当掲示板は南京事件等日本の戦争犯罪をなかったものにしよう、正当化しようとする言説に対抗して設置された掲示板式資料検証集です。
【否定派の写真検証を批判的に再検証するページとしてはタラリさんのページや、渡辺さんが問答有用に投稿したのなどがありますが、そういった再検証のまとまったサイトというのが欲しいと思うようになりました。

ともかく、肯定的な人でさえ、写真に捏造が多数あると思っている人も多いんです。私が知る限り、「捏造」されたものなんて知らないです。誤用はあっても。写真が南京事件を証明するもの、あるいは虚偽としたからといって南京事件を否定するものであるわけはないのですが、中国の印象を悪くする手段としてそうした捏造断定キャンペーンが行われている面が大きいわけです。】
と言う靴屋さんの発言をきっかけに設置しました。
投稿者は限定いたしますが、特に資格等はございません。歴史修正主義に対しきちんと反論せねばならない、とお考えの方はどんどんご利用ください。

当掲示板における写真資料等に関する考え方は当掲示板の目的を参照してください。
メンテ中検証板のメンバーの方は改めて登録する必要はありません。
登録するには[留意事項]をお読みください。
画像資料攻撃典型例
アポロの月着陸は嘘
911事件はアメリカの陰謀
【南京事件 「証拠写真」を検証する】
(東中野修道著)徹底批判
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[37]据え物斬り見物文化IIBataan-POW Camps ピッポ 05/3/24(木) 18:07 [添付]
[42]Re(1):据え物斬り見物文化IIBataan-POW Camps 熊猫 05/3/24(木) 21:08
[103]Re(1):据え物斬り見物文化IIBataan-POW Camps タラリ 05/3/31(木) 17:32
[104]Re(2):据え物斬り見物文化II :Bataan-POW Camps ピッポ 05/3/31(木) 20:25
[600]Re(1):据え物斬り見物文化IIBataan-POW Camps ひふみ 06/6/14(水) 10:43
[601]Re(2):据え物斬り見物文化IIBataan-POW Camps ピッポ 06/6/14(水) 11:40
[602]Re(3):据え物斬り見物文化IIBataan-POW Camps ピッポ 06/6/14(水) 12:06 [添付]
[603]Re(4):据え物斬り見物文化IIBataan-POW Camps ja2047 06/6/16(金) 21:08
[604]Re(5):by Gavin Daws ピッポ 06/6/17(土) 23:51
[605]Re(6):by Gavin Daws ピッポ 06/6/18(日) 0:20
[621]オーストラリア軍M特殊部隊のシフリート軍曹 とほほ 07/4/9(月) 12:37
[622]Re:オーストラリア軍M特殊部隊のシフリート軍曹 ピッポ 07/4/9(月) 19:34
[623]Re:オーストラリア軍M特殊部隊のシフリート軍曹 渡辺 07/4/11(水) 1:11
[624]Re:オーストラリア軍M特殊部隊のシフリート軍曹 とほほ 07/4/11(水) 14:03
[625]3人の捕虜と3人の「首切り人」 ピッポ 07/4/12(木) 20:47
[626]Re:3人の捕虜と3人の「首切り人」 とほほ 07/4/12(木) 21:08
[627]Re:3人の捕虜と3人の「首切り人」 ピッポ 07/4/13(金) 7:31
[632]アイタペとは『犬死』を象徴する戦跡 ピッポ 07/4/13(金) 17:37
[633]3人はなぜ捕らえられたか(日本語サイト) ピッポ 07/4/14(土) 11:55
[635]M特殊部隊は「多国籍部隊」 ピッポ 07/4/14(土) 14:27
[636]3人を捕らえ処刑した日本海軍部隊とは? ピッポ 07/4/14(土) 15:34
[637]Re:3人を捕らえ処刑した日本海軍部隊とは? ピッポ 07/4/15(日) 7:37
[628]梶村さんオランダ軍裁判調査中 ピッポ 07/4/13(金) 8:10
[629]Re:梶村さんオランダ軍裁判調査中 とほほ 07/4/13(金) 8:18
[630]Re:梶村さんオランダ軍裁判調査中 とほほ 07/4/13(金) 8:22
[631]Re:梶村さんオランダ軍裁判調査中 ピッポ 07/4/13(金) 10:02
[638]Re:オーストラリア軍M特殊部隊のシフリート軍曹 渡辺 07/4/20(金) 1:04
[639]Re:オーストラリア軍M特殊部隊のシフリート軍曹 ピッポ 07/4/20(金) 9:24
[641]Re:オーストラリア軍M特殊部隊のシフリート軍曹 渡辺 07/4/30(月) 18:19 [添付]
[642]Re:オーストラリア軍M特殊部隊のシフリート軍曹 ピッポ 07/5/1(火) 8:57
[644]Re:理事生 ピッポ 07/5/1(火) 11:22
[645]Re:軍政の組織 ピッポ 07/5/1(火) 11:31
[646]Re:高砂義勇隊 ピッポ 07/5/1(火) 11:47
[648]Re:苗字「秦野(ヤスノ)」 ピッポ 07/5/1(火) 12:19
[649]Re:訂正 ピッポ 07/5/1(火) 12:23
[634]知らぬは我々(恥)海外では有名な事件のようで... ピッポ 07/4/14(土) 12:39

[37]据え物斬り見物文化IIBataan-POW Camps
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 ピッポ E-MAIL  - 05/3/24(木) 18:07 -

引用なし
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[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : daws11-L.jpg
・サイズ : 58.3KB
  
添付画像【daws11-L.jpg : 58.3KB】 この写真は
明らかに場所が南京とは違うので別スレッドにしました。

去年、あるブログで見つけて、
Bataan-POW Camps
http://history.acusd.edu/gen/st/~ehimchak/POW_camps.html
というサイトのものであることを確認しました。
写真ファイル名:daws11.jpg 


いまこのサイトはリンクできません。


どなたか、
この写真のことを詳しくお知りではありませんか?
3,464 hits

[42]Re(1):据え物斬り見物文化IIBataan-POW Camps
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 熊猫 E-MAIL  - 05/3/24(木) 21:08 -

引用なし
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   本来の出典は解りませんが、「TIME LIFE」に掲載されていました。
3,462 hits

[103]Re(1):据え物斬り見物文化IIBataan-POW Camps
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 タラリ E-MAIL  - 05/3/31(木) 17:32 -

引用なし
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   ▼ピッポさん:『死者が語る戦争』河出書房新社刊、編集部・編 pp15、写真22によりますと

−この写真は死んだ日本兵が持っていたもの。目かくしされた軍人は、軍服の特徴から、オーストラリア空軍兵と推測されている(場所、年月日不詳)−

となっています。

写真を見ればわかりますが、日本刀を構えた兵士の左となりの兵士は笑っています。
また、観衆は最前列が日本兵で後方は現地住民です。みせしめにしているということでしょう。日本軍の敵兵・捕虜に対する考え方、斬首に対する考え方がおのづと見えてくる図です。

また、斬首される際に中国人は暴れたりしないことに驚き、中国人は日本人と違う、日本人ならば暴れるはずだ、と書かれたものがありますが、これは洞察力不足でしょう。この写真のように白人であっても斬首の際にはじっとしています。

これは斬首が決定的になった場合にはじっとしているということであって、逃げるチャンスがある場合には逃げるということとは矛盾しません。『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』の中には斬首の直前に逃げ出して滅多斬りにされてしまう中国兵捕虜の事件も記録されています。
>この写真は
>明らかに場所が南京とは違うので別スレッドにしました。た
>
>去年、あるブログで見つけて、
>Bataan-POW Camps
>http://history.acusd.edu/gen/st/~ehimchak/POW_camps.html
>というサイトのものであることを確認しました。
>写真ファイル名:daws11.jpg 
>
>
>いまこのサイトはリンクできません。
>
>
>どなたか、
>この写真のことを詳しくお知りではありませんか?

3,536 hits

[104]Re(2):据え物斬り見物文化II
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 ピッポ E-MAIL  - 05/3/31(木) 20:25 -

引用なし
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   ▼タラリさん:
>『死者が語る戦争』河出書房新社刊、編集部・編 pp15、写真22によりますと
>
>−この写真は死んだ日本兵が持っていたもの。目かくしされた軍人は、軍服の
>特徴から、オーストラリア空軍兵と推測されている(場所、年月日不詳)−
>
>となっています。
>
>写真を見ればわかりますが、日本刀を構えた兵士の左となりの兵士は笑っています。
>また、観衆は最前列が日本兵で後方は現地住民です。みせしめにしているという
>ことでしょう。日本軍の敵兵・捕虜に対する考え方、斬首に対する考え方がおのづ
>と見えてくる図です。
>
>また、斬首される際に中国人は暴れたりしないことに驚き、中国人は日本人と違う、
>日本人ならば暴れるはずだ、と書かれたものがありますが、これは洞察力不足でし
>ょう。この写真のように白人であっても斬首の際にはじっとしています。
>
>これは斬首が決定的になった場合にはじっとしているということであって、逃げる
>チャンスがある場合には逃げるということとは矛盾しません。『南京大虐殺を記録
>した皇軍兵士たち』の中には斬首の直前に逃げ出して滅多斬りにされてしまう中国
>兵捕虜の事件も記録されています。


たらりさん有難うございました。
この日本兵は、日本刀の構えがいいですね。ローアングルの迫力でしょうか?

犠牲者が誰かと言うことに加えて、撮影者が誰かに興味があります。
ローアングルが謎だったのです。かなり写真の心得があるかと思っていましたが、
兵士が持っていたカメラが、上から覗く蛇腹式カメラだとしたら、ちょうどカメラレベルは、捕虜兵士の頭ぐらいになります。

自然に迫力満点のアングルになったというわけです。
(今のカメラやビデオなら、しゃがんで撮らなければなりませんけど)
3,542 hits

[600]Re(1):据え物斬り見物文化IIBataan-POW Camps
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 ひふみ E-MAIL  - 06/6/14(水) 10:43 -

引用なし
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>場所は喜界島 不時着したパイッロトが処刑されるところです 彼は処刑されるなら刀ではなく銃を望んでいたようです
>
>
>
>
>
>
>
>
>
>
>
>
3,758 hits

[601]Re(2):据え物斬り見物文化IIBataan-POW Camps
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 ピッポ E-MAIL  - 06/6/14(水) 11:40 -

引用なし
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   ▼ひふみさん:
>▼
>>場所は喜界島 不時着したパイッロトが処刑されるところです 彼は処刑されるなら刀ではなく銃を望んでいたようです

ひふみさん
情報有難うございます。
おかげさまで「喜界島事件」なるものを知りました。
http://www.synapse.ne.jp/~bak/kikai/elephant/articles/youju_11_40.html

しかしながら、
当該写真が「喜界島事件」のものであるかどうかは、裏づけがほしうございます。

タラリさんが紹介されている、
「オーストラリア空軍兵と推測されている」という記述もあるようですし。
(『死者が語る戦争』河出書房新社刊、編集部・編 pp15、写真22)
3,782 hits

[602]Re(3):据え物斬り見物文化IIBataan-POW Camps
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 ピッポ E-MAIL  - 06/6/14(水) 12:06 -

引用なし
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[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : daws11-la.jpg
・サイズ : 75.0KB
  
添付画像【daws11-la.jpg : 75.0KB】 拡大した写真を添付します。
3,798 hits

[603]Re(4):据え物斬り見物文化IIBataan-POW Camps
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 ja2047  - 06/6/16(金) 21:08 -

引用なし
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   ▼ピッポさん:
>拡大した写真を添付します。

私はこの写真の出所についてまったく知りませんので断定はできませんが、

1.捕虜と見られる人物がかなり痩せていて、栄養状態が良くないように見える。
2.同じく無精ひげを生やしているように見える。
3.軍服は半袖シャツと半ズボンに見える。

から見ると、1945年春の米軍パイロットではなく、オーストラリア兵の捕虜であるという方が可能性が高いと思います。

後方の日本兵については、戦闘部隊に見えませんが、収容所としても基地設営隊としてもおかしくはないのでしょうね。
3,830 hits

[604]Re(5):by Gavin Daws
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 ピッポ E-MAIL  - 06/6/17(土) 23:51 -

引用なし
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   ▼ja2047さん:
>私はこの写真の出所についてまったく知りませんので断定はできませんが、
>
>1.捕虜と見られる人物がかなり痩せていて、栄養状態が良くないように見える。
>2.同じく無精ひげを生やしているように見える。
>3.軍服は半袖シャツと半ズボンに見える。
>
>から見ると、1945年春の米軍パイロットではなく、オーストラリア兵の捕虜であるという方が可能性が高いと思います。

jaさんresポンセありがとうございます。
実はわたし、迂闊でした。

この写真のファイル名が、「daws11」であることへの留意がたりませんでした。
「daws」が人名ではないかと先ほど気が付き、
「Daws photo POW」で具具って見たら、
なんと、あたりまえだのクラッカーのようなものがヒットしました。

Prisoners of the Japanese : Pows of World War II in the Pacific (Paperback)
by Gavin Daws
http://www.amazon.com/gp/product/product-description/0688143709/102-6482737-9812961

具の中身はまだ見ていませんが、とりあえずご報告申し上げます。
3,814 hits

[605]Re(6):by Gavin Daws
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 ピッポ E-MAIL  - 06/6/18(日) 0:20 -

引用なし
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   ▼自己レスです:
>Prisoners of the Japanese : Pows of World War II in the Pacific (Paperback)
>by Gavin Daws
>http://www.amazon.com/gp/product/product-description/0688143709/102-6482737-9812961

このページの(google 翻訳による)book reviewに「16枚の白黒(B&W)写真掲載」とありますから、当該写真は、その11番目かも知れません。
3,831 hits

[621]オーストラリア軍M特殊部隊のシフリート軍曹
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 とほほ E-MAIL  - 07/4/9(月) 12:37 -

引用なし
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   ▼ピッポさん:
>どなたか、
>この写真のことを詳しくお知りではありませんか?

某MLで、この写真についての情報が入りましたので、許可を得て転載します。
とほほさん、BBです。

ご紹介の掲示板で,ピッポさんという方が写真の情報を求めていらっしゃるのを見ました。西洋人が正座させられて日本兵に斬首されようとしている写真です。
実はこの写真を老人党掲示板というところで紹介したことがあって,そのときURLが長過ぎたので短く変えたものを公開したのですが,何者かによって妨害され,ポルノサイトへ飛ぶように細工されたのでした。

あのときは問題の写真だけを紹介しようとしたのでURLがすごく長くなってしまったのですが,その写真の解説のあるサイトがありますので、それを紹介しておきます。

http://ajrp.awm.gov.au/AJRP/AJRP2.nsf/Japanese/F514BC6663409732CA256BD00013F76C

上から12番目の写真です。斬首されようとしているのは,オーストラリア軍M特殊部隊のシフリート軍曹です。時と場所は、1943年10月24日ニューギニアです。

ピッポさんのサイトではメンバー以外は投稿できないようですので、まだ確かな情報がないようでしたら,ご面倒をおかけして申し訳ないですが,とほほさんから知らせていただけないでしょうか。

BB

3,242 hits

[622]Re:オーストラリア軍M特殊部隊のシフリート軍曹
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 ピッポ E-MAIL  - 07/4/9(月) 19:34 -

引用なし
パスワード
   ▼とほほさん:
>某MLで、この写真についての情報が入りましたので、許可を得て転載します。
とほほさん、BBです。
>
>ご紹介の掲示板で,ピッポさんという方が写真の情報を求めていらっしゃるのを見ました。西洋人が正座させられて日本兵に斬首されようとしている写真です。
>実はこの写真を老人党掲示板というところで紹介したことがあって,そのときURLが長過ぎたので短く変えたものを公開したのですが,何者かによって妨害され,ポルノサイトへ飛ぶように細工されたのでした。
>
>あのときは問題の写真だけを紹介しようとしたのでURLがすごく長くなってしまったのですが,その写真の解説のあるサイトがありますので、それを紹介しておきます。
>
>http://ajrp.awm.gov.au/AJRP/AJRP2.nsf/Japanese/F514BC6663409732CA256BD00013F76C
>
>上から12番目の写真です。斬首されようとしているのは,オーストラリア軍M特殊部隊のシフリート軍曹です。時と場所は、1943年10月24日ニューギニアです。
>
>ピッポさんのサイトではメンバー以外は投稿できないようですので、まだ確かな情報がないようでしたら,ご面倒をおかけして申し訳ないですが,とほほさんから知らせていただけないでしょうか。
>
>BB
>


BBさん、とほほさん
ありがとうございました。

http://ajrp.awm.gov.au/AJRP/AJRP2.nsf/Japanese/F514BC6663409732CA256BD00013F76C

写真からのリンク=Austlarian war musium の写真解説ページをよめば、詳しい説明が得られそうです。

http://cas.awm.gov.au/TST2/cst.acct_master?surl=1672263340ZZYZDGLNWLXB73972&stype=3&simplesearch=&v_umo=&v_product_id=&screen_name=cas_search_pkg.pr_search_by_link&screen_parms=acid~ps_query_type=accnum~ps_query=101099~ps_query_wildcards=~ps_query_text=101099~ps_referrer=&screen_type=BOTTOM&bvers=4&bplatform=Microsoft%20Internet%20Explorer&bos=Win32

よく読んで整理してまいりたいと思いますが、まずは御礼まで。
3,143 hits

[623]Re:オーストラリア軍M特殊部隊のシフリート軍曹
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 渡辺 E-MAIL  - 07/4/11(水) 1:11 -

引用なし
パスワード
   ▼ピッポさん:
>▼とほほさん:
>>某MLで、この写真についての情報が入りましたので、許可を得て転載します。

写真の処刑実行者は、戦後に戦犯として死刑求刑のところ、上官の命令に従ったということで懲役10年の判決だったとのこと。この事件について日本語の戦犯資料を探しています。
どこで裁判が行われたかも分かりません。どなたかよろしく(^^)
(オーストラリア関係は複数の地域で裁判が行われています。)
3,127 hits

[624]Re:オーストラリア軍M特殊部隊のシフリート軍曹
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 とほほ E-MAIL  - 07/4/11(水) 14:03 -

引用なし
パスワード
   ▼渡辺さん:
>どこで裁判が行われたかも分かりません。どなたかよろしく(^^)
>(オーストラリア関係は複数の地域で裁判が行われています。)

「BC級戦犯裁判、林博史著、岩波新書」によると、
(第3章:八カ国の法廷、3:オーストラリア-日本への強硬姿勢、より)

<略>

オーストラリア政府は、クイーンズランド州最高裁判所長官だったウィリアム・ウェッブ(後に東京裁判の裁判長)を長とする委員会を設置した。このウェッブ委員会は四四年三月に四五〇ページにわたる日本軍の戦争犯罪についての報告書をまとめた。
<略>
戦争犯罪を捜査するウェッブ委員会は第三次まで組織され、そこでオーストラリアの戦犯裁判への基本ラインが引かれていった。

この委員会がBC級戦犯裁判について扱うかどうかも検討されたが、ウェッブらは天皇や政府・軍首脳のA級戦犯に関心を寄せておりBC級戦犯裁判は陸軍に委ねられた。
<略>

陸軍はシンガポールと東京に戦争犯罪局を設置し、英米軍と協力しながら捜査を開始した。
ニューギニアや東部インドネシアでは、派遣された陸軍の各部隊が捜査を行った。
<略>
とあります。ですから先にBBさんから紹介のあったサイトの趣旨と関連してこの陸軍の報告書の中にあるのではないかと推察します。
3,199 hits

[625]3人の捕虜と3人の「首切り人」
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 ピッポ E-MAIL  - 07/4/12(木) 20:47 -

引用なし
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   ▼とほほさん:
>ですから先にBBさんから紹介のあったサイトの趣旨と関連してこの陸軍の報告書の中にあるのではないかと推察します。

どうやら写真は、B、C級戦犯の証拠として吟味されたようですね。1枚1枚の写真中の日本軍兵士の名前がきめ細かく同定されています。

=================
ニューギニア、アイタペでの公開斬首
=================

BBさんから教えていただいた資料の糸をたぐると、Australia War Memorialには、1943年10月24日、ニューギニア、アイタペでの公開斬首の写真資料が少なくとも4枚あるようです。
http://ajrp.awm.gov.au/AJRP/AJRP2.nsf/Japanese/F514BC6663409732CA256BD00013F76C
にある「AWM 101099」を手がかりに
Collections Search
http://cas.awm.gov.au/TST2/cst.acct_master?surl=1981297759ZZFWJSWTBIFU69598&stype=2&simplesearch=&v_umo=&v_product_id=&screen_name=&screen_parms=&screen_type=RIGHT&bvers=4&bplatform=Microsoft%20Internet%20Explorer&bos=Win32
で、前後の番号を探ってみたところ、
「101097」「101098」「101099」「101100」の4点をヒットしました。
写真がWeb公開されているのは後2点だけだが、前2点の解説は公開されていました。

まずは、それらを紹介します。

(1)「AWM 101097」(Webでは写真は公開されていないが、許可を得れば閲覧できると思う)

ID Number: 101097
Date made: 24 October 1943
Physical description: Black & white

Summary:
Aitape, New Guinea. 24 October 1943. A photograph found on the body of a dead Japanese soldier showing, from left to right, NX143314 Sergeant (Sgt) Leonard G. Siffleet of "M" Special Unit with Private (Pte) Pattiwahl and Pte Reharin, Ambonese members of the Netherlands East Indies Forces. The three men are standing blindfolded on open ground and Siffleet has a thin rope tied around his upper body and arms. The three men were executed by order of Vice Admiral Kamada, the commander of the Japanese Naval Forces at Aitape, after they were captured on reconnaissance behind enemy lines. Admiral Kamada was later tried for the murder of other prisoners at Balikpapan, Borneo. The Japanese soldier standing behind the three men is 3rd Class Seaman Onodera.

Copyright: clear
Related conflict: Second World War, 1939-1945

【写真説明】
アイタペ、ニューギニア、昭和18年10月24日。
日本兵の死体から発見された写真で、写っているのは左から "M"特殊ユニットの Leonard G. Siffleet軍曹(NX143314)、オランダ東インドネシア軍のアンボン兵であるPattiwahl兵卒とReharin兵卒。3人は目隠しをされて広場に立たされており、Siffleetは細いロープで上半身を縛られている。3人はアイタペの日本海軍司令官であるKamada中将の命令で処刑された。彼等は敵後方の偵察任務中に捕らえられたのである。Kamada提督はのちに、ボルネオのバリクパパンで別の捕虜を虐殺した廉で告発された。3人の左に立っているのは、Onodera二等水兵である。


(2)「AWM 101098」(Webでは写真は公開されていないが、許可を得れば閲覧できると思う)

ID Number: 101098
Date made: 24 October 1943
Physical description: Black & white

Summary:
Aitape, New Guinea. 24 October 1943. A photograph found on the body of a dead Japanese soldier showing NX143314 Sergeant (Sgt) Leonard G. Siffleet of "M" Special Unit, wearing a blindfold and with his arms tied, prior to being beheaded with a sword. The Japanese soldier to Siffleet's left is Chief Petty Officer Watanabe Teruo. A group of local men and Japanese stand and crouch in the background. The execution was ordered by Vice Admiral Kamada, the commander of the Japanese Naval Forces at Aitape. Sgt Siffleet was captured with Private (Pte) Pattiwahl and Pte Reharin, Ambonese members of the Netherlands East Indies Forces, whilst engaged in reconnaissance behind the Japanese lines. The executioner, Yasuno Chikao, died before the end of the war.

Copyright: clear
Related conflict: Second World War, 1939-1945

【写真説明】
アイタペ、ニューギニア、昭和18年10月24日。
日本兵の死体から発見された写真で、写っているのは "M"特殊ユニットの Leonard G. Siffleet軍曹(NX143314)、目隠しをされ腕は縛られ、日本刀で斬首される直前のようすである。Siffleetの左の日本兵は准尉(Chief Petty Officer) Watanabe Teruoである。集まった現地住民と日本兵が背後で立ったりしゃがんだりしている。処刑はアイタペの日本海軍司令官であるKamada中将によって命令された。Siffleet軍曹は、日本軍の後方を偵察しているとき、オランダ東インドネシア軍のアンボン兵であるPattiwahl兵卒とReharin兵卒とともに捕まった。Siffleet軍曹を斬ったYasuno Chikaoは、終戦前に戦死した。


(3)「AWM 101099」(この写真の上部には、ペンで記された書き込みがあったのです)

(クリックすると拡大します)

ID Number: 101099
Date made: 24 October 1943
Physical description: Black & white

Summary:
Aitape, New Guinea. 24 October 1943. A photograph found on the body of a dead Japanese soldier showing NX143314 Sergeant (Sgt) Leonard G. Siffleet of "M" Special Unit, wearing a blindfold and with his arms tied, about to be beheaded with a sword by Yasuno Chikao. The execution was ordered by Vice Admiral Kamada, the commander of the Japanese Naval Forces at Aitape. Sgt Siffleet was captured with Private (Pte) Pattiwahl and Pte Reharin, Ambonese members of the Netherlands East Indies Forces, whilst engaged in reconnaissance behind the Japanese lines. Yasuno Chikao died before the end of the war.

Copyright: clear
Related subject: Prisoners of war; Reconnaissance
Related unit: M Special Unit
Related place: Papua New Guinea: New Guinea, Aitape Wewak Area Aitape

Related conflict: Second World War, 1939-1945

【写真説明】
アイタペ、ニューギニア、昭和18年10月24日。
日本兵の死体から発見された写真で、写っているのは "M"特殊ユニットの Leonard G. Siffleet軍曹(NX143314)で、目隠しをされ腕は縛られ、今まさにYasuno Chikaoによって日本刀で斬首されようとしている。処刑はアイタペの日本海軍司令官であるKamada中将によって命令された。Siffleet軍曹は、日本軍の後方を偵察しているとき、オランダ東インドネシア軍のアンボン兵であるPattiwahl兵卒とReharin兵卒とともに捕まった。Siffleet軍曹を斬ったYasuno Chikaoは、終戦前に戦死した。


(4)「AWM 101100」(もう一枚の斬首写真)

(クリックすると拡大します)

ID Number: 101100
Place made: Papua New Guinea: New Guinea, Aitape Wewak Area Aitape
Date made: 24 October 1943
Physical description: Black & white

Summary:
A photograph found on the body of a dead Japanese soldier showing Private (Pte) Reharin, member of the Netherlands East Indies (NEI) Forces wearing a blindfold about to be beheaded with a sword by Yunome Kunio. A group of local people and Japanese stand watching in the background and the soldier to Yunome's left is 3rd Class Warrant Officer Fukuda. The execution was ordered by Vice Admiral Kamada, the commander of the Japanese Naval Forces at Aitape. Pte Raharin was captured with Sergeant (Sgt) Leonard G Siffleet and Pte Pattiwahl, whilst engaged in reconnaissance behind the Japanese lines. The executioner was sentenced to death for his part in the atrocity but had his sentence commuted to ten years imprisonment as he had acted in a subordinate capacity in the matter.

Credit line: Donor Directorate of Prisoners of War and Internees
Copyright: clear
Related conflict: Second World War, 1939-1945

【写真説明】
撮影地:パプアニューギニア、ニューギニア、アエタペ・ウエワク地区アイタペ
日時:昭和18年10月24日

要約:
日本兵の死体から発見された写真で、写っているのは オランダ東インドネシア軍のアンボン兵であるReharin兵卒で、目隠しをされていままさにYunome Kunioによって日本刀で斬首されようとしている。後ろには現地住民と日本兵が立ち並んで見つめている。Yunomeの左にいる兵隊は、二等兵曹Fukudaである。処刑はアイタペの日本海軍司令官であるKamada中将によって命令された。Reharin兵卒はLeonard G Siffleet軍曹、Pattiwahl兵卒とともに、日本軍の後方偵察任務中に捕まったのである。
処刑人(Yunome)は、虐殺の一員として死刑の判決を受けたが、彼の行動には彼の裁量権がなかったということで、10年の懲役に減刑された。


以上4枚の写真が、Australia War MemorialのWebサイトから確認されたのですが、もっと他にも写真があると思われます。もちろん撮影者は、斬殺の「記念写真」をもう一枚は撮影したはずです。3人の捕虜と3人の「首切り人」。

これは、中国戦線での昭和13年の「斬殺大会」の写真群に匹敵します。
http://www.geocities.jp/pipopipo555jp/143photos/num/n-070-5.htm
昭和12年、昭和18年、
日本軍にはやっぱり、近藤勇の首を公衆の面前で刎ねた文化・風習が歴然と残っていたのですね。というか、こういう瞬間を写真に残す、という新しい文化要素が残って、よりいっそうグロテスクになってしまったのですね。

面白いことに、
Collections Search
http://cas.awm.gov.au/TST2/cst.acct_master?surl=1981297759ZZFWJSWTBIFU69598&stype=2&simplesearch=&v_umo=&v_product_id=&screen_name=&screen_parms=&screen_type=RIGHT&bvers=4&bplatform=Microsoft%20Internet%20Explorer&bos=Win32
をつかって、「Kamada」を検索すると、
日本兵のポートレート写真が数多くヒットします。その中に、この斬首写真4枚もヒットします。
今日のわれわれから見れば、ポートレート写真は気のいい兵士の顔であり、斬首写真は残酷写真の顔で、ともに相容れないはずのものが同居しています。
その不思議の同居、連続性こそ、日本軍の侵略文化だったのでしょう。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
次回は、ここに出てくる人名、知名について、検索結果をまとめてみたいと思います。
3,930 hits

[626]Re:3人の捕虜と3人の「首切り人」
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 とほほ E-MAIL  - 07/4/12(木) 21:08 -

引用なし
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   ▼ピッポさん:
>で、前後の番号を探ってみたところ、
>「101097」「101098」「101099」「101100」の4点をヒットしました。
>写真がWeb公開されているのは後2点だけだが、前2点の解説は公開されていました。

いやーさすがわピッポさんです。よく探しましたね、私は英語が分からないので駄目だ(^^;
でもピッポさんのおかげでこのサイトの仕組みが理解できました。

実はこのサイトは外部からのリンクに対してパーミションアクセス制限をかけており画像への直リンクをこの検証版に貼ってそれをクリックしても表示することが出来ないのです。だから解りづらかった。

私と同じような方もおられると思うので、このサイトでの資料検索方法を書いておきます。

簡単です。
1、とりあえずBBさん紹介のページへ行きます。
http://ajrp.awm.gov.au/AJRP/AJRP2.nsf/Japanese/F514BC6663409732CA256BD00013F76C

2、そのページの画像をどれでも良いからクリックします。

3、そのクリック先の画面の下の方に Search for more records と言うリンクアンカーがありますのでそれをクリックします。そのクリック先が検索フォームです。

キーワード検索も出来るようです。その入力欄にピッポさんが提示した番号を入れるとその資料がヒットします。
3,226 hits

[627]Re:3人の捕虜と3人の「首切り人」
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 ピッポ E-MAIL  - 07/4/13(金) 7:31 -

引用なし
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   ▼とほほさん:
>実はこのサイトは外部からのリンクに対してパーミションアクセス制限をかけており画像への直リンクをこの検証版に貼ってそれをクリックしても表示することが出来ないのです。だから解りづらかった。
>
>私と同じような方もおられると思うので、このサイトでの資料検索方法を書いておきます。
>
>簡単です。
>1、とりあえずBBさん紹介のページへ行きます。
>http://ajrp.awm.gov.au/AJRP/AJRP2.nsf/Japanese/F514BC6663409732CA256BD00013F76C
>
>2、そのページの画像をどれでも良いからクリックします。
>
>3、そのクリック先の画面の下の方に Search for more records と言うリンクアンカーがありますのでそれをクリックします。そのクリック先が検索フォームです。
>
>キーワード検索も出来るようです。その入力欄にピッポさんが提示した番号を入れるとその資料がヒットします。

わー、さすがとほほさんですね。
フォローありがとうございます。

このサイトでは、検索結果のページは、20分以上時間が経つとリンクアウトします。そうして、エラー文がでます。

Your search session has timed out.

Most commonly this is because you haven't been active in the past 20 mins. Our system ends sessions after 20 mins of inactivity.

It is not a problem. You can return to searching our Collections.

If you have other problems please send email to webmaster@awm.gov.au.


がでたら、searching our Collections.をクリックしてください。

検索ページへの直リンは
http://cas.awm.gov.au/TST2/GL.accept_login?UN=internetg&pw=
3,342 hits

[628]梶村さんオランダ軍裁判調査中
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 ピッポ E-MAIL  - 07/4/13(金) 8:10 -

引用なし
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   ▼とほほさん:
>▼渡辺さん:
>>どこで裁判が行われたかも分かりません。どなたかよろしく(^^)
>>(オーストラリア関係は複数の地域で裁判が行われています。)

ところで off topic ですが
ベルリン在住の梶村さんが、オランダの裁判記録を調べているようです。
この件でも何かご存知かもしれませんね。
(情報元は、mixiのミー猫さんです)
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=402344367&owner_id=935361

  
【国際】
軍指示で慰安所開設 「靖国合祀」の経営者、占領下インドネシアで
2007年4月12日 朝刊

 【ベルリン=三浦耕喜】日本占領下のインドネシアで民間の慰安所を経営していた日本人男性に靖国神社への合祀(ごうし)が認められていた問題で、同慰安所の開設が軍の指示によるものだったとオランダ軍による戦犯裁判の判決文に記されていることが十一日、明らかになった。憲兵によって逮捕、監禁された女性の証言も記載されており軍が関与した「強制性」を示す資料ともなっている。

 判決文はベルリン在住のフリージャーナリスト梶村太一郎氏(60)がオランダの資料館から入手、近く週刊誌上で発表する。

 同戦犯裁判は、インドネシア・バタビア(現ジャカルタ)で民間の慰安所「櫻(さくら)クラブ」を経営していた男性が「婦女子強制売淫」の罪に問われたもの。男性は一九四六年十月に禁固十年の有罪判決を受けた後、服役中に死亡した。

 判決文では、慰安所を開設した経緯について「被告は一九四三年六月二日、軍政監部(原文でもGunseikanbu)から売春宿を開設するよう指示を受けた」と記載。「被告は異議を申し立てたものの、二度目の指示で従った」と、軍の強い意向があったことを指摘している。

 慰安所は憲兵の監視下に置かれ、オランダ人抑留所などから集めた欧州系の女性二十人ほどを雇用。判決に記された証言によると、慰安所には売春部門と食堂部門があり、どちらで働くかは当初は自由意思だったが、次第に食堂部門の未成年の少女にも売春を強要。拒むと「憲兵を呼ぶ」と脅され、逃亡して実際に憲兵に逮捕、監禁された女性もいた。これらを根拠に、判決文では「多くが自らの意思に反して売春を強制されたことは確実」と認定している。

 男性に対しては、厚生省(当時)と靖国神社が一九六七年に合祀を決めていたことが、先月二十八日に国会図書館が公表した資料の中で明らかにされている。
http://www.chunichi.co.jp/article/world/news/CK2007041202007997.html

3,297 hits

[629]Re:梶村さんオランダ軍裁判調査中
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 とほほ E-MAIL  - 07/4/13(金) 8:18 -

引用なし
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   ▼ピッポさん:
>ところで off topic ですが
>ベルリン在住の梶村さんが、オランダの裁判記録を調べているようです。

この件とは別にこの梶村さんの快挙はもっと広報すべきですね。思考錯誤にも投稿した方が良いのじゃないですか?私はAMLに投稿します(^^;
3,287 hits

[630]Re:梶村さんオランダ軍裁判調査中
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 とほほ E-MAIL  - 07/4/13(金) 8:22 -

引用なし
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   ▼とほほさん:
>この件とは別にこの梶村さんの快挙はもっと広報すべきですね。思考錯誤にも投稿した方が良いのじゃないですか?私はAMLに投稿します(^^;

遅かった(^^;
タッチの差でAMLでは他の人が投稿していた(笑)
3,306 hits

[631]Re:梶村さんオランダ軍裁判調査中
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 ピッポ E-MAIL  - 07/4/13(金) 10:02 -

引用なし
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   ▼とほほさん:

では、問答有用と思考錯誤本線をお願いします。
3,312 hits

[632]アイタペとは『犬死』を象徴する戦跡
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 ピッポ E-MAIL  - 07/4/13(金) 17:37 -

引用なし
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   ▼ピッポさん:
>次回は、ここに出てくる人名、知名について、検索結果をまとめてみたいと思います。

まずは、昭和18年(1943)10月25日、パプアニューギニア・アイタペ、という時と場所です。

【参照】
wikipediaニューギニアの戦い
 画像:Map New Guinea.PNG


ニューギニアといえば、太平洋戦争の中でももっとも凄絶な戦いが行われたところです。「凄絶」といっても沖縄戦の様相とは違うようです。15万将兵の殆どが「飢え」によって犠牲になったのです。

そうした「凄絶」さの象徴ともいえるのが昭和19年(1944)8月の「第18軍によるアイタベ決戦」です。口減らしにために行った決戦ではないかと言う人もいる、まったく目算のない作戦です。

「アイタペ」をGookle検索すると、
その昭和19年(1944)8月の「アイタペ決戦」と1998年7月におきた「アイタペ津波被害」がヒットします。
http://www.google.com/search?hl=ja&lr=lang_ja&【URL短縮表記:C-BOARD】

その中の一例です。

以後、戦死公報の来るまでの、叔父の軌跡については、続編で述べるが、戦死公報と共に、私の知ったのは、叔父は『ニューギニアのアイタぺという所で頭に弾丸を受けて果てた』とのことであった。以後、それが太平洋戦争では『ジャワは極楽、ビルマは地獄、死んでも還れぬニューギニア』と呼ばれ、世界戦史にも類の無い、十八万の将兵の殆んどが制空権・制海権を奪われ、補給の無い侭、孤立して日本本土の約二倍の広い島の各地に上陸した米豪連合軍に追われ、未開の密林、山岳、大河、湖沼を焦熱と飢餓と疫病とで幽鬼の如く変わり果てて敗走、彷徨を重ねて、遂には人肉をも食べる人間としての極限状態の中で銃火を交えての『戦死』でなく、文字通り『斃死』した地獄であったことを半世紀もの間に、次第に詳しく知ることになる。
〜叔父・ニューギニア戦・貫け!反戦平和(その1)〜より
http://www.psc.ne.jp/yoshimoto/newginia/index.html


つまり、アイタペとは『犬死』を象徴する戦跡のひとつです。


そうしたアイタペですが、昭和18年の10月はどのような情勢だったのでしょうか?
次は、太平洋戦争史にあたってみます。
3,413 hits

[633]3人はなぜ捕らえられたか(日本語サイト)
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 ピッポ E-MAIL  - 07/4/14(土) 11:55 -

引用なし
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   ▼ピッポさん:
>そうしたアイタペですが、昭和18年の10月はどのような情勢だったのでしょうか?
>次は、太平洋戦争史にあたってみます。

と申しましたが方針を変えます。
まず、3人はなぜ捕らえられたか、Webにある記述をあたってみます。

AWMの写真解説では、特殊部隊として偵察任務中につかまったとあります。
もう少し詳しい説明が、多分オーストラリア側文書を読んだ人の書いたものとして日本語でUPされています。

ひとつはBBさん紹介のページです
http://ajrp.awm.gov.au/AJRP/AJRP2.nsf/Japanese/F514BC6663409732CA256BD00013F76C
ここには(一部引用)、

1943年10月24日、ニューギニア、アイタペ 
体を縛られ、目隠しをされた斬首刑直前のM特殊部隊L.G.シフリート軍曹。通信士のシフリート軍曹は、ニューギニアの日本軍の背後で活動するオランダ人スタヴァーマン軍曹に率いられた長距離偵察部隊の一員であった。この一隊は裏切りに遭い、スタヴァーマンは殺され、シフリートと2人のアンボン人協力者レハリンとペート・ウェールは日本軍基地に連行され、アイタペの日本海軍基地司令官カマダ中将の命令で斬首形に処された。

とあって、ここには写真説明になかったオーストラリア兵シフリート軍曹が通信士であること。オランダ兵に率いられた長距離偵察部隊の一員であったことが記されています。さらに『裏切りに遭い』という記述まであります。

そこで、アイタぺでGoogle検索したところ、背景事情に詳しい次の記述が見つかりました。
http://ajrp.awm.gov.au/AJRP/remember.nsf/Web-Frames/HomeFrame?OpenDocument
内の、日本語>アイタペ・ウェワク>Longer text
http://ajrp.awm.gov.au/AJRP/remember.nsf/Web-Frames/JapaneseFrame?OpenDocument
(一部引用)

日本軍もまた、ニューギニア人を農園作業や労務、運搬作業目的で雇っていたが、同時に彼らとの取引をも行っていた。住民らは時にこの占領者によって苦しめられたが、一般的に両者の関係は悪くはなかった。多くの日本兵らは、これら地元民が彼ら自身の生命を助け得る(そして実際にしばしば助けた)事を認識していた。

ニューギニア人らは時に、撃墜された連合軍の航空兵や、日本軍の警戒線に侵入しようとしたコマンド部隊員らを捕獲する事で日本軍を助けた。おそらく最もよく知られている事件は、1943年9月に発生した、オーストラリア人レン・シフリート(Len Siffleet)軍曹とオランダ植民地軍の二名のアンボン人兵士、MM.レハリン(M. Reharin)とH.パティウェル(H. Pattiwael)が、アイタペの奥地にあるワンティピ(Wantipi)周辺で約百名の村人に襲われ、日本軍に引き渡された事件であろう。この三名は、1943年10月24日に処刑された。

連合軍情報局とオーストラリア・ニューギニア行政府からの斥候隊は引き続き日本軍の後方線での情報収集活動を行っており、特に1944年4月以降はオーストラリアの存在感を回復しようとしていた。いくつかの村では、信頼できる者たちが「哨兵」として選ばれ、ゲリラ戦の訓練を受けた。しかしながら、日本軍守備隊と密接な関係を持っている住民らは、生存を確保するためにも、引き続き食料と労働力を提供していた。


この文章から、

1、事件の発生は1943年9月であること
2、オーストラリア人レン・シフリート(Len Siffleet)軍曹とオランダ植民地軍の二名のアンボン人兵士、MM.レハリン(M. Reharin)とH.パティウェル(H. Pattiwael)は、後方の斥候または住民宣撫のために原住民部落に潜行していたところ、表面は友好的であった部族が3人を捕らえ、日本軍に引き渡したらしいこと
3、あたり一面熱帯雨林ジャングルのニューギニアでは、道案内、食料調達のために原住民の協力がなければ、駐屯も、移動も、作戦もなりたたない。したがって、日本軍も連合軍も、住民を如何にして味方につけるかが、重要な作戦であっただろうこと。
4、斬首写真には背景に原住民が写っているが、これは、「3人が酷い重罪人」であることを、原住民に教え込む公開処刑だったらしいこと

これらが推察されます。

3の問題は、制海権を失い補給を失った陸軍18軍の主力が、ニューギニア東部から北部海岸線に敗走する過程での、作戦以前の根本問題であった。昭和19年のアイタペ作戦が「口減らし作戦」といわれる理由もそこにある。住民はもはや、失墜した権力者には協力しない。

(ただし、現在のパプアニューギニアは、日本軍遺族の慰霊旅行受け入れが重要な産業であり、旧日本軍に対しての友好関係を米豪を刺激しない程度に強調している)
3,414 hits

[634]知らぬは我々(恥)海外では有名な事件のようで...
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 ピッポ E-MAIL  - 07/4/14(土) 12:39 -

引用なし
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   ▼とほほさん:
>某MLで、この写真についての情報が入りましたので、許可を得て転載します

BBさんのおかげで、名前がわかってみれば、
豪、米、英ではかなり有名な事件のようです。
知らぬは日本人ばかりなり。

"Siffleet"でgoogle イメージ検索
http://images.google.com/images?hl=ja&lr=lang_ja&ie=UTF-8&oe=UTF-8&q=Siffleet&num=50&um=1&sa=N&tab=wi

"Leonard G. Siffleet"でgoogle サイト検索
http://www.google.com/search?num=50&hl=ja&q=Leonard+G.+Siffleet&btnG=Google+%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr=

なおこの中に、特殊部隊についての英文eikipedia
があります。
http://en.wikipedia.org/wiki/Australian_commandos
3,364 hits

[635]M特殊部隊は「多国籍部隊」
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 ピッポ E-MAIL  - 07/4/14(土) 14:27 -

引用なし
パスワード
   >ひとつはBBさん紹介のページです
>http://ajrp.awm.gov.au/AJRP/AJRP2.nsf/Japanese/F514BC6663409732CA256BD00013F76C
>ここには(一部引用)、

1943年10月24日、ニューギニア、アイタペ 
体を縛られ、目隠しをされた斬首刑直前のM特殊部隊L.G.シフリート軍曹。通信士のシフリート軍曹は、ニューギニアの日本軍の背後で活動するオランダ人スタヴァーマン軍曹に率いられた長距離偵察部隊の一員であった。この一隊は裏切りに遭い、スタヴァーマンは殺され、シフリートと2人のアンボン人協力者レハリンとペート・ウェールは日本軍基地に連行され、アイタペの日本海軍基地司令官カマダ中将の命令で斬首形に処された。


M特殊部隊が「多国籍部隊」であることが興味を引く。

この年代、1940年にオランダ本国はナチスドイツに占領され、蘭印駐在のオランダ軍は孤児同然であった。オーストラリア軍は蘭印軍を表にたてながら、実質的に兵員を蘭印に送り込んでいた。(ニューギニア東部はオーストラリアの統治範囲であって、オーストラリア軍は日本軍には降伏していない)。ジャワ・ボルネオの蘭印軍が日本軍に降伏したあとは、実質的にそれはゲリラ部隊(特殊部隊)であると思われる。また、ニュージーランド東部と西部に実質的に国境があったわけではないので、ニューギニア東部であるアイタペ周辺でも共同作戦が取られたのであろう。

で、アンボン人兵士とは何か?

セレベス島とニューギニア島にはさまれたモルッカ諸島(Kepulauan Maluku)インドネシア語ではマルク諸島(Maluku)の中にアンボン島がある。ここは、オランダの植民地経営の中心でもあって、そこの住民の多くはキリスト教徒であり、蘭印オランダ軍兵士の多数をアンボン人が占めていた。

http://asahi-newstar.com/program/asia/cast/061026-002118.html
このサイトには、オランダの植民地経営に協力するアンボン人は、他のインドネシア人から「黒いオランダ人」として嫌われていたと書かれている。


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また、裏切りとは一体なんだろうか?

AWMのCollections Searchで
http://cas.awm.gov.au/TST2/cst.acct_master?surl=719018741ZZZEQNVZZDQWN52287&stype=2&simplesearch=&v_umo=&v_product_id=&screen_name=&screen_parms=&screen_type=RIGHT&bvers=4&bplatform=Microsoft%20Internet%20Explorer&bos=Win32
Siffleetを検索すると、
"ID:P01708.004"の写真がヒットします。 そこにまた、詳しい説明がありました。

 
ID Number: P01708.004
Maker: Fryer, H
Physical description: Black & white

Summary: LUMI, NEW GUINEA, 1943-07-09. GROUP PORTRAIT OF MEMBERS OF M SPECIAL UNIT, SERVICES RECONNAISSANCE DEPARTMENT, ALLIED INTELLIGENCE BUREAU, WITH NATIVE GUERRILLA TROOPS AT LUMI, ABOUT 50 KILOMETRES SOUTH OF AITAPE. SHORTLY AFTERWARDS, THE GROUP SPLIT UP INTO TWO PARTIES CODENAMED "WHITING" AND "LOCUST". WHITING PARTY SET OUT FOR THE HOLLANDIA AREA, WHILE LOCUST PARTY CONTINUED TO OPERATE IN THE AREA SOUTH AND SOUTHEAST OF AITAPE. LEFT TO RIGHT (STANDING): SERGEANT (SGT) H.N. STAVERMAN, ROYAL NETHERLANDS NAVY, LEADER OF THE WHITING PARTY, BEHEADED BY THE JAPANESE IN AN AMBUSH, C. 1943-09; SGT LEN SIFFLEET, WIRELESS OPERATOR FOR WHITING PARTY, MURDERED BY THE JAPANESE, 1943-10-24; RAY AH SOONG (WHOSE REAL NAME WAS CHOW CHEN ON), A MEMBER OF LOCUST PARTY; PRIVATE PATIWAHL, AN AMBONESE; SGT LES BAILLIE, WIRELESS OPERATOR FOR LOCUST PARTY; LIEUTENANT (LT) GUY BLACK. THE NAMES OF THE NATIVE TROOPS ARE NOT KNOWN. THE MAN SQUATTING AT FAR RIGHT IS LT HARRY AIKEN. NOT INCLUDED ARE LT H. A. J. FRYER (THE PHOTOGRAPHER) AND PRIVATE REHARIN. (DONOR: L. BAILLIE)

Copyright: clear
Related subject: Intelligence
Related unit: M Special Unit
Related place: New Guinea

Related conflict: Second World War, 1939-1945

《要約》
LUMI, NEW GUINEA, 1943-07-09。
情報局配下の偵察部門 M特殊部隊が アイタペの南約50キロのLUMIで、現地ゲリラとともに撮った記念写真。すぐ後で、彼等は"WHITING(白亜)" と "LOCUST(バッタ)"の2隊に再編された。"WHITING"はオランダ領で行動し、"LOCUST"はアイタペの南や南東で作戦行動をめざした。

立ってる人左から右へ、
・軍曹 H.N. STAVERMAN,オランダ帝国海軍, "WHITING"の隊長, 日本軍の待ち伏せで殺された, C. 1943-09;
・軍曹 LEN SIFFLEET, "WHITING"の無線通信士, 日本軍に殺害される, 1943-10-24
・RAY AH SOONG (本名 CHOW CHEN ON), "LOCUST"隊員
・兵卒 PATIWAHL,アンボン人
・軍曹 LES BAILLIE, "LOCUST"の無線通信士
・中尉 GUY BLACK
・原住民部隊の名は不明.
・一番右でしゃがんでるのは中尉 HARRY AIKEN.
・カメラマンの H. A. J. FRYER中尉と兵卒 REHARINは含まれていない。

(写真提供: L. BAILLIE)


この、現地人部隊のなかから裏切り、または情報がもれたのか?

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なお、
オーストラリアの特殊部隊については、
Australian commandos
http://en.wikipedia.org/wiki/Australian_commandos
を読んでください。

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[636]3人を捕らえ処刑した日本海軍部隊とは?
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 ピッポ E-MAIL  - 07/4/14(土) 15:34 -

引用なし
パスワード
   Australian War Memorial の写真説明によれば、

1、「アイタペの日本海軍部隊司令官Kamada中将」、とある。
2、また「Kamada中将はバリクパパン(ボルネオ)で別の捕虜虐殺で戦犯に問われた」とある。

これをヒントにしてGoogleで検索した結果は、
Kamada中将とは、ポンティアナ事件で戦犯として処刑された鎌田道章中将であることがわかった。

ポンティアナ事件
http://borneo.web.infoseek.co.jp/pontianak.htm
http://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre/aandv/ilow01_06.htm

KKさんのサイト!!(世間は狭い)

そうしてその部隊とは、
アイタペの東のウェワクにあった、第2特別根拠地隊であった。
http://www.geocities.jp/boat_sparrowhawk/2ndBaseForce.htm

鎌田道章中将は、
昭和17年12月29日 第2特別根拠地隊(ニューギニア・ウエワク)司令官
昭和18年12月   大竹海兵団長
昭和19年8月23日 第22特別根拠地隊(ボルネオ・バリクパパン)司令官
昭和20年9月12日 降伏
         敗戦後、ポンティアナ事件の責めを負い処刑

という経歴を辿っている。

そもそも。根拠地隊とは海軍陸戦隊の一種であって、艦船隊でありながら占領地の治安部隊でもあった。第2特別根拠地隊は本部をウエワクとし、アイタペに警備支隊を置いていたと思われる。

ちなみに、第2特別根拠地隊は昭和18年3月に解散したという記述があるが、
http://www.air-niugini.co.jp/senseki/wwk.html
これは誤植であって、昭和19年3月解散が正しいものと思われる。
http://www.geocities.jp/boat_sparrowhawk/2ndBaseForce.htm

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なおAWMには、降伏調印をする鎌田中将の姿や将兵の笑顔の記念写真などが、多数あります。
collection search から "Kamada"を検索してください。


 
ID Number: 044457
Physical description: Black & white
Summary: BALIKPAPAN, 1945-09-08. VICE-ADMIRAL KAMADA SIGNING THE SURRENDER ON BOARD HMAS BURDEKIN.
Copyright: clear
Related subject: Surrender ceremonies; Frigates
Related unit: HMAS Burdekin
Related place: Balikpapan

Related conflict: Second World War, 1939-1945



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第22特別根拠地隊写真


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[637]Re:3人を捕らえ処刑した日本海軍部隊とは?
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 ピッポ E-MAIL  - 07/4/15(日) 7:37 -

引用なし
パスワード
   ▼ピッポさん:
>これをヒントにしてGoogleで検索した結果は、
>Kamada中将とは、ポンティアナ事件で戦犯として処刑された鎌田道章中将であることがわかった。

B.C級裁判では、司令官が「自分が命令を出した」と認めれば死刑が少なく、司令官が「知らぬ存ぜぬ」を通すと、現場の下級将校や下士官の多数が死刑になった、ということが多かったようです。

この事件でも、
写真キャプションには「鎌田中将の命令による処刑」が強調されています。また、アンボン人兵を斬殺した別の刑執行者は、死刑の宣告をうけたものの「本人の意思ではなく命令に従った」のだからということで減刑されています。

鎌田道章中将は、降伏後は連合国にとても協力的で、「自らの命令」を認めたのではないでしょうか。
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[638]Re:オーストラリア軍M特殊部隊のシフリート軍曹
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 渡辺 E-MAIL  - 07/4/20(金) 1:04 -

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   とほほさん、レスありがとうございます。
モロタイ裁判の可能性が高いようですが、日本語資料は一部伏字の人名、罪状、判決くらいしか掲載されていないでしょう。
戦争中の欧米人の斬首写真は、この事件が唯一のものらしいです。
実行したのは民政部の民間人とのことで、AWM発行のThe War(1999年5号)には、実行者の当日の日記の英訳が掲載されていました。
被害者と加害者の双方についての資料がある極めてまれなケースですので、資料を取り寄せてじっくり調べる予定です。
なお、事実関係そのものはAWMの研究者が調査して1999年にThe Warに記事を書いています。
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[639]Re:オーストラリア軍M特殊部隊のシフリート軍曹
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 ピッポ E-MAIL  - 07/4/20(金) 9:24 -

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   ▼渡辺さん:
>実行したのは民政部の民間人とのことで、AWM発行のThe War(1999年5号)には、実行者の当日の日記の英訳が掲載されていました。

その英文がどのような表現かは知りませんが、「民政部」とは、「海軍民政部」で、占領地海軍(この場合は第2特別根拠地)の住民統治「軍政」部門であり、民間人ではなく海軍将兵である可能性はないでしょうか?

http://www.google.com/search?hl=ja&lr=lang_ja&ie=UTF-8&oe=UTF-8&q=%E6%B5%B7%E8%BB%8D+%E6%B0%91%E6%94%BF%E9%83%A8&num=50
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[641]Re:オーストラリア軍M特殊部隊のシフリート軍曹
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 渡辺 E-MAIL  - 07/4/30(月) 18:19 -

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[添付]〜添付ファイル〜
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添付画像【newguinia.jpg : 162.3KB】 ▼ピッポさん:
>その英文がどのような表現かは知りませんが、「民政部」とは、「海軍民政部」で、占領地海軍(この場合は第2特別根拠地)の住民統治「軍政」部門であり、民間人ではなく海軍将兵である可能性はないでしょうか?

まず訂正です。記事が書かれているのは、"The Wartime" です。(Number 5, Summer 1999)
p.35 から、部隊の経路を示した地図を画像にして引用します。
2人一組、2つの部隊がWomaまで一緒に行動、オランダ領に向ったStavermanとPattiwaelがNemoで襲撃され、Stavermanが死亡、Pattiwaelは脱出してSifleetらに合流しました。しかし、Wantipiで住民(約100名)に襲撃され3人は捕らえられました。

Yasuno Chikao と Yunome Kunio は、英文資料では所属が the 8th Naval Construction Group となっています。
これに相当するのは、第八海軍施設部 ではないかと思います。
茶園義男編『BC級戦犯豪軍ラバウル裁判資料』(不二出版)によると、湯目国史については次のように「嘱託」となっています。軍属だったわけですね。(p.124)

番号/事件名 163/殺人
起訴理由概要 昭和十八年十月二十四日「ニューギニア」「アイタペ」附近の「マヒル」に於て「アンボン」土人「レハリン」を殺害せり
所属 海八施設
階級 海/嘱託
本籍 東京
氏名 湯○国○
判決 21.6.28 絞首
確認 10年
弁護人 西村

ラバウル裁判記録原本によれば、Yunome Kunioは、湯目国史であり、当日の日記には次のように書かれています。(原本資料の出所はこの場では公開しかねるのでご諒承ください。)

(湯目国史の 1943年10月24日付日記、戦犯裁判証拠として英訳されたもの)
---
This afternoon for me was an occasion to be remembered for a long time. I myself, with my own Japanese sword beheaded an enemy soldier prisoner. This was a new experience for me. But I screwed myself to it. Any thing can be done if one resolves to do it to the best of one's ability. And I am convinced that given complete confidence I can carry out any task successfully. I really believe I was magnificent. Amongst the Japanese onlookers there were many who declare their admiration for my skill in making such an excellent stroke.
(試訳)
今日の午後のことははいつまでも覚えているだろう。自分自身、自分の日本刀で敵捕虜を斬首した。これは初めての経験であった。しかし、気を引き締めてやった。
精一杯やろうとさえ決心したら何でもできるものだ。完全に信頼されれば、自分はどんな任務もうまくやれると納得した。本当に自分は堂々としていたと思う。みごとな一振りをした自分の技量に賞賛の声をあげてくれる人たちが日本人の見物人のなかにたくさんいた。
---

自筆宣誓供述書には事件の経緯が書かれています。
なお、原本では「死刑」の「刑」が「罰」に似た誤字になっていると判断して、すべて「刑」としました。また、「アンボン人」が「アンポン人」になっていますが、そのままにしました。
命令を強調し、スパイという言葉がでてくるのは、戦犯裁判に向けて無罪の主張をするためです。また、訊問の通訳をしたときに捕虜に対し暴行を加えたのですが、そういうことは書かれていません。

---
1.
 昭和十八年九月頃 自分は「アイタペ」支所品川司政官の命令により「マロール」出張所へ事務れんらくのため出張致しました。其の時の「マロ−ル」の出張所の出張所長は廣江海軍警部でした。それから高砂義勇隊約六名 理事生 二名 居たと思います。「マロール」部落より後方面の山に敵軍の挺察隊の一部が居ると言ふ情報を附近の土人が廣江警部に通知に来ました。其れから廣江警部及び高砂義勇隊、自分一同は敵軍が居ると言ふ方面に調査に行きました
其時の土人の案内もつれて行きましたが敵軍を発見することが出来ませんでした。しかし附近の土人に廣江警部は敵兵を捕虜にして来た者には「ほうび」をやると言つて必ず捕えて来いと命令をしました。其れから約二週間程すぎて土人(数十人)が一名のオーストラリヤ軍曹とアンポン人の土人二名を捕虜にして「マロール」出張所長廣江警部の所につれて来ました。それで自分は廣江警部から訊問するから通訳をして下さいと依頼されましたので自分は通訳しました。そうして廣江警部は訊問調書を作り「アイタペ」支所の品川司政官に通知しました。其れから「アイタペ」の警備隊長及兵隊が三名捕虜を「アイタペ」につれて行きました。其れから電報で「ウエワーク」司令官に警備隊長(渡辺兵曹長)が問あわせしました。其の結果は司令部より返事が「ショブン スベシ」と言ふ電報が来たと言ふ事を秦野司政官から聞きました。其れで電報が来てつぎの日死刑にしたと思います。 (本人書名) K.Yunome

2.
昭和十八年十月二十四日午前中渡邊兵曹長は附近の土人に海岸の砂浜の所に あなを ほらせて 其の後 渡辺兵曹長、秦野司政官、自分、三橋理事生、足立理事生、高砂義勇隊(六名)警備隊の兵隊二十五六名 死刑にする所に行つた。
其時には附近の土人も見て居りました。最初の死刑はオーストラリヤ軍曹を秦野司政官が軍刀を持つて死刑にしました。其のつぎに自分は秦野司政官の命令により軍刀を持つてアンポン人の土人を死刑に致しました。其のつぎに同様の軍刀を持つてアンポン人土人を三橋理事生が死刑に致しました。其の時の写真は足立理事生が写したと思います。死刑後はあなの中にまいそうして砂をかぶせて ほをむりました。  彼等捕虜が死刑になつたのは無電機を持つて秘密に挺察の土人アンポン人二名を「スパイ」につかつて行動したからだと言ふことを秦野司政官から自分は聞きました。
                   (本人書名) K.Yunome
Exhibit "A"
This is the statement in Japanese produced by O-1798552 Capt. E. L. Booth and marked. Exhibit "A" at the time of his swoaring his affidavid this.
19th day of February 1946
---
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[642]Re:オーストラリア軍M特殊部隊のシフリート軍曹
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 ピッポ E-MAIL  - 07/5/1(火) 8:57 -

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   渡辺さん
お骨折りの上、くわしい資料裏付けくださいましてありがとうございました。

これで、AWMの2枚の写真の、
1)日時
2)場所
3)誰が何してる
4)誰が撮影した
これらが全て判明したのですね。

渡辺さんの論文発表を待って、それを踏まえて私なりの所感を投稿しようと思います。発表場所が決まりましたらお教え願います。

なお、
>英文資料では所属が the 8th Naval Construction Group となっています。

これは、海軍「第8建設部」で下記のようなサイトなどがヒットしました。
http://www16.ocn.ne.jp/~pacohama/sensosekinin/renkounanyou.html

また、
「ニューギニア 軍政部」では
http://www.notnet.jp/senjoindex.htm
がヒットしました。

取材報告:06.02.26:神奈川県相模原
証言者:89歳 1915年3月生
所 属:軍属
配属地:東部ニューギニア・
    ウエワク海軍省軍政部職員(軍属)

と有りますが、まだビデオは公開してないようです。
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[644]Re:理事生
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 ピッポ E-MAIL  - 07/5/1(火) 11:22 -

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   理事生:海軍軍属事務員のこと
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/2687/siryo/siryo07.html
小松方正 軍隊生活
http://www.matsusen.jp/myway/komatsu/komatsu09.html
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[645]Re:軍政の組織
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 ピッポ E-MAIL  - 07/5/1(火) 11:31 -

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   「大東亜共栄圏」の実態--日本軍占領下のアジア 林 博史  より
http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper41.htm

(2)軍政の組織
戦争時に占領地において占領軍が一般住民にたいして行政をおこなうことがあり、これを占領地軍政、あるいは単に軍政という。ただ海軍の場合は民政と呼んだ。1907年(明治40)に結ばれ、日本も批准していた「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」(いわゆるハーグ条約)の付属書「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」にはこうした占領地に関するいくつかの規定が含まれている。そのなかには「占領者ハ、絶対的ノ支障ナキ限、占領地ノ現行法律ヲ尊重シテ、成ルベク公共ノ秩序及生活ヲ回復確保スル為為シ得ベキ一切ノ手段ヲ尽スベシ」「家ノ名誉及権利、個人ノ生命、私有財産並宗教ノ信仰及其ノ遵行ハ、之ヲ尊重スベシ」「掠奪ハ、之ヲ厳禁ス」などの内容が記されている。占領軍といえどもその行動は戦時国際法によって制約されていた。

陸軍では軍政は陸軍省の管掌とされ、南方軍指揮下の各軍に軍政部がおかれた。その後、初期の軍事作戦が一段落した1942年(昭和17)7月軍政組織の整備再編がおこなわれ、南方軍総司令部(シンガポール)に軍政総監部(南方軍総参謀長が軍政総監を兼務)、第14軍(担当地域フィリピン)・第15軍(ビルマ)・第16軍(ジャワ)・第25軍(マラヤ・スマトラ)のそれぞれの軍司令部に軍政監部(各軍参謀長が軍政監を兼務)が設置された。ボルネオ守備軍にのみ引き続き軍政部がおかれた。海軍は海軍省に南方政務部が設置され、各地に民政部がおかれた。

軍政を施行するにあたっては「極力残存統治機構ヲ利用スル」(「南方占領地行政実施要領」)こととしたが、主な部署には軍政要員が派遣された。軍人だけでなく各省から出向した官僚、金融機関や企業から派遣された者などからなっていた。したがって軍政は軍のみでおこなわれたのではなく、警察・地方行政などを担当した内務官僚、財政・経済施策を担当した大蔵・商工などの経済官僚が重要な役割をはたした。

軍人以外の軍政要員のために司政官という官職が設けられた。司政長官、司政官、技師、警部などの軍政要員の定数は最終的に陸軍1万8465人、海軍7689人とされた。ほかに軍政顧問が設けられ、各軍司令部に政財官の有力者が任命された。行政の末端においては以前からの公務員など地元住民を使っていたことはいうまでもない。

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[646]Re:高砂義勇隊
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 ピッポ E-MAIL  - 07/5/1(火) 11:47 -

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   パプアニューギニアの人びとと教育状況
和光大学総合文化研究所C系「アジアの教育−研究と交流」プロジェクト・チーム
Release: 1998.07.23
http://www.wako.ac.jp/souken/team1/papua98/papua98main.html

(前略)まさしく川畑氏は15万死者の墓守、ここに留まる魂の慰め手なのである。モレスビー攻略戦に敗れた日本軍は、あの道もない中部山岳・森林を越えて、この海岸へと無理な行軍をし、セピックでほとんど全滅した。といっても飢えとマラリアほかの風土病での死が多く、戦っての死よりもはるかに多いという。「山を越えた時点で降伏すべきでした。司令官が職業軍人だからー」。こんなに遠い未知の南国で、兵士たちはどんな思いで死んで行ったのだろう。台湾の高砂族(山岳慣れしている)がいた隊は生きのびる率が高く、帰国できたのは全隊合わせて1万人ほどという。


台湾高砂義勇隊は「日本人」だったのか 台湾 国立政治大学教授 傅阜ニ
http://www.japanresearch.org.tw/japan/history-05.htm

台湾では「理蕃」当局が高砂族義勇隊の戦果に陶酔していた頃、日本海軍は6月ミツドウェー海鮮で完敗を期し、7月11日大本営は対米豪遮断を期してニューギニア作戦に転じた。高砂義勇隊は第二次以降そのほとんどがニューギニアと付近の島々に投ぜられた。MO作戦と称されたポートモレスビー奪還攻略戦は、昭和17年7月21日から陸路オーエン=スタンレー山脈越えのジャングル行軍となり、それには朝鮮、台湾各500人の義勇隊など8,000人が参加した。桃園角板山タイヤル族ロシンユライは昭和17年4月24日高雄港から500人の第五回高砂義勇隊員が出港し、7月ニューギニア戦に投じ、軍が8月作戦中止、9月撤退開始の命令を受け、内陸地の流砂とワニの脅威と飢餓の惨況をさまよった。タイヤル族85人で独立突撃隊をなし、うち同郷者は24人いて、戦後自分一人のみ帰還できたと語った(27)。ニューギニアのブナの日本軍は翌年1月2日玉砕した(28)。

日海軍は昭和17年8月5日にはガダルカナル島に航空基地第一期工事を完成していたが、7月には米軍海兵隊に奪われてしまった。12月31日大本営がガダルカナル島撤退と決定し、翌年2月1日からの撤退「ケ号作戦」では、志気に影響するので撤退ではなく「転進」が用いられた。戦陣訓では捕虜にさせないため邪魔になる兵には「自決」命令が出た。第三回高砂義勇隊員タイヤル族ベフイナブは、敬礼一つ、高雄港一泊で出港した。第三回海第1911部隊繁村第1中隊長繁村は抽選で100人を選んで自らガダルカナルへ赴き、他の400人をニューギニアにまわした。ガダルカナルでは米軍射撃を受け上陸すら不可能で、夜間迅速に上陸させる「東京エクスプレス」計画でようやく何人かが上陸できたが、山岳地帯での逃亡が いたと語った(29)。

高砂義勇隊は「捜査隊」「工作隊」「猛虎挺身隊」など100人ほどの独立部隊とされて、撤退を続ける日軍を援護して、米豪軍地に潜入して奇襲をかけ、遊撃戦を展開し、敵陣地撃破をなし、一方では食糧以下全て現地調達となるので現地人の宣撫工作も兼ねた。昭和18年9月には優勢なる米豪連合軍は「蛙飛び作戦」を開始した。日本からの一切の輸送は止断えた。昭和19年2月、ラバウル基地は壊滅し、13万が戦死した。第7回高砂義勇隊800人は昭和19年初戦地に着いた。ブヌン族加藤直一は島々を阿転々としてから最後にニューギニアに送られ、飢餓地獄を味わされた(30)。林えいだい『証言高砂義勇隊』の訪問記録は、白豚(白人)、紅豚(黄色人種)、黒豚(現地人)、メンチ(日本人)などの人肉を食べるしかない日本兵の置かれた悲惨さを証言している。昭和20年10月大本営は「捷一号作戦」のフィリピン決戦に賭けたが、レイテ沖海戦では海軍神風特攻隊が発動した。昭和18年11月に編成された高砂義勇隊500人のうち第一中隊140人は、薫空挺隊としてレイテ戦に出動して一人の帰還者もなく消え去った。

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[648]Re:苗字「秦野(ヤスノ)」
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 ピッポ E-MAIL  - 07/5/1(火) 12:19 -

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   秦野と書いて「ヤスノ」と読む苗字はあるようですが
泰野とかいて「ヤスノ」と読む苗字はないようです。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~suzakihp/index40.html
3,593 hits

[649]Re:訂正
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 ピッポ E-MAIL  - 07/5/1(火) 12:23 -

引用なし
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   ×(この場合は第2特別根拠地)
○(この場合は第2特別根拠地隊)

>その英文がどのような表現かは知りませんが、「民政部」とは、「海軍民政部」で、占領地海軍(この場合は第2特別根拠地隊)の住民統治「軍政」部門であり、民間人ではなく海軍将兵である可能性はないでしょうか?
3,722 hits

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