「百人斬り」東京地裁判決(部分-032)

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《紹介:判決を不服とした上訴申辯書と、添付した冨山大隊長の証明書及び浅海記者の証明書》
      •  両少尉は,昭和22年12月20日,同判決を不服として上訴申辯書を提出し,その際,冨山大隊長の証明書2通及び浅海記者の証明書1通を添付した(甲33)
        • (ア) 冨山大隊長の証明書には,

          毎日新聞紙上記載のような「百人斬り競争」の事実がなかったこと,冨山大隊が昭和12年12月12日麟麟門東方において行動を中止し,南京に入ることなく湯水東方砲兵学校に集結したこと,大隊将兵が湯水東方砲兵学校跡駐留間(昭和12年12月13日から昭和13年1月8日まで)は,全く外出を禁止し,特に南京方面に外出したことがないことが記載されており,冨山大隊長の受傷証明書には,向井少尉が昭和12年12月2日丹陽郊外において左膝頭部盲貫及び右腕下膊部盲貫弾片創を受け,離隊し,救護班に収容され,同月15日湯水において部隊に帰隊し治療したことが記載されていた。

        • (イ) 浅海記者の証明書には,

          浅海記者が昭和12年11月ころ大阪毎日新聞及び東京日日新聞に掲載した記事について,同記事に記載されている事実は,両少尉から聞き取って記事にしたもので,その現場を目撃したことがないこと,両少尉の行為が決して住民,捕盧等に対する残虐行為ではなく,当時でも,残虐行為の記事は日本軍検閲当局をパスすることができなかったこと,両少尉が当時若年ながら人格高潔で模範的日本軍将校であったこと,これらの事項について浅海記者は昭和21年7月東京裁判においてパーキンソン検事に供述し,当時不問に付されたことが記載されていた。

        • (ウ) なお,上訴申弁書の修正案(甲79)には,上記弁明に加え,

          本件日日記事の両少尉の写真が,無錫付近における記念撮影であり,紫金山における「百人斬り競争」とは何の関係もなく,証拠にはならないことなどが記載されていたほか,原稿の最後に,「新聞記事の真相」という項があり,その中で,両少尉と浅海記者との間の会話が再現されており,これによれば,浅海記者が両少尉に「無錫から南京まで何人斬れるか競争してみたら。」と持ち掛け,それに応じて向井少尉が冗談で「百人斬り」の話をしたところ,浅海記者が武勇伝に名前を貸してほしいと言い,それを両少尉において了承し,浅海記者が「記事は一切記者に任せてください。」という会話であったとされている。

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