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浅海記者は,本件日日記事について,自らが取材,執筆したものであるとした上,両少尉が自ら進んで積極的に話した内容を記事にしたものであって,その内容は真実であると述べている。
すなわち,浅海記者は,まず,昭和21年6月15日,極東軍事裁判所のパーキンソン検事の尋問を受けた際,本件日日記事第三報及び第四報に書かれていることが「真実か虚偽か」との質問に対し,「真実です」と明言し,続いて,南京軍事裁判に提出した昭和22年12月10日付け証明書においても,「両氏の行為は決して住民,捕虜等に対する残虐行為ではありません」,「同記事に記載されてある事實は右の両氏より聞きとって記事にしたもので(す)」と記載している。
また,浅海記者は,「週刊新潮」昭和47年7月29日号の記事において,両少尉から話を聞いたことを認めているほか,昭和52年9月発行の「ペンの陰謀」所収「新型の進軍ラッパはあまり鳴らない」においても,両少尉自らが浅海記者に百人斬り競争を計画していることを話し,その後の百人斬り競争の結果について両少尉の訪問を受けて,その経過を取材したことについて具体的に述べている。
鈴木記者は,本件日日記事第四報について,浅海記者と共同で取材,執筆したものであるとした上,両少尉が自ら進んで積極的に話した内容を記事にしたものであって,その内容は真実であると述べている。
すなわち,鈴木記者は,まず,昭和21年6月15日,浅海記者とともに,極東軍事裁判所のパーキンソン検事の尋問を受けた際,本件日日記事第四報に書かれていることは「真実ですか,虚偽ですか」との質問に対し,「真実です」と明言するとともに,同尋問において,1941年から1945年の間の陸軍省記者クラブ時代に大本営情報部から伝えられた情報については,振り返ってみれば記事の大部分は虚偽だったと思うとしながらも,上記記事に書いたことは,自分が真実だと知っていることだけを書いたと述べている。
また,鈴木記者は,昭和46年11月発行の雑誌「丸」所収「私はあの"南京の悲劇"を目撃した」において,両少尉から聞いた話を記事にしたと述べ,「週刊新潮」昭和47年7月29日号の記事においても,紫金山で両少尉に会い,浅海記者とともに両少尉から上記記事の事実を直接聞いたと述べている。
さらに,鈴木記者は,昭和52年9月発行の「ペンの陰謀」所収「当時の従軍記者として」において,両少尉から紫金山の麓で直接聞いたこと,虐殺ではないことを信じて記事にしたことを明確に述べているほか,「『南京事件』日本人48人の証言」においても,両少尉から上記のとおり聞いたと述べている。
佐藤記者は,本件日日記事第四報の写真を撮影をした際,両少尉が百人斬り競争の話をしたことを聞いていた旨一貫して述べている。
すなわち,佐藤記者は,まず,「週刊新潮」昭和47年7月29日号の記事において,本件日日記事第四報の写真を撮影した経緯を述べ,両少尉が浅海記者に「百人斬り競争」について進んで話をしていたこと,浅海記者が両少尉の話をメモにとっていたことを述べ,「百人斬り」の数の数え方についても「それなら話はわかる」と納得している。
また,佐藤記者は,平成5年12月8日発行の「南京戦史資料集U」所収「従軍とは歩くこと」において,両少尉が浅海記者に「百人斬り競争」について積極的に話していたこと,佐藤記者も納得できない点を質問し,返答を受けて納得できたと述べており,その後,南京の手前で浅海記者に会った際に,浅海記者がなおも「百人斬り競争」の取材を続けていたことを確認したと述べている。
さらに,佐藤記者は,当法廷においても,両少尉が浅海記者に「百人斬り競争」について話しているのを聞いたと明確に証言している。
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