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この写真は、 以下に引用するためにアップしたものです。 CWR, August 13,
1938,
p.349の1枚。 渡辺さんの投稿より切り出したものです。 東中野本P92、写真15に対応します。 そこでは、「外人目睹中之日軍暴行」初出、となっています。
渡辺さん
勝手ながら、渡辺さんが"前稿"とおっしゃるご投稿を転載させていただきます。 といいますのも、かなり重要な論考であり、いくつかお尋ねしたいことがあるからです。 お許しください。なお、table
タグが使えませんので、レイアウトを少しかえました。
渡辺さんのこの投稿は、東中野本の後半の論点「趣向をこらした追加写真」における、「16枚の写真集」や「マリオン・フィッチの写真群」、それから熊猫さんも論じておられる「上海在住の日本人プロ写真家」と残虐写真流出ルートとしての「写真館」の存在。これらを考察する鍵となる投稿ではないかと、思うわけです。
(以下
転載) ================================================================ 渡辺さんの投稿 問答有用30424
2004/10/29 12:32 日本軍の残虐・暴行写真 (1)写真の出現した時期 http://otd2.jbbs.livedoor.jp/mondou/bbs_plain?base=30424&range=1 ================================================================
この投稿は日本軍の残虐・暴行写真http://bbs2.otd.co.jp/mondou/bbs_thread?base=30423&range=1の一部です。
--- (1)写真の出現した時期
日中戦争での日本軍の残虐・暴行写真が新聞・雑誌などに現れた時期であるが、1937年にAPが配信した銃剣や刀の練習にされる中国人の写真が恐らく最初のものであろう。これは、LIFEやChina
Weekly
Reviewにも掲載された。しかし、多くの残虐・暴行写真が現れたのは1938年限りの現象とみられる。今日、真贋が話題となる写真も、ほとんどがこの年に現れたものである。 1938年になって、このような写真が現れたのは、1937年12月に南京が陥落し、日本軍将兵に写真を撮影したり現像する余裕ができたこと、また、1938年1月に南京で撮影されたマギーの映画が上海に持ち出されたことなどが要因であろう。 このような写真が
1939年以降に新たに出なくなった理由について、今回は充分考察することはできなかったが、その理由はいくつか考えることができる。上海では、現実の日本軍の脅威や、日中のテロの応酬などの事態が深刻化した。また、欧米では緊迫する欧州情勢に関心が強かったことなどが残虐・暴行写真への関心を、少なくとも日本の対英米戦争が始まる
1941年まで弱めたと考えられる。しかし、最も大きな理由は、日本軍の残虐・暴行写真が海外のメディアに掲載されたので、1938年に日本軍でなんらかの対策がとられた結果、新たな写真が現れなくなったものとみられる。上海で当時ニューズキャスターをしていた
Carroll
Alcottは、日本軍当局によって残虐写真の販売が禁止され、後に撮影も禁止されたと述べている。[1]
次に、1937年から1938年の間に現れた残虐・暴行写真の実例をあげてみよう。なお、CWRとあるのは、上海で刊行されていた China Weekly Review
のことである。本来は残虐写真とは無縁の週刊誌であるが、1938年については例外的にこのような写真が多く掲載された。なお、撮影場所が資料に記載されているものは、場所を表示した。また、他の写真との関係などについては概略のみとし、個別の検証は煩雑になるので別稿とする。 (この掲示板では、文章と表の間に空白ができるかもしれません。)
1.人体を使って剣・銃剣の練習をする日本兵の写真2枚
(ピッポ註1)
場所:天津 1)LIFE October 11,
1937, p.30 2)CWR, November 6, 1937, p.223
<br> LIFE October 11, 1937掲載の写真,
p.30
LIFEの写真説明によれば、APのカメラマンによって
9月5日に天津で撮影された。 CWRの写真説明によれば、CWR掲載の写真は、10月3日付 Chicago Tribune
からの複製。 CWR解説記事によれば、APの編集長 Edward Stanley
は、この写真はAPの在中国カメラマンが撮影した正真のものと述べ、この写真が日本人カメラマンによって撮影されAPにフィルムが売り込まれたという上海での噂を否定した。また、Editor
and Publisher 10月2日号の報道では、the Chinese Section of General Staff
の高橋担大佐(Lieut.-Col. Tan Takahashi) (ピッポ註2)が、ドイツへの途上、米国で、これは中国人が日本軍の軍服を着たものだと主張した。(CWR
p.224)
2.南京の写真
場所:南京 CWR, March
19, 1938, p.15 (頁右上の写真を除く)
<br>
CWRでは撮影者は匿名になっているが、マギーの映画フィルムを写真にしたもの
3.ズボンを下げられた女性
外人目睹中之日軍暴行(国民出版) 1938年6月
<br> 左=外人目睹中之日軍暴行に掲載の写真 右=鉄証如山に掲載の写真、引用元は、日寇暴行実録(軍事事委会政治部)1938年7月
と思われる。
4.陸軍兵士 、海軍兵士による斬首の写真 3枚
1)外人目睹中之日軍暴行(国民出版) 1938年 6月
2)Ken Magazine, August
11, 1938
3)CWR, October 1, 1938, p.144
<br> CWR October 1, 1938に掲載の写真
CWRには、Ken のものとして紹介されているが、Ken
からの複製ではない。1),2),3)のいずれも、撮影の場所について記述がない。
5.銃剣での刺殺・斬首の写真
4枚
場所:南京
<br>
CWR, August 13, 1938, p.349 (ピッポ註3) 「日本軍自身によって撮影された残虐行為」(ATROCITIES-EXPOSED
BY THE JAPANESE
THEMSELVES)との見出しが付けられている。
(LOOKにも掲載されたが、まだ実物を確認していない。)
『日本の侵略』に掲載された、南京の兵站病院で勤務した坂本多喜二氏が撮影した写真と同じ場面を異なる位置から撮影したものと考えられる。 右下の写真は、呉旋証言にある「恥」と記されたアルバムに掲載されている写真と左右が逆であるが、同じものである。("GoodMan
of Nanking", p.141 参照) (ピッポ註4)
6.溝に並ぶ市民の遺体
場所:蘇州
<br> CWR, October 22, 1938, p.262
7.頭蓋骨と焼死体の写真
場所:南京
<br> CWR, October 22, 1938, p.262
8.斬首された首の列など写真 3枚
場所:南京
<br> CWR, October 29, 1938,
p.281
註:[1]Carroll Alcott, "My War With
Japan", NY, 1943, Henry Holt And Company, p.304(ピッポ註5)
(転載おわり) ===============================================================================================
ピッポの註
(1)東中野修道「南京事件『検証写真』を検証する」P、161では、
写真99は、昭和12年(1937)年秋にAP通信社が「日本人の支那人虐殺」と題して配信した写真の1枚で、同年9月30日付で「デーリー・ミラー」紙が載せた写真と同一のようである。 と説明しています。
(2)
http://t-t-japan.com/bbs2/c-board.cgi?cmd=one;no=114;id=#atop
(3)東中野本では、初出は
「外人目睹中之日軍暴行」となっています。これが1938年6月発行だとすると、 CWR, August 13,
1938よりもずっと早いということになります。「外人目睹中之日軍暴行」には、漢口版と香港版があるということですが、渡辺さんと東中野氏(漢口版と記している)では違う版なのでしょうか?
(4)左右が逆には違い有りませんが、ネガを裏焼きして同じ写真を別の写真として使ったわけでは有りません。カメラポジションが反対側の全く別の写真のようです。<br>
<br> なお、右の写真は東中野本のP92の写真15です。東中野氏によれば、撮影現場は同じでも「16枚の写真帳」には無いものです。"GoodMan of
Nanking"にはどう書いてあるのでしょうか?
(5)渡辺さんの前投稿に訳文があります。
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以下は私ピッポの文章ですから、中てには出来ません。mOm
日本兵の残虐行為を写真に収めることができたのはなぜか?
1、それらは全て、中国側の演出・捏造である。中国兵に日本の軍装を着させて(真似させて)、欧米特派員などに撮影させたものである。(東中野説)
2、日本兵がカメラを中国戦線に持参し、記念に撮った。故郷に送ったもののなかにも、残虐・陵辱写真があった。それらを上海の写真館で現像したときに流出した。LIFEやChina
Weekly
Review、そうして中国側にも流れた。
3、撮影したのは日本兵とは限らない。上海在住のプロカメラマンが上海戦線を歩き回っていた。かれらは、 写した写真の顧客として、日本の新聞社、外国通信社、LIFEやChina
Weekly Review、などがあり、また残虐エロ写真を売る露天商にも流した。<br> <br> (The Nanking Atrocities:http://www.geocities.com/nankingatrocities/index.htmより) 写真を売っているのかどうか分かりませんが・・・肩から提げた四角い革ケースが気になります。
4、上海の写真館は、今でいう「現地プロダクション」の役割を果たしていた。例の「宝山県日の丸部落」の組写真は、どうみても「パブリシティー」記事です。この記事のために雇われた中国一家、そうして彼らと会話が出来るカメラマン。「現地プロダクション」が下請け受注した「作品」ではないでしょうか?
同業者である私の直感です。(東中野本P,111〜114参照)
5、2と3は、渡辺さんの前投稿にあるように、「軍隊及軍人軍属寫眞撮影製作取締
昭和十三年十月二十四日」によって統制された。
1は「妄想」かもしれず、2、3、4はまだ憶測ですが真実に近づいた方もいるようです。皆さんのご意見を伺いたいところです。
(以上、投稿おわり)
[管理人一回修正:HTML文法]
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