判決文その2:事実及び理由その1
(提訴の概要)

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大項目目次

事実及び理由
  第1 請求・・《民事原告からの請求内容》
  第2 事案の概要
    1  《どのような請求事案か》
    2 争いの無い事実
    3 争点
    4 争点に関する当事者の主張
     (1)争点(1)について
     (2)争点(2)について
      《本多著書が名誉毀損や敬愛追慕の情侵害などになるか》
     (3)争点(3)について
     (4)争点(4)について
     (5)争点(5)について
     (6)争点(6)について
     (7)争点(7)について
      《 凡例 》
色Black:判決文表現
(色Green:判決書の原注)
《色Maroon:転写者の注釈》
色Olive:番地/リンク

事実及び理由

第1 請求

  1. 被告株式会社朝日新聞社(以下「被告朝日」という。)は,別紙一書籍目録一(*)記載の各書籍(以下「本件書籍一」という。)《=「中国の旅」》及び別紙二書籍目録二(*)記載の各書籍(以下「本件書籍二」という。) 《=「南京への道」》中,別表記載の各部分(*)を出版,販売又は頒布してはならない。
  2. 被告柏書房株式会社(以下「被告柏」という。) は,別紙三書籍目録三(*)記載の各書籍(以下「本件書籍三」という。)《=「南京大虐殺否定論13のウソ」》中,別表記載の部分(*)を出版,販売又は頒布してはならない。
  3. 被告朝日及び被告本多勝一(以下「被告本多」という。) は,朝日新聞,産経新聞の各全国版に,別紙四記載の謝罪広告を別紙四記載の掲載条件(*)にて各1回掲載せよ。
  4. 被告朝日及び被告本多は,各原告に対し,連帯して,600万円及びこれに対する平成15年7月8日から支払済みまで年5分の割合による金員を各支払え。
  5. 被告柏及び被告本多は,朝日新聞,産経新聞の各全国版に,別紙五記載の謝罪広告を別紙五記載の掲載条件(*)にて各1回掲載せよ。
  6. 被告柏及び被告本多は,各原告に対し,連帯して,300万円及びこれに対する平成15年7月8日から支払済みまで年5分の割合による金員を各支払え。
  7. 被告株式会社毎日新聞社(以下「被告毎日」という。) は,毎日新聞の全国版に,別紙六記載の訂正謝罪広告を別紙六記載の掲載条件(*)にて1回掲載せよ。
  8. 被告毎日は,各原告に対し,300万円及びこれに対する平成15年7月8日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。

《 凡例 》

以下判決文を読みやすくするために、「文献目録リスト」に従って判決文中の記載、

「本件書籍一」を:「中国の旅」に、
「本件書籍一の1」を:「中国の旅」単行本 に、
「本件書籍一の2」を:「中国の旅」文庫本 に、
「本件書籍一の3」を:「本多勝一集 第14巻 中国の旅」に、
「本件書籍二」を:「南京への道」に、
「本件書籍二の1」を:「南京への道」単行本 に、
「本件書籍二の2」を:「南京への道」文庫本 に、
「本件書籍二の3」を:「本多勝一集 第23巻 南京への道」に、
「本件書籍三」を:「南京大虐殺否定論13のウソ」に、

用語定義個所を除いて、上記のように書き換えました。

 
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第2 事案の概要

  1. 本件は,故向井敏明少尉(以下「向井少尉」という。)の遺族である原告田所千惠子(以下「原告千惠子」という。)及び原告エミコ・クーパー(以下「原告エミコ」という。)並びに故野田穀少尉(以下「野田少尉」という。)の遺族である原告野田マサ(以下「原告マサ」という。)が,
    • @ 被告本多において,被告朝日の出版に係る「中国の旅」及び「南京への道」の中で,向井少尉及び野田少尉(以下,両名を「両少尉」と総称する。)がゲームとして殺人競争をしたとの事実,両少尉が捕虜を虐殺したとの事実等を摘示し,
    • A 被告本多において,被告柏の出版に係る「南京大虐殺否定論13のウソ」の中で,「百人斬り競争」は真実であるとの事実,両少尉が捕虜又は一般民衆を虐殺したとの事実等を摘示し,上記各書籍により,両少尉の名誉を毀損するとともに,その遺族である原告らの名誉を毀損し,あるいは,原告らのプライバシー権を侵害し,原告らの両少尉に対する敬愛追慕の情を侵害したとして,また,
    • B 被告毎日において,その前身たる東京日日新聞が昭和12年11月30日から同年12月13日までの間に掲載したいわゆる「百人斬り」報道(※)について,虚報であることが明らかとなったにもかかわらず,それを訂正せず,その不作為によって両少尉の名誉を毀損するとともに,その遺族である原告らの名誉を毀損し,あるいは,原告らの両少尉に対する敬愛追慕の情を侵害したとして,いずれも,人格権侵害の不法行為に基づき,
    • @については,被告朝日に対し,第1の1のとおり,各書籍の出版,販売,頒布の差し止めを求めるとともに,被告朝日及び被告本多に対し,第1の3のとおりの謝罪広告の掲載及び第1の4のとおりの損害賠償金の連帯支払を求め,
    • Aについては,被告柏に対し,第1の2のとおり,各書籍の出版,販売,頒布の差し止めを求めるとともに,被告柏及び被告本多に対し,第1の5のとおりの謝罪広告の掲載及び第1の6のとおりの損害賠償金の連帯支払を求め,
    • Bについては,被告毎日に対し,第1の7のとおりの謝罪広告の掲載及び第1の8のとおりの損害賠償金の支払を求めた事案である。
  2. 争いのない事実等(証拠掲記のないものは,記録上明らかであるか,当事者間に争いがない事実である。なお,以下,枝番表示を省略した書証は,全枝番を含む。)
    • (1) 原告千惠子及び原告エミコは,向井少尉の子であり,原告マサは,野田少尉の妹である。
    • (2) 被告本多は,被告朝日の元記者であり,ジャーナリストであって,本件書籍一ないし三(以下「本件各書籍」という。)《=「中国の旅」、「南京への道」及び「南京大虐殺否定論13のウソ」》の著者である。
       被告柏は,出版及び出版販売等を目的とする株式会社であり,本件書籍三《「南京大虐殺否定論13のウソ」》を出版している。  被告朝日は,日刊新聞その他の新聞の制作,発行及び販売等を目的とする株式会社であり,本件書籍一及び二《「中国の旅」及び「南京への道」》を出版している。
       被告毎日は,明治5年に東京日日新聞の名称で設立された新聞社であり,時事に関する報道,論説を掲載する日刊新聞の制作,発行及び販売等を目的とする株式会社である。

      《本件図書」は文献目録リスト 参照 》

    • (3) 両少尉は,昭和12年8月1日当時,いずれも陸軍上海派遣軍第十六師団(師団長中島今朝吾中将。以下「第十六師団」という。)歩兵第十九旅団(旅団長草場辰巳少将。以下「草場旅団」ともいう。)歩兵第九連隊(連隊長片桐護郎大佐。以下「片桐連隊」又は「片桐部隊」ともいう。)第三大隊(大隊長冨山武雄少佐。以下「冨山大隊」ともいう。)に所属し,向井少尉は,冨山大隊の歩兵砲小隊長,野田少尉は,同大隊の副官であった(甲84)
       なお,歩兵第九連隊には,他に第一大隊(大隊長青柳由郎少佐。以下「第一大隊」という。)及び第二大隊(大隊長児玉忠雄少佐。以下「第二大隊」という。)が編成されていた(甲84)

      《参考:南京事件資料集中支那方面軍編成

    • (4) 東京日日新聞は,昭和12年11月30日,同年12月4日,同月6日及び同月13日,それぞれ別紙七から十までのとおりの記事(*)(**)を掲載した(以下,これらの記事を「本件日日記事」といい,別紙七から十までの記事を順次「本件日日記事第一報」又は単に「第一報」,「本件日日記事第二報」又は単に「第二報」などという。)
       本件日日記事は,いずれも,当時,戦線に特派された同新聞社記者故浅海一男(以下「浅海記者」という。)らによる署名記事であり,また,本件日日記事第四報には,当時,戦線に特派された同新聞社写真記者佐藤振壽(以下「佐藤記者」という。)によって撮影された両少尉の軍服姿の写真が掲載されていた(※)(甲4ないし7,乙7,弁論の全趣旨)
    • (5) 当時の国民政府国防部審判戦犯軍事法庭検察官は,昭和22年12月4日,両少尉について,昭和12年12月5日,句容において,向井少尉が中国人89人を殺害し,野田少尉が中国人78人を殺害し,さらに,同月11日,紫金山麓において,向井少尉が中国人106人を殺害し,野田少尉が中国人105人を殺害したとの事実により,国防部審判戦犯軍事法庭(以下「南京軍事裁判所」ともいう。)に公訴を提起した。(※)
       両少尉は,起訴事実を争ったが(※ア)(※イ),同法庭は,昭和22年12月18日,両少尉に対し,作戦期間共同連続して捕虜及び非戦闘員を屠殺したとして,田中軍吉大尉と共に,死刑判決を言い渡した(以下「南京軍事裁判」又は「南京裁判」という。)
       両少尉は,同判決を不服として上訴を申し立てたが,昭和23年1月28日,南京雨花台において,田中軍吉大尉と共に銃殺刑に処せられた(甲27,28,32,33,60)(※)
    • (6) 被告朝日は,「中国の旅」及び「南京への道」を,別紙書籍目録一及び二(*)記載のとおり発行し,被告柏は,「南京大虐殺否定論13のウソ」を,別紙書籍目録三(*)記載のとおり発行している(甲1ないし3,39,40)
    • (7) 本件各書籍には,以下の記載がある(甲1ないし3,9,10,37,38)
      • ア 「中国の旅」単行本のうち別表記事番号一の1の1及び一の1の2(*)の各部分には,別紙十一の一及び二のとおりの記載がある。(*)
      • イ 「中国の旅」文庫本は,「中国の旅」単行本を文庫本にしたものであり,また,「本多勝一集 第14巻 中国の旅」は,「中国の旅」単行本を被告本多の全集に収録したものであって,「中国の旅」文庫本のうち別表記事番号一の2の1及び一の2の2の各部分(*)には,別紙十一の三及び四のとおりの(*),「本多勝一集 第14巻 中国の旅」のうち別表記事番号一の3の1及び一の3の2の各部分(*)には,別紙十一の五及び六のとおりの各記載がある。(*)
         なお,「中国の旅」文庫本については,第15刷までは,別紙十一の三及び四の記載(*)において,両少尉の実名が掲載されており,また,「〔16刷からの追記〕」の部分が記載されていなかった。
      • ウ 「南京への道」単行本のうち別表記事番号二の1の1及び二の1の2の各部分(*)には,別紙十二の一及び二のとおりの記載がある。(*)
      • エ 「南京への道」文庫本は,「南京への道」単行本を文庫本にしたものであり,また,「本多勝一集 第23巻 南京への道」は,「南京への道」単行本を被告本多の全集に収録したものであって,「南京への道」文庫本のうち別表記事番号二の2の1及び二の2の2の各部分(*)には,別紙十二の三及び四のとおり(*)の,「本多勝一集 第23巻 南京への道」のうち別表記事番号二の3の1及び二の3の2の各部分(*)には,別紙十二の五及び六のとおりの各記載がある(*)
      • オ 「南京大虐殺否定論13のウソ」のうち別表記事番号三の部分(*)には,別紙十三のとおりの記載がある(*)
  3. 争点
    • (1) 本件各書籍の記載は,いかなる事実を摘示し,又はいかなる論評を表明したものか。
    • (2) 本件各書籍の記載は,両少尉の名誉を毀損するものか。また,原告らの名誉を毀損し,あるいは,原告らの敬愛追慕の情を違法に侵害し,原告らのプライバシー権を侵害するものか。
    • (3) 原告らは,本件各書籍の発行により,損害を受けたか。受けたとすればいかなる回復措置が講じられるべきか。
    • (4) 「中国の旅」及び「南京への道」の一部に関する原告らの損害賠償請求権について,消滅時効が成立しているか。
    • (5) 被告毎日は,本件日日記事が虚報であることが明らかとなったにもかかわらず,それを訂正しないという不作為により,両少尉の名誉を毀損したか。また,原告らの名誉を毀損し,あるいは,原告らの敬愛追慕の情を違法に侵害したか。
    • (6) 原告らは,被告毎日の上記(5)の不作為により,損害を受けたか。受けたとすればいかなる回復措置が講じられるべきか。
    • (7) 被告毎日に対する原告らの損害賠償請求権について,消滅時効が成立しているか,又は除斥期間が経過しているか。

     
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  4. 争点に関する当事者の主張
    • (1) 争点(1)について
      • (原告らの主張)

        「中国の旅」は,別表記事番号一の1の1,一の2の1及び一の3の1の各部分(*)において,

        • @賞がかかった上官命令により,
        • A両少尉が句容から南京城まで3回にわたって百人斬り競争をし,3度目は百五十人斬り競争であったこと,
        • Bその対象は中国人であって,戦闘中ではなく,平時の殺人ゲームであったこと,
        • C両少尉が,紫金山の時点において,向井少尉については195人,野田少尉については183人の中国人を殺害していたことを事実として摘示し,また,別表記事番号一の1の2,一の2の2及び一の3の2の各部分(*)において,両少尉が「捕虜据えもの百人斬り競争」をしたこと,本件日日記事の報道した「百人斬り競争」が「捕虜据えもの百人斬り競争」であったことを事実として摘示している。

          「南京への道」は,別表記事番号二の1の1,二の2の1及び二の3の1(*)の「百人斬り"超記録"」の見出し及び本文部分において,「百人斬り競争」が記録としてあったこと,両少尉が,捕虜虐殺である「据えもの百人斬り競争」をしたことを事実として摘示している。

          「南京大虐殺否定論13のウソ」は,別表記事番号三の「第6のウソ 「百人斬り競争」はなかった」の見出し及び本文部分(*)において,「中国の旅」及び「南京への道」に摘示した事実に加え,両少尉が「百人斬り」を認めていたこと,両少尉が互いに罪をなすりつけようとしたことを事実として摘示している。
      • (被告本多の主張)

        本件各書籍は,原告主張に係る事実を摘示したものではなく,両少尉の「百人斬り競争」について,種々の資料批判の上で,戦闘行為だけで多数の人間を斬ることは不可能であることから,捕虜や非武装者が相当含まれていると考えて論評したものである。

      • (被告柏の主張)

        本件各書籍がどのような事実を摘示したものであるかは,一般読者の普通の注意と読み方とを基準として判断すべきところ,「南京大虐殺否定論13のウソ」の別表記事番号三は(*),本件日日記事から62年,両少尉の死亡から52年を経過した後に出版されたものであって,東京日日新聞が報道した「百人斬り競争」(※)に対する否定論の論評を紹介した上,関連する資料を検討することによって否定論に反論し,「百人斬り競争」の実相を究明しようとしたものであって,全体が史料考証による論評という性格を有し,両少尉に対する人格的な非難を伴うものではない。

      • (被告朝日の主張)

        「中国の旅」は,別表記事番号一の2の2のうち第16刷以降及び別表記事番号一の3の2において(*),「捕虜を裁判もなしに据えもの斬りにすることなど当時の将校には『ありふれた現象』(鵜野晋太郎氏)にすぎなかった。日本刀を持って中国に行った将兵が,据えもの斬りを一度もしなかった例はむしろ稀であろう。たまたま派手に新聞記事になったことから死刑になった点に関してだけは,両少尉の不運であった。」旨記載し,「南京への道」は,別表記事番号ニの1の1,二の2の1及び二の3の1において(*),志々目彰が直接聞いたという野田少尉の言葉を引用した上で,「これでは,あの武勇伝も実は『据えもの百人斬り』であり,要するに捕虜虐殺競争の一例にすぎなかったことになる」旨記載しているところ,これらは,本件日日記事(※),志々目の話(※),鵜野晋太郎の「日本刀怨恨譜」(※)に基づいて,両少尉の「百人斬り競争」について,白兵戦のような状況で自分が傷つかずに百人も斬ることは常識的には無理な話であろうとの趣旨で論評したものであって,「据えもの百人斬りをした」,「捕虜を虐殺した」との事実を摘示したものではない。

       

       
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    • (2) 争点(2)について
      • (原告らの主張)
        •  本件各書籍が摘示した事実は,上記(1)の原告らの主張記載のとおりであるところ,このうち,「中国の旅」単行本の全部,「中国の旅」文庫本の第15刷まで及び「南京への道」単行本の全部については,いずれも両少尉の実名が掲載されているし,「中国の旅」文庫本の第16刷以降,「本多勝一集 第14巻 中国の旅」,「南京への道」文庫本及び「本多勝一集 第23巻 南京への道」並びに「南京大虐殺否定論13のウソ」については,いずれも向井少尉を「M」,野田少尉を「N」と表記しているが,現在,いわゆる「百人斬り」で処刑された二人の少尉が両少尉であることは,日本史の知識のある者の間では公知の事実であるから,一般の読者は,上記の表記が両少尉であることを認識することができるものというべきであるし,「中国の旅」文庫本は,実名をイニシャルに変更する第16刷以前におびただしい数の増刷を重ねており,その他多数の書籍が両少尉を実名で掲載しているから,一般読者は,たとえイニシャルに変更されたとしても,「M」が向井少尉であり,「N」が野田少尉を指すことを容易に認識し得たものというべきである。
        •  死者に対する名誉毀損は,それ自体認められるべきものであるし,それが遺族の社会的評価の低下につながる場合には,遺族に対する固有の名誉毅損を構成するものと解されるところ,被告本多,被告柏及び被告朝日は,本件各書籍において,上記(1)の原告らの主張欄のとおりの事実を摘示し,これによって,両少尉が「百人斬り競争」及び捕虜虐殺をするような残虐な人間であり,南京大虐殺の実行犯と認識されるようになり,両少尉の社会的評価を低下させるとともに,原告らがそのような者の娘あるいは妹であると認識されるようになり,原告らの社会的評価をも低下させるものであって,その固有の名誉を穀損したものである。
        •  仮に,本件各書籍が,両少尉に対する名誉毀損にとどまり,その遺族である原告らに対する名誉毅損を構成するものではないとしても,被告本多,被告柏及び被告朝日は,本件各書籍において,上記(1)の原告らの主張記載のとおりの事実を摘示することにより,原告らの両少尉に対する敬愛追慕の情等の人格的利益を社会的に妥当な受忍の限度を超えて侵害したものである。
        •  プライバシー権とは,みだりに私生活に侵入されたり,他人に知られたくない私生活上の事実,情報を公開されない権利をいい,原告らの父や兄である両少尉が南京軍事裁判で戦犯として処刑されたことは,原告らのプライバシーに属する事柄であるにもかかわらず,被告本多,被告柏及び被告朝日は,本件各書籍において,この事実をみだりに公表し,原告らのプライバシー権を侵害したものである。
        •  本件は,上記のとおり,死者に対する名誉毀損等が問題となるものであるところ,本件各書籍のように,殺人ゲームや捕虜虐殺競争などという死者に対する重大な名誉毀損事実を摘示し,これによって両少尉が残酷で残虐な人間であると広く認識されるようになったことや,執筆者である被告本多がほとんど何らの検証もせずに上記の記載をしていることなどからすれば,本件各書籍によって生じた名誉毀損及び敬愛追慕の情の侵害について,虚偽性は違法性の要件とはならず,被告本多らにおいて,事実の公共性,目的の公益性及び真実性又は真実相当性についての主張立証責任を負うべきである。そして,被告本多らが上記の記載をすることに何らの公共性も公益性も認められない上,後記カのとおり,摘示された事実はいずれも真実ではなく虚偽であり,被告本多らにおいて,「中国の旅」及びこの執筆の際には多数生存していた南京攻略戦従軍兵士,両少尉の部下,戦友に取材するなどの調査を怠っていたのであるから,真実相当性がないことも明らかである。
        •  本件各書籍は,上記(1)の原告らの主張記載のとおりの事実を摘示したものであるところ,これらはいかなる意味でも虚偽である。
          • (ア) 本件日日記事の「百人斬り競争」が虚偽であることは,以下のことから明らかである。

            南京攻略戦当時の我が国の新聞においては,被告毎日の前身である東京日日新聞や被告朝日を始め,各新聞社の報道競争が過熱しており,真実は軽んじられ,戦意を高揚する記事がもてはやされていた。両少尉の南京軍事裁判での陳述によれば,両少尉は,昭和12年11月29日,無錫郊外で浅海記者と出会い,その後,常州の城門近くで記念撮影をしたということである。《注釈と疑問 001》
             この際,浅海記者は,両少尉に「百人斬り競争」という冗談話を持ちかけたところ,その武勇伝に両少尉が名前を貸し,この冗談話を基に本件日日記事が掲載されたものであって,それらは,浅海記者によって作り上げられた戦意高揚のための創作記事であった。

            冨山大隊は,昭和12年11月26日正午すぎに無錫駅を占領した後,同日午後,常州に向けて追撃を開始したため,無錫城内には入っていない。冨山大隊は,同日は無錫より約3里のところで露営し,翌27日には横林鎮で中国の退却部隊と遭遇し,戦闘となった。冨山大隊は,同月28日,常州へ向けて出発し,翌29日に常州に入城した。
             向井少尉は,同年12月2日,丹陽にて砲撃戦中に負傷して,離隊し,救護班に収容された。冨山大隊は,同月4日,命令変更により丹陽を出発し,句容に向かったが,翌5日早朝,既に金沢師団が句容西方の退路を遮断していることを知り,旅団長の命令により句容を攻略することなく,北へ迂回転進することとなった。
             そのため,冨山大隊は,句容に入ることなく北上し,同日は賈崗里で宿泊して,翌6日,同所を出発し,砲兵学校を占領し,同月7日,前面偵察のため,西進した湯水鎮を経由することなく蒼波鎮に出た。冨山大隊は,その後,同月10日から12日にかけて,紫金山南麓にいる中国軍を攻撃しながら,南京城に向かって西進した。

            このように,向井少尉は,丹陽の戦闘で負傷して前線を離れ,同月中旬に冨山大隊に復帰したものであるし,野田少尉も句容には入っておらず,また,紫金山の攻撃は,歩兵第三十三連隊が行ったものであって,両少尉とも紫金山の山頂にも行っていないのであるから,本件日日記事第三報及び第四報に記載された経路は,両少尉の真実の行軍経路に反している。

            本件日日記事は,上記のほか,以下の点においても事実に反している。

            本件日日記事第一報は,昭和12年11月30日に掲載されているところ,それによれば,両少尉が無錫出発後に「百人斬り競争」を始め,無錫から常州までの間に,向井少尉が56人,野田少尉が25人を斬ったとされている。しかしながら,佐藤記者は,常州で両少尉と会った際,浅海記者から「二人はここから南京まで百人斬り競争をする。」という話を聞いたのであって,第一報はこの話の内容に反している。
             また,第一報では,向井少尉の斬った人数が,横林鎮で55人,常州駅で4人の合計59人となっており,上記の人数と矛盾しているし,第一報が真実であれば,両少尉の記念撮影をしたとき,両少尉は,常州駅で数人の中国兵を斬った直後ということとなるが,佐藤記者もそのような話を聞いておらず,両少尉も全く返り血を浴びていなかったのであって,不自然である。

            本件日日記事第二報は,昭和12年12月4日に掲載されているところ,それによれば,常州から丹陽までの間に,向井少尉が30人,野田少尉が40人を斬り,向井少尉が丹陽中正門に一番乗りをしたとされている。しかしながら,向井少尉は,上記のとおり,丹陽の砲撃戦で負傷して前線を離れ,野田少尉も丹陽には入城しておらず,両少尉の行軍経路に反している。

            本件日日記事第三報は,昭和12年12月6日に掲載されているところ,同日の隣の記事は,浅海記者が同じ日に丹陽で取材したものであり,同記者が丹陽からはるか離れた句容まで「百人斬り競争」の結果を取材したとは考えられない。

            本件日日記事第四報は,昭和12年12月13日に掲載されているところ,それによれば,両少尉は同月10日の紫金山攻略戦で106対105という記録を作って,同日正午に対面し,翌11日からさらに「百五十人斬り競争」を始めることとしたとされているが,そもそも,この記事の内容自体が大言壮語の荒唐無稽な作り話であるとしか言いようがないものである。

            本件日日記事の「百人斬り競争」については,後述する望月五三郎を除き,当時,両少尉の部下で,これを目撃した者は一人もおらず,これを信じる者もいなかった。また,本件日日記事報道以後,「百人斬り競争」は武勇伝としてもてはやされ,他紙においても後追い記事が掲載されたが,これらはいずれも到底信用できないものであった。
             野田少尉は,南京攻略戦後,郷里の鹿児島で講演を行った際,「百人斬り競争」を否定しており,向井少尉は,南京攻略戦後も,部下に対し,「百人斬り競争」が冗談話を新聞記事にしたものであると度々話しており,「百人斬り競争」が創作であると話していた。

            なお,本件日日記事は,中国側では我が国を誹謗中傷する宣伝材料として利用され,本件日日記事の第三報と第四報がジャパン・アドバタイザー紙に転載されると,国民党国際宣伝処の秘密顧問であったティンパレーによって,「殺人ゲーム」というタイトルを付けて紹介され,残虐事件の報道記事に仕立て上げられた。

            向井少尉は,昭和21年7月1日,極東国際軍事裁判(以下「極東軍事裁判」又は「東京裁判」ともいう。)法廷3階325号室において,米国のパーキンソン検事から尋問を受けたが,「百人斬り競争」が事実無根ということで不起訴処分となり,釈放されたものである。パーキンソン検事は,向井少尉に対し,同少尉を召喚する前に新聞記者を喚問し,その結果,「百人斬り競争」は事実無根と判明したと述べ,「新聞記事によって迷惑被害を受ける人はアメリカ人にもたくさんいますよ」と述べて,握手して別れたのである。

            なお,浅海記者及び鈴木記者は,向井少尉の尋問に先立って,同検事から尋問を受けており,その際,両記者は,本件日日記事の内容を「真実である」旨答えているが,この供述書は東京裁判には提出されなかったのであって,その理由は,記事を書いた両記者が「百人斬り競争」を目撃しておらず,記事に証拠価値がないと判断されたからである。

            南京軍事裁判において,両少尉は,

            • @浅海記者が野田少尉と会ったのは2回,向井少尉と会ったのは1回であったにもかかわらず,新聞記事が4,5回も報道されていること,
            • A野田少尉が麒麟門で戦車に乗った浅海記者に会ったとき,浅海記者が最後の記事を既に送稿したと話しており,後日,その記事が紫金山の記事であることを知ったこと,
            • B両少尉が句容には入っておらず,句容の記事が創作であること,
            • C向井少尉が砲撃戦に参加したのは,無錫と丹陽のみであり,丹陽の戦闘で左膝頭部及び肘右手下部を負傷して,離隊し,救護班に収容され,その後戦闘に参加することができず,砲兵学校で帰隊したことから,句容,紫金山の記事が創作であること,
            • D両少尉は丹陽で別れた後,向井少尉が帰隊するまで会っていないこと,
            • E向井少尉が昭和21年7月に東京裁判の検察官から取調べを受けたが不問に付せられたことなどを主張して,「百人斬り競争」が虚偽であると主張し,無罪を訴えた。しかしながら,南京軍事裁判所は,ただ一度の公判審理で,両少尉の申請した浅海記者と冨山大隊長を証人として採用することもなく,被害者証人を取り調べることすらせずに,即日両少尉及び田中軍吉大尉に死刑判決を言い渡した。両少尉は,冨山大隊長,冨山大隊本部書記竹村政弘,浅海記者の証明書を付けて,再審を申し立てたが,認められず,昭和23年1月28日,銃殺刑に処せられた。これら南京軍事裁判の記録及び経過を見れば,この裁判が極めて不当であり,報復裁判以外の何物でもなかったことは明らかである。

            本件日日記事の「百人斬り競争」は,日本刀の強度の点からもおよそあり得ないことであり,虚偽である。すなわち,軍刀は,将校にとって身分の象徴であり,守護刀であって,いわゆる指揮刀として使用されるものであり,戦闘に用いられることは極めて稀であった。しかも,将校用の軍刀は,美観を重視したものであり,実際には脆弱なものであって,多くの人を斬ることは到底不可能である。

            本件日日記事の「百人斬り競争」は,当時の日本陸軍の組織の点からもおよそあり得ないことであり,虚偽である。すなわち,向井少尉は,歩兵砲の小隊長であるところ,歩兵砲の小隊長は,歩兵砲小隊を指揮し,自らを砲撃戦に任じているので,第一線の歩兵部隊のように突撃戦には参加しないし,その任務は,敵の重火器の撲滅あるいは制圧,第一線歩兵の援護射撃の指揮等であって,多忙を極め,そのような立場にある者がいきなり持ち場を離れることは,軍律違反であって許されることではない。なお,向井少尉は,軍刀での戦闘経験はない。

            また,野田少尉は,大隊の副官であるところ,大隊副官は,大隊本部の事務整理と取締りを担当し,その任務は多忙であって,白兵戦に巻き込まれるのは,大隊本部が敵の急襲を受け,あるいは大隊長自らが突撃するような緊急の場合のみであり,そのような立場にある者が持ち場を離れて勝手気ままに殺人競争をすることは,許されることではない。

            本件日日記事の「百人斬り競争」は,当時の南京攻略戦の実相から見てもおよそあり得ないことであり,虚偽である。すなわち,南京攻略戦は,近代戦であり,組織化した日本軍と中国軍との戦闘であって,中国軍はドイツ式の近代的組織防衛戦を行い,武器も日本軍兵器に遜色ないものであったから,両少尉が日本刀を振り回して中国兵に立ち向かうなどということはおよそ考えられない。

          • (イ) 被告本多は,本件日日記事の「百人斬り競争」を,上官が命令して両少尉に民間人を殺害させ,勝者には賞が出されるという「殺人ゲーム」に変容させ,昭和46年の朝日新聞紙上に「競う二人の少尉」として掲載させ,「中国の旅」にも記載した。この「殺人ゲーム」は,本件日日記事の「百人斬り競争」とは全く別物であり,何の根拠もないものである。
          • (ウ) 「百人斬り」論争は,被告本多の上記朝日新聞記事を契機として,本件日日記事の「百人斬り競争」の真偽について論争がなされたものであり,最終的には,被告本多が「死人に口なし」と逃げ込んで論争を放棄し,「百人斬り競争」が虚偽であることで決着がついた。そこで,被告本多は,新たに「百人斬り競争」が捕虜虐殺であったと唱えたものであるが,これが虚偽であることは,以下のとおり明らかである。

            被告本多は,「百人斬り競争」が捕虜虐殺であったとする根拠として,志々目彰が小学生の時に聞いたという野田少尉の話を引用しているが,そのような話が本当にあったか否かも定かではないし,その内容も,近代戦である南京攻略戦においてはおよそ考えられないような話であって,到底信用することができない。

            被告本多は,「百人斬り競争」が捕虜虐殺であったとする根拠として,鵜野晋太郎の「日本刀怨恨譜」を引用しているが,「百人斬り競争」とは,時と場所と殺害対象を特定した事実であり,残虐行為を行った全くの別人の話を根拠として,「百人斬り競争」が捕虜虐殺であったと断定することは許されない。

            被告朝日は,望月五三郎の「私の支那事変」の一部を,コピーで「農民虐殺」の証拠として提出しているところ,この本には200か所を超える誤りがあり,依拠したとされる「覚え書」や「資料」等が存在するか否かも疑わしいものであるし,望月五三郎の「南京攻略作戦」当時の所属も不明確である。「百人斬り」の項では,常州と丹陽の位置関係を誤って記載したり,「百人斬り」を開始したとされる場所に誤りがあり,記載内容も抽象的かつあいまいであって,到底信用することができない。

          • (エ) 被告本多らは,「南京への道」及び「南京大虐殺否定論13のウソ」において,両少尉の遺書を引用した上で,両少尉が一種のなすり合いをしている旨指摘しているが,遺書等の内容を素直に読めば,これをなすり合いと理解することは全くできないものであって,当該指摘は虚偽であることが明らかである。

         
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      • (被告本多の主張)
        •  本件各書籍がどのような事実を摘示したものであるかは,一般読者の普通の読み方を基準として判断すべきところ,「中国の旅」文庫本の第16刷以降及び「本多勝一集 第14巻 中国の旅」,「南京への道」文庫本及び「本多勝一集 第23巻 南京への道」並びに「南京大虐殺否定論13のウソ」は,いずれも両少尉の実名を記載せず,それぞれ「M」「N」と匿名で表記しているから,一般読者において「M」「N」を両少尉であるとは認識し得ないし,本件各書籍中に原告らに関する記載は一切存在しないから,一般読者において原告らを特定することは不可能であって,両少尉に対する名誉毀損はもちろん,原告らに対する名誉毀損も成立し得ない。また,本件各書籍が問題とする本件日日記事は,両少尉が昭和12年当時に話したことを記事にしたものである以上,名誉毀損の成立する余地はない。

          なお,死者自身に対する名誉毀損については,名誉毅損の趣旨及び立法内容からして,否定されるべきであるし,死者に対する名誉毀損が原告らに対する名誉毀損となる場合であっても,摘示した事実のうち主要な事実の虚偽性が要件となるところ,後記エのとおり,主要な事実としての「百人斬り競争」及び「捕虜や非武装者の殺害」については,真実であることが明らかである。
        •  原告らは,人格権侵害として,原告らの両少尉に対する敬愛追慕の情の侵害を主張するところ,遺族の敬愛追慕の情については,具体的に法に定められたものではなく,その成立要件としては,摘示した事実のうち主要な事実の虚偽性が必要であるとともに,摘示した事実が重大で,その時間的経過にかかわらず,原告らの両少尉に対する敬愛追慕の情を受忍し難い程度に害することが必要である。

          そして,本件では,後記エのとおり,「百人斬り競争」及び「捕虜や非武装者の殺害」が行われていたことが明らかであるし,原告らの両少尉に対する敬愛追慕の情が存在していたとしても,両少尉の死後50年以上を経た現在において,その情は十分軽減されていることに加え,「百人斬り競争」についても,既に30年も前に論争となったように,歴史的事実へ移行しているというべきであるし,原告千惠子については,被告本多と面談し,「南京への道」を文庫本とするに当たり,氏名をイニシャルにすることや写真の説明文中にある両少尉の氏名を伏せることなどを了承していたのであるから,原告らの両少尉に対する敬愛追慕の情が違法に侵害されているとはいえない。
        •  原告らは,プライバシー権侵害についても主張するところ,本件各記事は,原告らの氏名はもとより,その生活等について何ら触れておらず,プライバシー権侵害が成立する余地はない。
        • エ 「百人斬り競争」及び「捕虜や非武装者の殺害」については,以下のとおり真実である。
          • (ア) 本件日日記事の「百人斬り競争」が存在していたことは,以下のとおり明らかである。

            本件日日記事は,昭和12年11月30日から同年12月13日にかけて4回にわたって連載されたものであり,関係した記者も,浅海,光本,安田,鈴木の4人の手によるものである。そして,浅海,鈴木両記者は,極東軍事裁判における検事の尋問に対する供述やその後の種々の記事で,両少尉からの聞き取りによる取材であることを明らかにしている。また,佐藤記者も,両少尉が「百人斬り競争」を行っているという話を直接聞いて,「取材の中で『斬った,斬ったと言うが,誰がそれを勘定するのか』と両少尉に聞いたところ,『それぞれに当番兵がついている。その当番兵をとりかえっこして,当番兵が数えているんだ」という話だった。」と述べている。両少尉が浅海記者らに虚偽の事実を告げることはあり得ず,これらから両少尉の「百人斬り競争」の事実が裏付けられる。

            「百人斬り競争」については,当時,本件日日記事のほか,

            • 昭和12年12月1日付け大阪毎日新聞鹿児島版,
            • 同月2日付け大阪毎日新聞鹿児島沖縄版,
            • 同月16日付け鹿児島朝日新聞,
            • 同月18日付け鹿児島新聞,
            • 昭和13年1月25日付け大阪毎日新聞鹿児島沖縄版,
            • 同年3月21日付け鹿児島新聞,
            • 同月22日付け鹿児島朝日新聞,
            • 同月26日付け鹿児島新聞,
            • 昭和14年5月16日付け東京日日新聞

            にそれぞれ掲載されており,

            野田少尉が中村碩郎あての手紙の中で「百人斬り競争」を自認し,「百人斬日本刀切味の歌」まで披露していること(昭和13年1月25日付け大阪毎日新聞鹿児島沖縄版),野田少尉が帰国後に新聞社の取材に対して「百人斬り競争」を認める発言をしていること(昭和13年3月21日付け鹿児島新聞),野田少尉の家族も「百人斬り競争」を認める発言をしていること(昭和13年3月22日付け鹿児島朝日新聞)などの事実からも,両少尉が「百人斬り競争」を事実であると認めていたことが裏付けられる。

            望月五三郎は,昭和12年当時,冨山大隊第十一中隊に所属し,南京戦にも参加した人物であるところ,同人の著書である「私の支那事変」には,両少尉による「百人斬り競争」について記述されており,その内容は,具体的で迫真性があり,体験者でなければ到底書き得ないものである。

            志々目彰は,雑誌「中国」昭和46年12月号に投稿した論稿の中で,同人が小学生のころに聞いた野田少尉の講演内容について記載しており,それによれば,野田少尉が「百人斬り競争」を認める発言をしていたものである。志々目彰は,野田少尉の話が,軍人を目指していた志々目彰にとってショックであり,それゆえ,明確な記憶として残っていたとするものであって,その内容も具体的で確かなものである。

            両少尉は,その遺書においても,自分たちが「百人斬り競争」を語った事実自体は否定していない。

            なお,両少尉は,南京軍事裁判において,野田少尉が麒麟門東方において行動を中止し,南京に入った事実はないとし,向井少尉が丹陽の戦闘で負傷し,救護班に収容されていた旨弁解しているところ,野田少尉は,上記のとおり,自ら「百人斬り競争」について具体的かつ詳細に語っているし,南京戦の資料でも冨山大隊が南京戦に参加していたことが認められ,向井少尉については,冨山大隊第三歩兵砲小隊に属し,向井少尉直属の部下であった田中金平の行軍記録中に負傷した事実の記載がないばかりか,昭和14年5月16日付け東京日日新聞の記事中では,自ら負傷した事実がないことを自認しているから,いずれの弁解も客観的資料や証言に反し,信用することができない。

          • (イ) 両少尉が行った「百人斬り競争」が戦闘行為の中だけでなく,投降兵,捕虜,農民等に対する殺害でもあったことは,以下のとおり明らかである。

            望月五三郎の「私の支那事変」によれば,野田少尉が行軍中に見つけた中国国民を殺害し,「その行為は支那人を見つければ,向井少尉とうばい合ひする程,エスカレートしてきた」ことが明記されており,志々目彰の上記論稿によれば,野田少尉は,投降兵や捕虜を「並ばせておいて片つばしから斬」ったことを認めている。

            洞富雄元早稲田大学教授は,詳細な資料批判を行った上,「百人斬り競争」が捕虜の虐殺競争であると考えているし,田中正俊元東京大学教授も,客観的資料に基づく実証的見解として,「百人斬り競争」の対象者のほとんどすべての人々が非武装者であったのではないかと述べており,「南京大虐殺のまぼろし」を執筆した鈴木明も捕虜の殺害であれば「百人斬り」の可能性があることを認め,秦郁彦拓殖大学教授も「百人斬り」が「戦ってやっつけた話じゃなさそうだ」と判断している。

            そして,昭和12年の南京攻略戦当時,日本軍による略奪,強姦,放火,捕虜や一般民衆の殺害などはごくありふれた現象であり,多数の資料も存在するのであり,鵜野晋太郎が「日本刀怨,恨譜」で記しているように,多くの捕虜や農民の殺害が行われていたものである。

          • (ウ) なお,上記真実性に関するその余の主張については,被告朝日の主張のとおりである。

         
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      • (被告柏の主張)
        •  「南京大虐殺否定論13のウソ」は,別表記事番号三(*)において,上記(1)の被告柏の主張記載のとおりの論評を記載したものであり,それらは,両少尉に対する人格的非難を伴うものではない。
           また,当該記事は,「百人斬り競争」の実行者を「NとMの二少尉」と紹介し,本文,引用文,注記を問わず,すべて「M」「N」の匿名で表記し,両少尉の出身地,経歴,所属部隊等を一切記載せず,両少尉の遺族である原告らにも言及していないから,一般読者において,「M」を向井少尉,「N」を野田少尉と認識することは不可能であり,両少尉の名誉を毀損するものとはいえず,遺族である原告ら固有の名誉毀損についても,その前提を欠くものである。
           さらに,その点を措くとしても,「南京大虐殺否定論13のウソ」の出版当時,「百人斬り競争」の当事者たる「M」「N」が両少尉であることが一般読者に知れ渡っていたこともないから,一般読者において,原告らを「M」「N」の遺族であることを推知することも不可`能であって,原告らの名誉毀損も成立し得ない。
        •   原告らは,原告らの両少尉に対する敬愛追慕の情が違法に侵害されたと主張するが,そもそも,死者の名誉毀損とは別に遺族の敬愛追慕の情の侵害としての不法行為が認められる余地があるとしても,その範囲は,虚偽虚妄をもって死者の名誉毀損が行われ,遺族の敬愛追慕の情等の人格的法益を社会的に妥当な受忍限度を超えて侵害した場合に限定されるものである。
           これは,死者についての記述が,往々にして歴史的事象への考察,検証,論評の性格を持つものであり,その記述に遺族が不快感を抱いたことから,当該記述や当該出版が不法行為となれば,言論表現の自由や歴史研究,発表の自由が不当な制約を受けるからである。

          「南京大虐殺否定論13のウソ」の別表記事番号三(*)については,上記(1)の被告柏の主張欄のとおりの論評を記載したものであり,両少尉の名誉を毀損するものではないし,被告本多及び被告朝日が主張するとおり,「百人斬り競争」や捕虜・民衆虐殺は事実である。
           また,遺族の敬愛追慕の情は,死の直後に最も強く,その後は時間の経過とともに軽減するものであり,死者についての事実は時間の経過とともに歴史的事実の性格を強めていくのであって,こうした歴史的事実については,史料考証等による歴史的探求やそのための表現活動の自由が優位に立つものと考えなければならないところ,上記記事は,両少尉の死後52年を経過した時点で出版されたものであって,その趣旨,内容は,まさしく史料考証による歴史的探求であり,原告らの両少尉に対する敬愛追慕の情を不法に侵害するものではない。
        •  原告らは,プライバシー権侵害についても主張するところ,「南京大虐殺否定論13のウソ」では「原告らが南京軍事裁判で処刑された『M』『N』少尉の遺族である」ことについて,一言も言及しておらず,原告らを「M」「N」少尉らの遺族とも特定できないのであるから,原告らのプライバシーを侵害する余地はない。

         
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      • (被告朝日の主張)
        •  ある記事がどのような事実を摘示し,あるいは意見又は論評を表明したものであるかは,一般読者の普通の注意と読み方とを基準として判断すべきところ,「中国の旅」文庫本の第16刷以降及び「本多勝一集 第14巻 中国の旅」並びに「南京への道」文庫本及び「本多勝一集 第23巻 南京への道」は,上記(1)の被告朝日の主張欄のとおりの論評を記載したものであり,また,いずれも両少尉を「M」「N」と匿名で表記し,両少尉の実名を記載していないから,一般読者は,「M」「N」を両少尉であるとは認識せず,ましてや,原告らが「M」「N」の遺族であるとも認識しないから,両少尉及び原告らに対する名誉毀損は成立し得ない。

          仮に,「中国の旅」及び「南京への道」のうち上記のものが「M少尉」及び「N少尉」において「据えもの百人斬り」として捕虜を虐殺する競争を行ったことを摘示したものであるとしても,「百人斬り」は,今から六十数年も前の昭和12年の日中戦争の戦争行為の最中に戦闘員が行った,過去の歴史上の戦場でありがちな現象として記載されているものであり,両少尉の遺族がその責任を問われたり,非難されることはあり得ないものであって,両少尉の遺族である原告らの名誉を毀損するものでもない。

          なお,一般読者が原告らを両少尉の遺族であるとは認識しないこと及び両少尉の遺族が非難されることがあり得ないものであることは,「中国の旅」及び「南京への道」のうち実名表記のなされたものについても同様である。

          また,遺族である原告らに対する名誉毀損が成立するためには,少なくとも問題の記載が両少尉の名誉を違法に侵害するといえる場合でなければならず,刑法230条2項との均衡上,民事においても,死者に対する名誉毀損は,虚偽の事実を摘示した場合にのみ違法性を有するというべきである。しかしながら,「中国の旅」及び「南京への道」は,虚偽の事実を摘示したものではなく,したがって,遺族に対する名誉毀損の不法行為が成立しないことは明らかである。
        •  原告らは,「中国の旅」及びこの記載によって,原告らの両少尉に対する敬愛追慕の情を侵害すると主張しているところ,仮に,死者に対する遺族の敬愛追慕の情を侵害する不法行為が成立することがあり得るとしても,それは,摘示した事実が虚偽であって,かつ,その事実が極めて重大で,遺族の死者に対する敬愛追慕の情を受忍し難い程度に侵害したといえる場合に限られるものと解すべきであって,摘示した事実が過去の歴史的事実である場合には,死者に対する遺族の敬愛追慕の情に対して,歴史的事実の探求の自由ないし表現の自由への配慮が優位に立つと考えるべきであり,そのような配慮の上に立って考察してもなお許されないと評価できる場合にのみ,違法性を有するに至るものと解すべきである。

          そして,名誉毀損の不法行為責任に関する判例法理が,真実性について,重要(主要)な部分において真実であることが証明されれば足りるとしていることからすれば,死者に対する遺族の敬愛追慕の情を侵害する不法行為の成立要件としての虚偽性についても,摘示した事実の重要(主要)な部分において虚偽であることが証明されることを要するというべきである。

          「中国の旅」及び「南京への道」で摘示した事実又は表明した論評のうち,重要(主要)な部分は,本件日日記事に記載された「百人斬り競争」の事実及び「据えもの百人斬り」,「捕虜虐殺」との論評であるところ,事実摘示の点については,後記のとおり,真実であり,虚偽でないことは明白であるし,本件日日記事は,両少尉が自ら進んで話した話の内容を記事にしたものであり,両少尉の承諾のもとに掲載されたものとして違法性がなく,それを引用した両書籍の記載にも違法性はない。

          また,論評の点については,両少尉の百人斬り競争を,本件日日記事,志々目彰の話,鵜野晋太郎の「日本刀怨恨譜」に基づいて論評したものであって,今から六十数年前の歴史的事実の紹介ないしその論評という表現行為の意義,目的に照らし,社会的に妥当な範囲内の公正な論評であるし,両少尉は,後記のとおり,まさに「据えもの百人斬り」を行っていたものであるから,「据えもの百人斬り」,「捕虜虐殺」との論評は真実ないし真実に基づくものであって,虚偽ではない。
        •  原告らは,原告らの父や兄が南京で「百人斬り競争」を理由に戦犯として処刑されたことが原告らのプライバシーに属する事柄である旨主張しているところ,「中国の旅」及びこのうち,一部のものについては,上記のとおり,両少尉を「M」「N」と匿名で表記しているし,実名表記のものについても,原告らとの関係の記載は全くないのであって,一般読者において,原告らのプライバシーに属する事柄を認識しようがないものである。そうすると,「中国の旅」及び「南京への道」の記載によって,原告らのプライバシー権を侵害するということはあり得ない。
        •  本件日日記事に記載された「百人斬り競争」が真実であり,両少尉の「据えもの百人斬り」,「捕虜虐殺」が真実であることは,以下のとおり明らかである。
          • (ア) 両少尉が,記者からの取材に対し,本件日日記事のとおり語ったことは,以下のとおり事実である。

            浅海記者は,本件日日記事について,自らが取材,執筆したものであるとした上,両少尉が自ら進んで積極的に話した内容を記事にしたものであって,その内容は真実であると述べている。

            すなわち,浅海記者は,まず,昭和21年6月15日,極東軍事裁判所のパーキンソン検事の尋問を受けた際,本件日日記事第三報及び第四報に書かれていることが「真実か虚偽か」との質問に対し,「真実です」と明言し,続いて,南京軍事裁判に提出した昭和22年12月10日付け証明書においても,「両氏の行為は決して住民,捕虜等に対する残虐行為ではありません」,「同記事に記載されてある事實は右の両氏より聞きとって記事にしたもので(す)」と記載している。

            また,浅海記者は,「週刊新潮」昭和47年7月29日号の記事において,両少尉から話を聞いたことを認めているほか,昭和52年9月発行の「ペンの陰謀」所収「新型の進軍ラッパはあまり鳴らない」においても,両少尉自らが浅海記者に百人斬り競争を計画していることを話し,その後の百人斬り競争の結果について両少尉の訪問を受けて,その経過を取材したことについて具体的に述べている。

            鈴木記者は,本件日日記事第四報について,浅海記者と共同で取材,執筆したものであるとした上,両少尉が自ら進んで積極的に話した内容を記事にしたものであって,その内容は真実であると述べている。

            すなわち,鈴木記者は,まず,昭和21年6月15日,浅海記者とともに,極東軍事裁判所のパーキンソン検事の尋問を受けた際,本件日日記事第四報に書かれていることは「真実ですか,虚偽ですか」との質問に対し,「真実です」と明言するとともに,同尋問において,1941年から1945年の間の陸軍省記者クラブ時代に大本営情報部から伝えられた情報については,振り返ってみれば記事の大部分は虚偽だったと思うとしながらも,上記記事に書いたことは,自分が真実だと知っていることだけを書いたと述べている。

            また,鈴木記者は,昭和46年11月発行の雑誌「丸」所収「私はあの"南京の悲劇"を目撃した」において,両少尉から聞いた話を記事にしたと述べ,「週刊新潮」昭和47年7月29日号の記事においても,紫金山で両少尉に会い,浅海記者とともに両少尉から上記記事の事実を直接聞いたと述べている。

            さらに,鈴木記者は,昭和52年9月発行の「ペンの陰謀」所収「当時の従軍記者として」において,両少尉から紫金山の麓で直接聞いたこと,虐殺ではないことを信じて記事にしたことを明確に述べているほか,「『南京事件』日本人48人の証言」においても,両少尉から上記のとおり聞いたと述べている。

            佐藤記者は,本件日日記事第四報の写真を撮影をした際,両少尉が百人斬り競争の話をしたことを聞いていた旨一貫して述べている。

            すなわち,佐藤記者は,まず,「週刊新潮」昭和47年7月29日号の記事において,本件日日記事第四報の写真を撮影した経緯を述べ,両少尉が浅海記者に「百人斬り競争」について進んで話をしていたこと,浅海記者が両少尉の話をメモにとっていたことを述べ,「百人斬り」の数の数え方についても「それなら話はわかる」と納得している。

            また,佐藤記者は,平成5年12月8日発行の「南京戦史資料集U」所収「従軍とは歩くこと」において,両少尉が浅海記者に「百人斬り競争」について積極的に話していたこと,佐藤記者も納得できない点を質問し,返答を受けて納得できたと述べており,その後,南京の手前で浅海記者に会った際に,浅海記者がなおも「百人斬り競争」の取材を続けていたことを確認したと述べている。

            さらに,佐藤記者は,当法廷においても,両少尉が浅海記者に「百人斬り競争」について話しているのを聞いたと明確に証言している。

          • (イ) 野田少尉は,本件日日記事が掲載された後に,郷里の友人あての手紙で,あるいは翌年(昭和13年)に帰国して以降,郷里の鹿児島で新聞記者や父親などに対し,あるいは幾つもの講演で,本件日日記事に掲載された「百人斬り」が真実であることを繰り返し述べている。また,向井少尉も,本件日日記事の掲載以後,「百人斬り競争」が事実であることを認めているし,両少尉とも,遺書において「百人斬り」を否定していない。

            昭和13年1月25日付け大阪毎日新聞鹿児島沖縄版には,野田少尉から中村碩郎にあてた書信のことが書かれており,それによれば,野田少尉自身が,同日時点では,既に本件日日記事に「百人斬り競争」の記事が出たことを知っており,南京入城まで105人を斬り,更に253人を斬ったと自ら述べており,同様の内容の記事は,同月26日付け大毎小学生新聞にも掲載されている。

            野田少尉は,南京攻略戦後の昭和13年に日本に帰国し,同年3月に郷里の鹿児島に立ち寄った際,新聞記者や父親に対し,あるいは講演で,百人斬り(それ以上の数を斬ったこと)を認めている。

            昭和13年3月21日付け鹿児島新聞では,野田少尉自らが374人を斬ったと述べ,さらに紫金山攻撃に参加したと述べており,同月22日付け鹿児島朝日新聞では,野田少尉の父が,野田少尉から374人の敵兵を斬ったことを聞いている旨述べている。

            同月26日付け鹿児島新聞には,同月24日「百人斬の野田少尉神刀館で講演」との記事が掲載されており,阿羅健一「名誉回復のその日まで」(「正論」平成15年12月号所収)によれば,当時,野田少尉の講演を聞いた人が多数いて,「百人斬り」が話題になったことが述べられている。

            野田少尉の父親である野田伊勢熊は,昭和42年6月に陸軍士官学校四十九期生会が発行した「鎮魂第二集」に寄稿し,その中で,南京軍事裁判以後も両少尉の「百人斬り競争」が事実であったことを認めている。

            志々目彰は,雑誌「中国」昭和46年12月号所収「百人斬り競争--日中戦争の追憶--」において,野田少尉が帰国後の昭和14年春ころ,鹿児島県立師範学校付属小学校で行った「百人斬り競争」についての講演を直接聞いたと述べている。

            向井少尉は,南京戦の後,中尉に昇進し,昭和14年5月に中国漢水東方地区において,南京戦での百人斬りの青年将校として東京日日新聞の西本記者の取材を受け,その中で「百人斬り競争」が真実であることを認める言動を行っている。

            両少尉は,遺書の中で,捕虜や住民を殺害してはいないことを強調しているが,戦闘行為として斬ったことは否定しておらず,「百人斬り競争」について自ら進んで新聞記者に話したことを認めている。

            本件日日記事の直後,昭和12年12月2日付け大阪毎日新聞鹿児島沖縄版,同月16日付け鹿児島朝日新聞,同月18日付け鹿児島新聞には,野田少尉関係の記事が,同月13日付け大毎小学生新聞には向井少尉関係の記事が,それぞれ掲載されている。
          • (ウ) 両少尉による「百人斬り競争」,「据えもの百人斬り」及び「捕虜虐殺」が事実であることは,冨山大隊の関係者等の証言からも裏付けられる。

            冨山大隊第十一中隊に属していた望月五三郎は,昭和60年7月発行の「私の支那事変」において,両少尉の「据えもの斬り」を直接体験した事実として具体的に記述している。

            冨山大隊第三歩兵砲小隊に属し,向井少尉直属の部下であった田中金平は,「我が戦塵の懐古録」(第十六師団歩兵第九連隊歩兵砲隊の戦友会である「九'砲の集い」が出版した懐古録)に寄せた「第三歩兵砲小隊は斯く戦う」において,第三歩兵砲小隊の行軍について詳細に記述しているところ,同行軍記録には,各場所での戦死者,負傷者の記述があるが,小隊長であった向井少尉が丹陽の戦闘で負傷し,救護班に収容されたとの記述はない。

            直属の小隊長が戦線を離脱したのに,その記述がないということは考えられず,向井少尉が丹陽の戦闘で負傷し,救護班に収容されたという,南京軍事裁判における向井少尉の答弁や冨山大隊長の受傷証明書は,真実を述べたものとは到底考えられない。

            六車政次郎は,陸軍士官学校時代に野田少尉と同期生であり,第十六師団歩兵第九連隊第一大隊副官(少尉)として,南京攻略戦に参加している(野田少尉の手紙の中にも「六車部隊長」,「六車」として名前が出ている。)が,白兵戦について実際に経験した内容を具体的に記述しており,平成2年8月発行の「惜春賦―わが青春の思い出―」においては,大隊副官であっても,白兵戦で人を斬ったことを具体的に記述しているし,昭和47年5月発行の「鎮魂第3集」(陸軍士官学校四十九期生会発行)所収「野田大凱の思い出」においては,「百人斬り」という数についても違和感を抱いていない。
          • (エ) 南京軍事裁判での両少尉の弁明は,その置かれた立場からすればやむを得ない弁明というべきかもしれないが,重要な部分において虚偽であることが明らかであり,信用することができない。

            南京軍事裁判における両少尉の各答辮書によれば,浅海記者が架空の記事を創作したとされているところ,浅海記者,鈴木記者,佐藤記者の前記各証言や,野田少尉が百人斬りを認める言動をとっていたことなどからすれば,両少尉自身が浅海記者らに「百人斬り競争」の話をして,それを浅海記者らが記事にしたことが明らかであり,両少尉の上記弁明は,虚偽である。

            野田少尉は,記事を見たのは民国27年(昭和13年)2月のことで,その後も戦地を転々と転属して新聞記事訂正の機会を逃したとしているが,前記のとおり,野田少尉は,報道直後の同年1月から3月までの時点で,本件日日記事に両少尉の百人斬りの記事が掲載されていることを十分認識した上で,書信や新聞記者の取材,講演等で自ら「百人斬り」を行ったことを述べているのであり,この弁明も虚偽である。

            野田少尉は,麒麟門東方において行動を中止し,南京に入った事実はないと弁明しており,これによると,野田少尉の属する冨山大隊主力は,丹陽北方から鎮江方面に北辺迂回をし,揚水の南側を行軍したが,麒麟門手前で引き返し,湯水を経由して砲兵学校に至り,紫金山にも南京にも行かなかったこととなる。しかしながら,冨山大隊は,草場追撃隊の先発隊として丹陽を攻撃して占領し,さらに句容付近の敵の陣地を攻撃突破し,追撃隊主力とともに湯水鎮方面に向い,紫金山,中山門を経て,昭和12年12月13日に南京に入城していることが明らかであり,野田少尉自身,昭和13年の時点では自ら紫金山攻撃に参加したとはっきり述べており,野田少尉の上記弁明も虚偽である。

            野田少尉は,大隊副官の職務からして「百人斬りの如き馬鹿げたる事をなし得る筈なし」と弁明しているが,六車政次郎の証言にあるとおり,大隊副官の任務上,白兵戦で人を斬ることがないとはいえず,この弁明も虚偽である。

            両少尉は,俘虜住民を虐殺したことはないと弁明しているが,両少尉が無抵抗の農民を奪い合うようにして,日本刀で斬り捨てたことは,望月五三郎の前記証言から明らかであって,この弁明も虚偽である。

            向井少尉は,昭和12年11月末ころ,丹陽の戦闘で左膝頭部及び右手下膊部を負傷し,同年12月中旬(南京攻城戦終了)まで丹陽の臨時野戦病院において臥床中で,同病院が湯水温泉地に移動した際に担架車載トラックで湯水砲兵学校に駐留していた所属部隊に帰隊したと弁明している。

            しかしながら,前記のとおり,向井少尉が丹陽の戦闘で負傷し,入院し戦列を離れたとの事実は,向井少尉直属の部下である田中金平の行軍記録には全く記載がないし,向井少尉自身が「百人斬り競争」の事実を認めており,さらに,浅海記者及び鈴木記者とも,昭和12年12月12日に紫金山の麓で両少尉に会って「百人斬り競争」の経過について取材したと明確に証言しているから,この弁明は虚偽であって,向井少尉は,冨山大隊の第三歩兵砲小隊長として,丹陽の戦闘の後,句容の攻撃に参加し,さらに紫金山攻撃に参加し,同月13日に中山門から南京に入城し,同月25日に南京から湯水東方の砲兵学校に移駐したものである。

            両少尉は,本件日日記事で「百人斬り」報道がなされたことを認識しながら,報道から10年後に南京軍事裁判のため逮捕,起訴されるまで,「百人斬り」が事実ではなかったとは全く述べておらず,野田少尉については,前記のとおり,講演等で「百人斬り」を行ったことを繰り返し公言していたもので,逮捕,起訴後の弁明に信用性はない。また,両少尉は,その遺書においても,前記のとおり,俘虜住民を殺害したことはないと述べつつも,百人斬りを行ったこと自体は否定していない。

            なお,冨山大隊が麒麟門東方において行動を中止し,南京に入ることなく湯水東方砲兵学校に集結したとする冨山大隊長の証明書及び向井少尉が丹陽郊外で受傷し,雛隊したとする冨山大隊長の受傷証明書も真実を記載したものとはいえない。受傷や離隊等が事実であれば,公式記録等によって証明することができたはずであるが,冨山大隊長は何ら裏付け資料を提出していない。

       
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    • (3) 争点(3)について
      • (原告らの主張)

        本件各書籍の両少尉に関する記載は,上記(1)及び(2)の原告らの主張記載のとおり,両少尉の名誉を毀損することによって原告らの名誉を毀損するとともに,原告らの敬愛追慕の,情を違法に侵害し,原告らのプライバシー権を侵害するものであり,原告らは,これにより多大な精神的苦痛を受けたのであって,原告らの名誉を回復し精神的苦痛を慰謝するためには,被告本多,被告朝日及び被告柏において,第1の3及び5のとおり,謝罪広告を掲載し,第1の4及び6のとおり,慰謝料を支払う必要がある。

        なお,原告らは,本件各書籍の記載により名誉を侵害されているところ,その名誉回復のためには,当該記載がなされているすべての書籍を対象にするのでなければならず,現在書店で販売されている書籍のみならず,インターネットや古書店において販売されている書籍及び全集の中に収録されたものをも対象にするのでなければ,原告らの名誉回復を図ることができないというべきである。

      • (被告朝日の主張)

        被告朝日は,現在出版,販売,頒布している「中国の旅」文庫本の第24刷,「南京への道」文庫本の第6刷,「本多勝一集 第23巻 南京への道」の第2刷以外のものについては,今後出版の予定がなく,原告らの当該出版差し止めを求める部分は訴えの利益がない。

        また,名誉毀損を理由として出版を差し止めることは,原則として許されず,真実でないこと及び専ら公益を図る目的のものでないことが明白であり,かつ,重大かつ著しく回復困難な損害を被るおそれがある場合に限り,例外的に認められるものであって,本件においてかかる事情は見当たらないし,死者に対する敬愛追慕の情を侵害することを理由として出版を差し止めることはそもそもできないものである。

      • (被告本多及び被告柏の主張)

        原告らの主張は争う。

       
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    • (4) 争点(4)について
      • (被告本多及び被告朝日の主張)

        本件各書籍のうち,「中国の旅」単行本の全部,「中国の旅」文庫本の第23刷まで,「本多勝一集 第14巻 中国の旅」の全部,「南京への道」単行本の全部,「南京への道」文庫本の第5刷まで,「本多勝一集 第23巻 南京への道」の第1刷については,本訴提起時に発行日から3年以上を経過しており,消滅時効が完成している。

        また,仮に,消滅時効の起算点を書籍の出庫終了時とするとしても,本件各書籍のうち,両少尉を実名で表記したもの(「中国の旅」単行本の全部,「中国の旅」文庫本の第15刷まで及び「南京への道」単行本の全部)についてはすべて,両少尉を匿名で表記したものについても,「中国の旅」文庫本の第23刷及び第24刷,「本多勝一集 第14巻 中国の旅」の全部,「南京への道」文庫本の第6刷並びに「本多勝一集 第23巻 南京への道」の第2刷以外はすべて,出庫終了から3年以上を経過しており,消滅時効が完成している。

        したがって,被告朝日は,「中国の旅」及び「南京への道」二のうち,上記の書籍に関する不法行為に基づく損害賠償請求権について,民法724条に基づき,消滅時効を援用する。

      • (原告らの主張)

        被告本多及び被告朝日の主張は争う。

       
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    • (5) 争点(5)について
      • (原告らの主張

        本件日日記事は,片桐部隊の若い将校である両少尉が,首都南京に向かう前線で中国兵を斬り倒し,「百人斬り」の競争を行っているという内容のものであって,浅海記者による戦意高揚の創作記事であった。しかしながら,その記事が原因となり,両少尉は,昭和22年,南京軍事裁判所に戦犯として起訴され,昭和23年1月28日,銃殺刑に処せられた。

        被告毎日は,そもそも,国民の知る権利に奉仕するジャーナリズムに携わる者として,真実を報道していないという疑いがある場合に,自ら検証し,その経過を国民に知らせ,誤りを発見した場合には,速やかに訂正する義務を負担しているというべきである。
         また,本件日日記事が虚報である以上,当時において,両少尉の名誉を毀損することがなかったとしても,虚報を国民に事実として報道したこと自体が,国民の知る権利を侵害し,公共性を有する新聞社として違法行為であるというべきである。
         そして,被告毎日は,本件日日記事が虚報であり,それを訂正しなかったことによって両少尉が軍事裁判で銃殺刑に処せられたという先行行為が存在していたにもかかわらず,その後,昭和47年に「朝日新聞」紙上において,被告本多が「百人斬り競争」の記事を掲載して以降,現在に至るまで,自社の虚報を正さず,放置し続けており,かかる不作為によって,本件各書籍を始め,「百人斬り競争」を事実とする多数の書籍により,両少尉及び原告らに対する名誉毀損状態が生じている。

      • (被告毎日の主張)

        本件日日記事が両少尉の名誉毀損に当たるか否かは,一般読者の普通の注意と読み方を基準として判断すべきものであり,当該記事が発行され,読者が閲読し得る時点を基準として判断すべきものであるところ,同記事は,日中戦争という国家間の戦争下にあって,日本軍に属していた両少尉が敵国正規軍9陣地トーチカに突進して,敵の兵隊を多数斃したという報道であり,あくまで正規軍間の戦闘関係を報じたものであって,敗走する兵は斬らないとしているのであるから,ましてや非戦闘員を虐殺したと報道したものではない。
         国家権力の発動たる戦闘行為にあって,敵国正規軍を多く斃したという事実を報道することは,当時においては日本軍に属し戦闘行為を遂行していた両少尉の社会的評価を高めることはあっても,その名誉を毀損するものではない。

        原告らは,現行憲法21条に基づく立論をするが,そもそも,本件日日記事発行当時は,旧憲法の下にあり,状況は自ずから異なるものであるし,発表当時適法行為であったものが,現行憲法制定により違法となることは,法律不遡及の原則(現行憲法39条)から失当であることが明らかである。
         また,原告らは,いったん名誉毀損行為がなされたときは,その訂正がなされるまでの間,名誉毀損行為が存続していると主張しているが,そもそも名誉毀損にあっては,表現行為が外部になされたときが不法行為時であり,この時点において請求権が発生し,行為は完結するものである。
         もし,原告ら主張のとおり,誤報を行った者すべてについて訂正すべき法的義務が存在するとなると,国家権力は,表現者に対して法的義務として訂正を命ずることとなり,憲法19条,21条に反するものであって,原告らの主張は失当である。

        さらに,本件日日記事について,原告らの主張のとおり不法行為に該当するとしても,両少尉は,当該記事の発表について,当時了承していたのであり,いわゆる被害者の承諾として違法性が阻却されるものである。すなわち,両少尉の供述によれば,二人の名前で「百人斬り」を新聞記事として発表することを持ちかけたのは向井少尉であり,これを受けた浅海記者が「百人斬り」の記事を掲載するという話に対し,野田少尉もこれについて黙認したのである。

        なお,本件日日記事が原告ら主張のとおり引用ないし掲載されたとしても,それは被告毎日の表現行為ではなく,被告毎日において,その点の責めを負うべき理由はない。

       

       
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    • (6) 争点(6)について
      • (原告らの主張)

        本件日日記事の両少尉に関する記載は,上記(5)の原告らの主張欄のとおり,両少尉の名誉を毀損するとともに,原告らの敬愛追慕の情を違法に侵害するものであり,原告らは,これにより多大な精神的苦痛を受けたのであって,原告らの名誉を回復し精神的苦痛を慰謝するためには,被告毎日において,第1の7のとおり,訂正謝罪広告を掲載し,第1の8のとおり,慰謝料を支払う必要がある。

      • (被告毎日の主張)

        原告らの主張は争う。

       
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    • (7) 争点(7)について
      • (被告毎日の主張)
        • ア 本件日日記事は,昭和12年,当時の東京日日新聞に大きく報道されたものであり,しかも,その中には両少尉が一緒に写っている写真まで掲載したものも存在するのであって,当時,両少尉において記事内容を十分了知していたものといえ,終戦までの間に,両少尉において加害者を知ったときから3年以上が経過したものであるから,民法724条により,消滅時効が完成している。

          また,本件日日記事報道当時,両少尉において,その記事内容を了知していなかったとしても,昭和二十一,二年当時においては,本件日日記事の内容を了知していたのであり,それゆえに当該記事が創作であった旨説明,弁明したのであるから,両少尉において,遅くとも昭和二十一,二年当時が加害者を知ったときといえ,それから3年以上を経過した昭和25年当時に,民法724条により,消滅時効が完成している。

          したがって,被告毎日は,上記消滅時効を援用する。
        • イ さらに,以上の点を措いても,本件日日記事は,昭和12年当時のことであり,本件提訴は,行為の時から20年をはるかに超えた後になされたものであって,除斥期間の経過により既に請求権が消滅したものである。なお,原告らは,不作為義務違反による名誉毀損を主張しているが,これが失当であることは上記(5)の被告毎日の主張欄のとおりである。
      • (原告らの主張)

        被告毎日の主張は争う。原告らは,上記(5)の原告らの主張欄のとおり,本件日日記事の発行自体を問題としているのではなく,被告毎日の不作為義務違反を問題としているのであって,被告毎日の主張は失当である。

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