「百人斬り」東京地裁判決(部分-010)

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《争点2:本多著書は名誉毀損や敬愛追慕の情侵害になるか》 m&s
      • (被告朝日の主張)
        •  ある記事がどのような事実を摘示し,あるいは意見又は論評を表明したものであるかは,一般読者の普通の注意と読み方とを基準として判断すべきところ,「中国の旅」文庫本の第16刷以降及び「本多勝一集 第14巻 中国の旅」並びに「南京への道」文庫本及び「本多勝一集 第23巻 南京への道」は,上記(1)の被告朝日の主張欄のとおりの論評を記載したものであり,また,いずれも両少尉を「M」「N」と匿名で表記し,両少尉の実名を記載していないから,一般読者は,「M」「N」を両少尉であるとは認識せず,ましてや,原告らが「M」「N」の遺族であるとも認識しないから,両少尉及び原告らに対する名誉毀損は成立し得ない。

          仮に,「中国の旅」及び「南京への道」のうち上記のものが「M少尉」及び「N少尉」において「据えもの百人斬り」として捕虜を虐殺する競争を行ったことを摘示したものであるとしても,「百人斬り」は,今から六十数年も前の昭和12年の日中戦争の戦争行為の最中に戦闘員が行った,過去の歴史上の戦場でありがちな現象として記載されているものであり,両少尉の遺族がその責任を問われたり,非難されることはあり得ないものであって,両少尉の遺族である原告らの名誉を毀損するものでもない。

          なお,一般読者が原告らを両少尉の遺族であるとは認識しないこと及び両少尉の遺族が非難されることがあり得ないものであることは,「中国の旅」及び「南京への道」のうち実名表記のなされたものについても同様である。

          また,遺族である原告らに対する名誉毀損が成立するためには,少なくとも問題の記載が両少尉の名誉を違法に侵害するといえる場合でなければならず,刑法230条2項との均衡上,民事においても,死者に対する名誉毀損は,虚偽の事実を摘示した場合にのみ違法性を有するというべきである。しかしながら,「中国の旅」及び「南京への道」は,虚偽の事実を摘示したものではなく,したがって,遺族に対する名誉毀損の不法行為が成立しないことは明らかである。
        •  原告らは,「中国の旅」及びこの記載によって,原告らの両少尉に対する敬愛追慕の情を侵害すると主張しているところ,仮に,死者に対する遺族の敬愛追慕の情を侵害する不法行為が成立することがあり得るとしても,それは,摘示した事実が虚偽であって,かつ,その事実が極めて重大で,遺族の死者に対する敬愛追慕の情を受忍し難い程度に侵害したといえる場合に限られるものと解すべきであって,摘示した事実が過去の歴史的事実である場合には,死者に対する遺族の敬愛追慕の情に対して,歴史的事実の探求の自由ないし表現の自由への配慮が優位に立つと考えるべきであり,そのような配慮の上に立って考察してもなお許されないと評価できる場合にのみ,違法性を有するに至るものと解すべきである。

          そして,名誉毀損の不法行為責任に関する判例法理が,真実性について,重要(主要)な部分において真実であることが証明されれば足りるとしていることからすれば,死者に対する遺族の敬愛追慕の情を侵害する不法行為の成立要件としての虚偽性についても,摘示した事実の重要(主要)な部分において虚偽であることが証明されることを要するというべきである。

          「中国の旅」及び「南京への道」で摘示した事実又は表明した論評のうち,重要(主要)な部分は,本件日日記事に記載された「百人斬り競争」の事実及び「据えもの百人斬り」,「捕虜虐殺」との論評であるところ,事実摘示の点については,後記のとおり,真実であり,虚偽でないことは明白であるし,本件日日記事は,両少尉が自ら進んで話した話の内容を記事にしたものであり,両少尉の承諾のもとに掲載されたものとして違法性がなく,それを引用した両書籍の記載にも違法性はない。

          また,論評の点については,両少尉の百人斬り競争を,本件日日記事,志々目彰の話,鵜野晋太郎の「日本刀怨恨譜」に基づいて論評したものであって,今から六十数年前の歴史的事実の紹介ないしその論評という表現行為の意義,目的に照らし,社会的に妥当な範囲内の公正な論評であるし,両少尉は,後記のとおり,まさに「据えもの百人斬り」を行っていたものであるから,「据えもの百人斬り」,「捕虜虐殺」との論評は真実ないし真実に基づくものであって,虚偽ではない。
        •  原告らは,原告らの父や兄が南京で「百人斬り競争」を理由に戦犯として処刑されたことが原告らのプライバシーに属する事柄である旨主張しているところ,「中国の旅」及びこのうち,一部のものについては,上記のとおり,両少尉を「M」「N」と匿名で表記しているし,実名表記のものについても,原告らとの関係の記載は全くないのであって,一般読者において,原告らのプライバシーに属する事柄を認識しようがないものである。そうすると,「中国の旅」及び「南京への道」の記載によって,原告らのプライバシー権を侵害するということはあり得ない。 m&s
        •  本件日日記事に記載された「百人斬り競争」が真実であり,両少尉の「据えもの百人斬り」,「捕虜虐殺」が真実であることは,以下のとおり明らかである。
          • (ア) 両少尉が,記者からの取材に対し,本件日日記事のとおり語ったことは,以下のとおり事実である。

            浅海記者は,本件日日記事について,自らが取材,執筆したものであるとした上,両少尉が自ら進んで積極的に話した内容を記事にしたものであって,その内容は真実であると述べている。

            すなわち,浅海記者は,まず,昭和21年6月15日,極東軍事裁判所のパーキンソン検事の尋問を受けた際,本件日日記事第三報及び第四報に書かれていることが「真実か虚偽か」との質問に対し,「真実です」と明言し,続いて,南京軍事裁判に提出した昭和22年12月10日付け証明書においても,「両氏の行為は決して住民,捕虜等に対する残虐行為ではありません」,「同記事に記載されてある事實は右の両氏より聞きとって記事にしたもので(す)」と記載している。

            また,浅海記者は,「週刊新潮」昭和47年7月29日号の記事において,両少尉から話を聞いたことを認めているほか,昭和52年9月発行の「ペンの陰謀」所収「新型の進軍ラッパはあまり鳴らない」においても,両少尉自らが浅海記者に百人斬り競争を計画していることを話し,その後の百人斬り競争の結果について両少尉の訪問を受けて,その経過を取材したことについて具体的に述べている。

            鈴木記者は,本件日日記事第四報について,浅海記者と共同で取材,執筆したものであるとした上,両少尉が自ら進んで積極的に話した内容を記事にしたものであって,その内容は真実であると述べている。

            すなわち,鈴木記者は,まず,昭和21年6月15日,浅海記者とともに,極東軍事裁判所のパーキンソン検事の尋問を受けた際,本件日日記事第四報に書かれていることは「真実ですか,虚偽ですか」との質問に対し,「真実です」と明言するとともに,同尋問において,1941年から1945年の間の陸軍省記者クラブ時代に大本営情報部から伝えられた情報については,振り返ってみれば記事の大部分は虚偽だったと思うとしながらも,上記記事に書いたことは,自分が真実だと知っていることだけを書いたと述べている。

            また,鈴木記者は,昭和46年11月発行の雑誌「丸」所収「私はあの"南京の悲劇"を目撃した」において,両少尉から聞いた話を記事にしたと述べ,「週刊新潮」昭和47年7月29日号の記事においても,紫金山で両少尉に会い,浅海記者とともに両少尉から上記記事の事実を直接聞いたと述べている。

            さらに,鈴木記者は,昭和52年9月発行の「ペンの陰謀」所収「当時の従軍記者として」において,両少尉から紫金山の麓で直接聞いたこと,虐殺ではないことを信じて記事にしたことを明確に述べているほか,「『南京事件』日本人48人の証言」においても,両少尉から上記のとおり聞いたと述べている。

            佐藤記者は,本件日日記事第四報の写真を撮影をした際,両少尉が百人斬り競争の話をしたことを聞いていた旨一貫して述べている。

            すなわち,佐藤記者は,まず,「週刊新潮」昭和47年7月29日号の記事において,本件日日記事第四報の写真を撮影した経緯を述べ,両少尉が浅海記者に「百人斬り競争」について進んで話をしていたこと,浅海記者が両少尉の話をメモにとっていたことを述べ,「百人斬り」の数の数え方についても「それなら話はわかる」と納得している。

            また,佐藤記者は,平成5年12月8日発行の「南京戦史資料集U」所収「従軍とは歩くこと」において,両少尉が浅海記者に「百人斬り競争」について積極的に話していたこと,佐藤記者も納得できない点を質問し,返答を受けて納得できたと述べており,その後,南京の手前で浅海記者に会った際に,浅海記者がなおも「百人斬り競争」の取材を続けていたことを確認したと述べている。

            さらに,佐藤記者は,当法廷においても,両少尉が浅海記者に「百人斬り競争」について話しているのを聞いたと明確に証言している。

          • (イ) 野田少尉は,本件日日記事が掲載された後に,郷里の友人あての手紙で,あるいは翌年(昭和13年)に帰国して以降,郷里の鹿児島で新聞記者や父親などに対し,あるいは幾つもの講演で,本件日日記事に掲載された「百人斬り」が真実であることを繰り返し述べている。また,向井少尉も,本件日日記事の掲載以後,「百人斬り競争」が事実であることを認めているし,両少尉とも,遺書において「百人斬り」を否定していない。

            昭和13年1月25日付け大阪毎日新聞鹿児島沖縄版には,野田少尉から中村碩郎にあてた書信のことが書かれており,それによれば,野田少尉自身が,同日時点では,既に本件日日記事に「百人斬り競争」の記事が出たことを知っており,南京入城まで105人を斬り,更に253人を斬ったと自ら述べており,同様の内容の記事は,同月26日付け大毎小学生新聞にも掲載されている。

            野田少尉は,南京攻略戦後の昭和13年に日本に帰国し,同年3月に郷里の鹿児島に立ち寄った際,新聞記者や父親に対し,あるいは講演で,百人斬り(それ以上の数を斬ったこと)を認めている。

            昭和13年3月21日付け鹿児島新聞では,野田少尉自らが374人を斬ったと述べ,さらに紫金山攻撃に参加したと述べており,同月22日付け鹿児島朝日新聞では,野田少尉の父が,野田少尉から374人の敵兵を斬ったことを聞いている旨述べている。

            同月26日付け鹿児島新聞には,同月24日「百人斬の野田少尉神刀館で講演」との記事が掲載されており,阿羅健一「名誉回復のその日まで」(「正論」平成15年12月号所収)によれば,当時,野田少尉の講演を聞いた人が多数いて,「百人斬り」が話題になったことが述べられている。

            野田少尉の父親である野田伊勢熊は,昭和42年6月に陸軍士官学校四十九期生会が発行した「鎮魂第二集」に寄稿し,その中で,南京軍事裁判以後も両少尉の「百人斬り競争」が事実であったことを認めている。

            志々目彰は,雑誌「中国」昭和46年12月号所収「百人斬り競争―日中戦争の追憶―」において,野田少尉が帰国後の昭和14年春ころ,鹿児島県立師範学校付属小学校で行った「百人斬り競争」についての講演を直接聞いたと述べている。

            向井少尉は,南京戦の後,中尉に昇進し,昭和14年5月に中国漢水東方地区において,南京戦での百人斬りの青年将校として東京日日新聞の西本記者の取材を受け,その中で「百人斬り競争」が真実であることを認める言動を行っている。

            両少尉は,遺書の中で,捕虜や住民を殺害してはいないことを強調しているが,戦闘行為として斬ったことは否定しておらず,「百人斬り競争」について自ら進んで新聞記者に話したことを認めている。

            本件日日記事の直後,昭和12年12月2日付け大阪毎日新聞鹿児島沖縄版,同月16日付け鹿児島朝日新聞,同月18日付け鹿児島新聞には,野田少尉関係の記事が,同月13日付け大毎小学生新聞には向井少尉関係の記事が,それぞれ掲載されている。
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          • (ウ) 両少尉による「百人斬り競争」,「据えもの百人斬り」及び「捕虜虐殺」が事実であることは,冨山大隊の関係者等の証言からも裏付けられる。

            冨山大隊第十一中隊に属していた望月五三郎は,昭和60年7月発行の「私の支那事変」において,両少尉の「据えもの斬り」を直接体験した事実として具体的に記述している。

            冨山大隊第三歩兵砲小隊に属し,向井少尉直属の部下であった田中金平は,「我が戦塵の懐古録」(第十六師団歩兵第九連隊歩兵砲隊の戦友会である「九'砲の集い」が出版した懐古録)に寄せた「第三歩兵砲小隊は斯く戦う」において,第三歩兵砲小隊の行軍について詳細に記述しているところ,同行軍記録には,各場所での戦死者,負傷者の記述があるが,小隊長であった向井少尉が丹陽の戦闘で負傷し,救護班に収容されたとの記述はない。

            直属の小隊長が戦線を離脱したのに,その記述がないということは考えられず,向井少尉が丹陽の戦闘で負傷し,救護班に収容されたという,南京軍事裁判における向井少尉の答弁や冨山大隊長の受傷証明書は,真実を述べたものとは到底考えられない。

            六車政次郎は,陸軍士官学校時代に野田少尉と同期生であり,第十六師団歩兵第九連隊第一大隊副官(少尉)として,南京攻略戦に参加している(野田少尉の手紙の中にも「六車部隊長」,「六車」として名前が出ている。)が,白兵戦について実際に経験した内容を具体的に記述しており,平成2年8月発行の「惜春賦―わが青春の思い出―」においては,大隊副官であっても,白兵戦で人を斬ったことを具体的に記述しているし,昭和47年5月発行の「鎮魂第3集」(陸軍士官学校四十九期生会発行)所収「野田大凱の思い出」においては,「百人斬り」という数についても違和感を抱いていない。
          • (エ) 南京軍事裁判での両少尉の弁明は,その置かれた立場からすればやむを得ない弁明というべきかもしれないが,重要な部分において虚偽であることが明らかであり,信用することができない。

            南京軍事裁判における両少尉の各答辮書によれば,浅海記者が架空の記事を創作したとされているところ,浅海記者,鈴木記者,佐藤記者の前記各証言や,野田少尉が百人斬りを認める言動をとっていたことなどからすれば,両少尉自身が浅海記者らに「百人斬り競争」の話をして,それを浅海記者らが記事にしたことが明らかであり,両少尉の上記弁明は,虚偽である。

            野田少尉は,記事を見たのは民国27年(昭和13年)2月のことで,その後も戦地を転々と転属して新聞記事訂正の機会を逃したとしているが,前記のとおり,野田少尉は,報道直後の同年1月から3月までの時点で,本件日日記事に両少尉の百人斬りの記事が掲載されていることを十分認識した上で,書信や新聞記者の取材,講演等で自ら「百人斬り」を行ったことを述べているのであり,この弁明も虚偽である。

            野田少尉は,麒麟門東方において行動を中止し,南京に入った事実はないと弁明しており,これによると,野田少尉の属する冨山大隊主力は,丹陽北方から鎮江方面に北辺迂回をし,揚水の南側を行軍したが,麒麟門手前で引き返し,湯水を経由して砲兵学校に至り,紫金山にも南京にも行かなかったこととなる。しかしながら,冨山大隊は,草場追撃隊の先発隊として丹陽を攻撃して占領し,さらに句容付近の敵の陣地を攻撃突破し,追撃隊主力とともに湯水鎮方面に向い,紫金山,中山門を経て,昭和12年12月13日に南京に入城していることが明らかであり,野田少尉自身,昭和13年の時点では自ら紫金山攻撃に参加したとはっきり述べており,野田少尉の上記弁明も虚偽である。

            野田少尉は,大隊副官の職務からして「百人斬りの如き馬鹿げたる事をなし得る筈なし」と弁明しているが,六車政次郎の証言にあるとおり,大隊副官の任務上,白兵戦で人を斬ることがないとはいえず,この弁明も虚偽である。

            両少尉は,俘虜住民を虐殺したことはないと弁明しているが,両少尉が無抵抗の農民を奪い合うようにして,日本刀で斬り捨てたことは,望月五三郎の前記証言から明らかであって,この弁明も虚偽である。

            向井少尉は,昭和12年11月末ころ,丹陽の戦闘で左膝頭部及び右手下膊部を負傷し,同年12月中旬(南京攻城戦終了)まで丹陽の臨時野戦病院において臥床中で,同病院が湯水温泉地に移動した際に担架車載トラックで湯水砲兵学校に駐留していた所属部隊に帰隊したと弁明している。

            しかしながら,前記のとおり,向井少尉が丹陽の戦闘で負傷し,入院し戦列を離れたとの事実は,向井少尉直属の部下である田中金平の行軍記録には全く記載がないし,向井少尉自身が「百人斬り競争」の事実を認めており,さらに,浅海記者及び鈴木記者とも,昭和12年12月12日に紫金山の麓で両少尉に会って「百人斬り競争」の経過について取材したと明確に証言しているから,この弁明は虚偽であって,向井少尉は,冨山大隊の第三歩兵砲小隊長として,丹陽の戦闘の後,句容の攻撃に参加し,さらに紫金山攻撃に参加し,同月13日に中山門から南京に入城し,同月25日に南京から湯水東方の砲兵学校に移駐したものである。

            両少尉は,本件日日記事で「百人斬り」報道がなされたことを認識しながら,報道から10年後に南京軍事裁判のため逮捕,起訴されるまで,「百人斬り」が事実ではなかったとは全く述べておらず,野田少尉については,前記のとおり,講演等で「百人斬り」を行ったことを繰り返し公言していたもので,逮捕,起訴後の弁明に信用性はない。また,両少尉は,その遺書においても,前記のとおり,俘虜住民を殺害したことはないと述べつつも,百人斬りを行ったこと自体は否定していない。

            なお,冨山大隊が麒麟門東方において行動を中止し,南京に入ることなく湯水東方砲兵学校に集結したとする冨山大隊長の証明書及び向井少尉が丹陽郊外で受傷し,雛隊したとする冨山大隊長の受傷証明書も真実を記載したものとはいえない。受傷や離隊等が事実であれば,公式記録等によって証明することができたはずであるが,冨山大隊長は何ら裏付け資料を提出していない。
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