当掲示板は南京事件等日本の戦争犯罪をなかったものにしよう、正当化しようとする言説に対抗して設置された掲示板式資料検証集です。
【否定派の写真検証を批判的に再検証するページとしてはタラリさんのページや、渡辺さんが問答有用に投稿したのなどがありますが、そういった再検証のまとまったサイトというのが欲しいと思うようになりました。

ともかく、肯定的な人でさえ、写真に捏造が多数あると思っている人も多いんです。私が知る限り、「捏造」されたものなんて知らないです。誤用はあっても。写真が南京事件を証明するもの、あるいは虚偽としたからといって南京事件を否定するものであるわけはないのですが、中国の印象を悪くする手段としてそうした捏造断定キャンペーンが行われている面が大きいわけです。】
と言う靴屋さんの発言をきっかけに設置しました。
投稿者は限定いたしますが、特に資格等はございません。歴史修正主義に対しきちんと反論せねばならない、とお考えの方はどんどんご利用ください。

当掲示板における写真資料等に関する考え方は当掲示板の目的を参照してください。
メンテ中検証板のメンバーの方は改めて登録する必要はありません。
登録するには[留意事項]をお読みください。
画像資料攻撃典型例
アポロの月着陸は嘘
911事件はアメリカの陰謀
【南京事件 「証拠写真」を検証する】
(東中野修道著)徹底批判
  新規投稿 ┃ツリー表示 ┃一覧表示 ┃トピック表示 ┃番号順表示 ┃検索 ┃留意事項 ┃設定 ┃思考錯誤  
21 / 67 ツリー ←次へ | 前へ→

[462]連行される警官 熊猫 05/9/20(火) 0:35 [添付]
[463]Re(1):連行される警官 ja2047 05/9/20(火) 6:27
[467]Re(2):連行される警官 熊猫 05/9/21(水) 2:19 [添付][添付]
[468]おおー、 ja2047 05/9/21(水) 6:18 [添付][添付]
[471]防寒外套の陸戦隊 ja2047 05/9/21(水) 19:15 [添付]
[472]Re(1):防寒外套の陸戦隊 msq 05/9/21(水) 20:45
[473]Re(2):防寒外套の陸戦隊 ja2047 05/9/21(水) 22:25
[474]Re(3):防寒外套の陸戦隊 熊猫 05/9/22(木) 8:35 [添付]
[476]インド人嘘つかない ja2047 05/9/22(木) 19:58
[494]もっと凄いのを隠しています(^^) 熊猫 05/9/27(火) 1:21
[508]Re(1):インド人嘘つかない 熊猫 05/10/5(水) 0:37 [添付][添付]
[469]Re(2):連行される警官 ピッポ 05/9/21(水) 8:34
[470]7iの宿営と安全区掃蕩 ja2047 05/9/21(水) 18:54 [添付]
[592]Re(3):連行される警官 熊猫 06/4/6(木) 8:59
[593]Re(4):連行される警官:漢西門と漢中門 渡辺 06/4/7(金) 0:30
[594]Re(5):連行される警官:漢西門と漢中門 熊猫 06/4/7(金) 13:35
[598]「西大門」とは「石城門」の別称です。 熊猫 06/4/14(金) 21:25 [添付][添付]
[509]この写真の重要なとこは・・・・・ 熊猫 05/10/6(木) 8:41

[462]連行される警官
←back ↑menu ↑top forward→
 熊猫 E-MAIL  - 05/9/20(火) 0:35 -

引用なし
パスワード

[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : asa3712.jpg
・サイズ : 381.1KB
  
添付画像【asa3712.jpg : 381.1KB】 提示した写真は、昭和十二年十二月十九日の『大阪朝日新聞』をスキャニングしました。先頭を歩く日本兵の脚の部分がトリミングされていますが『アサヒ・グラフ』(1938年1月5日)よりは早く発表されています。
大阪朝日新聞のキャンプション
武装を解除、収容所へ引率される捕虜の大部隊(十七日)

アサヒ・グラフのキャンプション
難民区に潜入していた敗残兵

当時のマスコミのキャンプションが如何にいい加減だったか判る事例ではないでしょうか。
1,233 hits

[463]Re(1):連行される警官
←back ↑menu ↑top forward→
 ja2047  - 05/9/20(火) 6:27 -

引用なし
パスワード
   ▼熊猫さん:
大阪朝日新聞のキャンプション
>武装を解除、収容所へ引率される捕虜の大部隊(十七日)
>
>アサヒ・グラフのキャンプション
>難民区に潜入していた敗残兵</blockquote>
>当時のマスコミのキャンプションが如何にいい加減だったか判る事例ではないでしょうか。

連行される集団の服の色は、日本兵の装具からの対比では黒または濃紺ですね。服もヘルメットも中国軍のものとして知られているものではない。警察官に間違いないのでしょう。 ざっと見て同じ服装が少なくとも百人程度。

ラーベ日記や安全区第六号文書に出てくる、16日の制服警官50名+志願警官45名の連行や、伍長徳証言の15日の警官300名の連行との関係が気になるところです。

ちょっと気になったのですが、入城式の警備のために中国人警官を動員したなんて言う話はどこにもないですよね。
1,291 hits

[467]Re(2):連行される警官
←back ↑menu ↑top forward→
 熊猫 E-MAIL  - 05/9/21(水) 2:19 -

引用なし
パスワード

[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : nan(2).jpg
・サイズ : 145.0KB

[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : shanghai(2).jpg
・サイズ : 31.7KB
  
添付画像【nan(2).jpg : 145.0KB】 添付画像【shanghai(2).jpg : 31.7KB】


反則業ですが、生写真を提示します。左の写真と比較すると解りやすいのではないかと思います。小銃を持った警官というのも違和感があります(^^;


1,269 hits

[468]おおー、
←back ↑menu ↑top forward→
 ja2047  - 05/9/21(水) 6:18 -

引用なし
パスワード

[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : keikanrenkou.jpg
・サイズ : 26.5KB

[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : tyuugokukeikan2.jpg
・サイズ : 20.2KB
  
添付画像【keikanrenkou.jpg : 26.5KB】 添付画像【tyuugokukeikan2.jpg : 20.2KB】 ▼熊猫さん:
>


>反則業ですが、生写真を提示します。左の写真と比較すると解りやすいのではないかと思います。小銃を持った警官というのも違和感があります(^^;
>



「連行」写真と「警備」写真で被り物が違いますね。
後者は九十式鉄帽です。ひょっとしてこちらは防寒外套姿の海軍陸戦隊員ではないでしょうか。
1,305 hits

[469]Re(2):連行される警官
←back ↑menu ↑top forward→
 ピッポ E-MAIL  - 05/9/21(水) 8:34 -

引用なし
パスワード
   ▼ja2047さん:
>ラーベ日記や安全区第六号文書に出てくる、16日の制服警官50名+志願警官45名の連行や、伍長徳証言の15日の警官300名の連行との関係が気になるところです。
>
>ちょっと気になったのですが、入城式の警備のために中国人警官を動員したなんて言う話はどこにもないですよね。


K-Kさんの「南京事件資料集」を「収容所 捕虜 」で検索してめぼしいものは、


http://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre/butaibetu/yamada/3daitai.html

戦斗日誌 (氏名省略)
歩兵第65連隊第9中隊・編成 二等兵

十二月十六日
 午前中隊は残兵死体整理に出発する、自分は患者として休養す。午后五時に実より塩規錠をもらー、捕慮(虜)三大隊で三千名揚子江岸にて銃殺す、午后十時に分隊員かへる。

十二月十七日
 午前九時当聯隊の南京入城、軍の入場式あり、中隊の半数は入場式へ半分は銃殺に行く、今日一万五千名、午后十一時までかかる、自分は休養す、煙草二ヶ渡、夜は小雪あり。

              『南京大虐殺を記録した皇軍たち』P239〜240


証言 第9中隊・上等兵


「 私は捕虜が連行されて行くのを見ただけだが、連行は二日間にわたって行われた。初日は三〇〇〇人連行。『収容所が焼けて入れる所がないので』との理由だった。二日目は七〇〇〇人、『前日と同じ場所に連行した』と聞いた。二日目に連行された捕虜は虐殺されるのを察知していた様子だったというが、暴動が起きたとは聞いていない。しかし、捕虜の中に整理係として入った日本兵が引き揚げないうちに撃ち始めてしまったことは聞いた。」

                 『南京大虐殺の証明』P139〜140


陣中日記
歩兵第65連隊第11中隊・第4次補充 上等兵

〔十二月〕十八日 雪 寒し
 午前八時半制(整)列にて各中隊に分類され十二時に中隊第十一中隊に入る、第四次二十二名、これより南京を見学に行こうと思ふが行かれなかった。
 午後には連隊の捕虜二万五千近くの殺したものをかたつけた。

                 『南京大虐殺を記録した皇軍たち』P289


日記 歩兵第65連隊 第3大隊

(一七日)午後にわ聯隊の捕りょ二万五千近くの殺したものをかたつける
(一九日)午後わ死体をかたつけるために前日の地に行く

                 『南京事件の証明』P145


http://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre/mondai/simin/simin_a2.html

東京裁判 伍長徳宣誓口供書 便衣兵摘出・殺害(事例)

私は一度も中国軍の一員であったことはありません。私は南京市の陥落後凡そ三百人の他の警官と一緒に司法院に居りました。我々の武器を全部南京安全地区国際委員会に引渡してあったので、我我は武装して居ませんでした。司法院は難民収容所になってヰて、警官の外に多数の一般民衆が居りました。千九百三十七年(昭和十二年)十二月十五日日本兵が司法院にやって来て、其所に居たすべての人に彼等と同行するやうに命じました。国際委員会の委員二名が日本兵に我々が前軍人でないことを告げましたが、日本兵は此の二人に出て行くことを命じ、我々を無理やりに市の西大門へ行進させました。

我々は其所へ着くと丁度門の内側に坐るやうに命ぜてれました。数台の機関銃が日本兵に依って門の丁度外側と、その両側にすえつけられました。此の門の外側に運河とその下流に到る急な坂とがありました。其の運河には橋が掛ってヰましたが、直接門の向ひ側ではありませんでした。百人以上の一団をなしていた此等の人々は銃剣を突きつけられて一時に門を通ることを強制されました。彼等は外部へ出ると機関銃で射たれ、その体は坂を転げて運河の中へ落ちました。機関銃掃射で殺されなかった者は日本兵に銃剣で刺されました。各組百人以上の約十六組が門を通ることを強ひられ、此等の人々は殺されました。




伍長徳宣誓口供書 の中の、「市の西大門」とは、「市の西の」「大門」であって、「市の」「西大門」ではないみたいです。
「西大門」に「収容所」があったのは、ソウルが有名みたいですね。
1,285 hits

[470]7iの宿営と安全区掃蕩
←back ↑menu ↑top forward→
 ja2047  - 05/9/21(水) 18:54 -

引用なし
パスワード

[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : 7icamp.jpg
・サイズ : 62.5KB
  
添付画像【7icamp.jpg : 62.5KB】 「歩兵第七聯隊史 上海−南京戦」伊佐一男(歩七戦友会)より
歩兵第七連隊宿営要図
(熊猫さん提供)


▼ピッポさん:
>K-Kさんの「南京事件資料集」を「収容所 捕虜 」で検索してめぼしいものは、

引用いただいたのは65連隊関係の記録ですね。
これは城外での出来事ですので、城内、特に安全区となると、安全区掃蕩を担当した第九師団歩兵第七連隊の兵の日記が参考になるかと思います。

水谷荘一等兵 日記「戦塵」
第9師団 第6旅団 歩兵第7連隊 第1中隊
(略)
十二月十五日
  今日も又移動。昼食携行で日本領事館の方向、難民区に行く。経路は中山路だろうか、広い道はぎっしり路面 を覆いつくして、逃走の間際脱ぎ捨てられたものの如く、支那軍の軍装で埋め尽くされていた。弾薬等も多数放置され散乱してはいたが、兵器の類はその割合に少なく感じられた。
 行けども行けども、何処迄歩いても衣服は道路を埋め尽くし、これを踏みつけては歩き通 した。よくもこんなに大量の軍服を脱ぎ捨てたものだ。その膨大な数量にも驚いたが、この軍服を脱ぎ捨てた敵将兵が悉く市内に潜伏しているとしたら、城内に夥し残敵が、便衣をまとって好機を狙っているのかも知れない。この点は特に十分な警戒が必要であろう。
 今日も夕方になって漸く宿舎が決定、難民区の中に、各中隊分散して宿舎に入った。
十二月十六日
 午前、中隊長と二人だけで、宿舎北方の山寺へ行く。由緒ある古寺らしく、その規模の壮大さに先ず圧倒された。
 此処は敵の憲兵第2団が置かれた跡であることが、遺留された書類や物品で判明した。憲兵隊らしからぬ 、戦闘部隊用の兵器、弾薬等が夥しく集積されていて、水冷式重機関銃1挺を発見する。其の他被服類の梱包等数えきれない物資が、年輪を経た巨木の繁みの陰に積み上げられていた。
 午後、中隊は難民区の掃蕩に出た。難民区の街路交差点に、着剣した歩哨を配置して交通 遮断の上、各中隊分担の地域内を掃討する。
 目につく殆どの若者は狩り出される。子供の電車遊びの要領で、縄の輪の中に収容し、四周を着剣した兵隊が取り巻いて連行してくる。各中隊とも何百名も狩り出して来るが、第一中隊は目立って少ない方だった。それでも百数十名を引き立てて来る。その直ぐ後に続いて、家族である母や妻らしい者が大勢泣いて方面 を頼みに来る。
 市民と認められる者は直ぐ帰して、三六名を銃殺する。皆必死に泣いて助命を乞うが致し方もない。真実は判らないが、哀れな犠牲者が多少含まれているとしても、致し方のないことだいう。多少の犠牲者は止む得ない。抗日分子と敗残兵は徹底的に掃討せよとの、軍司令官松井大将の命令が出ているから、掃討は厳しいものである。
 酒井曹長が中隊に到着
十二月十七日
  昨夜十二時頃、非常呼集があって、第一機関銃中隊は揚子江江岸に一二〇〇名の銃殺に行っていたが、夜に入り、それまで死体を装っていた多数の相手に包囲され苦戦中とのこと。急遽出動したが、途中で大隊本部よりの命令で、概ね鎮圧した由、長以下一〇名が応援に行き、他は帰る。
(略)
http://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre/butaibetu/9D.html#1

さて、「難民区の中に、各中隊分散して宿舎に入った。」とありますが、
結構これが無視されることが多い。
上図は「歩兵第九連隊史」の付図(実は熊猫さんからの頂き物)ですが、掃蕩部隊が安全区内に宿営していたことが記録されています。

「難民区への日本兵の出入りは厳重に制限されていたから、日本兵が悪行など出来るわけがない」
という論調が後を絶ちません。
考えてみれば、ラーベ日記なども、「日本兵が安全区に入り込んでくるので困る」という立場で書かれており、安全区内に日本兵が宿営して、居座っていることに触れていないのですね。

これは何とも不思議なことです。



 
1,446 hits

[471]防寒外套の陸戦隊
←back ↑menu ↑top forward→
 ja2047  - 05/9/21(水) 19:15 -

引用なし
パスワード

[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : j_marines.jpg
・サイズ : 128.5KB
  
添付画像【j_marines.jpg : 128.5KB】 1938年3月5日
威海衛上陸の北支部隊陸戦隊林部隊
「一億人の昭和史 日本の戦史4 日中戦争2」P13



>ひょっとしてこちらは防寒外套姿の海軍陸戦隊員ではないでしょうか。

ひょっとしてだけではいけないので、「防寒外套姿の海軍陸戦隊」の写真を掲示します。
こういうスタイルはあんまりイメージの中にないんですよね。

 


1,390 hits

[472]Re(1):防寒外套の陸戦隊
←back ↑menu ↑top forward→
 msq  - 05/9/21(水) 20:45 -

引用なし
パスワード
   外套のボタンの数が違うように見えます。
警察官のは10個あるようですが、2人並んだ写真のものは8個ではないでしょうか。
1,358 hits

[473]Re(2):防寒外套の陸戦隊
←back ↑menu ↑top forward→
 ja2047  - 05/9/21(水) 22:25 -

引用なし
パスワード
   ▼msqさん:
>外套のボタンの数が違うように見えます。
>警察官のは10個あるようですが、2人並んだ写真のものは8個ではないでしょうか。

よく見てますね。
海軍の防寒外套は、将校用が金ボタン12個、下士官、兵用が紺のボタン10個で、いずれも一番上は襟に隠れる位置です。
中国警官のはどうなのでしょうね。ダブルボタンの列の幅が狭いように見えます。
あとは、海軍の防寒用外套は襟と袖の折り返しが毛になっていますね。

 
1,390 hits

[474]Re(3):防寒外套の陸戦隊
←back ↑menu ↑top forward→
 熊猫 E-MAIL  - 05/9/22(木) 8:35 -

引用なし
パスワード

[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : in.jpg
・サイズ : 32.6KB
  
添付画像【in.jpg : 32.6KB】 しからば・・・・・・・
ボタンがない。
第六師団=杭州湾上陸という先入観がありますが、例外的に輜重第6連隊は11月22日に上海に上陸していますね。
これら2枚の生写真はその時に撮影されたものでしょう。300人斬りの田中軍吉大隊長の記述に他の部隊の兵士から牛を一頭盗まれて食われたと、仲間内での略奪があったことも書かれてありますので、当初は輜重部隊が別行動だったので、食糧には不自由したはずです。

第6師団の兵士が何故この写真を持っていたのか、その謎が解けました。
1,395 hits

[476]インド人嘘つかない
←back ↑menu ↑top forward→
 ja2047  - 05/9/22(木) 19:58 -

引用なし
パスワード
   ▼熊猫さん:
>しからば・・・・・・・
>ボタンがない。

なんだか軍装クイズみたいになってますが、
これは、上海市政府のインド人警官の冬外套姿と見ました。

というか、写真のファイル名が「in」だったり、前の写真が「shanghai(2)」の所を見ると、まだ「shanghai(1)」を隠してるに違いありません (^^;

気が向いたら公開して下さい。
1,433 hits

[494]もっと凄いのを隠しています(^^)
←back ↑menu ↑top forward→
 熊猫 E-MAIL  - 05/9/27(火) 1:21 -

引用なし
パスワード
   http://www2u.biglobe.ne.jp/~sus/AIR.htm
右上のくびれがない写真を見つけました!
プロパガンダ写真研究室の皆さんには申し訳ないが、広東なる天河飛行場附近東山ななる軍事拠点が、我が海の荒鷲に依て爆撃されたる有様というようなキャンプションは書かれていません。
彼らが活動を再開したら公表しましょうかね......「本当に広東?」
1,440 hits

[508]Re(1):インド人嘘つかない
←back ↑menu ↑top forward→
 熊猫 E-MAIL  - 05/10/5(水) 0:37 -

引用なし
パスワード

[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : belt.jpg
・サイズ : 28.7KB

[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : beltnasi.jpg
・サイズ : 129.6KB
  
添付画像【belt.jpg : 28.7KB】 添付画像【beltnasi.jpg : 129.6KB】


問題の写真はみな外套にベルトをしています。適当な画像がないので、日本兵のベルトの写真を提示します。まあ似たようなもんだから........。
外套姿の中国兵の写真を見つけました。


1,495 hits

[509]この写真の重要なとこは・・・・・
←back ↑menu ↑top forward→
 熊猫 E-MAIL  - 05/10/6(木) 8:41 -

引用なし
パスワード
   写真は12月17日に撮影されたものであるとしても、12月19日では、「武装を解除、収容所へ引率される捕虜の大部隊」だったものが、1月5日には「難民区に潜入していた敗残兵」になってしまっていることではないでしょうか。
当時の写真のキャンプションが如何にいい加減だったかを示す貴重な資料であると思います。

難民区は第七連隊が12月14日〜12月24日の間に掃蕩をおこなっており、この人数なら一時間もしないで発見されてしまうはずです。明らかに兵士ではないということを認識した上での連行ではないかとも考えられます。
1,265 hits

[592]Re(3):連行される警官
←back ↑menu ↑top forward→
 熊猫 E-MAIL  - 06/4/6(木) 8:59 -

引用なし
パスワード
   >伍長徳宣誓口供書 の中の、「市の西大門」とは、「市の西の」「大門」であって、「市の」「西大門」ではないみたいです。

「西門」だと水西門のことですが、伍長徳の他の証言では「漢中門(漢西門の別称)」となっています。水西門と漢西門、西門とは紛らわしいですけどここは素直に、漢西門と解釈して問題ないと思います。
1,397 hits

[593]Re(4):連行される警官:漢西門と漢中門
←back ↑menu ↑top forward→
 渡辺  - 06/4/7(金) 0:30 -

引用なし
パスワード
   ▼熊猫さん:
>>伍長徳宣誓口供書 の中の、「市の西大門」とは、「市の西の」「大門」であって、「市の」「西大門」ではないみたいです。
>
>「西門」だと水西門のことですが、伍長徳の他の証言では「漢中門(漢西門の別称)」となっています。水西門と漢西門、西門とは紛らわしいですけどここは素直に、漢西門と解釈して問題ないと思います。


「其の運河には橋が掛ってヰましたが、直接門の向ひ側ではありませんでした」とありますので、門の向かい側に覓渡橋という橋のかかっていた水西門ではなく、向かい側に橋のない漢西門のことでしょう。
『南京旧影』(人民美術出版社、1998年)p.17 には、「1931年、漢西門の北寄りに新たにつくられた漢中門。交通の必要による。(1940年撮影)」と説明がありますので、漢西門と漢中門は別もののようです。
「1940年撮影」の写真でみると、漢中門は近代的で簡素な門です。至誠堂の地図には載っていませんが、位置的には石城橋のところだと「交通の必要」という点でつじつまが合います。
1,417 hits

[594]Re(5):連行される警官:漢西門と漢中門
←back ↑menu ↑top forward→
 熊猫 E-MAIL  - 06/4/7(金) 13:35 -

引用なし
パスワード
   ▼渡辺さん:
>「其の運河には橋が掛ってヰましたが、直接門の向ひ側ではありませんでした」とありますので、門の向かい側に覓渡橋という橋のかかっていた水西門ではなく、向かい側に橋のない漢西門のことでしょう。
>『南京旧影』(人民美術出版社、1998年)p.17 には、「1931年、漢西門の北寄りに新たにつくられた漢中門。交通の必要による。(1940年撮影)」と説明がありますので、漢西門と漢中門は別もののようです。
>「1940年撮影」の写真でみると、漢中門は近代的で簡素な門です。至誠堂の地図には載っていませんが、位置的には石城橋のところだと「交通の必要」という点でつじつまが合います。

すいません、漢中門広場にある城門が「漢西門(漢中門と呼ぶ人もいる)」ですので誤解していました。この地域は地名と建造物(漢西門と漢中門)が入り乱れていますので同じものとばかり思っていました。以前、南京に行ったときに地元の方から「漢中門のことを漢西門というのです。」と教えてもらったときにもっと詳しく聞いとけば良かったと反省しています。
漢中門って実在していたんですね(汗)。地名だけかと思っていました。
漢西門のある地名が漢中門といいますので、伍長徳の証言にある「漢中門」というのは建造物ではなく地名を言っているのだと思っていましたが城門のことを言っている可能性がありますね。
再度調べましたので漢中門の位置的説明をします。1931年に漢西門の北側約20mの処に漢中門が造られました。つまり伍長徳の証言はどちらの城門であったにせよ、場所的な問題は無いと思います。
石城橋のところではありません。
推論ですが、「交通の必要」といのは大型車輌を通すためではないでしょうか?石城橋に門を建造しても、新たに城内に道路を造る必要があると思います。
1,433 hits

[598]「西大門」とは「石城門」の別称です。
←back ↑menu ↑top forward→
 熊猫 E-MAIL  - 06/4/14(金) 21:25 -

引用なし
パスワード

[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : Hyb5AmT6.jpg
・サイズ : 136.5KB

[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : kansei.jpg
・サイズ : 56.4KB
  
添付画像【Hyb5AmT6.jpg : 136.5KB】 添付画像【kansei.jpg : 56.4KB】 「西大門」とは「石城門」の別称です。つまり「漢西門」のことです。画像は漢中門広場(中にある城門は漢西門)です。城壁に囲まれており、捕虜や捕らえた住民を一時収容するのに理想的な場所であることが画像より判断できるかと思います。

つまり、伍長徳の証言は「西大門」であろうが「漢中門」であろうが同じ場所であり矛盾していないことが判ります。「西大門」は宣誓口供書であり、「漢中門」は朱文英と汪道明が記録したもので直接証言ではありません。
1,485 hits

21 / 67 ツリー ←次へ | 前へ→
  新規投稿 ┃ツリー表示 ┃一覧表示 ┃トピック表示 ┃番号順表示 ┃検索 ┃留意事項 ┃設定 ┃思考錯誤  
ページ:  ┃  記事番号:   
0
(SS)C-BOARD v3.8(とほほ改ver2.2) is Free
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送