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本件日日記事は,昭和12年11月30日から同年12月13日にかけて4回にわたって連載されたものであり,関係した記者も,浅海,光本,安田,鈴木の4人の手によるものである。そして,浅海,鈴木両記者は,極東軍事裁判における検事の尋問に対する供述やその後の種々の記事で,両少尉からの聞き取りによる取材であることを明らかにしている。また,佐藤記者も,両少尉が「百人斬り競争」を行っているという話を直接聞いて,「取材の中で『斬った,斬ったと言うが,誰がそれを勘定するのか』と両少尉に聞いたところ,『それぞれに当番兵がついている。その当番兵をとりかえっこして,当番兵が数えているんだ」という話だった。」と述べている。両少尉が浅海記者らに虚偽の事実を告げることはあり得ず,これらから両少尉の「百人斬り競争」の事実が裏付けられる。
「百人斬り競争」については,当時,本件日日記事のほか,
にそれぞれ掲載されており,
野田少尉が中村碩郎あての手紙の中で「百人斬り競争」を自認し,「百人斬日本刀切味の歌」まで披露していること(昭和13年1月25日付け大阪毎日新聞鹿児島沖縄版),野田少尉が帰国後に新聞社の取材に対して「百人斬り競争」を認める発言をしていること(昭和13年3月21日付け鹿児島新聞),野田少尉の家族も「百人斬り競争」を認める発言をしていること(昭和13年3月22日付け鹿児島朝日新聞)などの事実からも,両少尉が「百人斬り競争」を事実であると認めていたことが裏付けられる。
望月五三郎は,昭和12年当時,冨山大隊第十一中隊に所属し,南京戦にも参加した人物であるところ,同人の著書である「私の支那事変」には,両少尉による「百人斬り競争」について記述されており,その内容は,具体的で迫真性があり,体験者でなければ到底書き得ないものである。
志々目彰は,雑誌「中国」昭和46年12月号に投稿した論稿の中で,同人が小学生のころに聞いた野田少尉の講演内容について記載しており,それによれば,野田少尉が「百人斬り競争」を認める発言をしていたものである。志々目彰は,野田少尉の話が,軍人を目指していた志々目彰にとってショックであり,それゆえ,明確な記憶として残っていたとするものであって,その内容も具体的で確かなものである。
両少尉は,その遺書においても,自分たちが「百人斬り競争」を語った事実自体は否定していない。
なお,両少尉は,南京軍事裁判において,野田少尉が麒麟門東方において行動を中止し,南京に入った事実はないとし,向井少尉が丹陽の戦闘で負傷し,救護班に収容されていた旨弁解しているところ,野田少尉は,上記のとおり,自ら「百人斬り競争」について具体的かつ詳細に語っているし,南京戦の資料でも冨山大隊が南京戦に参加していたことが認められ,向井少尉については,冨山大隊第三歩兵砲小隊に属し,向井少尉直属の部下であった田中金平の行軍記録中に負傷した事実の記載がないばかりか,昭和14年5月16日付け東京日日新聞の記事中では,自ら負傷した事実がないことを自認しているから,いずれの弁解も客観的資料や証言に反し,信用することができない。
望月五三郎の「私の支那事変」によれば,野田少尉が行軍中に見つけた中国国民を殺害し,「その行為は支那人を見つければ,向井少尉とうばい合ひする程,エスカレートしてきた」ことが明記されており,志々目彰の上記論稿によれば,野田少尉は,投降兵や捕虜を「並ばせておいて片つばしから斬」ったことを認めている。
洞富雄元早稲田大学教授は,詳細な資料批判を行った上,「百人斬り競争」が捕虜の虐殺競争であると考えているし,田中正俊元東京大学教授も,客観的資料に基づく実証的見解として,「百人斬り競争」の対象者のほとんどすべての人々が非武装者であったのではないかと述べており,「南京大虐殺のまぼろし」を執筆した鈴木明も捕虜の殺害であれば「百人斬り」の可能性があることを認め,秦郁彦拓殖大学教授も「百人斬り」が「戦ってやっつけた話じゃなさそうだ」と判断している。
そして,昭和12年の南京攻略戦当時,日本軍による略奪,強姦,放火,捕虜や一般民衆の殺害などはごくありふれた現象であり,多数の資料も存在するのであり,鵜野晋太郎が「日本刀怨,恨譜」で記しているように,多くの捕虜や農民の殺害が行われていたものである。
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