「百人斬り」東京地裁判決(部分-023)

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《紹介:パーキンソン検事による浅海記者及び鈴木記者に対する尋問調書》
      •  東京裁判のため,昭和21年6月15日市ヶ谷陸軍省380号室で行われた検察官の尋問調書によれば,浅海記者及び鈴木記者は,米国のパーキンソン検事から本件日日記事等について尋問を受け,概略,以下のとおり答えた(丁1)

        「  
        (問)鈴木さん。浅海さんをご存知ですか。
        (答)はい
        (問)あなたは毎日新聞社に勤めていた間,彼のことを知っていたのですか。
        (答)はい,彼のことはずっと知っていました。
        (問)1937年12月,あなた方は南京で一緒だったのですか。
        (答)私たちは別々の部隊に従軍していましたが,12月10日に丹陽で合流して,12月13日に中山門から南京入りしました。
        (問)そして,先に供述した通りの期間,そこに滞在したのですね。
        (答)私は南京には12月16日までいました。
        (問)その間に,つまり12月10日から南京入りする13日まで,そして南京を出る16日までの問に,浅海氏とは常に接触していたのですか。
        (答)その3,4日間,私たちはChyukaという同じ旅館に泊まりました。
        (問)では,中国派遣中にはどれくらいの頻度で東京の新聞社へ特電を送っていましたか。
        (答)非常に不規則でしたが,中国滞在中はおよそ40本程度の特電を送りました。
        (問)中国から東京の新聞社へ特電を送る前に軍当局からの許可を必要としましたか。
        (答)従軍記者は特電をまず上海支局に無線電信で送り,そこで東京に無線電信で送信される前に検閲を受けることになっていました。
        (問)誰が検閲をしたのですか。
        (答)軍部です。
        (問)軍部で検閲を担当していたのはどの部局でしたか。
        (答)上海に支部がある`情報部が検閲を行っていました。
        (問)陸軍の情報部ですか。
        (答)はい,陸軍のです。
        (問)では,その頃にあなたが例えば南京から上海へ情報を送信するに際して,軍当局から何らかの妨害はありましたか。
        (答)いいえ,妨害は何もありませんでした。
        (問)好きなことを自由に書くことができたのですね。
        (答)はい。好きなことを自由に書くことができました。しかし,東京で記事になる前に上海で検閲を受けていました。  」

        「  
        (問)それでは,あなたに関する限りは,恐らくあなたが送信した素材はどれも自分自身の知識によるものだということですね。
        (答)私に関する限り,軍人から直接命令を受けたことは一度もありません。しかし,南京入りしている間に毎日新聞が現地に支局を開設したので,その支局長から記事を書くように何度か指示を受けたことはあります。
        (問)そして,そういう記事を書いたのですね。
        (答)はい,書きました。
        (問)そうした記事に書かれた素材が真実なのか虚偽なのかを知っていましたか。
        (答)はい,知っていました。
        (問)どちらですか。
        (答)真実でした。
        (問)では,ある記事を書くように命じられて,実際に執筆するに際しては,自分が真実だと知っていることだけを書いたのですか。
        (答)はい,その通りです。
        (問)毎日新聞に掲載されたニュース記事を2本お見せした上で,あなたがその執筆者かどうか,あるいはいずれかの記事の執筆に携わったかどうかをお聞きしたいと思います。
        (答)1937年12月5日付けで掲載された記事は自分が書いたものではありません。しかし,12日付けで毎日新聞に掲載された二つ目の記事は私が浅海さんと一緒に書いたものです。
        (問)日本語版に掲載された写真は同じようにあなたが送ったものですか。
        (答)この写真はサタさんという別の従軍記者が撮影しました。常州で撮影したものです。
        (問)この写真は別の人が撮ったということですが,自分の記事の一部としてあなたが送ったものですね。
        (答)私はこの写真について知りませんが,浅海さんは知っています。実際は彼が送信したものですから。
        (問)しかし,写真は浅海さんが撮ったのではありませんね。
        (答)佐藤という名の別の従軍記者が撮ったものです。
        (問)それから鈴木さん,あなたが浅海さんと共同で,記事の一部として送ったのですね。
        (答)浅海さんが送った,と言った方がいいでしょう。
        (問)浅海さんと協力して執筆した記事をあなたが送ったのですか。それとも浅海さんが執筆に加わった記事を彼が送ったのか,またはあなたが参加した記事を彼が送ったのか。
        (答)その記事は浅海さんが主に執筆したものです。
        (問)しかし,加わったのは…。
        (答)鈴木さんが加わりました。
        (問)つまり共同執筆ですか。
        (答)そうです。
        (問)では,12月5日付け東京毎日新聞に掲載された記事を執筆したのは誰ですか。
        (答)5日付けに掲載された記事については,私は何も知りません。
        (問)浅海さん。鈴木氏に対する質問と答えを聞いていましたね。彼が言ったことが正しいと思いますか。
        (答)その通りです。
        (問)1937年12月5日の記事の執筆者はあなたですか。
        (答)はい。私がこの記事の執筆者です。
        (問)では,鈴木さん。あなたは12月12日の記事の執筆に関わりました。あなたはその記事に事実として書かれていることが真実か虚偽か知っていますか。
        (答)はい,知っています。
        (問)真実ですか,虚偽ですか。
        (答)真実です。
        (問)浅海さん。たった今,鈴木さんに尋ねた質問をお聞きになりました。あなたもこれらの記事に事実として書かれていることが真実か虚偽かお答えになれますか。
        (答)真実です。
        (問)では,この新聞発表2本を確認する上で,お二人の共同供述書に署名を頂くことができますか。執筆者であること,そしてその記事が真実であること,つまり,記述内容が真実であることを供述してください。
        (答)はい。供述します。  」

        「  
        (問)当時,このような競争が他にも行われたのですか。
        (答)他の競争については知りません。  」

        「  
        (問)鈴木さん。あなたが中国に滞在している間,中国一般市民に対する日本軍の行為にどのような印象を受けましたか。
        (答)自分が従軍した部隊に関する限り,残虐な行為もあったし,民間人に対する親切な行為もありました。
        (問)全体としてみた場合,日本軍は攻撃戦または防御戦のどちらを行っているような印象を受けましたか。
        (答)日本軍は攻撃戦を行っていたと思います。
        (問)浅海さん。今,鈴木さんに尋ねた質問が聞こえましたね。そして,彼の答えも聞きました。あなたの受けた印象はいかがでしたか。
        (答)私が従軍した部隊はたくさんの中国民間人と遭遇することはなかったので,私には中国民間人に対する行為についての意見はありません。日本軍が攻撃的又は防御的のどちらかの振る舞いだったかと言えば,攻撃的行為を行っていたと,私は断言できます。
        (問)鈴木さん。中国ではどの部隊に従軍していましたか。
        (答)上海をたつ時には,第101部隊に従軍していました。
        (問)それは師団ですか。
        (答)第101部隊は連隊ほどの大きさで,南京へ向かう途中で私はいろいろな部隊の間を移動しました。南京入りの時は中島中将率いる第16師団に同行していました。
        (問)鈴木さん。中島中将率いる軍隊は日本軍の中でも最も残虐な師団であったとされています。そのような意見にあなたは同意しますか。
        (答)最も残虐な師団だったとは思いません。
        (問)他の師団も同じように酷かったと思いますか。
        (答)わかりません。
        (問)浅海さん。あながた中国にいる間に従軍したのはどの部隊でしたか。
        (答)上海をたつ時に私が従軍していたのは,台湾軍の旅団に従軍しており,南京へ向かう途中はさまざまな部隊に同行し,南京入りの当時はイワナタカ戦車連隊に従軍していました。
        (問)南京入りののちは。
        (答)南京に入ってからは,どの部隊にも従軍していませんでした。
        (問)あなたは,私たちが米国で呼ぶ"フリーランサー"だったのですか。
        (答)"フリーランサー"でした。
        (問)その後,あなたは"フリーランサー"だったのですか,鈴木さん。
        (答)はい。私たちはともにその後は"フリーランサー"でした。
        (問)ひとつ質問をしたいと思いますが,最初に鈴木さん,次に浅海さんに答えて頂きたいと思います。戦時中の日本における報道の自由についての意見を聞かせてください。
        (答)戦争が勃発して以降,報道機関は統制されており,戦時下に報道の自由などはありませんでした。
        (問)あなたはどう思いますか,浅海さん。
        (答)報道は法律によって規制され,また戦争に反対する記事が掲載された場合はその執筆者は通常,社会から追放されるというのが戦時中の通例でした。
        (問)最初に鈴木さん,そして浅海さん,中国から戻ってからお二人が執筆した記事の内容についてお聞きしたいと思います。つまり,軍事作戦に関するものか,または別のニュース記事を扱っていたのか,という質問です。
        (答)私が中国から戻って来た当初は"フリーランス"でしたが,警視庁記者クラブ勤務を経て,宮内省へ,そして1941年9月から終戦まで陸軍省記者クラブに所属していました。
        (問)陸軍省記者クラブ担当になってから,あなたの記事は軍事活動と関係していたという意味ですか。
        (答)陸軍省記者クラブで働いていた頃は大本営情報部の発表や,大本営情報部のメンバーが指示したコメントを報道したりしていました。
        (問)軍事活動に関係することですか。
        (答)陸軍の活動すべてにわたって報道していました。
        (問)あなたの記事に使われる,情報の出所は何でしたか。
        (答)私の取材の情報源は大本営情報部のメンバーの説明でした。
        (問)振り返ってみて,1941−45年の間を通じてあなたに伝えられた情報は真実でしたか,それとも虚偽でしたか。
        (答)われわれには,真実だと伝えられました。私に関して言えば,情報は真実でした。
        (問)当時,あなたは'情報が真実だったと考えていた。しかし,振り返ってみると。
        (答)加えて申し上げたいことは,情報の出所は通常,陸軍参謀長が発表するものが情報部に届けられ,情報部の将校が私たちに対して何を書いて,何を書いてはいけないかを伝えていました。ですから,振り返ってみれば,それら記事の大部分は虚偽だったと思います。  」

        「  
        (問)浅海さんに見せたいものがあります。毎日新聞に掲載された「百人斬り競争」の記事の原文と"the Japan Advertiser"に掲載された英語の同じ記事の証明済みの写しです。二つの記事を見比べてみて,英語版が日本語版の正しい翻訳かどうかをお聞きしたいと思います。その際,毎日新聞に掲載された競争者二人の写真は The Japan Advertiser には掲載されていない点に注意してください。では,二つを比べてみて,これが正しい翻訳と思うか見てもらえませんか。
        (答)12月7日付けthe Japan Advertiserの最初の記事で"朝日"という言葉が"日々"となるべきですが,それを除けば,この記事の翻訳は正確だと思います。  」

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