「百人斬り」東京地裁判決(部分-018)

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《弁論・陳述・証拠の紹介:外国紙誌による日日記事の紹介》
      • オ 本件日日記事が掲載された直後,ジャパン・アドバタイザー紙には以下の記事が掲載された。
        • (ア) 1937年(昭和12年)12月7日付けジャパン・アドバタイザー紙には,英文で,概略以下のとおり記載されている(甲48)
          「  百人斬り競争の両少尉 接戦中

            日本軍が完全に南京を占領する前に,どちらが先に中国兵を白兵戦で斬るか,仲良く競争中の句容の片桐部隊,向井敏明少尉と野田毅少尉は今やまさに互角の勝負をしながら最後の段階に入っている。

            「朝日新聞」によれば,句容郊外で彼等の部隊が戦闘中であった日曜日の成績は,向井少尉89人,野田少尉は78人であった。  」
        • (イ) 1937年12月14日付けジャパン・アドバタイザー紙には,英文で,概略以下のとおり記載されている(甲49)
          「  百人斬り競争 両者目標達成で延長戦

            向井敏明少尉と野田厳少尉の,日本刀で百人の中国兵をどちらが先に殺すかという競争は勝負がつかなかった,と日日新聞が南京郊外の紫金山麓から報じている。向井は106人,競争相手は105人を斬ったが,どちらが先に100人を斬ったかは決められなかった。二人は議論で決着をつける代わりに,目標を50人増やすことにした。

            向井の刀はわずかに刃こぼれしたが,それは中国兵を兜もろとも真っ二つに斬ったからだと彼は説明した。競争は"愉快"で,二人とも相手が目標を達成したことを知らずに100人を達成できたことは結構なことだと思う,と言った。

          土曜日の早朝,日日新聞の記者が孫文の墓を見下ろす地点で向井少尉にインタビューしていると,別の部隊が中国軍を追っ払おうとして紫金山の山麓めがけて砲撃してきた。その攻撃で向井少尉と野田少尉もいぶし出されたが,砲弾が頭上を飛び過ぎる間,呑気にかまえて眺めていた。"この刀を肩に担いでいる間は,一発の弾も私には当たりませんよ。"と彼は自信満々に説明した。  」

          これらの記事は,後に英国マンチェスター・ガーディアン紙の記者であったH.J.ティンパレーにより "WHAT WAR MEANS:The Japanese Terror in China"(中国語訳では「日軍暴行紀実」。以下「日軍暴行紀実」という。)の中で「南京"殺人競争"」として紹介された(甲50)
            なお,「曾虚白自傳」によれば,ティンパレーは,国民党国際宣伝処が,日本軍の南京における大虐殺について国際宣伝を行うに際し,米国のスマイス教授とともに協力を仰いだ人物とされ,ティンパレーについては,国際宣伝処の駐米宣伝の覆面の責任者となったとされている。同人は,後に国民党中央宣伝部顧問に就任している(甲53,54,90)

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