「歩兵第七聯隊史 上海−南京戦」伊佐一男(歩七戦友会)より
歩兵第七連隊宿営要図
(熊猫さん提供)
▼ピッポさん:
>K-Kさんの「南京事件資料集」を「収容所 捕虜
」で検索してめぼしいものは、
引用いただいたのは65連隊関係の記録ですね。
これは城外での出来事ですので、城内、特に安全区となると、安全区掃蕩を担当した第九師団歩兵第七連隊の兵の日記が参考になるかと思います。
水谷荘一等兵 日記「戦塵」
第9師団 第6旅団 歩兵第7連隊 第1中隊
(略)
十二月十五日
今日も又移動。昼食携行で日本領事館の方向、難民区に行く。経路は中山路だろうか、広い道はぎっしり路面
を覆いつくして、逃走の間際脱ぎ捨てられたものの如く、支那軍の軍装で埋め尽くされていた。弾薬等も多数放置され散乱してはいたが、兵器の類はその割合に少なく感じられた。
行けども行けども、何処迄歩いても衣服は道路を埋め尽くし、これを踏みつけては歩き通
した。よくもこんなに大量の軍服を脱ぎ捨てたものだ。その膨大な数量にも驚いたが、この軍服を脱ぎ捨てた敵将兵が悉く市内に潜伏しているとしたら、城内に夥し残敵が、便衣をまとって好機を狙っているのかも知れない。この点は特に十分な警戒が必要であろう。
今日も夕方になって漸く宿舎が決定、難民区の中に、各中隊分散して宿舎に入った。
十二月十六日
午前、中隊長と二人だけで、宿舎北方の山寺へ行く。由緒ある古寺らしく、その規模の壮大さに先ず圧倒された。
此処は敵の憲兵第2団が置かれた跡であることが、遺留された書類や物品で判明した。憲兵隊らしからぬ
、戦闘部隊用の兵器、弾薬等が夥しく集積されていて、水冷式重機関銃1挺を発見する。其の他被服類の梱包等数えきれない物資が、年輪を経た巨木の繁みの陰に積み上げられていた。
午後、中隊は難民区の掃蕩に出た。難民区の街路交差点に、着剣した歩哨を配置して交通 遮断の上、各中隊分担の地域内を掃討する。
目につく殆どの若者は狩り出される。子供の電車遊びの要領で、縄の輪の中に収容し、四周を着剣した兵隊が取り巻いて連行してくる。各中隊とも何百名も狩り出して来るが、第一中隊は目立って少ない方だった。それでも百数十名を引き立てて来る。その直ぐ後に続いて、家族である母や妻らしい者が大勢泣いて方面
を頼みに来る。
市民と認められる者は直ぐ帰して、三六名を銃殺する。皆必死に泣いて助命を乞うが致し方もない。真実は判らないが、哀れな犠牲者が多少含まれているとしても、致し方のないことだいう。多少の犠牲者は止む得ない。抗日分子と敗残兵は徹底的に掃討せよとの、軍司令官松井大将の命令が出ているから、掃討は厳しいものである。
酒井曹長が中隊に到着
十二月十七日
昨夜十二時頃、非常呼集があって、第一機関銃中隊は揚子江江岸に一二〇〇名の銃殺に行っていたが、夜に入り、それまで死体を装っていた多数の相手に包囲され苦戦中とのこと。急遽出動したが、途中で大隊本部よりの命令で、概ね鎮圧した由、長以下一〇名が応援に行き、他は帰る。
(略)
http://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre/butaibetu/9D.html#1
さて、「難民区の中に、各中隊分散して宿舎に入った。」とありますが、
結構これが無視されることが多い。
上図は「歩兵第九連隊史」の付図(実は熊猫さんからの頂き物)ですが、掃蕩部隊が安全区内に宿営していたことが記録されています。
「難民区への日本兵の出入りは厳重に制限されていたから、日本兵が悪行など出来るわけがない」
という論調が後を絶ちません。
考えてみれば、ラーベ日記なども、「日本兵が安全区に入り込んでくるので困る」という立場で書かれており、安全区内に日本兵が宿営して、居座っていることに触れていないのですね。
これは何とも不思議なことです。