■左側の写真は東中野本の写真107です。
本来は『ライフ』の写真を提示したいのですが、残念ながら所有していませんので(^^;
■中央の写真は、右端の人物をトリミングしました。
■ご存知、元崇善堂埋葬隊員だった崔金貴さんのスケッチです。大胆すぎて提示するのを躊躇していたのですが、検証することを目的とした掲示板ということでこれくらいは許されるかと(大汗)
『南京事件「証拠写真」を検証する』P175より
【引用開始】--------
そこでその写真をよく見てみると、チョッキの胸にCHANSHI(善事)の文字が読みとれる。これは南京陥落後、日本軍特務機関の指導のもとに埋葬作業を行った紅卍字会の「卍」という印とは明らかに違う。また、埋葬作業は冬であったにもかかわらず、子供や周囲の人びとの服はとても冬服には見えない。陥落後の南京とは無関係なのである。
【引用終了】--------
冬服は他でも提示してあり馬鹿馬鹿しいので、今回は省略します。写真は1938年2月21日以前の写真であることは、今更、説明する必要もないことです。
チョッキの胸にCHANSHI(善事)の文字が読みとれる。
【検証】CHANSHI(善事)の文字は私には確認できませんでした。「善事」であるならばSHANSHIと書くはずであり「善事」と解釈した東中野先生の意図が不明であり、中国語の辞書くらいは確認して自論を述べるべきではないでしょうか。
CHANSHIと読めると前提して考察します。
○鐔(chan)さんという苗字の人名が考えられます。
○禅師(CHANSHI)お坊さんのような仏教関係者の可能性があります。
○漢字表記はできませんが、「CHAN」には「手を貸す・助ける」の意味の言葉があります。
埋葬作業を行った紅卍字会の「卍」という印とは明らかに違う。
【検証】埋葬作業を行ったのは紅卍字会だけではありません。当時の南京には「善堂」という多くの市民によるボランティア団体があり、同善堂や崇善堂などの団体も埋葬作業を行っており、赤十字による埋葬写真などもあります。紅卍字会や赤十字の写真ではなく、どれかの善堂による埋葬活動の写真であると考えるのが妥当です。私の知るかぎり1938年2月21日以前に、チョッキを着て埋葬活動をした善堂の記録は、南京以外にありませんし東中野先生も知らないはずです。
もし知っていたら具体的な地名を記述するはずですし、「陥落後の南京ではない」と得意の難解な文章を書いて誤魔化す必要はありません。