「百人斬り」東京地裁判決(部分-021)

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《弁論・陳述・証拠の紹介:野田少尉の帰郷講演についての報道》
      • キ 野田少尉は,南京攻略戦後の昭和13年3月,郷里の鹿児島に帰郷し,母校鹿児島男子師範学校附属小学校などで講演を行っており,そのことは当時の新聞に,以下のとおり記事にされている。
        • (ア) 昭和13年3月21日付け鹿児島新聞には,「袈裟がけ・唐竹割−突つ伏せ−唸れる銘刀の凄味 三百七十四人を斬った戰場の花形・鬼少尉薩摩男の子の誇り 今度は陸の荒鷲群へ その途次に郷里へ凱旋」の見出しの下,次のように記載されている(丁3)
          「  陸軍士官学校を巣立つとともに片桐部隊に属して第一線に出動し同僚たる山口縣出身の向井少尉と百人斬の競爭をはじめた快男子野田穀少尉は今回師團から選抜されて陸の荒鷲群に入ることになり所澤陸軍飛行練習所へ赴く途中目下加世田津貫尋常高等小學校長の職にある嚴父伊勢熊氏の膝下に歸り,數日間身を委ねることゝなつた。  」

          「  十九日午後九時二分伊集院驛から南薩線に乗替へた同少尉を父伊勢熊氏らと出迎へると元氣一杯に満ちた,今年二十六歳の若武者は悠然と車室に納まり武運長久を祝す酒盃を外にして出征以來の戰績を語るのであつた,例の向井少尉との競爭談に水を向けるとニツコと笑ひ乍ら

          三百七十四人の敵を斬りました袈裟がけ,唐竹割,突伏せなど眞に痛快でした愛刀は無銘でもこの通り刃こぼれは餘りありません

          と水も滴る軍刀を抜き放って示すのである見れば中ほどから刃先にかけてところところに刃がこぼれてゐる,然しこれが三百七十四人の支那人の血を吸ふたものとは思へぬほどに濁り一つ見せぬ明皎々たる名刀である

          津浦京漢兩鐵道線路の中間地區から京漢線方面の戰闘に従事轉じて常熟南京攻略の戰闘に参加しさらに又北支に舞ひ戻り大小數々の戰闘に参加し所謂弾丸雨飛の間を往來しましたが弾丸は私には一發も當りませんでした紫金山攻撃の際のごとき私の左右にある兵士どもは七人までバタバタ倒れましたが中間にある私には一度も當りませんでした,弾丸は決して私には當らないものと信念を得ました

          と武運に恵まれた若い少尉は微笑し乍ら語るのであった競爭相手の向井少尉は何人斬ったかをそれとなく尋ねると破顔一笑

          矢張り百六七十人でせう

          と己れの功のみを誇らぬところに同僚への床しい厚誼が偲ばれる同少尉は二十日午前中父君の津貫校児童に一場の競争談をなし午後は校區主催の講演會および歓迎會に臨み二十四,五,六日ごろ郷里肝付郡田代に帰省墓参をなす豫定である  」
        • (イ) 昭和13年3月22日付け鹿児島朝日新聞には,「斬りも斬ったり敵兵三百七十四人剛勇野田少尉突如加世田に凱旋」の見出しの下,次のように記載されている(丁4)

          「  戰友向井少尉と百人斬りの競争をして戦線に薩摩隼人の面目を遺憾なく發揮し,武人の華と謡はれた野田少尉は赫々たる武勲を樹て突如故國に凱旋し,三月十九日父の住地たる川邉郡加世田町津貫に歸って來た,父伊勢熊氏が津貫小學校の校長をしてゐるからである。  」

          「  野田少尉の凱旋を聞き二十日校長宅にこの勇士を訪へば,當日野田少尉は午前九時から津貫校児童の爲に實戰談の講演をするといふで多忙の模様であったが,父伊勢熊氏の談に依れば、 野田少尉は北支戰線から中支方面に轉戦し南京攻撃を最後として前後二十回の激戰に参加し敵兵を斬ること實に三百七十四人に及び,殊に河北省の邯鄲攻撃では最も多くを斬りその爲愛刀が少し曲ったといふことである  」

        • (ウ) 昭和13年3月26日付け鹿児島新聞には,

          「  百人斬の野田少尉神刀館で講演」の見出しの下,「北支中支と薩摩隼人の意氣を發揮し南京入りに百人斬りの名聲を轟かした片桐部隊野田少尉は廿四日歸鹿昨日昔詩を吟じ釣を舞した神刀館生一同の盛大なる歓迎會に臨み實戰に花を咲せ名残を惜しみつつ午后一時二十一分西驛發の列車にて上京せり。  」

          と記載されている(丁5)

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