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例の上海南で泣き叫ぶ幼児の写真が「やらせ」だという話ですが、「やらせ」説の出所を追って行くと、それは日本の政府機関か、その意を受けた出版社にたどりつくのではないかという疑いを持っています。 以下に、Apemanさんのブログに投稿した内容の一部をコピペします。 (思考錯誤板用に記事を書きなおすべきですが、時間節約のため、ご容赦を。)
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コピペ(誤植修正あり)
-- Tekamonasandali(2007/08/08)> 米国にも中国のプロパガンダだと見ぬいていた人がいるとか、中国にだまされるなと警告していた人がいたという話は、だいたいは孤立主義者の著作からの引用でしょう。当時の米国メディアが戦争写真に限らず、好んで過激な写真を掲載したということも背景にあるとは思いますが。 ところで、もうひとつ可能性があるのは、日本政府機関から要請されて記事を書いたり本を出した人が米国にいるのではないかということです。上海南駅の写真が「やらせ」だという話は、いずれも白い服の男が幼児を「線路の間に置いた」とし、どれもよく似ているのですが、元になった「やらせ」説は日本が発信元ではないかと疑っています。日本との戦争が始まってから、日本の手先として活動したとして告発されたり、その証人として裁判に呼び出された例があるのですが、冤罪なのか、やはりそういうことがあったのか、プロパガンダ説について調べてみる価値はありそうです。
Tekamonasandali(2007/08/23)> Apemanさん>そういえばそういう観点から調べてみたことはありませんでした。
そういう「観点」に思い至ったのは、(1)あの上海南駅の幼児の写真が「やらせ」という噂の出所が日本のどこかの機関ではないか、(2)季刊『中帰連』41号(最新号)p.123で紹介した
Frederic V. Williams の著書 Behind the News in China
の内容の根拠があいまいで自分で考えたのではなく誰かに頼まれて受け売りを書いたのではないかと疑うようになったからです。
(1)「やらせ」の根拠になるのは決まって3枚の写真です。まず問題の写真。ところが、なぜかライフに掲載されたものではない。これは、戦後に発行された『LIFE
AT
WAR』と同じと思われます。次ぎに白い服の男が幼児にかがみこんでいる写真。そして、黒い服の男の子が立っている写真です。元になった映画も『ライフ』も無視されているわけです。このパターンの「やらせ」告発記事の初出は『中帰連』41号p.123に掲載のものと思われますが、この頁もどこかからのコピーのようにみえます。ところが、映画は9月、『ライフ』は10月号にもかかわらず、この記事は『日誌事変の真相』(ジャパンタイムス,1937年11月)に早くも掲載されています。同じ3枚の写真はS.Nakado,
”How About Giving Japan a Break”,(Japan Paciffic Associations, 1937)
にも同じ主旨で掲載されています。面白いことに、東中野などの面々だけでなく新藤健一もこの3枚を使っています。 「やらせ」というのは日本から発信されたもので、映画を見ていない人には効果的な宣伝だったのではにかと疑われるわけです。
(2)次ぎに、Frederic
V. Williams
ですが、検索するとどこかでヒットすると思います。例のロ−ダウン紙のサイトだったかで、「その証人として裁判に呼び出された」のがこの人だとありました。しかし、これだけではデッチアゲの可能性もあります。 ところが、p.129
で文献に紹介している Peter O'Cornor, ”Japanese Propaganda”(Edition Synapse,
2005)のBehind the News in China
の著者解説で知ったのですが、1940年9月12日発駐米佐藤総領事の松岡外相宛て電報には、この人物が、「対米宣伝併発工作」を日中戦争勃発以来してきたという時局委員会の「エーヂエント」だと明記されています。また、FBIの警戒がきびしくなったので『「ジャパンタイムス」米国特派員(無給)ニ依嘱シ得レハ好都合』としています。 「ジャパンタイムス」といえば、『日誌事変の真相』で幼児の写真が「やらせ」だとした会社ではありませんか。「やらせ」説は仕組まれた記事だった可能性がありますので、「ジャパンタイムス」について今後調べてみたいと思います。
ところで、”Japanese
Propaganda”は10数冊の膨大な研究者向き史料集ですが、日本の立場を擁護したパンフレットや書籍を網羅したものです。この史料集を見ると「欧米メディアまで巻き込んだ蒋介石の情報戦の手腕が、日本よりはるかに上」などという話には同意できなくなるでしょう。 むしろ、中国のパブリシティーは貧弱であったとさえいえます。印刷技術にも欠け、まともな写真版などは上海にある欧米出版社に依存しなければならない状態でした。それでも「情報戦」に成功したとすれば、それは情報戦の手腕ではなく、発信した情報がおおむね事実に基づいていたということではないでしょうか。 --
コピペ終わり --
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