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大項目目次
事実及び理由 第1 請求・・《民事原告からの請求内容》 第2 事案の概要 1 《どのような請求事案か》 2 争いの無い事実 3 争点 4 争点に関する当事者の主張 (1)争点(1)について (2)争点(2)について 《本多著書が名誉毀損や敬愛追慕の情侵害などになるか》 (3)争点(3)について (4)争点(4)について (5)争点(5)について (6)争点(6)について (7)争点(7)について
《 凡例 》
以下判決文を読みやすくするために、「文献目録リスト」に従って判決文中の記載、
「本件書籍一」を:「中国の旅」に、
「本件書籍一の1」を:「中国の旅」単行本 に、
「本件書籍一の2」を:「中国の旅」文庫本 に、
「本件書籍一の3」を:「本多勝一集 第14巻 中国の旅」に、
「本件書籍二」を:「南京への道」に、
「本件書籍二の1」を:「南京への道」単行本 に、
「本件書籍二の2」を:「南京への道」文庫本 に、
「本件書籍二の3」を:「本多勝一集 第23巻 南京への道」に、
「本件書籍三」を:「南京大虐殺否定論13のウソ」に、
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《本件図書」は文献目録リスト 参照 》
「中国の旅」は,別表記事番号一の1の1,一の2の1及び一の3の1の各部分(*)において,
本件各書籍は,原告主張に係る事実を摘示したものではなく,両少尉の「百人斬り競争」について,種々の資料批判の上で,戦闘行為だけで多数の人間を斬ることは不可能であることから,捕虜や非武装者が相当含まれていると考えて論評したものである。
「中国の旅」は,別表記事番号一の2の2のうち第16刷以降及び別表記事番号一の3の2において(*),「捕虜を裁判もなしに据えもの斬りにすることなど当時の将校には『ありふれた現象』(鵜野晋太郎氏)にすぎなかった。日本刀を持って中国に行った将兵が,据えもの斬りを一度もしなかった例はむしろ稀であろう。たまたま派手に新聞記事になったことから死刑になった点に関してだけは,両少尉の不運であった。」旨記載し,「南京への道」は,別表記事番号ニの1の1,二の2の1及び二の3の1において(*),志々目彰が直接聞いたという野田少尉の言葉を引用した上で,「これでは,あの武勇伝も実は『据えもの百人斬り』であり,要するに捕虜虐殺競争の一例にすぎなかったことになる」旨記載しているところ,これらは,本件日日記事(※),志々目の話(※),鵜野晋太郎の「日本刀怨恨譜」(※)に基づいて,両少尉の「百人斬り競争」について,白兵戦のような状況で自分が傷つかずに百人も斬ることは常識的には無理な話であろうとの趣旨で論評したものであって,「据えもの百人斬りをした」,「捕虜を虐殺した」との事実を摘示したものではない。
南京攻略戦当時の我が国の新聞においては,被告毎日の前身である東京日日新聞や被告朝日を始め,各新聞社の報道競争が過熱しており,真実は軽んじられ,戦意を高揚する記事がもてはやされていた。両少尉の南京軍事裁判での陳述によれば,両少尉は,昭和12年11月29日,無錫郊外で浅海記者と出会い,その後,常州の城門近くで記念撮影をしたということである。《注釈と疑問 001》
この際,浅海記者は,両少尉に「百人斬り競争」という冗談話を持ちかけたところ,その武勇伝に両少尉が名前を貸し,この冗談話を基に本件日日記事が掲載されたものであって,それらは,浅海記者によって作り上げられた戦意高揚のための創作記事であった。
冨山大隊は,昭和12年11月26日正午すぎに無錫駅を占領した後,同日午後,常州に向けて追撃を開始したため,無錫城内には入っていない。冨山大隊は,同日は無錫より約3里のところで露営し,翌27日には横林鎮で中国の退却部隊と遭遇し,戦闘となった。冨山大隊は,同月28日,常州へ向けて出発し,翌29日に常州に入城した。
向井少尉は,同年12月2日,丹陽にて砲撃戦中に負傷して,離隊し,救護班に収容された。冨山大隊は,同月4日,命令変更により丹陽を出発し,句容に向かったが,翌5日早朝,既に金沢師団が句容西方の退路を遮断していることを知り,旅団長の命令により句容を攻略することなく,北へ迂回転進することとなった。
そのため,冨山大隊は,句容に入ることなく北上し,同日は賈崗里で宿泊して,翌6日,同所を出発し,砲兵学校を占領し,同月7日,前面偵察のため,西進した湯水鎮を経由することなく蒼波鎮に出た。冨山大隊は,その後,同月10日から12日にかけて,紫金山南麓にいる中国軍を攻撃しながら,南京城に向かって西進した。
このように,向井少尉は,丹陽の戦闘で負傷して前線を離れ,同月中旬に冨山大隊に復帰したものであるし,野田少尉も句容には入っておらず,また,紫金山の攻撃は,歩兵第三十三連隊が行ったものであって,両少尉とも紫金山の山頂にも行っていないのであるから,本件日日記事第三報及び第四報に記載された経路は,両少尉の真実の行軍経路に反している。
本件日日記事は,上記のほか,以下の点においても事実に反している。
本件日日記事第一報は,昭和12年11月30日に掲載されているところ,それによれば,両少尉が無錫出発後に「百人斬り競争」を始め,無錫から常州までの間に,向井少尉が56人,野田少尉が25人を斬ったとされている。しかしながら,佐藤記者は,常州で両少尉と会った際,浅海記者から「二人はここから南京まで百人斬り競争をする。」という話を聞いたのであって,第一報はこの話の内容に反している。
また,第一報では,向井少尉の斬った人数が,横林鎮で55人,常州駅で4人の合計59人となっており,上記の人数と矛盾しているし,第一報が真実であれば,両少尉の記念撮影をしたとき,両少尉は,常州駅で数人の中国兵を斬った直後ということとなるが,佐藤記者もそのような話を聞いておらず,両少尉も全く返り血を浴びていなかったのであって,不自然である。
本件日日記事第二報は,昭和12年12月4日に掲載されているところ,それによれば,常州から丹陽までの間に,向井少尉が30人,野田少尉が40人を斬り,向井少尉が丹陽中正門に一番乗りをしたとされている。しかしながら,向井少尉は,上記のとおり,丹陽の砲撃戦で負傷して前線を離れ,野田少尉も丹陽には入城しておらず,両少尉の行軍経路に反している。
本件日日記事第三報は,昭和12年12月6日に掲載されているところ,同日の隣の記事は,浅海記者が同じ日に丹陽で取材したものであり,同記者が丹陽からはるか離れた句容まで「百人斬り競争」の結果を取材したとは考えられない。
本件日日記事第四報は,昭和12年12月13日に掲載されているところ,それによれば,両少尉は同月10日の紫金山攻略戦で106対105という記録を作って,同日正午に対面し,翌11日からさらに「百五十人斬り競争」を始めることとしたとされているが,そもそも,この記事の内容自体が大言壮語の荒唐無稽な作り話であるとしか言いようがないものである。
本件日日記事の「百人斬り競争」については,後述する望月五三郎を除き,当時,両少尉の部下で,これを目撃した者は一人もおらず,これを信じる者もいなかった。また,本件日日記事報道以後,「百人斬り競争」は武勇伝としてもてはやされ,他紙においても後追い記事が掲載されたが,これらはいずれも到底信用できないものであった。
野田少尉は,南京攻略戦後,郷里の鹿児島で講演を行った際,「百人斬り競争」を否定しており,向井少尉は,南京攻略戦後も,部下に対し,「百人斬り競争」が冗談話を新聞記事にしたものであると度々話しており,「百人斬り競争」が創作であると話していた。
なお,本件日日記事は,中国側では我が国を誹謗中傷する宣伝材料として利用され,本件日日記事の第三報と第四報がジャパン・アドバタイザー紙に転載されると,国民党国際宣伝処の秘密顧問であったティンパレーによって,「殺人ゲーム」というタイトルを付けて紹介され,残虐事件の報道記事に仕立て上げられた。
向井少尉は,昭和21年7月1日,極東国際軍事裁判(以下「極東軍事裁判」又は「東京裁判」ともいう。)法廷3階325号室において,米国のパーキンソン検事から尋問を受けたが,「百人斬り競争」が事実無根ということで不起訴処分となり,釈放されたものである。パーキンソン検事は,向井少尉に対し,同少尉を召喚する前に新聞記者を喚問し,その結果,「百人斬り競争」は事実無根と判明したと述べ,「新聞記事によって迷惑被害を受ける人はアメリカ人にもたくさんいますよ」と述べて,握手して別れたのである。
なお,浅海記者及び鈴木記者は,向井少尉の尋問に先立って,同検事から尋問を受けており,その際,両記者は,本件日日記事の内容を「真実である」旨答えているが,この供述書は東京裁判には提出されなかったのであって,その理由は,記事を書いた両記者が「百人斬り競争」を目撃しておらず,記事に証拠価値がないと判断されたからである。
南京軍事裁判において,両少尉は,
本件日日記事の「百人斬り競争」は,日本刀の強度の点からもおよそあり得ないことであり,虚偽である。すなわち,軍刀は,将校にとって身分の象徴であり,守護刀であって,いわゆる指揮刀として使用されるものであり,戦闘に用いられることは極めて稀であった。しかも,将校用の軍刀は,美観を重視したものであり,実際には脆弱なものであって,多くの人を斬ることは到底不可能である。
本件日日記事の「百人斬り競争」は,当時の日本陸軍の組織の点からもおよそあり得ないことであり,虚偽である。すなわち,向井少尉は,歩兵砲の小隊長であるところ,歩兵砲の小隊長は,歩兵砲小隊を指揮し,自らを砲撃戦に任じているので,第一線の歩兵部隊のように突撃戦には参加しないし,その任務は,敵の重火器の撲滅あるいは制圧,第一線歩兵の援護射撃の指揮等であって,多忙を極め,そのような立場にある者がいきなり持ち場を離れることは,軍律違反であって許されることではない。なお,向井少尉は,軍刀での戦闘経験はない。
また,野田少尉は,大隊の副官であるところ,大隊副官は,大隊本部の事務整理と取締りを担当し,その任務は多忙であって,白兵戦に巻き込まれるのは,大隊本部が敵の急襲を受け,あるいは大隊長自らが突撃するような緊急の場合のみであり,そのような立場にある者が持ち場を離れて勝手気ままに殺人競争をすることは,許されることではない。
本件日日記事の「百人斬り競争」は,当時の南京攻略戦の実相から見てもおよそあり得ないことであり,虚偽である。すなわち,南京攻略戦は,近代戦であり,組織化した日本軍と中国軍との戦闘であって,中国軍はドイツ式の近代的組織防衛戦を行い,武器も日本軍兵器に遜色ないものであったから,両少尉が日本刀を振り回して中国兵に立ち向かうなどということはおよそ考えられない。
被告本多は,「百人斬り競争」が捕虜虐殺であったとする根拠として,志々目彰が小学生の時に聞いたという野田少尉の話を引用しているが,そのような話が本当にあったか否かも定かではないし,その内容も,近代戦である南京攻略戦においてはおよそ考えられないような話であって,到底信用することができない。
被告本多は,「百人斬り競争」が捕虜虐殺であったとする根拠として,鵜野晋太郎の「日本刀怨恨譜」を引用しているが,「百人斬り競争」とは,時と場所と殺害対象を特定した事実であり,残虐行為を行った全くの別人の話を根拠として,「百人斬り競争」が捕虜虐殺であったと断定することは許されない。
被告朝日は,望月五三郎の「私の支那事変」の一部を,コピーで「農民虐殺」の証拠として提出しているところ,この本には200か所を超える誤りがあり,依拠したとされる「覚え書」や「資料」等が存在するか否かも疑わしいものであるし,望月五三郎の「南京攻略作戦」当時の所属も不明確である。「百人斬り」の項では,常州と丹陽の位置関係を誤って記載したり,「百人斬り」を開始したとされる場所に誤りがあり,記載内容も抽象的かつあいまいであって,到底信用することができない。
本件日日記事は,昭和12年11月30日から同年12月13日にかけて4回にわたって連載されたものであり,関係した記者も,浅海,光本,安田,鈴木の4人の手によるものである。そして,浅海,鈴木両記者は,極東軍事裁判における検事の尋問に対する供述やその後の種々の記事で,両少尉からの聞き取りによる取材であることを明らかにしている。また,佐藤記者も,両少尉が「百人斬り競争」を行っているという話を直接聞いて,「取材の中で『斬った,斬ったと言うが,誰がそれを勘定するのか』と両少尉に聞いたところ,『それぞれに当番兵がついている。その当番兵をとりかえっこして,当番兵が数えているんだ」という話だった。」と述べている。両少尉が浅海記者らに虚偽の事実を告げることはあり得ず,これらから両少尉の「百人斬り競争」の事実が裏付けられる。
「百人斬り競争」については,当時,本件日日記事のほか,
にそれぞれ掲載されており,
野田少尉が中村碩郎あての手紙の中で「百人斬り競争」を自認し,「百人斬日本刀切味の歌」まで披露していること(昭和13年1月25日付け大阪毎日新聞鹿児島沖縄版),野田少尉が帰国後に新聞社の取材に対して「百人斬り競争」を認める発言をしていること(昭和13年3月21日付け鹿児島新聞),野田少尉の家族も「百人斬り競争」を認める発言をしていること(昭和13年3月22日付け鹿児島朝日新聞)などの事実からも,両少尉が「百人斬り競争」を事実であると認めていたことが裏付けられる。
望月五三郎は,昭和12年当時,冨山大隊第十一中隊に所属し,南京戦にも参加した人物であるところ,同人の著書である「私の支那事変」には,両少尉による「百人斬り競争」について記述されており,その内容は,具体的で迫真性があり,体験者でなければ到底書き得ないものである。
志々目彰は,雑誌「中国」昭和46年12月号に投稿した論稿の中で,同人が小学生のころに聞いた野田少尉の講演内容について記載しており,それによれば,野田少尉が「百人斬り競争」を認める発言をしていたものである。志々目彰は,野田少尉の話が,軍人を目指していた志々目彰にとってショックであり,それゆえ,明確な記憶として残っていたとするものであって,その内容も具体的で確かなものである。
両少尉は,その遺書においても,自分たちが「百人斬り競争」を語った事実自体は否定していない。
なお,両少尉は,南京軍事裁判において,野田少尉が麒麟門東方において行動を中止し,南京に入った事実はないとし,向井少尉が丹陽の戦闘で負傷し,救護班に収容されていた旨弁解しているところ,野田少尉は,上記のとおり,自ら「百人斬り競争」について具体的かつ詳細に語っているし,南京戦の資料でも冨山大隊が南京戦に参加していたことが認められ,向井少尉については,冨山大隊第三歩兵砲小隊に属し,向井少尉直属の部下であった田中金平の行軍記録中に負傷した事実の記載がないばかりか,昭和14年5月16日付け東京日日新聞の記事中では,自ら負傷した事実がないことを自認しているから,いずれの弁解も客観的資料や証言に反し,信用することができない。
望月五三郎の「私の支那事変」によれば,野田少尉が行軍中に見つけた中国国民を殺害し,「その行為は支那人を見つければ,向井少尉とうばい合ひする程,エスカレートしてきた」ことが明記されており,志々目彰の上記論稿によれば,野田少尉は,投降兵や捕虜を「並ばせておいて片つばしから斬」ったことを認めている。
洞富雄元早稲田大学教授は,詳細な資料批判を行った上,「百人斬り競争」が捕虜の虐殺競争であると考えているし,田中正俊元東京大学教授も,客観的資料に基づく実証的見解として,「百人斬り競争」の対象者のほとんどすべての人々が非武装者であったのではないかと述べており,「南京大虐殺のまぼろし」を執筆した鈴木明も捕虜の殺害であれば「百人斬り」の可能性があることを認め,秦郁彦拓殖大学教授も「百人斬り」が「戦ってやっつけた話じゃなさそうだ」と判断している。
そして,昭和12年の南京攻略戦当時,日本軍による略奪,強姦,放火,捕虜や一般民衆の殺害などはごくありふれた現象であり,多数の資料も存在するのであり,鵜野晋太郎が「日本刀怨,恨譜」で記しているように,多くの捕虜や農民の殺害が行われていたものである。
浅海記者は,本件日日記事について,自らが取材,執筆したものであるとした上,両少尉が自ら進んで積極的に話した内容を記事にしたものであって,その内容は真実であると述べている。
すなわち,浅海記者は,まず,昭和21年6月15日,極東軍事裁判所のパーキンソン検事の尋問を受けた際,本件日日記事第三報及び第四報に書かれていることが「真実か虚偽か」との質問に対し,「真実です」と明言し,続いて,南京軍事裁判に提出した昭和22年12月10日付け証明書においても,「両氏の行為は決して住民,捕虜等に対する残虐行為ではありません」,「同記事に記載されてある事實は右の両氏より聞きとって記事にしたもので(す)」と記載している。
また,浅海記者は,「週刊新潮」昭和47年7月29日号の記事において,両少尉から話を聞いたことを認めているほか,昭和52年9月発行の「ペンの陰謀」所収「新型の進軍ラッパはあまり鳴らない」においても,両少尉自らが浅海記者に百人斬り競争を計画していることを話し,その後の百人斬り競争の結果について両少尉の訪問を受けて,その経過を取材したことについて具体的に述べている。
鈴木記者は,本件日日記事第四報について,浅海記者と共同で取材,執筆したものであるとした上,両少尉が自ら進んで積極的に話した内容を記事にしたものであって,その内容は真実であると述べている。
すなわち,鈴木記者は,まず,昭和21年6月15日,浅海記者とともに,極東軍事裁判所のパーキンソン検事の尋問を受けた際,本件日日記事第四報に書かれていることは「真実ですか,虚偽ですか」との質問に対し,「真実です」と明言するとともに,同尋問において,1941年から1945年の間の陸軍省記者クラブ時代に大本営情報部から伝えられた情報については,振り返ってみれば記事の大部分は虚偽だったと思うとしながらも,上記記事に書いたことは,自分が真実だと知っていることだけを書いたと述べている。
また,鈴木記者は,昭和46年11月発行の雑誌「丸」所収「私はあの"南京の悲劇"を目撃した」において,両少尉から聞いた話を記事にしたと述べ,「週刊新潮」昭和47年7月29日号の記事においても,紫金山で両少尉に会い,浅海記者とともに両少尉から上記記事の事実を直接聞いたと述べている。
さらに,鈴木記者は,昭和52年9月発行の「ペンの陰謀」所収「当時の従軍記者として」において,両少尉から紫金山の麓で直接聞いたこと,虐殺ではないことを信じて記事にしたことを明確に述べているほか,「『南京事件』日本人48人の証言」においても,両少尉から上記のとおり聞いたと述べている。
佐藤記者は,本件日日記事第四報の写真を撮影をした際,両少尉が百人斬り競争の話をしたことを聞いていた旨一貫して述べている。
すなわち,佐藤記者は,まず,「週刊新潮」昭和47年7月29日号の記事において,本件日日記事第四報の写真を撮影した経緯を述べ,両少尉が浅海記者に「百人斬り競争」について進んで話をしていたこと,浅海記者が両少尉の話をメモにとっていたことを述べ,「百人斬り」の数の数え方についても「それなら話はわかる」と納得している。
また,佐藤記者は,平成5年12月8日発行の「南京戦史資料集U」所収「従軍とは歩くこと」において,両少尉が浅海記者に「百人斬り競争」について積極的に話していたこと,佐藤記者も納得できない点を質問し,返答を受けて納得できたと述べており,その後,南京の手前で浅海記者に会った際に,浅海記者がなおも「百人斬り競争」の取材を続けていたことを確認したと述べている。
さらに,佐藤記者は,当法廷においても,両少尉が浅海記者に「百人斬り競争」について話しているのを聞いたと明確に証言している。
本件各書籍の両少尉に関する記載は,上記(1)及び(2)の原告らの主張記載のとおり,両少尉の名誉を毀損することによって原告らの名誉を毀損するとともに,原告らの敬愛追慕の,情を違法に侵害し,原告らのプライバシー権を侵害するものであり,原告らは,これにより多大な精神的苦痛を受けたのであって,原告らの名誉を回復し精神的苦痛を慰謝するためには,被告本多,被告朝日及び被告柏において,第1の3及び5のとおり,謝罪広告を掲載し,第1の4及び6のとおり,慰謝料を支払う必要がある。
なお,原告らは,本件各書籍の記載により名誉を侵害されているところ,その名誉回復のためには,当該記載がなされているすべての書籍を対象にするのでなければならず,現在書店で販売されている書籍のみならず,インターネットや古書店において販売されている書籍及び全集の中に収録されたものをも対象にするのでなければ,原告らの名誉回復を図ることができないというべきである。
被告朝日は,現在出版,販売,頒布している「中国の旅」文庫本の第24刷,「南京への道」文庫本の第6刷,「本多勝一集 第23巻 南京への道」の第2刷以外のものについては,今後出版の予定がなく,原告らの当該出版差し止めを求める部分は訴えの利益がない。
また,名誉毀損を理由として出版を差し止めることは,原則として許されず,真実でないこと及び専ら公益を図る目的のものでないことが明白であり,かつ,重大かつ著しく回復困難な損害を被るおそれがある場合に限り,例外的に認められるものであって,本件においてかかる事情は見当たらないし,死者に対する敬愛追慕の情を侵害することを理由として出版を差し止めることはそもそもできないものである。
原告らの主張は争う。
本件各書籍のうち,「中国の旅」単行本の全部,「中国の旅」文庫本の第23刷まで,「本多勝一集 第14巻 中国の旅」の全部,「南京への道」単行本の全部,「南京への道」文庫本の第5刷まで,「本多勝一集 第23巻 南京への道」の第1刷については,本訴提起時に発行日から3年以上を経過しており,消滅時効が完成している。
また,仮に,消滅時効の起算点を書籍の出庫終了時とするとしても,本件各書籍のうち,両少尉を実名で表記したもの(「中国の旅」単行本の全部,「中国の旅」文庫本の第15刷まで及び「南京への道」単行本の全部)についてはすべて,両少尉を匿名で表記したものについても,「中国の旅」文庫本の第23刷及び第24刷,「本多勝一集 第14巻 中国の旅」の全部,「南京への道」文庫本の第6刷並びに「本多勝一集 第23巻 南京への道」の第2刷以外はすべて,出庫終了から3年以上を経過しており,消滅時効が完成している。
したがって,被告朝日は,「中国の旅」及び「南京への道」二のうち,上記の書籍に関する不法行為に基づく損害賠償請求権について,民法724条に基づき,消滅時効を援用する。
被告本多及び被告朝日の主張は争う。
本件日日記事は,片桐部隊の若い将校である両少尉が,首都南京に向かう前線で中国兵を斬り倒し,「百人斬り」の競争を行っているという内容のものであって,浅海記者による戦意高揚の創作記事であった。しかしながら,その記事が原因となり,両少尉は,昭和22年,南京軍事裁判所に戦犯として起訴され,昭和23年1月28日,銃殺刑に処せられた。
被告毎日は,そもそも,国民の知る権利に奉仕するジャーナリズムに携わる者として,真実を報道していないという疑いがある場合に,自ら検証し,その経過を国民に知らせ,誤りを発見した場合には,速やかに訂正する義務を負担しているというべきである。
また,本件日日記事が虚報である以上,当時において,両少尉の名誉を毀損することがなかったとしても,虚報を国民に事実として報道したこと自体が,国民の知る権利を侵害し,公共性を有する新聞社として違法行為であるというべきである。
そして,被告毎日は,本件日日記事が虚報であり,それを訂正しなかったことによって両少尉が軍事裁判で銃殺刑に処せられたという先行行為が存在していたにもかかわらず,その後,昭和47年に「朝日新聞」紙上において,被告本多が「百人斬り競争」の記事を掲載して以降,現在に至るまで,自社の虚報を正さず,放置し続けており,かかる不作為によって,本件各書籍を始め,「百人斬り競争」を事実とする多数の書籍により,両少尉及び原告らに対する名誉毀損状態が生じている。
本件日日記事が両少尉の名誉毀損に当たるか否かは,一般読者の普通の注意と読み方を基準として判断すべきものであり,当該記事が発行され,読者が閲読し得る時点を基準として判断すべきものであるところ,同記事は,日中戦争という国家間の戦争下にあって,日本軍に属していた両少尉が敵国正規軍9陣地トーチカに突進して,敵の兵隊を多数斃したという報道であり,あくまで正規軍間の戦闘関係を報じたものであって,敗走する兵は斬らないとしているのであるから,ましてや非戦闘員を虐殺したと報道したものではない。
国家権力の発動たる戦闘行為にあって,敵国正規軍を多く斃したという事実を報道することは,当時においては日本軍に属し戦闘行為を遂行していた両少尉の社会的評価を高めることはあっても,その名誉を毀損するものではない。
原告らは,現行憲法21条に基づく立論をするが,そもそも,本件日日記事発行当時は,旧憲法の下にあり,状況は自ずから異なるものであるし,発表当時適法行為であったものが,現行憲法制定により違法となることは,法律不遡及の原則(現行憲法39条)から失当であることが明らかである。
また,原告らは,いったん名誉毀損行為がなされたときは,その訂正がなされるまでの間,名誉毀損行為が存続していると主張しているが,そもそも名誉毀損にあっては,表現行為が外部になされたときが不法行為時であり,この時点において請求権が発生し,行為は完結するものである。
もし,原告ら主張のとおり,誤報を行った者すべてについて訂正すべき法的義務が存在するとなると,国家権力は,表現者に対して法的義務として訂正を命ずることとなり,憲法19条,21条に反するものであって,原告らの主張は失当である。
さらに,本件日日記事について,原告らの主張のとおり不法行為に該当するとしても,両少尉は,当該記事の発表について,当時了承していたのであり,いわゆる被害者の承諾として違法性が阻却されるものである。すなわち,両少尉の供述によれば,二人の名前で「百人斬り」を新聞記事として発表することを持ちかけたのは向井少尉であり,これを受けた浅海記者が「百人斬り」の記事を掲載するという話に対し,野田少尉もこれについて黙認したのである。
なお,本件日日記事が原告ら主張のとおり引用ないし掲載されたとしても,それは被告毎日の表現行為ではなく,被告毎日において,その点の責めを負うべき理由はない。
本件日日記事の両少尉に関する記載は,上記(5)の原告らの主張欄のとおり,両少尉の名誉を毀損するとともに,原告らの敬愛追慕の情を違法に侵害するものであり,原告らは,これにより多大な精神的苦痛を受けたのであって,原告らの名誉を回復し精神的苦痛を慰謝するためには,被告毎日において,第1の7のとおり,訂正謝罪広告を掲載し,第1の8のとおり,慰謝料を支払う必要がある。
原告らの主張は争う。
被告毎日の主張は争う。原告らは,上記(5)の原告らの主張欄のとおり,本件日日記事の発行自体を問題としているのではなく,被告毎日の不作為義務違反を問題としているのであって,被告毎日の主張は失当である。
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