左:「日寇暴行実録」の写真。
「南京寇軍活埋我同胞之惨状(南京で寇軍=旧日本軍=が我が同胞を生き埋めにしている惨状)」と説明がある。中央左の縦の切れ目は、見開き掲載によるずれ。左下には別の写真2枚が重ねて配置されている。
中:Bさんの遺品のアルバムに張られていた写真。
旧日本軍の装備に詳しい軍事評論家の辻田文雄さんによると、兵士らが着ている服は旧日本陸軍の「昭五式軍服」と呼ばれるもので、帽子は40年ごろまで使われていた略帽。中央左の人物が持つのは「三八式歩兵銃」で、いずれも、南京攻略戦で旧陸軍兵士がつけていた装備と一致する=Aさん提供
右:人物の一致。
(以上 記事からの引用)
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http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20080914/p1
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=35133224&comment_count=6&comm_id=1415515
http://blog.goo.ne.jp/harumi-s_2005/e/43f786e13a1f8b4b84cfb7638d58d355
など既に多くの方が紹介していますが、東中野修道さんの「偽写真鑑定」の実態がまたまた顕わとなりました。読者秘蔵写真の発見を伝える2008年9月14日の朝日新聞特集記事によってです。
http://mixi.jp/show_bbs_comment_picture.pl?bbs_id=35133224&id=484105371&comm_id=1415515&number=117
(光太郎さんmixi投稿)
その写真とは、東中野本『南京事件「証拠写真」を検証する』P90の写真10(上記写真中央)で、初出は「日寇暴実録」です。「南京寇軍活埋我同胞之惨状(南京で寇軍=旧日本軍=が我が同胞を生き埋めにしている惨状)」と説明されている写真です。
http://www.geocities.jp/pipopipo555jp/143photos/num/n-010-11.htm
この写真に対して、東中野修道センセは、
(1)建物の前で生埋するはずがない
(2)影の元が写っていない
(3)いろんなトリミングなされた
(4)撮影許可がとれたのか
など、根拠の無い無い思いつきで難癖をつけ、これを「合成写真」として退けようとしていますが、その東中野イチャモン精神は、同じ場所同じ時の別アングルの写真の出現によって、木っ端微塵に一蹴されてしまいました。
この写真を加えると、同じ場所同じ時の別アングルの写真が3枚ということになります。
記事はWEB公開されていないので、ここにその関係部分を引用します。(記事中の写真所蔵者名は引用にあたって仮名としました。)
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朝日新聞 2008年(平成20年)9月14日
日曜日
「写真が語る戦争」 読者所蔵写真
今月の「写真が語る戦争」は、読者の方々からお寄せいただいた写真などを紹介する特集の第4弾です。南京事件をめぐる論争に新しい知見を加える1枚をはじめ、米軍爆撃機B29が長崎・壱岐に墜落した現場を記録した写真、特攻隊を記録したドキュメンタリー映画フィルムなど、貴重な歴史の映像が多数寄せられました。(永井靖二)
謎ひとつ解けた
合成説「成り立たぬ」一枚
地面に掘られた穴に座らされた男たちを、軍服姿の兵士が取り囲んでいる。「活埋」(生き埋め)と題された下の写真(この投稿では上記写真中央)は、日中戦争下の1938年7月、中国・国民政府軍事委員会政治部から出版された「日寇暴行実録」に収められている。
37年12月に南京が陥落した前後、旧日本軍が市街と周辺で大規模な虐殺や略奪、強姦などを繰り返した南京争件の場面として多くの出版物に引用されてきた。撮影された日時や場所が不明で、近年は穴の中の人物の写真と兵士の写真などを一つにした「中国側の宣伝用の合成写真」とする主張も出ていた。
上の写真(この投稿では上記左の写真)は、神戸市灘区のAさん(78)が保管していた。Aさんがこの写真を最初に見たのは、小学生だった39〜40年ごろ。自宅のレコード棚に、この写真のほか、路上に折り重なった死体などの写真5〜6枚がネガとともにあった。
父親のBさん(75年に79歳で死去)は「自分が埋められる穴を掘っているんや」と、説明してくれた。
Bさんは当時、神戸市内でタクシー会杜を経営していた。兵役に就いていた当時の上官から占領地でのタクシー経営を打診され、陥落直後の中国・南京と周辺を視察。
帰国後、視察先では兵士1〜2人が護衛についていたことなどを話していたという。2度目にこの写真を見たのは、約60年が過ぎた数年前のこと。Bさんの遺品を整理中、戦前の写真が雑然と張られたアルバムに張ってあるのを見つけた。ネガや他の死体写真はなくなっていた。
アルバムには、大正前期に兵役に就いていた頃のBさんの写真もあった。陸軍歩兵第36連隊を意味する「36」という数字入りの襟章を着けていた。同連隊は南京攻略に加わった部隊の一つだ。Aさんは「父が南京に行ったのが正確にはいつか、上官とは誰か、写真がどのように撮られたものなのか、詳しいことは分かりません」と話す。実家が阪神大震災で全壊したため、ほかの資料は残っていないという。
「南京事件―虐殺の構造」(中公新書)の著書がある現代史家の秦郁彦さんに写真を見てもらった。
「これまで見たことのない写真だ」としたうえで、穴の後ろの人垣は軍装などから日本兵で、「日寇暴行実録」の写真と同一とみられる人物が複数写っている点に注目。(引用者注:上記右の図版)
「近接した時間に同じ場面を別々の角度から撮影したと言え、一方を『複数の写真の合成』とする主張は成り立たなくなった」と指摘する。
秦さんは南京事件の検証には、特に慎童で厳密な史料批判が必要、と主張している。
「穴の中の人物がなぜ抵抗しないのかなど、不自然な点も指摘できる。撮影日時や場所が特定できない以上、中国側が演技している揚面を複数の角度から撮った写真だという可能性までは、排除できない。ただ、この時期の日本軍は内陸部へ退却する国民党軍を追撃する立場で、国民党側がこれだけの数の日本軍の軍服や帽子を入手するのは極めて困難だろう」
写真は縦62ミリ、横87ミリ。右に約10ミリの余白を置き、少しいびつな縦56ミリ、横70ミリの画面が焼き付けられている。
日本カメラ博物館(東京都千代田区)運営委員の白山真理さんは、印画紙の右端に薄く縦の線が写りこんでいること、画面左上から右下に明るさのむらがあり、アルバムの他の写真に比べて画像の鮮鋭度が欠けていることを指摘。「光線のあまり良くない条件で台紙に張った既存のプリントを複写した可能性が強い。複数の写真を1枚に合成したことを示す明らかな特徴は見られない」と分析する。
Bさんがどのようなルートで写真を入手し、どのような思いでこの写真だけを残したのかは、今となってはわからない。ただ、論争の対象となっていた南京事件の写真にまつわる「謎」をひとつ解いたことは確かだ。(引用おわり---以下略)