:17 -

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   ▼ja2047さん:
>「野戦郵便旗」の「日の丸部落」は1937年9月16日に貴腰湾に出かけた際の
>翌朝の話として出てきます。
>場所は「山室部隊の上陸地点で呉淞から揚子江の本流を遡り、四里ほどのところである。」と、ありますが、宝山の町よりずっと川上で川沙鎮のすぐ東ということになります。
>ちなみに、第十一師団の川沙鎮上陸が8月23日ですから、日本軍の占領後3週間ほど経っているわけです。


ja2047さん
ありがとうございます。

引用文拝読しました。朝からお手数をおかけしました。
なるほど、3週間経っても生々しいわけですね。

なお、熊猫さんからメールをいただきました。
よろしければ転送いたします。

場所のことは、このサイトでわかりました。
(「川沙鎮」でヒット)
http://ww1.m78.com/map/shanghaibattlemap.html


>一部抜粋しますと、こんな具合です。
>「幅一間半ぐらい泥水が少し流れているクリークに沿って行くと中に馬が二匹死骸になって横たわっている。この地方の農村は家長制の大家族主義で多くの家が一廓に集まり、竹やぶが茂りクリークを外濠としている。一里ほど歩いて日の丸部落にくる。ここはなかば焼け残って二十六人の支那人が助かっている。
>「此部落の住民は皇軍の為種々便益を与へた、親日の良民であるから殺傷してはならぬ」と部隊長名で廃屋に幾つも貼紙がしてある。入口が一間あまり焼かれた居酒屋があり、日の丸の旗が数本出ている。」(P74)
>「爆撃でもされたらしく屋根がひっくりかえっている農家がある。折れのめった棟や崩れた屋根瓦の中に母親らしい死体が一つ。近くに五つくらいの子供が仰向けになって死んでいる。それを見ると涙が出てくる。平べったい大笊にはそら豆がたくさん干してある。農家だから探しても何もない、襟巻だとか支那足袋だとかランプなどが目ぽしい物である。ある一軒の農家はまったく死の家であった。家屋は破壊されていないが庭に面した土間に老婆が二人頭をつき合せるようにして血に塗れて横たわっている。蝿が二、三十匹たかっている。隣の部屋の寝台には幅一尺、長さ二尺くらい、赤いペンキを流したごとく血糊でぬらぬらである。次の奥の暗い土間に三十くらいの男が顔を仰向けになりかかって死体になっている。死体のある土間から土間へ小さい難が逃げ廻っている。実に気味が悪い。裏の竹藪には荷物類が出されてあり、兵隊が何かを探し銅銭が散らばる。いま一軒の焼けた家に行くと裏から老婆がうおー、うおー、と変な声を出して連れられてくる。吉田君が後から拳銃を突きつけている。
>「此老婆殺すべからず」
>「此老婆不可殺」
>と老婆を立たせた白壁に私が消炭で書いてやる。大柄な老婆はただ手を合せておがむ。パンパン銃声がするので一同緊張する。白服の水兵が二名現われる。この水兵が拳銃を撃ったのである。生々しい血糊に塗れて死体が転がっている「死の家」の骨髄に泌む気味悪さに、生きている老婆が出てきたのでぞっとしたのである。」(P76)
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[337]Re(5):日の丸部落「野戦郵便旗」よりUpしました
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 ピッポ E-MAILWEB  - 05/5/7(土) 12:55 -

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   日の丸部落「野戦郵便旗」より。
Upしました。

熊猫さん、ja2047さん、
お世話になりました。

http://www.geocities.jp/pipopipo555jp/higashi/143photos/HTML/hinomaru-yasen.htm
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[338]四行倉庫
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 熊猫 E-MAIL  - 05/5/7(土) 16:28 -

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[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : sihang00.jpg
・サイズ : 79.4KB

[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : sihang01.jpg
・サイズ : 18.1KB

[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : sihang02.jpg
・サイズ : 20.8KB
  
添付画像【sihang00.jpg : 79.4KB】 添付画像【sihang01.jpg : 18.1KB】 添付画像【sihang02.jpg : 20.8KB】


折角ですので、四行倉庫の画像をアップします。
左側の写真は、四行倉庫の屋上で戦う中国兵とのことですが、事実は如何に?
中央と右側の写真は、四行倉庫です。マイナーなネタですが中国ではメジャーではないかと思います。


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[339]Re(1):四行倉庫
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 熊猫 E-MAIL  - 05/5/7(土) 16:32 -

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[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : sihang03.jpg
・サイズ : 24.8KB
  
添付画像【sihang03.jpg : 24.8KB】 おまけ!
現在の四行倉庫です。
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[340]Re(1):宝山の農作業
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 ピッポ E-MAILWEB  - 05/5/7(土) 17:37 -

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   ▼熊猫さん:
>何故か、大人の男たちの姿が少ないような気がします。
>成年男子は、農作業をしなかったのか?或は他の重労働をしていたのか?

「軍事郵便旗」の記述は9月、この写真は10月以降でしょう。

この「日の丸部落」は、孤児たちを収容する「モデル難民福祉村」として宣伝されたのではないでしょうか?

おそらく、10代後半以上の男子は、この地域の2ヶ月に及ぶ戦闘で殆ど死んでしまったのでしょう。
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[341]Re(6):日の丸部落「野戦郵便旗」よりUpしました
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 熊猫 E-MAIL  - 05/5/7(土) 18:07 -

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   文面より9月28日の記述と思われますが.....

コレラ『野戦郵便旗 第一部〜第五部』P91より
コレラ患者を収容している宝山に道を曲げて行ってみる。紫色がかった黒い二間くらいの城壁が在る。城門には歩哨がたむろしている。城内へ一直線に一間幅の街路が通っている。左右の家々はさんざん破壊され道に軍医か白服の姿が見える。コレラ患者千名の収容所である。私は自動車の窓を密閉して一匹の蠅をも入れさせない。暑くても息を凝らした。支那人も毎日二、三人コレラで死んでゆく。〔たれ流し、ひり流し、看護してくれる者もなく、苦しさに小銃で自殺する兵隊がいた。〕
 呻吟と絶望との底に死魔が跳るコレラ地獄の街!
用なくして立ち入る気にはなれない。


どちらかというと本家ネタですね(^^)
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[342]Re(7):日の丸部落「野戦郵便旗」よりUpしました
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 ピッポ E-MAILWEB  - 05/5/7(土) 18:39 -

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   ▼熊猫さん:
>文面より9月28日の記述と思われますが.....
>
>コレラ『野戦郵便旗 第一部〜第五部』P91より
>
コレラ患者を収容している宝山に道を曲げて行ってみる。紫色がかった黒い二間くらいの城壁が在る。城門には歩哨がたむろしている。城内へ一直線に一間幅の街路が通っている。左右の家々はさんざん破壊され道に軍医か白服の姿が見える。コレラ患者千名の収容所である。私は自動車の窓を密閉して一匹の蠅をも入れさせない。暑くても息を凝らした。支那人も毎日二、三人コレラで死んでゆく。〔たれ流し、ひり流し、看護してくれる者もなく、苦しさに小銃で自殺する兵隊がいた。〕
> 呻吟と絶望との底に死魔が跳るコレラ地獄の街!
>用なくして立ち入る気にはなれない。

>
>どちらかというと本家ネタですね(^^)

WEBにある、松井石根陣中日記
http://www.geocities.jp/koa_kan_non/4_all.html
(偕行社「南京戦史資料集2より」)と有りますから、田中正明の改竄ではない?
では、
 
◇九月二十日
 ・・・・・・
 東宝山城病院に於ける下痢患者 尚逐増し看護不可能の為め特に方法を研究せしむ
 ・・・・・・

とあります。
コレラは、宝山城内の病院なのですね。

ところで、「日の丸部落」の場所は「山室部隊の上陸地点で呉淞から揚子江の本流を遡り、四里ほどのところである。」とありますが、宝山の町よりずっと川上で川沙鎮のすぐ東ということになります。宝山城からも二里は離れているのではないでしょうか。
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[344]宝山
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 熊猫 E-MAIL  - 05/5/8(日) 0:28 -

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   「宝山城」と「宝山県」の違いではないでしょうか。
佐々木元勝氏の宝山とは主に宝山城のことだと思いますが、宝山県とは更に広範な範囲を意味します。
1937年当時の宝山県がどの範囲までかは、まだ調べていませんが羅店鎮周辺まで宝山のようです。
『歩兵第四十三聯隊 II 支那事変篇』(株式会社出版)の戦没者名簿を見て、宝山が広範であることに気が付きました。ちなみに、43連隊の兵士もコレラのため「宝山上海野戦病院」或は「宝山県第十一師団野戦病院(西銭宅・唐宅・月浦鎮など数箇所あった模様)」「宝山野戦予備病院」で死亡しています。松井大将の記述と佐々木元勝氏の記述が、必ずしも同じ場所とは限らないようです。
『歩兵第四十三聯隊 II 支那事変篇』は本日、入手したばかりなので殆んど読んでいません(^^)。羅店鎮の戦闘について詳しく書かれているので個人的には収穫ありと思っています。
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[346]宝山県の地図
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 熊猫 E-MAIL  - 05/5/8(日) 1:33 -

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・名前 : niko17-11.JPG
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添付画像【niko17-11.JPG : 322.0KB】

残念ながら1937年のものではありませんが。


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[347]Re(1):宝山県の地図
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 熊猫 E-MAIL  - 05/5/8(日) 1:42 -

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[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : niko17-9.jpg
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添付画像【niko17-9.jpg : 373.8KB】 佐々木元勝氏の著書より引用
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[351]Re(2):宝山県の地図
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 ピッポ E-MAILWEB  - 05/5/8(日) 10:14 -

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・名前 : mapofhozanken.jpg
・サイズ : 205.1KB
  
添付画像【mapofhozanken.jpg : 205.1KB】



熊猫さま

どうもです。

この地図には、「日の丸部落」のある『盛家橋』が記されていますね。


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[375]Re(2):襷をしている少年
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 熊猫 E-MAIL  - 05/5/14(土) 18:37 -

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[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : asa371110-1301.jpg
・サイズ : 19.8KB
  
添付画像【asa371110-1300.jpg : 139.3KB】 添付画像【asa371110-1301.jpg : 19.8KB】


折角、画像をスキャンしましたのでアップします。よろしければ使って下さい。
先週、たった一冊だけ『アサヒグラフ』を在庫している古本屋を見つけました。
その一冊の在庫がなんと、昭和12年11月10日第十六報でした。「買うしかない!」と迷わず購入したものの2000円は高かった(T-T)。やはり1000円が相場かと......。
資料入手の強敵は試行錯誤の中にいると思っているのは私だけか.....?


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[377]Re(3):襷をしている少年
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 熊猫 E-MAIL  - 05/5/14(土) 19:53 -

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   「部落民の嬉しさうな顔を見るがよい」
そんな事を言われても、「嬉しさうな顔」は熊崎特派員が思っているだけでは?
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[378]先頭を歩く少女
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 熊猫 E-MAIL  - 05/5/15(日) 0:26 -

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・名前 : asa371110-1201.jpg
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[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : asa371110-1301-1.jpg
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添付画像【asa371110-1201.jpg : 39.5KB】 添付画像【asa371110-1301(2).jpg : 128.7KB】 添付画像【asa371110-1301-1.jpg : 25.0KB】


事変中に母親を病気で亡くしたということは、母親が死んだばかりの12歳の少女と同一人物であることが解ります。その後を歩く女性は、その少女の「20歳の姉」か「親戚の娘」ということになります。
この二人の女性は、盛家橋の住民ではないので他人の土地の農作業を手伝いに行く、深刻な境遇の女性であることは間違いないと思います。
はっきり言えることは、日本が侵略戦争をしなければ保護する必要のない人々です。彼女たちの父親が何故、盛家橋に来たのか逃げ迷った理由の根本的原因は日本兵にあるのではないでしょうか。


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