「百人斬り」東京地裁判決(部分-029)

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《紹介:戦犯軍事法庭への起訴書とそれに対する野田、向井両少尉の申辯書》
      •  国防部審判戦犯軍事法庭検察官は,昭和22年12月4日,両少尉を起訴した。その犯罪事実は,

        「  被告らは,軍に従って来華し,民國26年(昭和12年)12月5日,江蘇句容縣において入城した時,向井は中国人89人を殺し,野田は78人を殺害した  」

        というものと,

        「  同年12月11日,南京攻略戦中,被告らは再び百五十人斬り競争をし,紫金山麓において,向井は106人を殺し,野田は105人を殺害した  」

        というものであった。起訴書の証拠及び所犯法条の項には,

        「  右記事実は既に敵従軍特派員浅海及び鈴木を経て,その目撃情形を前後して東京に伝達し,各新聞紙は,その勇壮をたたえ,争って連載をしてこれを万人に伝えたが,更に東京日日新聞を資料として考査するに,その新聞に登載された被告らの写真もまたそれに符合しており,証拠確実にして自らその空言狡展に任せて刑責を免れることはできない  」

        旨記載されている(甲27)

        南京軍事裁判所は,昭和22年12月9日,予審庭で両少尉に対して尋問を行い,両少尉は,起訴書に対する論駁及び審問の補足として,概略以下のとおりの申辯書を提出した(甲28,29)

        • (ア) 野田少尉の民國36年(昭和22年)12月15日付け申辯書(甲28)

          野田少尉は,起訴書記載の「犯罪事実」に対する論駁として,

            まず,自分が句容北方を遠く迂回していて句容縣に入城していないこと,丹陽東方において自分は北へと向井少尉は西へと別行動を取ったため,句容縣で両名が会合していなかったことなどから,句容における犯罪事実が事実無根であるとした。また,野田少尉は,紫金山山麓で向井と会合していないこと,当時,抗戦中の中国兵以外は一人の俘虜及び住民も見ていないことから,紫金山山麓における犯罪事実が事実無根であるとした。

            さらに,両犯罪事実に関する共通の論駁として,当時,中国民衆が熾烈な抗戦意識と戦闘に対する恐'怖心から戦場に姿を見せたことがほとんどなかったこと,常識で考えても戦場の突撃戦,白兵戦で中国兵の百人斬りが不可能であることなどを挙げた。

            野田少尉は,起訴書の証拠に対する論駁として,記者らが冨山大隊と行動を共にしておらず,自分の「百人斬り」行動なるものも見ていないこと,自分が浅海記者に会ったのは,無錫付近と麒麟門東方の二回であり,しかも,麒麟門東方で会ったとき,向井少尉は不在であったのだから,句容,紫金山の記事はいずれも虚偽であるとした。

            野田少尉は,予審庭における「何故新聞記事の虚報を訂正しなかったのか」との質問に対して,自分が記事を見たのは昭和13年2月華北に移駐したころであるが,その後も各地を転々としたため,訂正の機会を逃し,かつ,軍務繁忙のため忘却してしまったこと,何人といえども新聞記事に悪事を虚報されれば憤慨して新聞社に抗議し訂正を要求するが,善事を虚報されれば,そのまま放置するのが人間の心理にして弱点であること,自分の武勇を宣伝され,また,賞賛の手紙等を日本国民から受けたため,自分自身悪い気持ちを抱くはずはなく,積極的に虚報を訂正しようとしなかったこと,また,反面で,虚偽の名誉を心苦しく思い,消極的には虚報を訂正したいと思ったが,訂正の機会を失い,うやむやになってしまったとした。

        • (イ) 向井少尉の民國36年(昭和22年)12月15日付け申辯書(甲29)

          向井少尉は,起訴状の「犯罪事実」に対する申辯として,

          民國26年(昭和12年)12月5日句容縣に入城し,中国人89人を斬り,同年12月11日紫金山山麓において106人を斬ったとの事実が事実無根であるとして,
            従軍記者の浅海と鈴木が,向井少尉の部隊には随伴せず,後方の上級部隊司令部と行動を共にしていたはずであること,
            自分は無錫の戦闘で砲撃戦に参加したのが初陣であったこと,
            自分は,無錫での戦闘が終了した翌朝,後方の上級司令部が無錫に到着した際,無錫郊外で浅海記者らと初めて会い,共に会合をし,各種の談話をして記念撮影をして別れたこと,
            両少尉は,丹陽の東方で別れ,自分は丹陽へ向かい,野田少尉は冨山大隊と共に鎮江方面に北進したこと,
            自分は,昭和12年11月末,丹陽の砲撃戦において中国軍の追撃砲弾のために左膝頭部及び右手下膊部に盲貫弾片創を受け,臨時野戦病院に収容され,以後一切の戦闘行為から離脱したこと,
            新聞に掲載された写真は,無錫における戦闘が終了した後に,浅海記者と初めて会ったときに記念写真として撮影したものであること,昭和21年7月1日に国際検事団検事から詳細な審理を受けた結果不起訴処分と判定され釈放されたことなどを挙げた。

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