左は農民の姿をした工作隊員
1942年3月
唐山北方地区、山里各庄にて
右は朝市の密偵
1941年10月
河北省束鹿県和睦井にて
中央と右後方の白衣が工作隊員
『ある戦友の記録』喜多原星朗(白金書房)-84-より
【引用開始】--------
敢死工作隊
昭和16年夏、春二部隊第3中隊本部は河北省束鹿県城内に在った。その一分隊である和睦井警備隊に所属して、大日本軍和睦井敢死工作隊なるものをつくった。
この隊名の「敢死」とは日本語に訳すと決死隊の意である。
また「工作隊」とは、情報収集・作戦・宣撫工作とあらゆる軍事行動を任務とする隊を指す。
工作隊長には旅団司令部の支那語就業を終えて原隊復帰した喜多原(著者)が任ぜられ、隊員は約14、5名であった。工作隊の第一の目的は、情報収集である。毎日2名〜3名がひと組となり、日本軍警備地区内外の部落で相手側の作戦行動や宣伝活動などを綿密に偵察し、本体へ状況報告することが日常業務であった。
(中略)
情報収集活動にはとくに優れた特定の隊員を当て、随時、便衣を着用し農夫や大工に返送した。(中略)一般民衆はわれわれを密偵とよんでいた。
【引用終了】--------
このような密偵として有名なのは、平井栄三郎氏を取材した『中国獄中二十五年 奇跡の日本人』斎藤充功(学研文庫)ではないかと思います。当時、多くの日本兵が中国人として潜伏しておりましたが、その写真は極めて少ないのではないでしょうか。