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三百七十四人の敵を斬りました袈裟がけ,唐竹割,突伏せなど眞に痛快でした愛刀は無銘でもこの通り刃こぼれは餘りありません
と水も滴る軍刀を抜き放って示すのである見れば中ほどから刃先にかけてところところに刃がこぼれてゐる,然しこれが三百七十四人の支那人の血を吸ふたものとは思へぬほどに濁り一つ見せぬ明皎々たる名刀である津浦京漢兩鐵道線路の中間地區から京漢線方面の戰闘に従事轉じて常熟南京攻略の戰闘に参加しさらに又北支に舞ひ戻り大小數々の戰闘に参加し所謂弾丸雨飛の間を往來しましたが弾丸は私には一發も當りませんでした紫金山攻撃の際のごとき私の左右にある兵士どもは七人までバタバタ倒れましたが中間にある私には一度も當りませんでした,弾丸は決して私には當らないものと信念を得ました
と武運に恵まれた若い少尉は微笑し乍ら語るのであった競爭相手の向井少尉は何人斬ったかをそれとなく尋ねると破顔一笑矢張り百六七十人でせう
と己れの功のみを誇らぬところに同僚への床しい厚誼が偲ばれる同少尉は二十日午前中父君の津貫校児童に一場の競争談をなし午後は校區主催の講演會および歓迎會に臨み二十四,五,六日ごろ郷里肝付郡田代に帰省墓参をなす豫定である 」
「 戰友向井少尉と百人斬りの競争をして戦線に薩摩隼人の面目を遺憾なく發揮し,武人の華と謡はれた野田少尉は赫々たる武勲を樹て突如故國に凱旋し,三月十九日父の住地たる川邉郡加世田町津貫に歸って來た,父伊勢熊氏が津貫小學校の校長をしてゐるからである。 」
「 野田少尉の凱旋を聞き二十日校長宅にこの勇士を訪へば,當日野田少尉は午前九時から津貫校児童の爲に實戰談の講演をするといふで多忙の模様であったが,父伊勢熊氏の談に依れば、
野田少尉は北支戰線から中支方面に轉戦し南京攻撃を最後として前後二十回の激戰に参加し敵兵を斬ること實に三百七十四人に及び,殊に河北省の邯鄲攻撃では最も多くを斬りその爲愛刀が少し曲ったといふことである 」
「 百人斬の野田少尉神刀館で講演」の見出しの下,「北支中支と薩摩隼人の意氣を發揮し南京入りに百人斬りの名聲を轟かした片桐部隊野田少尉は廿四日歸鹿昨日昔詩を吟じ釣を舞した神刀館生一同の盛大なる歓迎會に臨み實戰に花を咲せ名残を惜しみつつ午后一時二十一分西驛發の列車にて上京せり。 」
と記載されている(丁5)。
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