当掲示板は南京事件等日本の戦争犯罪をなかったものにしよう、正当化しようとする言説に対抗して設置された掲示板式資料検証集です。
【否定派の写真検証を批判的に再検証するページとしてはタラリさんのページや、渡辺さんが問答有用に投稿したのなどがありますが、そういった再検証のまとまったサイトというのが欲しいと思うようになりました。

ともかく、肯定的な人でさえ、写真に捏造が多数あると思っている人も多いんです。私が知る限り、「捏造」されたものなんて知らないです。誤用はあっても。写真が南京事件を証明するもの、あるいは虚偽としたからといって南京事件を否定するものであるわけはないのですが、中国の印象を悪くする手段としてそうした捏造断定キャンペーンが行われている面が大きいわけです。】
と言う靴屋さんの発言をきっかけに設置しました。
投稿者は限定いたしますが、特に資格等はございません。歴史修正主義に対しきちんと反論せねばならない、とお考えの方はどんどんご利用ください。

当掲示板における写真資料等に関する考え方は当掲示板の目的を参照してください。
メンテ中検証板のメンバーの方は改めて登録する必要はありません。
登録するには[留意事項]をお読みください。
画像資料攻撃典型例
アポロの月着陸は嘘
911事件はアメリカの陰謀
【南京事件 「証拠写真」を検証する】
(東中野修道著)徹底批判
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[274]マギーフィルム画像と解説書 ピッポ 05/5/5(木) 12:58
[286]Re(1):マギーフィルム画像と解説書 053,054 ピッポ 05/5/5(木) 15:10
[289]Re(1):マギーフィルム画像と解説書 059 ピッポ 05/5/5(木) 15:46
[292]Re(1):マギーフィルム画像と解説書 065 ピッポ 05/5/5(木) 16:02
[294]Re(1):マギーフィルム画像と解説書 069 ピッポ 05/5/5(木) 16:15
[295]Re(1):マギーフィルム画像と解説書 070 ピッポ 05/5/5(木) 16:17
[300]Re(1):マギーフィルム画像と解説書 085,086,087 ピッポ 05/5/5(木) 16:40
[302]Re(1):写真19 銃剣で刺されて死んだ7歳の少年 ピッポ 05/5/5(木) 20:24
[303]Re(1):写真26 輪姦され病気となった十六歳の... ピッポ 05/5/5(木) 20:31
[304]Re(1)写真27 治療をうける右足を失った14歳... ピッポ 05/5/5(木) 20:36
[318]東中野修道は稀代の詐欺師、平成の天一坊か おおおっか 05/5/6(金) 10:21 [添付]
[305]Re(1):写真28 日本軍のせいで下腹部に火傷を負... ピッポ 05/5/5(木) 20:40
[306]Re(1):写真116,A 兵士の疑いで連行される夫や... ピッポ 05/5/5(木) 20:47
[307]Re(1):写真117、鉄の棒で叩かれ頭を銃剣で刺さ... ピッポ 05/5/5(木) 20:54
[308]Re(1):写真118、安全を求めて新しい避難所に移... ピッポ 05/5/5(木) 20:59
[309]Re(1):写真119 「夏琴淑さん事件」 ピッポ 05/5/5(木) 21:05
[367]Re(2):写真119 「夏琴淑さん事件」 ピッポ 05/5/11(水) 7:57
[368]Re(3):東中野修道氏のトリック ピッポ 05/5/11(水) 8:36
[580]「夏淑琴さん事件」 リンク集 ピッポ 06/3/28(火) 0:36
[581]旧思考錯誤板 検索結果 ピッポ 06/3/28(火) 10:17
[582]Re(1):「夏淑琴さん事件」 リンク集 ピッポ 06/3/28(火) 10:43
[583][309]についての注釈 ピッポ 06/3/28(火) 22:40
[310]Re(1):父親は銃剣で刺殺、母親は歩兵銃で射殺、... ピッポ 05/5/5(木) 21:29
[311]Re(1):日本兵がホテルに放火させようとして拒否... ピッポ 05/5/5(木) 21:36
[317]Re(2):ムービー・サイト ピッポ 05/5/5(木) 22:09
[312]Re(1):気管部に銃剣、死ぬべく放置された兵士 ピッポ 05/5/5(木) 21:40
[313]Re(1):顎を撃ち抜かれた後、ガソリンに浸され、... ピッポ 05/5/5(木) 21:43
[314]Re(1):強姦され、首を斬られ脊柱の筋肉を切断さ... ピッポ 05/5/5(木) 21:49
[315]Re(1):強姦に抵抗しため、日本兵に何度も刺され... ピッポ 05/5/5(木) 21:54
[316]Re(1):銃剣で強打し、耳のうしろの頭蓋骨に大き... ピッポ 05/5/5(木) 21:59
[345]Re(1):マギーフィルム画像と解説書 渡辺 05/5/8(日) 1:17
[348]Re(2):マギーフィルム画像と解説書 ピッポ 05/5/8(日) 8:55
[349]Re(3):マギーフィルム画像と解説書 ピッポ 05/5/8(日) 9:14
[352]Re(4):マギーフィルム画像と解説書 渡辺 05/5/8(日) 19:06
[356]Re(5):マギーフィルム画像と解説書 ピッポ 05/5/8(日) 22:12
[353]Re(3):マギーフィルム画像と解説書 渡辺 05/5/8(日) 19:10
[357]Re(4):マギーフィルム画像と解説書 ピッポ 05/5/8(日) 23:28
[358]Re(5):マギーフィルム画像と解説書 ピッポ 05/5/8(日) 23:38
[364]16mmの白黒リバーサルフィルムは有ったけど ピッポ 05/5/9(月) 10:01 [添付][添付][添付]
[365]Re(5):マギーフィルム画像と解説書 渡辺 05/5/9(月) 23:18
[366]Re(6):マギーフィルム画像と解説書 ピッポ 05/5/10(火) 1:39
[374]Re(7):マギーフィルム画像と解説書:2月10日とい... 渡辺 05/5/14(土) 17:31
[376]Re(8):マギーフィルム画像と解説書:2月10日とい... ピッポ 05/5/14(土) 19:15
[379]Re(9):マギーフィルム画像と解説書:2月10日とい... 渡辺 05/5/15(日) 0:33
[380]Re(10):マギーフィルム画像と解説書:2月10日と... ピッポ 05/5/15(日) 0:57
[381]Re(11):マギーフィルム画像と解説書:2月11日の... ピッポ 05/5/15(日) 7:48
[382]Re(12):マギーフィルム画像と解説書:2月12日記述 渡辺 05/5/15(日) 15:02
[383]Re(13):マギーフィルム画像と解説書:2月12日記述 ピッポ 05/5/15(日) 16:20
[387]Re(14):マギーフィルム画像と解説書:2月12日記述 渡辺 05/5/20(金) 23:24
[669]見せてもらったものは「映画」でなくて「解説書... ピッポ 08/5/1(木) 12:59
[670]Re:「解説書」は現像前に ピッポ 08/5/1(木) 13:23
[369]Re(6):私の頭の中の困った事象 ピッポ 05/5/11(水) 15:07
[370]Re(7):訂正です ピッポ 05/5/11(水) 15:13
[389]Re(6):解説書:Film 10解説 と埋葬数 渡辺 05/5/22(日) 3:05
[390]Re(7):解説書:Film 10解説 と埋葬数 熊猫 05/5/22(日) 9:57
[391]Re(8):解説書:Film 10解説 と埋葬数 渡辺 05/5/23(月) 1:07
[350]Re(2):マギーフィルム画像と解説書 msq 05/5/8(日) 9:16
[360]渡辺さんのページ、削除危機回避委員会 とほほ 05/5/8(日) 23:57
[384]Re(3):再登録お試しになったらいかがですか ピッポ 05/5/16(月) 17:31
[388]Re(3):マギーフィルム画像と解説書 渡辺 05/5/20(金) 23:34
[527]Re(1):マギーフィルム画像と解説書 ピッポ 05/11/4(金) 23:32
[557]御礼 管理人様 ピッポ 05/11/7(月) 13:06
[558]Re(1):御礼 管理人様 とほほ 05/11/7(月) 14:17
[606]ロシア兵では? 熊猫 06/7/9(日) 1:13
[607]Re(1):ロシア兵では? ja2047 06/7/9(日) 10:03
[608]Re(1):慰安所への移送? ピッポ 06/7/9(日) 18:42 [添付][添付]
[609]Re(2):慰安所への移送? とほほ 06/7/9(日) 19:22
[610]Re(3):慰安所への移送? ピッポ 06/7/9(日) 21:36
[611]Re(4):慰安所への移送? とほほ 06/7/9(日) 22:01
[612]Re(5):慰安所への移送? とほほ 06/7/10(月) 6:18
[613]Re(6):慰安所への移送? ピッポ 06/7/10(月) 10:27
[616]NHKスペシャル「日中戦争」のなかで ピッポ 06/8/24(木) 12:17

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[353]Re(3):マギーフィルム画像と解説書
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 渡辺  - 05/5/8(日) 19:10 -

引用なし
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   ▼ピッポさん:

>これらから私が類推したことは、
>==============
>
>1、マギー牧師は16ミリのモノクロリバーサルフィルムの100フィートロールを使って撮影した。

 私の理解している範囲では、白黒の16mmフィルムは基本的にはネガで、リバーサルフィルムというものは存在しません。現像処理によってポジにもできます。アマチュアの場合、一般的には、すぐに映写できるようにポジで現像したものと思います。
 フィッチは、"My Eighty Years in China"で、8巻のフィルムを上海にもちだしたとしています。
 原文の processing の意味は現像だと思われるので、上海のコダックで現像されたと言う意味でしょう。しかし、『南京事件資料集 1アメリカ関係資料編』p.347 の訳では、「複写」と訳しています。これは、フィッチが「ネガ」をもってきたということから、南京で現像されたものと理解したのでしょう。

>6、上海に届いたフィルムはまず現像された。そうして4本のコピーが取られたのだが、
>現像とコピーの間に「編集」が介在したのかどうかは不明である。つまり、上海にいたTimperleyが編集したかどうか? 

 1938年2月16日付、Timperleyのホーンベック宛ての手紙では、「余分な個所をカット」し、「若干のタイトルを挿入した」となっています。この手紙では、フィルムは Julean Arnold が米国に届けることになっています。また、「ジョージも多分予備のフィルムを飛行機に持ち込むだろう」となっています。[『南京事件資料集 1アメリカ関係資料編』p.344]フィッチは"My Eighty Years in China"において、途上のロスァンジェルスで映画を上映したと書いていますので、「予備」のフィルムを持っていたわけです。(Julean Arnoldとは、ワシントンに着いてから会った。)なお、映画はセンセーショナルだったらしく、あまりフィルムは使わなかったとしています。
 ということで、米国のフィルムについては、Timperleyの挿入した字幕が入っていたはずです。

 それから、うっかりしていましたが、『抗戦時期重慶的対外外交往』(重慶出版社、1995年)に下記のように書かれています。
---
 1938年、国際宣伝処将記録片≪南京日軍暴行≫和故事片≪保衛我的土地≫、≪熱血忠魂≫等電影送往美国。[p.270]
---
 ≪南京日軍暴行≫という記録フィルムは、マギーのフィルムのことでしょう。

>9、マギー家所蔵のものが、必ずしもオリジナルとはいえないかもしれない。

 はい、マギー家所蔵のフィルムを確認しないと断定できないことは確かです。とりあえず、フィルムのオリジナルは本人が所持していたという前提でよいのではないでしょうか。
2,893 hits

[356]Re(5):マギーフィルム画像と解説書
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 ピッポ E-MAILWEB  - 05/5/8(日) 22:12 -

引用なし
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   ▼渡辺さん:
> マギーの子息は、『天皇名のもとに』の中で、父親が東京裁判にフィルムを持っていったが、なぜか上映されなかった、と言っています。
>
> 裁判でフィルムを証拠に使う場合、どういう争点の証拠とするのかということですね。そこまで、必要があったかですね。証言で十分だったとも考えられます。

なるほど。不勉強でした。
しかし、フィッチに托して現像・焼付け(プリント)したものは、
マギー本人はいつ誰から手に入れたのでしょうか?
興味深いところです。

誤りのご指摘感謝します。
2,917 hits

[357]Re(4):マギーフィルム画像と解説書
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 ピッポ E-MAILWEB  - 05/5/8(日) 23:28 -

引用なし
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   ▼渡辺さん:
>>1、マギー牧師は16ミリのモノクロリバーサルフィルムの100フィートロールを使って撮影した。

> 私の理解している範囲では、白黒の16mmフィルムは基本的にはネガで、リバーサルフィルムというものは存在しません。現像処理によってポジにもできます。アマチュアの場合、一般的には、すぐに映写できるようにポジで現像したものと思います。

そうですね。
しかし、16mmの白黒リバーサルというものはマギー牧師のようなムービーマニアにはもってこいです。ですから、そのようなものが無かったとは考えられません。
http://blogs.dion.ne.jp/wuemme/archives/cat_40405.html
問題は16mmの白黒リバーサルというものが、1937年にあったかどうか?また上海で手に入ったかどうかです。コダックやアグファなどの歴史を調べる必要がありそうです。

ちなみに、ある時代には8ミリ愛好家の世界ではあったはずです。

また、ENGビデオカメラが普及する前の1970年代は、16ミリカラーリバーサルフィルムがテレビニュースの世界では主流でした。それは実際に知っています。NHKの支局、通信員には16ミリのハンディカメラ、キャノンスクーピックが支給され、16ミリカラーリバーサルフィルムを使っていました。その前の1955〜1960年代はどうだったのでしょうか?白黒テレビ時代は体験しておりませんが、プリントを複数作る必要の無いテレビニュースでは、白黒リバーサルは重宝がられたと想像します。


> フィッチは、"My Eighty Years in China"で、8巻のフィルムを上海にもちだしたとしています。

ということは、「解説書」の4巻と一致しませんね。8巻が全て未現像のフィルムだったのか、また、南京空爆以前のものも含んでいたのか、記述はあるのですか? 知りたいところです。

> 原文の processing の意味は現像だと思われるので、上海のコダックで現像されたと言う意味でしょう。しかし、『南京事件資料集 1アメリカ関係資料編』p.347 の訳では、「複写」と訳しています。これは、フィッチが「ネガ」をもってきたということから、南京で現像されたものと理解したのでしょう。

ネガフィルムで撮影した場合の processing (工程)とは、ネガフィルムの現像、と、ネガからポジへの焼き付けの2工程です。フィルムはネガとポジの2通りが残ります。ネガで撮影していたなら、マギーの下に現像済みネガフィルムがポジフィルムとともに残っているはずです。

processing を「複写」と訳すのは、感じっこ訳ですね(笑)。
南京でネガフィルムの現像をすることはありえないでしょう。ネガを現像下だけでは、何も鑑賞できないのですから無駄です。上海の現像所でネガを現像して、ポジを焼きつつけて、ネガとポジのセットを納品してもらうのが、普通です。16ミリのネガからポジを得るためには、現像済みネガと未露光ポジの日本のフィルムを重ね合わせて露光部に送る、ムービーカメラのお化けのような装置が必要です。そうした装置をもった現像所が上海にあったのでしょう。(上海にあれば、南京には必要ありません)

ネガで撮影した場合の編集は、ネガフィルムを切り刻んで編集して原版とし、そこからポジの焼き付けてプリントを作ります。複数のプリントが作れます。


>>6、上海に届いたフィルムはまず現像された。そうして4本のコピーが取られたのだが、
>>現像とコピーの間に「編集」が介在したのかどうかは不明である。つまり、上海にいたTimperleyが編集したかどうか? 
> 1938年2月16日付、Timperleyのホーンベック宛ての手紙では、「余分な個所をカット」し、「若干のタイトルを挿入した」となっています。

「余分な個所をカット」し、「若干のタイトルを挿入した」がどの程度かによりますが、
編集作業が、フィッチの帰米に間に合ったのですね。ただしこの編集は、ポジフィルムで編集し、その耳にうたれた番号を目安にネガを編集するという工程です。Timperleyは自ら編集したのではなく、編集者に指示を与えたのでしょう。上海には優秀なムービー技術者がいたので、急ぎ仕事も可能だったのでしょう。


> ということで、米国のフィルムについては、Timperleyの挿入した字幕が入っていたはずです。

しかしながら、このときいれた「若干のタイトル」が少しも目に触れないのが不思議です。そういうものが公開されれば、必ず印刷物に使われるはずだからです。

>この手紙では、フィルムは Julean Arnold が米国に届けることになっています。また、「ジョージも多分予備のフィルムを飛行機に持ち込むだろう」となっています。
[『南京事件資料集 1アメリカ関係資料編』p.344]フィッチは"My Eighty Years in China"において、途上のロスァンジェルスで映画を上映したと書いていますので、「予備」のフィルムを持っていたわけです。(Julean Arnoldとは、ワシントンに着いてから会った。)なお、映画はセンセーショナルだったらしく、あまりフィルムは使わなかったとしています。


『予備のフィルム』これは、原文はどうなんでしょう。
何を本体とし、何を『予備』と言っているのでしょうか?
予備のコピー(プリント)なのか、編集で取り除いた部分(リザーブ)なのでしょうか?
あるいは、原版であるネガに対しての予備のポジプリントなのでしょうか?
ここで、2本のプリントがアメリカに行くと、上海で4本のプリントを焼いたのでは、すでに足らなくなってしまいます。

> それから、うっかりしていましたが、『抗戦時期重慶的対外外交往』(重慶出版社、1995年)に下記のように書かれています。
>---
> 1938年、国際宣伝処将記録片≪南京日軍暴行≫和故事片≪保衛我的土地≫、≪熱血忠魂≫等電影送往美国。[p.270]
>---
> ≪南京日軍暴行≫という記録フィルムは、マギーのフィルムのことでしょう。

なるほど。


>>9、マギー家所蔵のものが、必ずしもオリジナルとはいえないかもしれない。
>
> はい、マギー家所蔵のフィルムを確認しないと断定できないことは確かです。とりあえず、フィルムのオリジナルは本人が所持していたという前提でよいのではないでしょうか。

はい。しかし、これはかなり大きな問題です。テレビ局のプロデユーサなら、その結論を有無も言わさず下すでしょうが。

原版が本人の手に戻るというのは、映像の世界では大変なことです。というのも、映像を利用する際に、「必ず原版を保存し利用するのはDupelicationだけ」という原則が守られないからです。アナログメディアはコピーするたびに、画質が低下するからです。

一旦本人の手からはなれれば、原版はばらばらになり、再収集したときには雑多なものが混じっている、というのが予想されることです。ですから、よりいっそう緻密な考証と吟味が必要なのです。

毎日放送の「女性ディレクター」はどこまでやったのかなあ?


渡辺さん、有難うございました。
2,962 hits

[358]Re(5):マギーフィルム画像と解説書
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 ピッポ E-MAILWEB  - 05/5/8(日) 23:38 -

引用なし
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   訂正です

1、ネガを現像下だけでは→現像しただけでは

2、日本のフィルムを重ね合わせて→二本のフィルムを重ね合わせて

3、Dupelication → Duplication 複製・コピーのこと
2,944 hits

[360]渡辺さんのページ、削除危機回避委員会
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 とほほ E-MAIL  - 05/5/8(日) 23:57 -

引用なし
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   ▼msqさん:
>関係ないことですが、「渡辺さんのページ」の最上部に

多いに関係ありますです。(笑)

>"現在ご覧頂いているページは移行手続きが完了していない為、<<削除>>の対象となっています。" という表示が出ています。<詳細>に"移行期間は2004年10月5日〜2005年3月31日です。"とありますが、大丈夫ですか。管理者様、お手数ですが、用済みになればこのコメント削除して下さい。

これ、前にも思考錯誤で申し出ましたが、私のここのサーバーいつでも無料で貸しますから、渡辺さん声かけてくださいね。普通にftpアカウントを発行しますから。
2,894 hits

[364]16mmの白黒リバーサルフィルムは有ったけど
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 ピッポ E-MAILWEB  - 05/5/9(月) 10:01 -

引用なし
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[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : filmo.jpg
・サイズ : 31.5KB

[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : kodak_plus_x.jpg
・サイズ : 5.6KB

[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : kodak_tri_x.jpg
・サイズ : 6.7KB
  
添付画像【filmo.jpg : 31.5KB】 添付画像【kodak_plus_x.jpg : 5.6KB】 添付画像【kodak_tri_x.jpg : 6.7KB】


上左は、マギー牧師が使っていたと思われる16ミリカメラ「フィルモ」
中、右は、コダックが今も売っているムービー用白黒リバーサルフィルム(8mm)
カラーが主流になるまでは、16mmの白黒リバーサルフィルムも売れ筋だった。



日本での小型映画ブームは戦後
http://www.fujifilm.co.jp/history/dai3-06.html



小型映画の歴史は,1920年代から1930年代にかけて始まっている。この間,さまざまなサイズのフィルムが登場した。この中でも,17.5mm,16mm,9.5mmの3つの幅のフィルムが比較的多く使用された。そして,1932年(昭和7年),コダック社が“シネコダック8”を発売するに及び,8mm時代の夜明けを迎えることとなった。“シネコダック8”は,その後のダブル8システムのはしりで,幅16mm,長さ7.6mの両側せん孔フィルムを用い,片側を撮影後,スプールを上下入れ換えて反対側を撮影し,現像終了後,中央で裁断,両者のフィルムをつないで1本の8mm映画とし,それを映写機で鑑賞するという方式であった。同じころ,アグファ社でも8mmフィルムとカメラを開発し,また,ベル&ハウエル社などがカメラを発売した。その後も,各社がカメラを開発し,フィルムもスプール巻き・マガジン入りなど種々の方式が生まれたが,結局16mm幅のダブル8システムのスプール巻き方式が主流となっていった。

 わが国でも,戦前からの8mm映画愛好家は,戦争による中断の後,1950年代に入ってから再び愛機を使って自作映画の製作にいそしみはじめ,また,アマチュア用スチル写真ブームの到来につれて,新たに8mm映画にも関心をもつ人びとも現われてきた。


ちなみに大戦中米軍が記録用に多用した16mmカラーフィルムはネガ・ポジ式ではなくてリバーサルフィルムだったそうです。
http://www.warmovie.com/cgi/off/cf.cgi?mode=all&namber=227&rev=1



==============================


モノクロのリバーサルフィルムというのは、北米では1930年代のブームだったようです。
大不況の後の映画ブームから映写マンとして生きた人の回顧から。


LOOKING BACK:Touchdown! 42 Years In the Motion Picture Industry
by Kenneth R. Davey
http://www.csc.ca/news/default.asp?aID=757

It all started in Winnipeg at the peak of the worst depression of the century, in 1932. There were no jobs, no unemployment insurance, no welfare to speak of, no training or technical facilities, no place to apprentice. Motion pictures were a fairly new business and we were far west of Toronto, out in the colonies so to speak, and therefore at a great disadvantage.

After graduating from high school with only some experience as manager of my high school yearbook in 1932-33, and no possibility of university, I was able to get a job with the Hudson?s Bay store. There I got a chance to work in sales in the newly- formed Photographic Department at $4 a week in a six-day week from 9 a.m. to 6 p.m. each day. In 1935-36, I was made head of the department (a staff of three) and I received $6 a week, no overtime. You had to learn, fast?cameras, film processing, a host of other products and services?but then nobody else knew too much either.

Most interesting to me was the fairly new non-flammable 16mm film that Kodak was producing, compared to the flammable 35mm film used in the movie business. The 35mm cellulose-based stock was the cause of many fires, due in part to the arc light sources necessary for theatre projection. The safety panchromatic reversal black & white 16mm film made it possible for the amateur to get involved?and they did. The 16mm format was made to compete with and eventually replace the 9.5mm European size, with its single, between-frames sprocket. The 16mm American size gave a larger picture area, with sprockets on both edges (until sound came) for a steadier image.

These were the days of silent footage and titles. Sound was just arriving in the theatres. We demonstrated and sold titlers of all sorts, from ones with adapter lenses for closeups and those for use with typewritten copy, to larger ones with loose fonts or hand-lettered cards. There was no through-the-lens viewing, so a lot of trial and error was the only way to learn. This introduced me to my really first film production job. It became my job in the photo department to take customers? film, cut out the bad parts, rearrange if required, splice in titles, etc., then teach the customers how to do it. I later found out that I had become some kind of editor.

1935-1936年ごろ、
16ミリのリバーサル白黒フィルムの出現が一番面白かった、とかかれています。

それは35ミリフィルムのように燃えることが無くアマチュアが扱える。それらは、両側にフィルム送りの穴が開いて安定し、ヨーロッパタイプの9.5ミリフィルムよりも画面が大きい、と。

また、劇場(35ミリ)ではトーキーに変わっていたが、16ミリはまだサイレント。だから簡易にタイトルが作れるキットを売りまくった。手早く映画をつくるためのサービスを次々に繰り広げた、といっています。





画像は、マギー牧師の遺品のカメラを紹介する、息子のデヴィッド・マギー氏。
http://www.geocities.jp/pipopipo555jp/mg_images/youshi.htm


マギー牧師が南京で16ミリの撮影を行ったのはそうした時期です。彼が使ったカメラは、ベル&ハウエルのフィルモというカメラだと思います。ゼンマイ仕掛けでフィルムを送るカメラで100フィート装てん可能です。1秒あたり24コマで廻すと1巻は2分40秒、1秒あたり18コマだと3分30秒ほどになります。当時は確か後者ではないでしょうか。


なお、日本のテレビニュースのフィルム取材については、以下の記事が面白い。


映像取材から見たテレビ報道の歴史<br>
http://www.tbs.co.jp/cameraman/terada/terada1.html
■初期のテレビニュース
http://www.tbs.co.jp/cameraman/terada/terada1.html#d
カメラマンのたわごと
http://www.tbs.co.jp/cameraman/terada/terada2.html


戦後の日本のテレビでは、モノクロリバーサルは使われていなかったようだ。


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[365]Re(5):マギーフィルム画像と解説書
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 渡辺  - 05/5/9(月) 23:18 -

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   ▼ピッポさん:
>>>1、マギー牧師は16ミリのモノクロリバーサルフィルムの100フィートロールを使って撮影した。
>▼渡辺:
>> 私の理解している範囲では、白黒の16mmフィルムは基本的にはネガで、リバーサルフィルムというものは存在しません。現像処理によってポジにもできます。アマチュアの場合、一般的には、すぐに映写できるようにポジで現像したものと思います。

 あ、間違えました。コッダックが反転現像をしていたと思い違いをして投稿してしまいました。申し訳ない。
 いいたいことは、コダックの16mmは基本的にはポジだということです。

>> フィッチは、"My Eighty Years in China"で、8巻のフィルムを上海にもちだしたとしています。
>
>ということは、「解説書」の4巻と一致しませんね。8巻が全て未現像のフィルムだったのか、また、南京空爆以前のものも含んでいたのか、記述はあるのですか? 知りたいところです。

(以下の記述は、今回の投稿に際して検討した結果です。)
 「解説書」というのは、『ドイツ外交官の見た南京事件』p.166以下に掲載のものだと思います。これは、ラーベがもっていたもののようです。ラーベの日記の独語版に同じものが収録されています。
 「解説書」の最終版というべきものが、イエール神学院のマギー文書に収蔵されていて、それによりますと、フィルムの番号は1から12まであります。("Eyewitnesses to Massacre",p.201以下に収録。)フィルム1-4については、追加の記述を除いて内容が一致するようです。
 なぜ、こういうことになるかといいますと、『ドイツ外交官の〜』の「解説書」の日付は 1938年2月10日[p.166]となっているのですが、"最終版"では3月や4月撮影のフィルムも含まれているからです。
 1938年2月10日という日付が意味することは、フィルム1-4が、2月10日以前に現像されており、南京にいたマギーが見ることができた、ということです。ということは、フィッチが1/29-2/12の上海訪問のときフィルム1-4を現像し、南京へ持ち帰ったということになります。また、Timperleyの2月16日付ホーンベック宛書簡で触れられているフィルムは、フィルム1-4のことだということにもなります。
 フィッチが次に上海に行ったのは2月19日です。恐らくこのときも別のフィルムを上海へ持ちだしたものと思われます。これが、多分別途4巻あり、全部で8巻であったのを、フィッチは1度の上海行きで8巻を持ち出したと錯覚して回想録に書いたのではないかと推察されます。
 「解説書」"最終版"の最後には
Please return to Mrs.Forster
990, Jespeed RD.
Shanghai
とあります。これは、上海にいたフォスター牧師婦人がマギーのフィルムを管理し、フィルムを回覧していたことを示唆しているものと思います。なお、マギーは1938年の夏に米国に帰国したということです。(帰国の時期については、東京裁判で証言しているはずなので、後で調べてみます。)

-- 参考 --
1938年
1/29 フィッチ、英国砲艦 H.M.S Bee号にて上海に向かう(1回目)
2/12? フィッチ、南京に戻る
2/19 フィッチ、日本軍の列車で上海へ向かう
2/23 ラーベ、南京を出発
2/25 フィッチ、ドイツ船 "Gneisenau" で香港に向け出発
2/27 ラーベ、上海到着
3/ 8 フィッチ、"Philippine Clipper"で香港からマニラへ行く
3/16 ラーベ、 Conte Bianca Mano で母国への帰途につく
---

>『予備のフィルム』これは、原文はどうなんでしょう。
>何を本体とし、何を『予備』と言っているのでしょうか?

 残念ながら、原文は手元にありません。

>ここで、2本のプリントがアメリカに行くと、上海で4本のプリントを焼いたのでは、すでに足らなくなってしまいます。

 「4本」というのは、コダックがフィッチに作ってくれたというコピーの数です。それを元に更にコピーされたかも知れないので総数は分からないというのが正解でしょう。
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[366]Re(6):マギーフィルム画像と解説書
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 ピッポ E-MAIL  - 05/5/10(火) 1:39 -

引用なし
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   渡辺さん、
克明なレスありがとうございます。

> いいたいことは、コダックの16mmは基本的にはポジだということです。

コダックの16mm白黒フィルムには
イ)撮影用ネガフィルム
ロ)焼き付けプリント用ポジフィルム
ハ)現像しただけで映写用の陽画が得られるリバーサルフィルム
以上3種があったようです。


>>> フィッチは、"My Eighty Years in China"で、8巻のフィルムを上海にもちだしたとしています。
>>ということは、「解説書」の4巻と一致しませんね。8巻が全て未現像のフィルムだったのか、また、南京空爆以前のものも含んでいたのか、記述はあるのですか? 知りたいところです。

>(以下の記述は、今回の投稿に際して検討した結果です。)
> 「解説書」というのは、『ドイツ外交官の見た南京事件』p.166以下に掲載のものだと思います。これは、ラーベがもっていたもののようです。ラーベの日記の独語版に同じものが収録されています。
> 「解説書」の最終版というべきものが、イエール神学院のマギー文書に収蔵されていて、それによりますと、フィルムの番号は1から12まであります。("Eyewitnesses to Massacre",p.201以下に収録。)フィルム1-4については、追加の記述を除いて内容が一致するようです。
> なぜ、こういうことになるかといいますと、『ドイツ外交官の〜』の「解説書」の日付は 1938年2月10日[p.166]となっているのですが、"最終版"では3月や4月撮影のフィルムも含まれているからです。

なるほど1-12。マギーフィルムも奥が深いのですね。

> 1938年2月10日という日付が意味することは、フィルム1-4が、2月10日以前に現像されており、南京にいたマギーが見ることができた、ということです。

「解説書」は、フィルムを映写して見てから書いたのでしょうか?
私はそうは思いません。今でこそ撮影したその場で見れるビデオの時代ですから、何を写したかは映像を見ながら書きます。しかし、フィルムの時代は違います。撮影したものが見れるのは、最低でも1週間も先なのですから、撮影したその日のメモこそがもっとも重要なスクリプトになります。

私は「解説書」は、マギーの個人的な「撮影記録メモ」から書き写して、2月10日に作成したものではないかと類推しています。

>ということは、フィッチが1/29-2/12の上海訪問のときフィルム1-4を現像し、南京へ持ち帰ったということになります。

それは、別の証拠が必要ではありませんか? 上記の理由からです。
また、現像済みフィルムを持ち込んでみつかったら、大変ですね。何が写っているかわかってしまうのですから、フィッチはスパイ容疑がかけられるでしょう。現像前のものならば、フィルム缶を開けてしまえばすべての像が消えてしまうのですが。

>また、Timperleyの2月16日付ホーンベック宛書簡で触れられているフィルムは、フィルム1-4のことだということにもなります。
> フィッチが次に上海に行ったのは2月19日です。恐らくこのときも別のフィルムを上海へ持ちだしたものと思われます。これが、多分別途4巻あり、全部で8巻であったのを、フィッチは1度の上海行きで8巻を持ち出したと錯覚して回想録に書いたのではないかと推察されます。

あとの4巻は解説書の5-8なのでしょうか。まあ、これにこだわっていると先に進めませんね。


> 「解説書」"最終版"の最後には
>Please return to Mrs.Forster
>990, Jespeed RD.
>Shanghai
>とあります。これは、上海にいたフォスター牧師婦人がマギーのフィルムを管理し、フィルムを回覧していたことを示唆しているものと思います。なお、マギーは1938年の夏に米国に帰国したということです。(帰国の時期については、東京裁判で証言しているはずなので、後で調べてみます。)

なるほど、キーマンはフォスター夫人。Timperlyという席を暖めることができない男が、フィルムの管理なんかできませんね。

>-- 参考 --
>1938年
>1/29 フィッチ、英国砲艦 H.M.S Bee号にて上海に向かう(1回目)
>2/12? フィッチ、南京に戻る
>2/19 フィッチ、日本軍の列車で上海へ向かう
>2/23 ラーベ、南京を出発
>2/25 フィッチ、ドイツ船 "Gneisenau" で香港に向け出発
>2/27 ラーベ、上海到着
>3/ 8 フィッチ、"Philippine Clipper"で香港からマニラへ行く
>3/16 ラーベ、 Conte Bianca Mano で母国への帰途につく
>---

貴重なデータですね。ありがとうございます。


>
>>『予備のフィルム』これは、原文はどうなんでしょう。
>>何を本体とし、何を『予備』と言っているのでしょうか?
>
> 残念ながら、原文は手元にありません。
>
>>ここで、2本のプリントがアメリカに行くと、上海で4本のプリントを焼いたのでは、すでに足らなくなってしまいます。
>
> 「4本」というのは、コダックがフィッチに作ってくれたというコピーの数です。それを元に更にコピーされたかも知れないので総数は分からないというのが正解でしょう。


私がフィルムの種類を気にするのは、
1)Timperleyの「編集」の規模です。ネガで編集を行うのは専門家の力が必要です。
リバーサルでおこなうならば、Timperley自身でもできたかもしれません。つまり、Timperleyのかかわり方です。
2)いずれにしても、ネガフィルムでマスターを作らなければ、3本以上のプリントを作るのは不自由だったでしょう。マスターは、リバーサルから焼着付けた場合は、画質はかなり劣化します。
3)そうした事実が、残されたフィルムの考証(どちらがオリジナルかといった)に役立つでしょう。


とまれ、こうやって苦労してフィルムを残してくれた人々に厚く感謝いたします。
マギーフィルムは世界人類の遺産です。
南京事件の悲惨を記録するとともに、国際安全区という
戦時の中でのヒューマニズムの偉業を私たちに伝えてくれるからです。
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[367]Re(2):写真119 「夏琴淑さん事件」
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 ピッポ E-MAILWEB  - 05/5/11(水) 7:57 -

引用なし
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   マギーの東京裁判での証言から。

ゆうさん 「小さな資料集」
『マギーが証言したこと』より
http://www.geocities.jp/yu77799/magee.html

>続いて、有名な「夏淑琴さん事件」の証言が見られます。


○マギー証人  一月の終り頃になりまして、私は南市の方へ参りまして沢山の街で色色な事件が起こつたのを承知したのでありますが、其の中で特に私の申上げようと思ひますのは、新開路六番<地>の家で起つた事件であります。
○サトン検察官 それは何年のことですか。

○マギー証人 一九三八年のことであります。私が参りました道は南門の丁度内側にあつたのでありますが、そこで中国人の話します所に依りますと、其の辺りで約五百人の中国人が殺されたと云ふ話でありました。

 私は新開路の六番地の家へ連れて行かれて見せられたのでありますが、それは案内したのは非常に年を取つた母方の祖母さんでありましたが、そこでは多数の中国人の子供が死んだと云ふ話でありました。

 其の家に十三人の人が住んで居つたのでありますが、唯二人の子供だけが逃げたのであります。其の中に一人の少女、其の年は約八歳から九歳位の一人の少女でありましたが、其の少女の話に依りますと、日本兵が入つて来た時に背中を二度ばかり刺された、さうして其の時にはもう傷は大体治つて居りましたが、其の刺された傷を私は現に見たのであります。写真を撮つて参りました。

 約三十名の日本兵がやつて来まして入口の所で大きな声で怒鳴つたのであります。回教徒の人が戸を開けました所が、即座に日本兵はそれを殺したのであります。さうして其の後ろに跪づいて居る男を殺し、又其の妻を殺したのであります。(モニターによる修正後の文)

 それから此の兵隊は、私が先程申しました一寸広場の横の所へ是等の人を連れて行きまして、さうして十四歳から十六歳位の女の子を裸にしようとしたのであります。

 先程申しました非常に父方の祖母が其の女の子を保護しようと致しました所が直ぐに殺されたのであります。其の人は七十九歳でありました。其の主人は七十六歳でありましたが、腕を妻の方に差延べようとした所を殺されました。

 それから是等の日本兵は此の少女達を強姦したのであります。先程申しました案内役に立つた其の祖母は、此の部屋に行つて、竹の棒を女の膣から引摺り出して持つて来たのであります。是等の女は強姦され且つ殺されたのであります。(モニターによる 追加後の文)

 其の時には其の小さな娘と、それから彼女自身とが居たのでありますが、それ以外に其の娘の子の弟になります四歳になる男の子が居たのでありますが、其の男の子は女の子の着物を着て居つた為に、其の竹で突き刺されたと云ふことであります。男の子が女の着物を着て居つた為に竹で突き刺された、と云ふことは、それが男であるか女であるかと云ふことの証明にはなりませぬが、兎に角其の子供が二回突かれたのであります。

 其の広場に面して居る他の家の出来事でありました。一人の母親が小さな一歳の子供と共に「ベッド」の下に隠れて居つたのであります。日本兵はその女を強姦し、さうして後に其の女も殺し、又赤ん坊も殺してしまつたのでありますが、後程行つて見ますと、其の殺された女の膣の中には瓶が入れてあつたのであります。(モニターによる修正後の文)

 或る女の子から、他の殺人に付て話を聞きましたが、其の子供の年は分かりませぬけれども、頭から日本刀で斬られたのであります。(モニターによる修正後の文)

 其の死体は家の中から外に引摺り出されたのでありますが、私が行つた時は丁度其の事件が起つてから約六週間のことでありましたが、到る処に血が散乱して居つたのであります。若し私が色を出す活動写真の映写機を持つて居たならば、其の時の血の色の工合をはつきりと写し取ることが出来ただらうと思ふのであります。即ち其の中の一人の少女が強姦された机の上、それから他の少女が殺された床の上には到る処に血が散乱して居つたのであります。

 其の老婆は私を更に其の広場の近くに連れて行つて案内したのでありますが、さうして其処で、竹の菰が其の死体の上に掛けてあるのを取除けて其の死体を私に見せたのであります。其の死体は一つは約十四歳の少女、もう一つは十六歳の少女、それからもう一つは其の老婆の娘である一歳の嬰児のお母さんと一緒に其処に死んで居りました。

(『南京大残虐事件資料集 第1巻』 P95〜P96)


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[368]Re(3):東中野修道氏のトリック
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 ピッポ E-MAILWEB  - 05/5/11(水) 8:36 -

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   ゆうさん「小さな資料集」
東中野氏の徹底検証 10
夏淑琴さん事件
http://www.geocities.jp/yu77799/higasinakano111.html

>それはともかく、東中野氏の「トリック」を解説しましょう。まず、東中野氏の記述から。

 ここに、もう一つ、この「八歳の少女」の語った事件にかんして、許伝音が東京裁判で証言したことを付け加えておきたい。・・・許伝音は、十七歳(十六歳の間違い)と十四歳の少女の死体が「テーブルの上の血の海の中」と「ベッドの血の中」に横たわっていた、と証言した。「日支紛争」の中のマギーの説明によれば、マギーが現場に行ったときは、すでに「死体が全て取り除かれ」ていたのではなかったか。これは許伝音の偽証であった。(「徹底検証」P250〜251)

>東中野氏の引用する、「日支紛争」の中の「マギーの説明」は、以下の通りです。

 (略)写真撮影者の私が、この話の一部を得ることができたのは、上の八歳の少女からで、詳細は一人の隣人と一人の親戚から語ってもらって、確認と訂正ができた。
兵士たちは毎日この家に物を取るためやってきたが、二人は古い敷布の下に隠れていたので発見されなかったと、この八歳の少女は語った。
このような恐ろしいことが起こり始めた時、近所の住民はみな避難民地帯に逃げた。それから十四日して、このフィルムに出て来る老女性が近所に戻って、二人の子供を発見した。その後、死体が全て取り除かれたあとの部屋に、写真撮影者の私を案内したのは、この老女性であった。彼女や、シアさんの弟と、この小さな女の子に対する質問を通じて、恐るべき悲劇についての疑問の余地なき理解が得られたのである。(「徹底検証」P242)

> 確かにこれだけを見ると、マギーは「死体が全て取り除かれたあとの部屋」に入り、死体を全く目撃せずに「聴取」のみで記録を書いたように見えます。ところが、これはトリックでした。以下、検証していきましょう。
--------------------------------------------------------------------------
>まず、「許伝音」の「証言」から。なお、東中野氏の引用部分は、正確には「証言」ではなく、「証言」とは別に文書で提出された「宣誓口供書」の記載です。以下、引用します。

極東軍事裁判 許伝音 宣誓口供書
十三才以上、七十以下の女と云ふ女は日本兵<に>陵辱されました。屡屡続けざまに陵辱を受けたのであります。幾千とも知れない女達は、日本兵に陵辱された揚句に殺されて屍体までも汚されて居ました。市中及び其の外郭で繰り返し行は<れ>たこの兵士共の行為の例証として、私は南門の『シンカイ路七番地』の例を引用します。その家では十一人が殺されたのであります。

(略)その家族には十七と十四になる二人の未婚の女の子がありました。二人とも兵士に陵辱を受け<た>揚句に殺されました。一人の女の子はテーブルの上の血の海の中で膣に棒切をつきこまれて横<た>わつて居り、もう一人は香水の瓶を膣につきさされて『ベッド』の血の中に横<た>わつて居たのでありました。
(「南京大残虐事件資料集 第1巻」 P29)


>第一のトリック。東中野氏は、引用部分をあたかも許伝音の「目撃証言」であるかのように語っていますが、これは、「兵士共の行為の例証」としての「引用」であり、「目撃証言」ではありません。  実際の「目撃証言」は、次の通りです。

極東軍事裁判 許伝音証言
・・・是等の強姦された婦人の中二人は十四歳であり、一人は十七歳でありました。・・・此の若い娘さんは卓の上で強姦され、さうして其の卓の上にまだ血が流れているのを私は見ました。それから私達は又其の死骸を見ました。是等の死骸は其の家から数「メートル」離れた所に放ってあったのであります。「マギー」さんと私は是等の死骸の写真を撮りました。何となれば是等の死体は裸であり、さうして酷い傷を受けて居つたことがはつきりして居つたからであります。
(「南京大残虐事件資料集 第1巻」  P29)

>第二のトリック。部屋から「取り除かれた」死体は、実は家から数「メートル」離れたところにあったわけです。許伝音は、家の外で死体を目撃し、「マギー」とともに死体の写真を撮りました。
------------------------------------------------------------------------
>かつこれに加えて、「マギーの説明」の方にも「トリック」があります。この文は、「徹底検証」が出版された1999年より後の2001年に出た、「ドイツ外交官が見た南京事件」に収録されていますが、これを読むと、この文は、実は「マギーフィルム」の解説書であったことがわかります。

>「ドイツ外交官の見た南京事件」と東中野氏の引用を比較すると、東中野氏の方には、最後の2行が脱落していることに気がつきます。

マギー牧師の解説書(最後の2行のみ引用。東中野氏の引用文の続き)
・・・彼女と夏氏の兄、さらには八歳の少女に問いただすことによって、この惨劇に関する明確な知識が得られた。このフィルムは、同じころに殺害された人の屍の群に横たわる十六歳と十四歳の少女の死体を映し出している。夏夫人と彼女の赤ん坊は最後に映し出される。(「ドイツ外交官が見た南京事件」P177)

>東中野氏は、マギーが死体を目撃していないかのような文を書きましたが、実際には、マギーも死体を目撃して、これを撮影していました。 東中野氏は、以上、3つのトリックを使って、「許伝音の偽証」を作り上げたわけです。

==================================================================

『南京大虐殺 日本人への告発』p.166-167
http://www.asyura2.com/0406/dispute19/msg/504.html より転載

夏淑琴さんの証言
新路口(Hsin Lu Ko)五番地は、私の家です。

日本兵たちは私の父を追いかけ回し後ろから撃ち殺したんです。彼らはとなりの家に住んでいた二人の子供と両親も殺しました。その後、彼らは私の一番下の妹を、彼女はまだ赤ん坊だったのですが、母の腕から取り上げて床に投げつけ殺しました。それから彼らは母の着ているものをはぎ取りました。私たちは広間の反対側のドアの後ろに隠れて一部始終を見たのです。日本兵たちは母を一人残すなんてことはしませんでした。

兵士たちが私の一番上の姉をテーブルに載せ、パンツを引き下ろし、繰り返し強姦するところを見たんです。私は三回刺され気を失いました。気が付いたとき二番目の姉が裸で倒れているのが見えました。彼女は強姦され殺されたのでした。

彼らが憎いです。ひどく憎い。どうしてそんなに残酷で野蛮だったんでしょう。私たちが彼らに何をしたと言うのですか。本当にわからない!
(『南京大虐殺 日本人への告発』p.166-167)

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[369]Re(6):私の頭の中の困った事象
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 ピッポ E-MAILWEB  - 05/5/11(水) 15:07 -

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   ▼渡辺さん:
>-- 参考 --
>1938年
>1/29 フィッチ、英国砲艦 H.M.S Bee号にて上海に向かう(1回目)
>2/12? フィッチ、南京に戻る
>2/19 フィッチ、日本軍の列車で上海へ向かう
>2/23 ラーベ、南京を出発
>2/25 フィッチ、ドイツ船 "Gneisenau" で香港に向け出発
>2/27 ラーベ、上海到着
>3/ 8 フィッチ、"Philippine Clipper"で香港からマニラへ行く
>3/16 ラーベ、 Conte Bianca Mano で母国への帰途につく
>---

渡辺さん、私の頭の中に困った事象がおきました。
それは、George Fitch の回想録における、
「マギーフィルム運搬エピソード」に関することです。

北村稔「南京事件の探求」からの引用(キャッシュのみ残)

 フィッチが南京から上海に移動したのは、回想録の文面から判断して一九三八年の一月十九日である。日本軍の許可を得て、軍用列車で日本兵とともに上海に到着した。フィッチは次のように言う。

「私はそのとき〔中略〕オーバーの裏地に、虐殺場面を撮った十六ミリのネガフィルムを八リール(ほとんどは大学病院で撮影したもの)を縫い込んでいたので、少し気をつかった。〔中略〕幸いにして、それらはみつからなかった。上海につくとただちに、フィルムを複写するためにコダックの営業所へ持っていった。〔中略〕コダック代表は急いで四セットを作成してくれた」。


笠原十九司「南京難民区の百日」からの引用
http://www.jca.apc.org/nmnankin/nanmin28.html


2)1月下旬、ジョージ・フィッチは日本軍の軍用列車に乗って上海へ向かった。オーバーの裏地にはマギーが撮影した16ミリのネガフィルム8リールが縫いこんであった。日本軍の残虐行為の証拠となるものである。上海でコピーを4セット作製し、香港を経由しアメリカへと飛び立った。
彼の渡米の目的は南京の状況をアメリカ政府と国民に知らせるとともに、南京をはじめとして戦禍で苦しむ中国の難民を救済するためのキャンペーンを全米で展開し、救済資金を集めることにあった。


ご覧のように、どちらも1月下旬に日本の軍用列車に乗って運んだ、となっています。
そうして、フィッチは1ヶ月上海に滞在したことになっています。

しかし渡辺さんご指摘のようにラーベの日記によれば、フィッチは、
1月29日に上海にBee号で行って、2月4日にラジオ上海に出演し、
2月12日に南京に戻り、2月179日にはラーベとともにヴォートリン主催のお別れパーティーに出ています。

疑問-1

上記の回想録からの引用の方が間違っていると思われます。
フィッチが列車で移動したのは2回目の2月19日だったのでしょう。

この間違いは、翻訳作業のどこかで誤記があったのでしょうか?
それとも、フィッチの回想に誤りがあったのでしょうか?
渡辺さんは、原書"My Eighty Years in China"をお持ちだそうで、
お時間が有るときにご確認いただけないでしょうか?

なお、Timperleyのホーンベック宛書簡が2月16日付ですから、
渡辺さんが仰るように、2月19日に運び出したのでは、日時が前後してしまいますから、1月29日に運び出したと考えるのが順当です。

そうすると、
マギーフィルムは、1月29日にBee号に乗ったフィッチによって上海に運ばれ、
上海着は2月2日か3日か? それを、Timperleyが編集して、上海コダックが4セットのプリントをつくる。そうして、(船に乗ってか?)フィッチが2月12日に南京に戻る。ということになって、フィルムの現像→編集→プリント作業としてはぎりぎりで、余裕がなくても不可能ではありません。

疑問-2

そうした日時手順を考えますと、マギーが現像、編集済みのフィルムを見て「解説書」を書き、2月10日づけでドイツ大使館分室文書に添付することは、物理的に不可能です。
その点でも、私の勝手な推論「マギーは現像済みのフィルムではなく撮影記録を見ながら解説書を書いた」に幾分か理があります。

ところがところが、
「マギーフィルムの解説書」を読み返してみますと、その記述の順番が、撮影日時順ではなさそうだということに気がついたのです。

ということは、
1、2月10日以前にマギーは、編集されたものを見て「解説書」を書いた。
2、それは、1月29日にフィッチが運び出して、フィッチが持ち帰ったのでは間に合わない、
3、つまり巻1から巻4は、それ以前に上海に運ばれていた。
4、考えられるのは、ドイツ大使館が「外交文書として」上海に運んだということです。
5、それが現像されて戻り、ヒットラー宛に送付するために添付する「解説書」の執筆をマギーに依頼した。
6、とするとそれは、マギーフィルムの前編ということになるかもしれません。

X、それともフィッチは、密かに1月29日以前にも上海に行って帰ってきたのか?あるいは、別の誰かが運んだことをフィッチのしたことにしたのか?
Y、矛盾無く解釈することができません。

以上、
己の読み方の未熟さからくる疑問です。
渡辺さんのお手元を騒がせて申し訳ありません。

[管理人一回修正:タグ]
2,974 hits

[370]Re(7):訂正です
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 ピッポ E-MAILWEB  - 05/5/11(水) 15:13 -

引用なし
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   2月12日に南京に戻り、2月179日にはラーベとともにヴォートリン主催のお別れパーティーに出ています。

  2月179日→2月17日

2月に179日は有りません(苦笑。大汗)
2,984 hits

[374]Re(7):マギーフィルム画像と解説書:2月10日とい...
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 渡辺  - 05/5/14(土) 17:31 -

引用なし
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   渡辺:>
>> 1938年2月10日という日付が意味することは、フィルム1-4が、2月10日以前に現像されており、南京にいたマギーが見ることができた、ということです。
▼ピッポさん:
>「解説書」は、フィルムを映写して見てから書いたのでしょうか?
>私はそうは思いません。今でこそ撮影したその場で見れるビデオの時代ですから、何を写したかは映像を見ながら書きます。しかし、フィルムの時代は違います。撮影したものが見れるのは、最低でも1週間も先なのですから、撮影したその日のメモこそがもっとも重要なスクリプトになります。

 結論から言いますと、1938年2月10日には映写可能なフィルムがマギーの手元にありました。10日には複製がドイツ大使館に提供され、11日にはラーベが見ています。
 『ドイツ外交官の見た〜』p.166以下掲載のフィルム「解説書」が添付されていた手紙によれば、マギーが「コダック上海支店に支払う費用と引き替えに複製フィルムの提供を申し出た」こと、複製フィルムが外務省に送られるだろうことが書かれています。[p.162]この文書は、ラーベの日記にもありますが、講談社版には収録されていません。[英語版、p.187]

>>1938年
>>1/29 フィッチ、英国砲艦 H.M.S Bee号にて上海に向かう(1回目)
>>2/12? フィッチ、南京に戻る
>>2/19 フィッチ、日本軍の列車で上海へ向かう
>>2/23 ラーベ、南京を出発
>>2/25 フィッチ、ドイツ船 "Gneisenau" で香港に向け出発
>>2/27 ラーベ、上海到着
>>3/ 8 フィッチ、"Philippine Clipper"で香港からマニラへ行く
>>3/16 ラーベ、 Conte Bianca Mano で母国への帰途につく

 ここで問題となるのが、フィッチが上海から南京へ戻った日付です。
 前回の投稿ではうっかりしていたのですが、フィッチが南京に帰ったのは、上の手紙の日付2月10日より後の12日となっており、明らかに矛盾しておりました。
 上記の日程表は、調べものなどをした機会に蓄積している私の時系列"データベース"を元に作ったものです。2月12日にフィッチが帰ってきたということは、ラーベやヴォートリンの日記に書かれています。それにもかかわらず、この日付に疑問を持った理由があったわけですが、それをメモしておかなかったので、その根拠が分からなくなってしまいました。
 そこで、フィッチがいつ南京に帰ったのか、この頃に書かれた文書をあらためて調べてみました。その結果、フィッチの1938年2月14日付 Peter Shih 宛て書簡に、10日に帰ったと書かれていることがわかりました。
---
There is also a chance that I shall be going to Shanghai again next week. I went the time before, leaving Jan.29, by a British gunboat, the Bee, and returned the 10th by the U.S.S. Oahu.["Eyewitnesses to Massacre","p.105]
---

 マギーは2月10日にフィルムを受取ると、即日「解説書」を作成してドイツ大使館に複製フィルムを提供し、翌日にはラーベたちにフィルムを見せたと考えられます。[ラーベの日記2月11日記述、『南京の真実』p.244 参照のこと]
 従って、フィッチはフィルムを1月29日〜2月10日の上海行きのとき持ち出し、上海で現像して持ち帰ったということになるでしょう。フィルムの原版の行方については今のところ史料はありませんが、親しかったフォスター牧師の、上海にいた婦人に預けられた可能性が高いでしょう。その場合、フィッチが上海で受取った複製のうち3本の行方は、 上海のTimperley、南京のローゼン、マギーということになります。この3本はマギーが撮影した4本のフィルムをそのまま複写したものということになるでしょう。
 
>また、現像済みフィルムを持ち込んでみつかったら、大変ですね。何が写っているかわかってしまうのですから、フィッチはスパイ容疑がかけられるでしょう。現像前のものならば、フィルム缶を開けてしまえばすべての像が消えてしまうのですが。

 史料がないと、細かい状況はなんとも言えませんが、行きは英国のBee号、帰りは米国 Oahu号ですから、個人の荷物までは検査できなかったのではないかと思います。
 フィッチが上海に日本軍の列車で行ったというのは、フィッチの回想録によるもので、これは2月19日の上海行きのことでしょう。

>私がフィルムの種類を気にするのは、
>1)Timperleyの「編集」の規模です。ネガで編集を行うのは専門家の力が必要です。
>リバーサルでおこなうならば、Timperley自身でもできたかもしれません。つまり、Timperleyのかかわり方です。
>2)いずれにしても、ネガフィルムでマスターを作らなければ、3本以上のプリントを作るのは不自由だったでしょう。マスターは、リバーサルから焼着付けた場合は、画質はかなり劣化します。
>3)そうした事実が、残されたフィルムの考証(どちらがオリジナルかといった)に役立つでしょう。

 私がオリジナルといっているのは、写された映像がそのまま編集されずに残っているものをいいます。複写かどうかは大きな問題には思えません。文書史料が複写されたものである場合と、同種の状況ということになるでしょう。
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[376]Re(8):マギーフィルム画像と解説書:2月10日とい...
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 ピッポ E-MAILWEB  - 05/5/14(土) 19:15 -

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   ▼渡辺さん:
>渡辺:>
>>> 1938年2月10日という日付が意味することは、フィルム1-4が、2月10日以前に現像されており、南京にいたマギーが見ることができた、ということです。
>▼ピッポさん:
>>「解説書」は、フィルムを映写して見てから書いたのでしょうか?
>>私はそうは思いません。今でこそ撮影したその場で見れるビデオの時代ですから、何を写したかは映像を見ながら書きます。しかし、フィルムの時代は違います。撮影したものが見れるのは、最低でも1週間も先なのですから、撮影したその日のメモこそがもっとも重要なスクリプトになります。
>
> 結論から言いますと、1938年2月10日には映写可能なフィルムがマギーの手元にありました。10日には複製がドイツ大使館に提供され、11日にはラーベが見ています。
> 『ドイツ外交官の見た〜』p.166以下掲載のフィルム「解説書」が添付されていた手紙によれば、マギーが「コダック上海支店に支払う費用と引き替えに複製フィルムの提供を申し出た」こと、複製フィルムが外務省に送られるだろうことが書かれています。[p.162]この文書は、ラーベの日記にもありますが、講談社版には収録されていません。[英語版、p.187]
>>>1938年
>>>1/29 フィッチ、英国砲艦 H.M.S Bee号にて上海に向かう(1回目)
>>>2/12? フィッチ、南京に戻る
>>>2/19 フィッチ、日本軍の列車で上海へ向かう
>>>2/23 ラーベ、南京を出発
>>>2/25 フィッチ、ドイツ船 "Gneisenau" で香港に向け出発
>>>2/27 ラーベ、上海到着
>>>3/ 8 フィッチ、"Philippine Clipper"で香港からマニラへ行く
>>>3/16 ラーベ、 Conte Bianca Mano で母国への帰途につく

> そこで、フィッチがいつ南京に帰ったのか、この頃に書かれた文書をあらためて調べてみました。その結果、フィッチの1938年2月14日付 Peter Shih 宛て書簡に、10日に帰ったと書かれていることがわかりました。
>---
> There is also a chance that I shall be going to Shanghai again next week. I went the time before, leaving Jan.29, by a British gunboat, the Bee, and returned the 10th by the U.S.S. Oahu.["Eyewitnesses to Massacre","p.105]
>---

> マギーは2月10日にフィルムを受取ると、即日「解説書」を作成してドイツ大使館に複製フィルムを提供し、翌日にはラーベたちにフィルムを見せたと考えられます。[ラーベの日記2月11日記述、『南京の真実』p.244 参照のこと]


日本語版のマギー日記の2月11日(P244)では、

マギー牧師がすさまじい残虐行為の実写フィルムがおびただしいフィルムを持ってきた。ローゼンは上海で複製を作らせている。ベルリンに送るつもりだ。私にも一本くれることになっている。(フィルムに写っている)負傷者は何人か見覚え阿がある。そのうち幾人かとは、いまわのきわに話ができた。鼓楼病院の遺体安置所で見た人達も写っていた。


渡辺さんのご指摘で、めくりなおしたら見つかりました。見落としていました。

フィッチは2月10日に南京に戻ったが、ラーベのところにソーセージ、チーズ、インシュリン、郵便物をもって現われたのは2月12日だったのですね。(あるいは、何日かまとめて日記を書くうちに、1~2日のずれが生じたかも)

そうして、マギーは2月10日にフィッチが持ってきた編集済みフィルムを大急ぎで見て、
その日のうちに「解説書」を手書きで書いた。(後にドイツで発見された「解説書」が、確かにマギーの筆跡だということは、「目撃者の南京事件」にあります)。そうして翌日にはラーべにも見せた。

このように素早い段取りをDirectしたのは、ドイツ大使館書記官のローゼンだったのですね。
先の2月11日のラーべ日記(日本語版)は、こうなっています。

13時
ローゼン宅で、イギリス砲艦クリケットの将校たちと昼食。感じのいい人たちだ。まだ荷造りが終わっていないのは残念だ。そうでなかったら明日クリケット号で発てたのに。

とあって、それが次に続いています。

マギー牧師がすさまじい残虐行為の実写フィルムがおびただしいフィルムを持ってきた。ローゼンは上海で複製を作らせている。ベルリンに送るつもりだ。私にも一本くれることになっている。(フィルムに写っている)負傷者は何人か見覚え阿がある。そのうち幾人かとは、いまわのきわに話ができた。鼓楼病院の遺体安置所で見た人達も写っていた。

おそらく、クリケット号の出向に間に合うように、ヒットラーにフィルムを見せるための「解説書」が作成されたと予想されます。


> 従って、フィッチはフィルムを1月29日〜2月10日の上海行きのとき持ち出し、上海で現像して持ち帰ったということになるでしょう。フィルムの原版の行方については今のところ史料はありませんが、親しかったフォスター牧師の、上海にいた婦人に預けられた可能性が高いでしょう。その場合、フィッチが上海で受取った複製のうち3本の行方は、 上海のTimperley、南京のローゼン、マギーということになります。この3本はマギーが撮影した4本のフィルムをそのまま複写したものということになるでしょう。
> 
>>また、現像済みフィルムを持ち込んでみつかったら、大変ですね。何が写っているかわかってしまうのですから、フィッチはスパイ容疑がかけられるでしょう。現像前のものならば、フィルム缶を開けてしまえばすべての像が消えてしまうのですが。
>
> 史料がないと、細かい状況はなんとも言えませんが、行きは英国のBee号、帰りは米国 Oahu号ですから、個人の荷物までは検査できなかったのではないかと思います。
> フィッチが上海に日本軍の列車で行ったというのは、フィッチの回想録によるもので、これは2月19日の上海行きのことでしょう。

私の推理では
2月10日にフィッチが持ち帰ったフィルムはドイツ送致用の1本だったと思われます。
マギー、ラーべ、フィッチは帰国時に上海で受け取ったと思います。

最初に未現像フィルムを上海に送ったのが、フィッチだったかは確証がありません。
2月10日に南京に持ち帰ったのは、渡辺さんのおかげで確かになりました。

私の勘ですが、「Timperleyがタイトルをつけたい」といっていたのは、後続のフィルムを併せたものの、『編集構想』ではなかったかと思います。
詳しく読み解く時間がないので、今日のところはこれにて御免蒙ります。

渡辺さん、有難うございました。
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[379]Re(9):マギーフィルム画像と解説書:2月10日とい...
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 渡辺  - 05/5/15(日) 0:33 -

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   ▼ピッポさん:
>フィッチは2月10日に南京に戻ったが、ラーベのところにソーセージ、チーズ、インシュリン、郵便物をもって現われたのは2月12日だったのですね。(あるいは、何日かまとめて日記を書くうちに、1~2日のずれが生じたかも)

 これは、両方とも正しいのかもしれません。ベイツも12日の午後にオアフ号が「寄港予定」と前日付の手紙に書いています。
---
             シール
 一九三八年二月十一日 南京
最愛の人
....
...オアフ号は明日午後寄港予定だが、到着はいつものとおり遅れるだろうし、上陸時間もとても短い。フィッチがオアフ号に乗船しているとは意外だ。が、おそらく身の回りを整理するために戻ってくるのだろう。[『南京事件資料集 1アメリカ関係資料編』p.331]
---

 オアフ号は一旦近くに係留し、荷物だけを先に小型の船で陸地に運んだということが考えられます。これが、2月10日で、フィッチが上陸したのが12日午後だと考えればつじつまが合います。

>先の2月11日のラーべ日記(日本語版)は、こうなっています。

 この訳は例によって要注意です。
>マギー牧師がすさまじい残虐行為の実写フィルムがおびただしいフィルムを持ってきた。
→「マギー牧師が残虐行為の映画(複数)を撮影した。」

>ローゼンは上海で複製を作らせている。
→「ローゼン博士は上海で複製を作らせるつもりだ。」

>私にも一本くれることになっている。
→「私も後で別の複製を入手することになっている。」

>最初に未現像フィルムを上海に送ったのが、フィッチだったかは確証がありません。

 誰か他に可能性があるでしょうか?
 1月23日に、クレーガーが上海に向かいました。[ラーベの日記 1/23記述、『南京の真実』p.200]クレーガーは日本軍の占領後に南京から出た最初の安全区の外国人だったと思います。しかし、クレーガーが出発した後の1月24日に銃剣で刺された男性の映像が写っていることが「解説書」の(八)からわかります。従って、1月29日に南京を出たフィッチ以外にフィルムを持ち出した人は考えられないと思います。
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[380]Re(10):マギーフィルム画像と解説書:2月10日と...
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 ピッポ E-MAILWEB  - 05/5/15(日) 0:57 -

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   >>先の2月11日のラーべ日記(日本語版)は、こうなっています。

> この訳は例によって要注意です。
>>マギー牧師がすさまじい残虐行為の実写フィルムがおびただしいフィルムを持ってきた。

これは

>>マギー牧師がすさまじい残虐行為の実写フィルムを持ってきた。

でした。ごめんなさい。

>→「マギー牧師が残虐行為の映画(複数)を撮影した。」

うむ。ここは英文はいかがですか?

>>ローゼンは上海で複製を作らせている。
>→「ローゼン博士は上海で複製を作らせるつもりだ。」
>
>>私にも一本くれることになっている。
>→「私も後で別の複製を入手することになっている。」
>
>>最初に未現像フィルムを上海に送ったのが、フィッチだったかは確証がありません。
>
> 誰か他に可能性があるでしょうか?
> 1月23日に、クレーガーが上海に向かいました。[ラーベの日記 1/23記述、『南京の真実』p.200]クレーガーは日本軍の占領後に南京から出た最初の安全区の外国人だったと思います。しかし、クレーガーが出発した後の1月24日に銃剣で刺された男性の映像が写っていることが「解説書」の(八)からわかります。従って、1月29日に南京を出たフィッチ以外にフィルムを持ち出した人は考えられないと思います。

はいご明察、確かに確認いたしました。
http://www.geocities.jp/yu77799/siryoushuu/mageefilm.html#4-8
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[381]Re(11):マギーフィルム画像と解説書:2月11日の...
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 ピッポ E-MAILWEB  - 05/5/15(日) 7:48 -

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   渡辺さん
再確認お願いできますか?

>> この訳は例によって要注意です。
>>>マギー牧師がすさまじい残虐行為の実写フィルムを持ってきた。
>
>>→「マギー牧師が残虐行為の映画(複数)を撮影した。」
>
>
>>>ローゼンは上海で複製を作らせている。
>>→「ローゼン博士は上海で複製を作らせるつもりだ。」
>>
>>>私にも一本くれることになっている。
>>→「私も後で別の複製を入手することになっている。」

だろすると、2月11日のラーべ日記(日本語版)は、こうなる。


13時
ローゼン宅で、イギリス砲艦クリケットの将校たちと昼食。感じのいい人たちだ。まだ荷造りが終わっていないのは残念だ。そうでなかったら明日クリケット号で発てたのに。

マギー牧師が残虐行為のフィルムを撮った。ローゼン博士はその複製を上海で作らせるつもりだという。1本はベルリンに送るつもりで、私も後で別の複製を入手することになっている。(フィルムに写っている)負傷者は何人か見覚えがある。そのうち幾人かとは、いまわのきわに話ができた。鼓楼病院の遺体安置所で見た人達も写っていた。


この日フィルムを見せてくれたのは、マギーではなくローゼンだったかも知れませんね?
マギーが同席したかもしれないが、同席してなかったかもしれない。マギーがフィルムを持ってきたわけではない?(took pictures でしょうか? had took pictures でしょうか?brought ではない?)英文ではどのように判断できますか?
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[382]Re(12):マギーフィルム画像と解説書:2月12日記述
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 渡辺  - 05/5/15(日) 15:02 -

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   ▼ピッポさん:
>>>>この日フィルムを見せてくれたのは、マギーではなくローゼンだったかも知れませんね?
>マギーが同席したかもしれないが、同席してなかったかもしれない。マギーがフィルムを持ってきたわけではない?(took pictures でしょうか? had took pictures でしょうか?brought ではない?)英文ではどのように判断できますか?

 Reverend John Magee has taken motion pictures of the atrocities. Dr. Rosen is having a copy of the film made in Shanghai, which he then wants to forward to Berlin. I'm supposed to get another copy later, too. I saw some of the casualties(shown in the film)and was able to speak with a few before they died.[英語版 p.188]

-- 参考 独語版 --
 Reverend John Magee hat einen Film von Greueltaten aufgenomen. Dr. Rosen laesst sich eine Kopie des Films in Shanghai anfertigen, die er nach Berlin schicken will. Ich soll spaeter auch eine Kopie erhalten.Verschiedene der (im Film gezeigten) Verwundeten habe ich gesehen und einige auch noch sprechen koennen, bevore sie starben.[独語版 p.259]
(文字表記: ae=aウムラウト、oe=oウムラウト、ss=β(エスツェット)

 あ、いかん。映画は、einen Film と単数でした。なお、Filmには、「フィルム」の他に「映画」という意味があります。
 aufgenomenは、aufnehmen(英語のtakeに相当) の完了形で、「取る」とか映画や写真を「撮影する」という意味があります。私、独語は大分忘れましたのでよろしく。

「 ジョン・マギー師は残虐行為の映画を撮影した。ローゼン博士は上海で映画の複製を作り、それをベルリンに送るつもりだ。私も後で複製を入手するつもりだ。さまざまな負傷者(映画に現れた)を私は見たことがあり、何人かは彼らが死ぬ前に話すことすらできた。」
 それから、これに続く文は、「彼らの何人かの遺体を、私は鼓楼病院の遺体安置所で見せられた。」ですね。『南京の真実』は「適当訳」です。

 ローゼンの手紙の意味するところは、複製費用をドイツ大使館の負担とする条件でフィルムの複製を上海で作ってもよいという申出をマギーから受けたということかもしれません。
3,035 hits

[383]Re(13):マギーフィルム画像と解説書:2月12日記述
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 ピッポ E-MAILWEB  - 05/5/15(日) 16:20 -

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   ▼渡辺さん:
>▼ピッポさん:
>>>>>この日フィルムを見せてくれたのは、マギーではなくローゼンだったかも知れませんね?
>>マギーが同席したかもしれないが、同席してなかったかもしれない。マギーがフィルムを持ってきたわけではない?(took pictures でしょうか? had took pictures でしょうか?brought ではない?)英文ではどのように判断できますか?
>
> Reverend John Magee has taken motion pictures of the atrocities. Dr. Rosen is having a copy of the film made in Shanghai, which he then wants to forward to Berlin. I'm supposed to get another copy later, too. I saw some of the casualties(shown in the film)and was able to speak with a few before they died.[英語版 p.188]
>
>-- 参考 独語版 --
> Reverend John Magee hat einen Film von Greueltaten aufgenomen. Dr. Rosen laesst sich eine Kopie des Films in Shanghai anfertigen, die er nach Berlin schicken will. Ich soll spaeter auch eine Kopie erhalten.Verschiedene der (im Film gezeigten) Verwundeten habe ich gesehen und einige auch noch sprechen koennen, bevore sie starben.[独語版 p.259]
>(文字表記: ae=aウムラウト、oe=oウムラウト、ss=β(エスツェット)
>
> あ、いかん。映画は、einen Film と単数でした。なお、Filmには、「フィルム」の他に「映画」という意味があります。
> aufgenomenは、aufnehmen(英語のtakeに相当) の完了形で、「取る」とか映画や写真を「撮影する」という意味があります。私、独語は大分忘れましたのでよろしく。
>
>「 ジョン・マギー師は残虐行為の映画を撮影した。ローゼン博士は上海で映画の複製を作り、それをベルリンに送るつもりだ。私も後で複製を入手するつもりだ。さまざまな負傷者(映画に現れた)を私は見たことがあり、何人かは彼らが死ぬ前に話すことすらできた。」
> それから、これに続く文は、「彼らの何人かの遺体を、私は鼓楼病院の遺体安置所で見せられた。」ですね。『南京の真実』は「適当訳」です。


渡辺さん、大変な書き写し作業、ほんとうに有難うございました。

ドイツ語はもちろん、英語もダメな私なので、どうしようも有りませんが、
ここの記述のポイントは、

ローゼンがベルリンに送るプリントを製作中であって、マギーも後でゲットするつもりだ。

にあるように思いました。つまり、ローゼンからフィルムに関する方針を聞いたということ。
the casualties(shown in the film)、(im Film gezeigten)Verwundeten は、その場でフィルムを「マギーが見た」という意味ではなく、フィルムの中味の犠牲者、といってるに過ぎないのかもしれませんね。

映画に登場する負傷者の幾人かとは私も会っています。私は少なからぬ人と死ぬ前に話をすることもできました。

 
もし、その場で編集したフィルムを見せられたなら「待望のフィルムを見た」とか、映写時の描写などが書かれていて不思議ではありません。

この推理も、他の場面での推理と平仄が合わなくなったら、直ぐに撤回いたします。
3,064 hits

[384]Re(3):再登録お試しになったらいかがですか
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 ピッポ E-MAILWEB  - 05/5/16(月) 17:31 -

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   ▼msqさん:
>関係ないことですが、「渡辺さんのページ」の最上部に
>"現在ご覧頂いているページは移行手続きが完了していない為、<<削除>>の対象となっています。" という表示が出ています。<詳細>に"移行期間は2004年10月5日〜2005年3月31日です。"とありますが、大丈夫ですか。管理者様、お手数ですが、用済みになればこのコメント削除して下さい。

渡辺さん、
期限切れでも再登録(移行)できるかもしれません。
お試しになったらいかがですか?

http://geocities.yahoo.co.jp/v/renewal/start.html
>標準モードで移行を開始する
に進む。
URLを変更せず、Yahoo IDを取得する。
2,883 hits

[387]Re(14):マギーフィルム画像と解説書:2月12日記述
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 渡辺  - 05/5/20(金) 23:24 -

引用なし
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   ▼ピッポさん:
>the casualties(shown in the film)、(im Film gezeigten)Verwundeten は、その場でフィルムを「マギーが見た」という意味ではなく、フィルムの中味の犠牲者、といってるに過ぎないのかもしれませんね。

 「映画にでてくる」というコメントは、ラーベが映画を見たことを前提にしていると考えるべきだと思います。
 英語でも独語でも、「負傷者」に定冠詞が付いているということは、書き手と読み手が「あの負傷者たち」と共通の認識をもっていることを前提としています。ですから、それまでに言及されていない「負傷者」に定冠詞が付いているのは、本当はおかしいわけです。日記ですから、書き手と読み手が同じなので、こういう現象が起こったのでしょう。そこで、この文を書いた後にで、定冠詞 der のところ(不自然な位置)に「(マギーの)映画にでてくる」と、注釈をいれたと考えられます。

>もし、その場で編集したフィルムを見せられたなら「待望のフィルムを見た」とか、映写時の描写などが書かれていて不思議ではありません。

 それが書かれていても、書かれていなくても不思議ではありません。
 日記は、あくまでも書いた人の判断でトッピクが選ばれているわけです。我々には重要と思われるような事実でも、日記にはひとことも書かれていないことはめずらしくありません。キーワードだけで出来事が克明に思い出されるような場合、当事者には当たり前の事実、経緯が複雑で日記にかくのはめんどうな場合、万一日記が外部に露見したときさしさわりがあるので明記しない場合、日記に書くことにより不快な感情をおもいだしたくない場合など、様々な場合があります。

 史料を読むとき、不明な個所にさまざまな可能性がありうることは考慮すべきですが、特定の可能性を支持する史料がない場合は、単純な線で史料間を結ぶほうがよいと私は考えます。
3,063 hits

[388]Re(3):マギーフィルム画像と解説書
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 渡辺  - 05/5/20(金) 23:34 -

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   ▼msqさん:
>関係ないことですが、「渡辺さんのページ」の最上部に
>"現在ご覧頂いているページは移行手続きが完了していない為、<<削除>>の対象となっています。" という表示が出ています。<詳細>に"移行期間は2004年10月5日〜2005年3月31日です。"とありますが、大丈夫ですか。

 ご心配ありがとうございます。
 そのHPは、K−Kさんが管理者で、私の過去の投稿を整理して掲載されているものです。K−Kさんもお忙しいと思いますので、K−Kさんの判断に委ねております。
 内容は、すべてダウンロードしておりますが、読み難い文章も多いし、内容を修正したいところがかなりあります。いずれ自分でHPを作る予定ではいますが、まだ時間がかりそうです。
2,885 hits

[389]Re(6):解説書:Film 10解説 と埋葬数
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 渡辺  - 05/5/22(日) 3:05 -

引用なし
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    "Eyewitnesses to Massacre"に掲載されているフィルム解説の Film 10のケース3のCに、埋葬数について興味深い数字が言及されています。
 この中で、埋葬数が 32,104 で約半分の作業が終わったと推定されているという部分があります。この 32,104 という数字は、『大阪朝日新聞』北支版、1938年4月16日付けの記事(『日中戦争史資料 8』p.393)と一致します。『大阪朝日新聞』では、城内で 1,793体、城外で30,311体を「片付けた」、「真夏に入るまでにはなんとか処置を終はる予定である」とあり、この数字を合計すると、「解説書」と1体しか違わない、32,103になるのです。これは、偶然の一致ではなく、同じ情報源と考えるべきでしょう。
 マギーは軍民合わせて少なくともこの数字の倍程度6〜7万の遺体が埋葬されたとの認識をもっていたのではないかと思われます。南京戦前に疎開し1938年9月に南京へ戻った Albert N. Stewardが、1938年12月11日の記の中で、南京が陥落したとき6〜7万の人々が命を失った("Eyewitnesses..."p.320)としているのは、こうした認識の反映かもしれません。

---
["Eyewitnesses to Massacre", p.223"]

Introduction of Magee's Film
Film 10 3.c.
(途中省略)
Between January 23, when they started work, amd March 19, the
Red Swastika Society had buried 32,104 corps in Nanking and
the immediate vicinity(around the city walls). They estimate that
they have done just about one half of this work. In addition many
bodies were buried by relatives and other groups. It is very probable
that many bodies were burned up in the innumerable fires that were
started in the city possibly for that very purpose. There are still large
numbers of unburied bodies in section outside the city walls.

- 試訳 -
 1月23日(紅卍字会が仕事を始めたとき)から3月19日までの間に、紅卍字会は南京とその直近(城壁の周囲)で 32,104の死体を埋葬した。彼らは、およそ半分の作業を終えたところだと推定している。それに加えて、多くの遺体が親戚や他の団体(複数)によって埋葬された。多くの遺体が、おそらく、まさにその目的で市中で始まった無数の火事によって焼却されたことは十分ありえる。城壁の外側の地域には、まだ多数の埋葬されていない遺体がある。
---
2,955 hits

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