「百人斬り競争」
東京日日大阪毎日の報道比較

O.大阪毎日新聞1937年11月30日朝刊<常州入城記>
T.東京日日新聞1937年11月30日朝刊<百人斬り第1報>
O.大阪毎日新聞1937年12月1日夕刊<百人斬り第1報>
O.大阪毎日新聞1937年12月4日朝刊<丹陽占領記>
T.東京日日新聞1937年12月4日朝刊<百人斬り第2報>
O.大阪毎日新聞1937年12月4日朝刊<百人斬り第2報>
T.東京日日新聞1937年12月6日朝刊<百人斬り第3報>
O.大阪毎日新聞1937年12月7日朝刊<百人斬り第3報>
T.東京日日新聞1937年12月13日朝刊<百人斬り第4報>
O.大阪毎日新聞1937年12月13日朝刊<百人斬り第4報>
  1. ゆうさんのサイト「小さな資料集」には、とってもユニークな史料が集められています。「百人斬り報道」につきましても、ゆうさんは東京日日新聞の姉妹紙である大阪毎日新聞の報道を収集しています。新史料の発掘です。
  2. ここでは、ゆうさんのご了解を得て、東京日日大阪毎日の報道を、掲載日の時系列に並べてみました。両記事のどこが同じでどこが違うのか? 比較の結果何が分かるかは、読者の皆さんからの論考を待ちたいと思います。
  3. なお、掲示した大阪毎日の記事は、今回の訴訟の対象でもなく証拠として提出もされていません。しかし、判決文証拠文書の中では、次の個所で大阪毎日新聞の「百人斬り」報道に言及しています。
  4. 大阪毎日新聞のデータは、サイト「小さな資料集」より
    東京日日新聞のデータは、サイト「対抗言論」より、拝借しました。
    あえて比較のために、別ページ"東京日日「百人斬り競争」報道"のと内容重複を避けませんでした。
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大阪毎日新聞
1937年(昭和12年)11月30日朝刊 <常州入城記>

無錫から三日間を 飲まず食はずの猛攻
大野、片桐各部隊の意気高し  南京への道を聞く将士たち

常州【廿九日発】浅海、光本、安田特派員発
常州が落ちた廿九日午後一時われらは大野部隊に続いて新聞記者として常州城東門に一番乗りをした、この日朝来江南の大空は飽くまで蒼く地平線に連なる無錫から常州への街道は南京へ南京へと急進する皇軍で一杯である、

常州前方一里半に近づくとクリークの橋は敵が焼落したばかりでまだ燃えてゐる われらの自動車はやつとある部落を迂回して本道に出たが幅の広い砲車や戦車は遮二無二猛然と突進してゆく、

だんだん城に近づいた、まだ敵の榴弾が流れる、東門北側に立つ古塔が砲煙の中に見える、城内につづく街々の辻に貼られた抗日ビラは剥ぎ取られて早くもわが勇士は「打倒蒋介石政権」と家々の壁に大書して入城前進した、

片桐部隊長は

「やつたぞ、この道の両側に群がる敵を突いて突いて突きまくつたのだ、兵は無錫から三日間殆んど飲まず食はずにやつてきたのだがまだ五里や十里は突進するぞ」

と入城の命令を下した、

入城の片桐、大野両部隊の兵士達は連日の苦難も忘れたように晴れやかに軍靴をふみならして中山門に入つた、城頭には日章旗がへんぱんと翻る、空にはわが空軍が空からも入城式だ、

東門の城壁では一番乗りの富山部隊が銃剣をかざして本隊を迎へる、これにつづく三国部隊、垣本部隊も城壁にはせ上つて万歳だ、北門から乗り込んで城内掃蕩ををへたばかりの大野部隊、恒宏部隊も歩武堂々と東門に進んできた

われらは午後一時東門に入つてすぐ街の右側三階建の大亜館に陣を構へていよいよ報道戦開始だ、

ここは市政府教育局の建物、この間まで抗日教育の巣窟だつたのだらうが今は支那兵の宿舎の跡で各室に支那軍人の肖像や弾丸が散在してゐるのみである、

城内の街上には入城部隊がつづく、軍靴の音だ、兵士達はわれらの顔を見るとただ感激の万歳だ、そして

「ここから南京への道はどう行くのですか」

と聞く、ただもう南京へ南京へである、

城内では大野部隊が逃げ遅れた敵の将校を捕へて本部に連行した、彼の話では三日前に南京の本部から退却命令が下つたとかで「何を負け惜しみをいふか、南京も一呑みだぞ」と兵士の意気はますます揚る

(『大阪毎日新聞』昭和12年11月30日朝刊 第11面右上トップ 5段見出し)

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  1. 大野部隊は、中島師団(第16師団)、草場旅団(歩兵第19旅団)、歩兵第20連隊(福知山)連隊長大野宣明大佐のこと。片桐部隊は、同歩兵第9連隊(京都)連隊長片桐護郎大佐のこと。冨山部隊とは、歩兵第9連隊の第3大隊(大隊長は冨山武雄少佐)のこと。大隊副官が野田少尉で直下の歩兵砲小隊隊長が向井少尉。南京事件資料集の「日本軍編成表」参照。ところで、歩兵砲とは=向井少尉が指揮した歩兵砲とはどのような砲だったのだろうか? ⇒「歩兵砲小隊」についての討論と「歩兵砲」の写真。
  2. 両少尉とも、陸軍上海派遣軍第十六師団(中島師団)歩兵第十九旅団(草場旅団)歩兵第九連隊(片桐部隊)第三大隊(冨山大隊)に所属し,向井少尉は冨山大隊の歩兵砲小隊長,野田少尉は同大隊の副官であった。判決文、第2の2「争いのない事実等」の(3)参照
 

東京日日新聞
1937年(昭和12年)11月30日朝刊 <第1報>

百人斬り競争!両少尉、早くも八十人

[常州にて廿九日浅海、光本、安田特派員発]
常熟、無錫間の四十キロを六日間で踏破した○○部隊の快速はこれと同一の距離の無錫、常州間をたつた三日間で突破した、まさに神速、快進撃、その第一線に立つ片桐部隊に「百人斬り競争」を企てた二名の青年将校がある。

無錫出発後早くも一人は五十六人斬り、一人は廿五人斬りを果たしたといふ、一人は富山部隊向井敏明少尉(二六)=山口県玖珂郡神代村出身=一人は同じ部隊野田毅少尉(二五)=鹿児島県肝属郡田代村出身=銃剣道三段の向井少尉が腰の一刀「関の孫六」を撫でれば野田少尉は無銘ながら先祖伝来の宝刀を語る。

無錫進発後向井少尉は鉄道路線廿六、七キロの線を大移動しつつ前進、野田少尉は鉄道線路に沿うて前進することになり一旦二人は別れ、出発の翌朝野田少尉は無錫を距る八キロの無名部落で敵トーチカに突進し四名の敵を斬つて先陣の名乗りをあげこれを聞いた向井少尉は奮然起つてその夜横林鎮の敵陣に部下とともに躍り込み五十五名を斬り伏せた

その後野田少尉は横林鎮で九名、威関鎮で六名、廿九日常州駅で六名、合計廿五名を斬り、向井少尉はその後常州駅付近で四名斬り、記者等が駅に行つた時この二人が駅頭で会見してゐる光景にぶつかつた。

向井少尉

この分だと南京どころか丹陽で俺の方が百人くらゐ斬ることになるだらう、野田の敗けだ、俺の刀は五十六人斬つて歯こぼれがたつた一つしかないぞ

野田少尉

僕等は二人共逃げるのは斬らないことにしてゐます、僕は○官をやつてゐるので成績があがらないが丹陽までには大記録にしてみせるぞ

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  1. ○○部隊は、中島師団(第16師団)のことか? ○官は、副官。これらの伏字は、記事そのものの伏字です。軍事情報ということで検閲をうけたのか新聞社編集部の自主規制のどちらかでしょう。
  2. 両少尉とも、陸軍上海派遣軍第十六師団(中島師団)歩兵第十九旅団(草場旅団)歩兵第九連隊(片桐部隊)第三大隊(冨山大隊)に所属し,向井少尉は冨山大隊の歩兵砲小隊長,野田少尉は同大隊の副官であった。判決文、第2の2「争いのない事実等」の(3)参照
  3. この第一報にかかれた行軍経路と「斬り」人数は、
    常熟→無錫→(野田少尉は無名部落4→横林鎮9→威関鎮6→、常州駅6 計25)(向井少尉は横林鎮55→常州駅4 計59)・・・文中では25人、56人となっている
  4. 第4報に掲載された写真はこの第1報取材地の常州で撮影された。
 

大阪毎日新聞
1937年(昭和12年)12月1日夕刊 <百人斬り競争・第1報>

南京めざし 快絶・百人斬り競争
『関の孫六』五十六人を屠り 伝家の宝刀廿五名を仆す 片桐部隊の二少尉

常州にて【廿九日】光本本社特派員発
  常熟、無錫間の四十`を六日間で破つた○○部隊の快速はこれと同一距離の無錫、常州間をたつた三日間で破ってしまつた、

神速といはうか、何んといはうか仮令(たとへ)ようもないこの快進撃の第一線に立つ片桐部隊に、「百人斬り競争」を企てた青年将校が二名ある、しかもこの競争が無錫出発の際初められたといふのに、一人はすでに五十六人を斬り、もう一人は廿五人斬りを果たしたといふ。一人は富山部隊向井敏明少尉(山口県玖珂郡神代村出身)、もう一人は同部隊野田毅少尉(鹿児島県肝属郡田代村出身)である、

この二人は無錫入城と同時に直に追撃戦に移つた際どちらからともなく「南京に着くまで百人斬りの競争をしようぢやないか」といふ相談がまとまり、柔剣道三段の向井少尉が腰の一刀「関の孫六」を撫でれば、野田少尉も無銘ながら先祖伝来の宝刀を誇るといつた風で互いに競争するところあり、

無錫進発後向井少尉は部下を率ゐて鉄道線路北六、七`の線を大移動しながら前進、野田少尉は鉄道線路に沿うて前進することになり、いったん二人は分れ分れになったが、

出発の翌朝野田少尉は無錫をさる八`の無名部落で敵トーチカに突進し、四名の敵を斬り伏せて先陣の名乗りをあげたがこのことを聞いた向井少尉は奮然起つてその夜横林鎮の敵陣に部下とともに躍りこみ、五十二名の敵兵を斬り捨ててしまつた、

その後野田少尉は横林鎮で九名、威野関鎮で六名、最後に廿九日常州駅で六名と合計廿五名を斬り、向井少尉はその後常州駅付近で四名を斬り記者ら(光本、浅海、安田各本社特派員)が駅に行つたとき、この二人は駅頭で会見してゐる光景にぶつかった、

両少尉は語る

向井少尉=この分だと南京どころか丹陽で俺の方が百人くらゐ斬ることになるだらう、野田の負けだ、俺の刀は五十六人斬つて歯こぼれがたつた一つしかないぞ

野田少尉=僕等は二人とも逃げるのは斬らないことにしてゐます、僕は○官をやつてゐるので成績があがらないが丹陽までには大記録にしてみせる

記者らが「この記事が新聞に出るとお嫁さんの口が一度にどつと来ますよ」と水を向けると何と八十幾人斬りの両勇士、ひげ面をほんのりと赤めて照れること照れること

(『大阪毎日新聞』昭和12年12月1日夕刊 第2面右上 5段見出し 「野田少尉」顔丸写真あり)

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大阪毎日新聞
1937年(昭和12年)12月4日朝刊 <丹陽占領記>

部隊長、余裕綽々
”早く腐らぬ『南京』が食べたい
片桐大野 両部隊破竹の進撃

丹陽にて【二日】光本本社特派員発
今や目■(しょう)の間に迫る南京へ破竹の勢ひをもつて突進するわが軍の戦線に今第一線を承るのは南京へ最も近い(七十二`)○○部隊である、片桐、大野両部隊が常州を抜いて士気ますます揚る、各部隊の将士は去る廿八日以来昼夜兼行猛撃をつづけて生米をかじりクリークの水を飲んで二日遂に敵の南京防衛重要拠点である丹陽を占領したのである、

常州から丹陽へは四十八`、道路はない、たつた一本のクリークがあるだけだ、

片桐、大野部隊はこのクリークの両側から挟撃を受けながら四つ這ひで進撃、その後から今中部隊が敵弾の中で寒風を衝き、クリークを泳ぎながら砲車の道や橋を開く、三国部隊、小林部隊は橋の修理もまたず筏を組んでそれに砲車をのせ引つ張り廻しひた押しに対岸に出て丹陽絶壁に猛火を浴びせて粉砕した、○○部隊長は馬を捨てて第一線に向う鉢巻で竹杖で強行軍した、丹陽の敵は五万、上海戦以来の頑強な抵抗であつた

○○部隊長が城壁一里に迫つた二日午後四時、部隊長の足下に迫撃砲が炸裂する

「ほう、大分来るなー、今に皆殺しだぞ」

と城壁を睨みつける、その時

「片桐部隊戸山隊が丹陽北方に突つ込んで停車場を占領した、つづいて大野部隊は南方に廻って城壁を包囲し、また大野部隊西崎隊が東門を破つて突入した」

といふ報告だ、○○部隊長

「ほう、片桐も天晴れやつたぞ、素晴らしい」

と上機嫌、無錫で手に入れた支那酒が水筒に少し残つてゐるのを自ら将校についで午後六時丹陽占領の祝杯だ、まだ敵弾が飛んでくるクリークの川端で交されたのだ、

部隊長も昨夜から飲まず食はずであるから忠実な当番兵桜井誠一一等兵は

「今日の進軍途中畑でかぼちやを一つ拾つた、これを部隊長に差上げたい」

と飯盒と一緒にブラ下げて来たのを見た○○部隊長はにつこりして

「そのかぼちやもいいが、わしはもつと違つた大きな南京が早く食べたい、一刻も早く行かんと南京が腐つてしまふからのう」

と洒落まじりで意気軒昂である、

*「ゆう」注 これはどう見ても、「畑からかぼちゃを泥棒した」ということなのですが、誰もそのことに気がついていないようです。

いよいよ敵が最後まで頑張つた丹陽を占領して鎮江の敵の退路を遮断した同部隊の殊勲は花々しい、丹陽から金壇への山脈が夕闇に暮れた

(『大阪毎日新聞』昭和12年12月4日朝刊 第2面中上 4段見出し)

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  1. 「もつと違つた大きな南京が早く食べたい」といったこの記事の主人公、○○部隊長という英雄豪傑は、片桐連隊長(大佐)を呼びつけにできる上官だから限られる。草場辰巳歩兵第19旅団長(少将)か中島今朝吾第16師団長(中将)ということになる。そのうち、新聞記者がこの人物を追っかければ記事になる、と思ったのはどちらだろうか?
  2. 記事では連隊以下は実名(隊長名)を表記しているところをみると、新聞社はそれほど軍の機密を気にしているわけではなさそうだ。この英雄豪傑さんは、匿名を条件に取材に応じていた、とも考えられる。
  3. 中島今朝吾中将は陸士15期だから50代後半、草場辰巳少将は50代半ば。どちらにしても、初老の最高級指揮官が「ほう、大分来るなー、今に皆殺しだぞ」などと叫んでいたわけだから、戦場というものの異常さがよくわかる。将官であることが直にわかったら勅任官すなわち閣下の品性にかけるので、匿名にし、「部隊長」として、その階級をボカしたのかもしれない。
  4. そのありさまを読んで興奮し沸きかえっていた多くの国民がいたことも忘れてはならない。
 

東京日日新聞
1937年(昭和12年)12月4日朝刊 <第2報>

急ピッチに躍進 百人斬り競争の経過

[丹陽にて三日浅海、光本特派員発]
既報、南京までに『百人斬り競争』を開始した○○部隊の急先鋒片桐部隊、富山部隊の二青年将校、向井敏明、野田毅両少尉は常州出発以来の奮戦につぐ奮戦を重ね、二日午後六時丹陽入塲(ママ)までに、向井少尉は八十六人斬、野田少尉六十五人斬、互いに鎬を削る大接戦となつた。

常州から丹陽までの十里の間に前者は三十名、後者は四十名の敵を斬つた訳で壮烈言語に絶する阿修羅の如き奮戦振りである。今回は両勇士とも京滬鉄道に沿ふ同一戦線上奔牛鎮、呂城鎮、陵口鎮(何れも丹陽の北方)の敵陣に飛び込んでは斬りに斬つた。

中でも向井少尉は丹陽中正門の一番乗りを決行、野田少尉も右の手首に軽傷を負ふなど、この百人斬競争は赫々たる成果を挙げつゝある。記者等が丹陽入城後息をもつかせず追撃に進発する富山部隊を追ひかけると、向井少尉は行進の隊列の中からニコニコしながら語る。

野田のやつが大部追ひついて来たのでぼんやりしとれん。野田の傷は軽く心配ない。陵口鎮で斬つた奴の骨で俺の孫六に一ヶ所刃こぼれが出来たがまだ百人や二百人斬れるぞ。東日大毎の記者に審判官になつて貰ふよ。
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  1. 浅見記者の談によれば、記事発信日が必ずも取材日とは限らず、当時の戦争報道では、多少の操作はあったようです。
    古い毎日新聞を見ると,その時の場所と月日が記載されていますが,それはあまり正確ではありません。なぜなら,当時の記事送稿の最優先の事項は戦局記事と戦局についての情報であって,その他のあまり緊急を要しない記事は二,三日程度『あっためておく』ことがあったからです。<「新型の進軍ラッパはあまり鳴らない」より、判決文の(ア)浅海記者に対する取材記事の項参照
  2. それぞれの記事が、両少尉が浅見記者たちと会って話したことに基づいて書かれた物か?それとも両少尉から一任をとっての浅見記者の創作なのかは、双方共に故人ですから、直接の証言は得られません。また今回の裁判ではどちらの主張が正しいかの黒白はつけませんでした。 しかし、このことは裁判ではなく歴史の判定としては非常に重要です。そこにかつての日本軍と戦時報道の姿があるからです。今回の裁判を通じて多くの史料が提出されました。裁判を超えての史料批判が、求められているのではないでしょうか?
  3. この第2報にかかれた行軍経路と「斬り」人数は、
    常州から丹陽までの十里の間(→奔牛鎮→呂城鎮→陵口鎮)で向井は30(計86)人、野田は40(計65)人。
 

大阪毎日新聞
1937年(昭和12年)12月4日朝刊 <百人斬り競争 大阪第2報>

百人斬り競争 後日物語
八十六名と六十五名 鎬をけづる大接戦!
片桐部隊の向井、野田両少尉  痛快・阿修羅の大奮戦

 丹陽にて【三日】浅海、光本本社特派員発
 既報南京をめざして雄々しくも痛快極まる「百人斬り競争」を開始した片桐部隊の二青年将校、向井敏明少尉、野田毅少尉両勇士は常州出発以来も奮戦につぐ奮戦を重ねて二日午後六時丹陽に入城したが、かたや向井少尉はすでに敵兵を斬つた数八十六名に達すれば野田少尉も急ピツチに成績をあげ六十五と追いすがり互いに鎬をけづる大接戦となつた、

即ち両勇士は常州、丹陽たつた十里の間に前者は三十名、後者は四十名の敵を斬つたわけで壮烈言語に絶する阿修羅の如き奮戦振りである、 何しろ両勇士とも京滬鉄道に沿ふ同一戦線上で奔牛鎮、呂城鎮、陵口鎮(何れも丹陽の北)の激戦で敵陣に飛び込んでは斬り躍り込んでは斬り、中でも向井少尉は丹陽城中正門の一番乗りを決行、野田少尉も右の手首に軽傷を負ふなど、この百人斬競争は赫々たる成果を挙げつつある、

記者等が丹陽入城後息をもつかせず追撃に進発する部隊を追ひかけると向井少尉は行進の隊列の中からにこにこしながら

野田の奴が大分追ひついて来たのでぼんやりしとれん、この分だと句容までに競争が終りさうだ、そしたら南京までに第二回の百人斬競争をやるつもりだ、野田の傷は軽いから心配ない、陵口鎮で斬つた敵の骨で俺の孫六に一ケ所刃こぼれが出来たがまだ百人や二百人は斬れるぞ、大毎、東日の記者に審判官になつて貰ふワッハッハッハ

と語つて颯爽と進んで行つた

(『大阪毎日新聞』昭和12年12月4日朝刊 第11面中上 5段見出し)

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  1. 同じ原稿でありながら、東京と大阪で見出しが変わるのは、いまの新聞社でも整理部が見出しをつけるのだから、変わって当然かもしれない。本文の表記や言い回しが微妙に異なるのは、電話の声で原稿を送ったからではないか、というここの閲覧者の声があった。
 

東京日日新聞
1937年(昭和12年)12月6日付朝刊 <第3報>

89−78百人斬り¢蜷レ戦 勇壮!向井、野田両少尉

[句容にて五日浅海、光本両特派員発]
南京をめざす「百人斬り競争」の二青年将校、片桐部隊向井、野田両少尉は句容入城にも最前線に立つて奮戦入城直前までの戦績は向井少尉は八十九名、野田少尉は七十八名といふ接戦となつた。

  1. この第3報にかかれた行軍経路と「斬り」人数は、
    句容入城まえの戦闘で、向井は3(計89)人、野田は13(計78)人。
 

大阪毎日新聞
1937年(昭和12年)12月7日朝刊 <百人斬り競争 大阪第3報>

百人斬り競争の二少尉
相変らず接戦の猛勇ぶり

丹陽にて【三日】句容にて【五日】浅海、光本本社特派員発
南京を目ざす「百人斬り競争」の二青年将校、片桐部隊向井敏明、野田毅両少尉は句容入城にも最前線に立つて奮戦、入城直前までの成績は向井少尉は八十九名、野田少尉は七十八名といふ接戦となつた

(両少尉の写真あり)
敗けず劣らずの野田少尉(右)と向井少尉(左) (常州にて−佐藤本社特派員撮影)

(『大阪毎日新聞』昭和12年12月7日朝刊 第2面左中 3段囲み記事)

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東京日日新聞
1937年(昭和12年)12月13日朝刊 <第4報>

百人斬り超記録=@向井 106−105 野田
両少尉さらに延長戦

[紫金山麓にて十二日浅海、鈴木両特派員発]
南京入りまで百人斬り競争≠ニいふ珍競争を始めた例の片桐部隊の勇士向井敏明、野田巌(ママ)両少尉は十日の紫金山攻略戦のどさくさに百六対百五といふレコードを作つて、十日正午両少尉はさすがに刃こぼれした日本刀を片手に対面した

野田 「おいおれは百五だが貴様は?」
向井 「おれは百六だ!」
・・・・両少尉はアハハハ

結局いつまでにいづれが先に百人斬ったかこれは不問、結局

「ぢやドロンゲームと致さう、だが改めて百五十人はどうぢや」

と忽ち意見一致して 十一日からいよいよ百五十人斬りがはじまつた。

十一日昼中山陵を眼下に見下ろす紫金山で敗残兵狩真最中の向井少尉が 「百人斬ドロンゲーム」 の顛末を語つてのち

知らぬうちに両方で百人を超えていたのは愉快ぢや、俺の関孫六が刃こぼれしたのは一人を鉄兜もろともに唐竹割にしたからぢや、戦ひ済んだらこの日本刀は貴社に寄贈すると約束したよ。
十一日の午前三時友軍の珍戦術紫金山残敵あぶり出しには俺もあぶりだされて弾雨の中を 「えいまゝよ」 と刀をかついで棒立ちになってゐたが一つもあたらずさこれもこの孫六のおかげだ

と飛来する敵弾の中で百六の生血を吸った孫六を記者に示した。

<二人が軍刀をついて立っている写真つき>
【写真説明】百人斬り競争≠フ両将校
(右)野田巌(ママ)少尉(左)向井敏明少尉=常州にて佐藤(振)特派員撮影。
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  1. 東京日日新聞の第4報は、写真も併せて原告側支援サイトに画像として大きく掲載されています。記事内容を照合してみてください。
  2. この第4報にかかれた行軍経路と「斬り」人数は、
    紫金山残敵掃蕩で、向井は17(計106)人、野田は27(計105)人。
 

大阪毎日新聞
1937年(昭和12年)12月13日朝刊 <百人斬り競争 大阪第4報>

106對105
百人斬り競争の向井、野田両少尉
血染めの秋水輝かに南京入り

紫金山麓【五日】浅海、鈴木両特派員発
 南京入りまで ”百人斬り競争”といふ珍競争をはじめた例の片桐部隊の勇士向井敏明、野田毅両少尉は十日の紫金山攻略戦のどさくさに百六対百五といふレコードを作つて、十日正午両少尉はさすがに刃こぼれした日本刀を片手に対面した、

野田 「おいおれは百五だが貴様は?」
向井 「おれは百六だ!」
・・・・両少尉は ”アハハハ”

結局いつまでにいづれが先きに百人斬つたかこれは不問、結局

「ぢやドロンゲームと致さうだが改めて百五十人はどうぢや」

と忽ち意見一致して十一日からいよいよ百五十人斬りがはじまつた、 十一日昼中山陵を眼下に見下ろす紫金山で敗残兵狩り真最中の向井少尉が「百人斬ドロンゲーム」の顛末を語つたのち

知らぬうちに両方で百人を超えてゐたのは愉快ぢや、俺の関孫六が刃こぼれしたのは一人を鉄兜もろともに唐竹割にしたからぢや、戦ひ済んだらこの日本刀は貴社に寄贈すると約束したよ 十一日の午前三時友軍の珍戦術紫金山残敵あぶり出しには俺もあぶりだされて弾雨の中を「えい、ままよ」と刀をかついで棒立になつてゐたが一つもあたらずさこれもこの孫六のおかげだ

と飛来する敵弾の中で百六の生血を吸った孫六を記者に示した

(『大阪毎日新聞』昭和12年12月13日朝刊 第11面左中上 4段見出し)

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