「百人斬り」東京地裁判決(部分-019)

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《弁論・陳述・証拠の紹介:日日紙以外の国内報道》
      • 力 本件日日記事が掲載された直後,他の新聞にも,以下のとおり,両少尉のことが取り上げられた。 《今回の裁判で発掘された新資料多し。OCRで読み取れなかった漢字の情報を欲す》
        • (ア) 昭和12年12月1日付け大阪毎日新聞鹿児島沖縄版には,「百人斬り"波平"二百本の中から選んだ銘刀 田代村出身野田穀少尉」の見出しの下,以下のとおり記載されている(乙9)
          「○○百人斬を誓って江南の地に勇名をとゞろかせてゐる冨山部隊の野田穀少尉は鹿児島縣肝属郡田代村出身鹿児島縣立一中から士官學校に進み本年八月少尉に任官した青年将校で「城山」を吟じつゝ戦死した神田部隊加隅少尉と同期生であつた。出陣に當って『近代戰○は科學兵器の戦闘であるが最後を決するものは依然として大和魂だ。日本刀だ』とわざわざ○○にゐる愛刀家の叔父田代宮熊氏の愛刀約二百本のうちから鹿児島の名工波平作の二口を選んで譲り受け『これさへあればやるぞ』と○○出征したものである。果たせるかな同僚向井少尉と○○,南京百人斬りをやらうと阿修羅の如く奮戦してゐる。鹿児島縣川邊郡加世田町津貫小學校長をつとめてゐる實父伊勢熊氏(五○)のもとにこの快報をもたらせば實母てるさん(四五)とともに喜んで語る

          本年士官學校を出たばかりで○○○りですからそれくらゐのことはやるでせう。この間來た手紙にも友達は皆○○たる武勲を立て新聞に書かれてゐるが自分はそういふ○○がなくて残念だと書いてゐました  」

        • (イ) 昭和12年12月2日付け大阪毎日新聞鹿児島沖縄版には,「同僚たちは新聞にも書かれる手柄をした百人斬り念願野田少尉」の見出しの下,野田少尉が写真入りで紹介された上,以下のとおり記載されている(丁8)
          「  南京攻略戦で"報國百人斬り"を念願し同僚の向井少尉と念願達成の日を窺ってゐる鹿児島縣肝属郡田代村出身,野田毅少尉は縣立鹿児島第一中學時代,いま同じく南支で勇名を轟ろかしてゐる○○部隊長の薫陶を受け,自ら進んで士官學校を○○,さきに戦死した神田部隊加隅少尉その他中北支戦線で○○の武勲を樹てゝゐる青年少尉の多くは彼の同期生である。ために最近戦線から鹿児島縣川邊郡加世田町津貫小學校に勤務してゐる實父伊勢熊氏(五○)に届けられた便りにも"御期待に副ふだけの働きはこれから十分するから安心してくれ"と書いてあった。以下○○から○○の新戰場へ移る○に書いた野田少尉の手紙である(中略)

          九月十六日○○上陸以來十月十七日まで一ヶ月のうちに百○里を追撃。まるで急行列車追撃戰でした。そのうち小○○,中○,大孫村では私の部隊が土戰部隊になって戰ひ,幾多の戦友,部下を失ひましたが弾丸の下の度胸は十分に出來ました。○郷では神田部隊と一足違ひで皆と逢ふことは出來ませんでしたが,同期生の加隅少尉が悠々「城山」を吟じながら戰死したことや○○少尉が名誉の戰傷を受けたことを聞いてひとしは励まされ羨ましくも思ひました。同僚の中でも六車や山口は新聞などにも書かれるほどの手柄を樹てました。

          これから○○の新戰場に向かひます。次に來るものは何かこれはかねてから覺悟してゐるそれです。ついでがあったら煙草(バツト)を送って下さい。なほ大阪毎日と鹿児島の新聞を一部づゝ送って下さい。ほとんど一月おくれの新聞を讀んでゐるし,戦線では新聞が何より樂しみです  」

        • (ウ) 昭和12年12月13日付け大毎小学生新聞には,「弱冠ながら昭和『孫六』こゝにあり 百人斬競爭に關町の歡聲」の見出しの下,向井少尉の愛刀とされる「關の孫六」を生んだ岐阜県関町の様子が記載されており,写真説明の一つには「百人斬競爭を讀んで微笑する金子少年(左から二人目)とその師兼永翁(その隣)」と記載されている(丁10)
        • (エ) 昭和12年12月16日付け鹿児島朝日新聞には,
          「  南京攻略の華百人斬り再出發 背に浴びた太刀提げて 鹿児島出身の若武者野田毅少尉」との見出しで,両少尉の念願が南京陥落とともに達せられた旨記載され,「南京城にゴールインしサテ刀の血糊を拭ってみれば,前者が百○六人,後者は百○五人といふ勘定―どっちが先に百人を刀の錆にしたか,不明とあってこの勝負更めて百五十人を目標にスタートを切ることになった。  」

          と記載された上,

          「  南京完全占領がもたらされた日,津貫小學校長を訪ふと,寫眞に見る少尉にそつくりのピリッとした小粒の嚴父野田校長は

          南京が陥ちて,斯んな目出度いことはありません。無論子供は陛下に捧げた軍人ですから,戦死は覚悟の上ですが,たゞ新聞にこんな風に書かれた以上,百人斬らんうちに死んだら残念だがと,そればっかりが氣掛かりでしたよ,刀は田代村で神官をやってゐる伯父の田代宮熊といふのが,出征前に贈ってくれたもので無銘でしたが,二尺三寸の業物です,あれは父に似て五尺二寸足らずの小兵ですので聯隊區司令部の岩山中佐殿が,君には長過ぎるぞといはれましたが,背に浴びるやうな長い奴を擔いでいきましたよ,ワッハッハッハー あれの気性ですからまだこれから働いてくれるだらうと,大いに期待して居ます  」

          と記載され,野田少尉について,

          「  性格は負ず嫌いの暴れン坊だが,繪なんか器用に描くので両親は最初お醫者か,繪描きさんという極温和しい處世法を打ち樹ててゐた,本人はそれが氣に喰わなかったらしく,中學に入るや,好きな繪筆をがらりと投げ捨て,明倫會の村山中佐らの主宰してゐる神刀館邉りに出入して,盛んに劔舞をやりだしたものだ,両親は,家に歸ってからも,狭い座敷で三尺もある長い奴を矢鱈に振り廻されるので,危くてしやうがないので,親父さん,到頭折れて出て,本人の願望の軍人を叶ってやったといふ次第  」

          と紹介され,その後,「野田少尉手記」として,

          「  陣中餘暇を見出し,煙草を吹かしながら,戰跡を追想して居ります今廿三日《判決文のママ、十三日かと思います》は,近頃珍らしい小春日和りです,やがて北支五省に春が還ってくるのも近いうちでせう。左に陣中所感の一端を認めてみませう。

            ○○日の○○沿線の作戰は○○○の第○軍と呼應○○線沿線の敵を包囲殲滅するに在つた。敵の退路遮断の目的を以てする機動戰に敵はこれを察知したか疾風の如く逃げ出したが,その一部を叩き潰した。タンネンビルヒの殲滅戰を夢見ていた余の作戦は失敗だったかもしれぬ。然し一部の目的は達したと思考す。

            ○○上陸以來○○に至る間約一ヶ月間を以て敵陣百三十里を突破した,○○の約二千粁の所を行軍中,我先遣部隊と約三百粁を距てた道路を平行して前進する敵の大縦隊を発見,機関銃,重機銃,大隊砲を以て痛撃した敵五百が散を亂して潰走,先頭白馬の三將校が,馬乗から轉落したのは愉快だった。

            間もなく約三千の大敵が現れ,三方から包囲攻撃し來つたので,五十メートル迄引寄せ,目茶々々に叩いた結果,敵は死體五百を遺棄潰走した,これで激戦を三回経験したわけだが,近頃は戰爭にも馴れて來ました,やがて華々しい戰果の御報できるのも近いうちでせう。  」

          と記載されている(丁9)

        • (オ) 昭和12年12月18日付け鹿児島新聞には,「話題の快男子 百人斬り名選手 野田穀少尉 日本人たる無上の光榮に感激 肝属郡田代村出身」との見出しの下,「百人を突破して百五十人斬り競争話題の二勇士」の一人として紹介され,野田少尉の母の話として,野田少尉は,幼いときから軍人が好きで,戦ごっこをしていたことなどが記載され,野田少尉が父にあてた手紙が引用されている(丁11)

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