「百人斬り」東京地裁判決(部分-017)

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《弁論・陳述・証拠の紹介:冨山部隊の行動( 犬飼総一郎)》
      •  冨山大隊の動向について,歩兵第十九旅団司令部旅団通信班長少尉であった犬飼総一郎(以下「犬飼」ともいう。)は,要旨以下のとおり述べている(甲115)《原告側陳述:根拠となる記録史料は?》
          草場旅団は,昭和12年11月25日,東亭鎮が攻略されると,第十六師団の追撃隊となり,その兵力は,歩兵第九連隊の第二中隊と冨山大隊,歩兵第二十連隊,野砲兵第二十二連隊第一大隊,工兵第十六連隊の一個小隊から編成されていたところ,冨山大隊は,追撃隊の前衛となって先行し,草場旅団司令部はその後方約200メートルを続行していた。冨山大隊は,同月26日,草場旅団司令部から無錫突破の命令を受け,軽装甲車中隊の協力を得て無錫駅を占領した。冨山大隊は,同月27日,洛社鎮を出発し,横林鎮を経て常州に向かい,同月28日,常州城北東側の北門外に迂回し,同所にて戦闘を行い,同月29日,常州を占領した。

          その後,常州から丹陽に向かう追撃の途中,奔牛鎮の攻撃は,追撃隊の前衛となった歩兵第二十連隊第三大隊が,呂城鎮の攻撃は,再び追撃隊の前衛となった冨山大隊が敢行し,それぞれ攻略した。冨山大隊は,同年12月2日,鉄道線路上を追撃し,冨山隊主力は丹陽駅の敵陣地にぶつかり,その後,丹陽駅周辺一帯を占領し,退却する中国軍に対し,攻撃を加えていた。犬飼は,このとき,冨山大隊から無線で戦況を聞いており,向井少尉が負傷したことも聞いた。

          追撃隊主力の歩兵第二十連隊は,同月3日,丹陽西方の白兎鎮に進出し,同月4日には,歩兵第九連隊の主力を旅団に復帰させることとして,句容を攻撃し,湯水鎮に向かって追撃するよう命令を受けた。草場旅団司令部には,歩兵第九連隊が追及し,その後に歩兵第三十旅団が追及し,最後尾に冨山大隊が続いていた。

          草場旅団司令部は,同月5日,賈崗里に進出した後,歩兵第二十連隊をもって,その西方約10キロメートルの地点にある砲兵学校に向かって進撃中,上海派遣軍司令部の直協機(旧式の偵察機)が旅団司令部の上空に飛来して通信筒を落とした。犬飼は,これを読み,句容は既に第九師団がその南西に進出し,句容西方の退路が遮断されようとしていることが分かり,その通報を受けて,草場旅団長は,歩兵第二十連隊に対し,句容を攻略することなく,迂回転進するよう命じ,歩兵第二十連隊の予備隊であった第二大隊が真っ先に転進し,砲兵学校に向かい,同第三大隊が追及し,更に句容北東の飛行場を攻撃中だった同第一大隊が最後に追及した。冨山大隊は,同日,賈崗里にて一泊し,翌日,草場旅団に追及し,砲兵学校に至った。

          草場旅団司令部は,同月7日,砲兵学校南方約3.5キロメートルの馬具頭付近に集結し,前面の敵情地形を偵察せよとの師団命令を受け,取りあえず歩兵第二十連隊第一大隊を前衛として先発させ,前面の偵察のために冨山大隊を砲兵学校から西進させた。冨山大隊は,奥村中隊を尖兵中隊,同第一小隊(大野小隊)を尖兵とし,庄裏から西進し,約3キロメートル進撃したものの,約2キロメートル北西の湯山陣地から砲撃を受け,旅団命令により撤退した。

          冨山大隊は,同月8日,西庄から黄泥岡に向かい,同地に残っていた草場旅団司令部と合流し,同月9日,蒼波鎮に進出した。冨山大隊は,同月10日,既に紫金山の敵主陣地内に入っていた歩兵第九連隊第一大隊を救援するため,向上村を出発し,北西に進んで小五顆松経由で無梁殿北側の記念塔(七重の塔)に登り,迫撃砲の集中射撃を受け,西進して桂林石屋南方の陵線上に並び,第一大隊は,右第一線,冨山大隊は,左第一線となった。

          同月13日,歩兵第九連隊では第五中隊と奥村中隊のみが南京城内の掃討隊に選抜され,午後一時半すぎに中山門から同城内に入城した。なお,歩兵第二十連隊は,中山門付近から城外の街道筋にかけて集結し,同第三大隊は師団予備となって馬群に移動した。師団予備であった歩兵第九連隊第二大隊は,紫金山北側を西進した歩兵第三十旅団の後を追って掃討に参加し,更に歩兵第二十連隊第三大隊も掃討に参加した。

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