「百人斬り」東京地裁判決(部分-036)

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《紹介:本多「中国の旅」連載(昭46年)と、それ以後の論争》
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        被告本多は,昭和46年8月ころから12月ころにかけて,朝日新聞紙上に「中国の旅」を連載し,同年11月5日付け朝日新聞紙上において,「競う二人の少尉」との見出しの下,別表記事番号一の1の1(*)と同内容の記事を掲載し,その際,両少尉を「A」「B」と匿名で表示した。被告本多による「中国の旅」の連載は,大きな反響を呼び,上記記事の「百人斬り競争」については,それが事実か否かについて論争を生じた(甲1,8)

        「百人斬り競争」の存在を肯定する論者として,鈴木記者は,雑誌「丸」昭和46年11月号に「私はあの"南京の悲劇"を目撃した」を寄稿し,志々目彰は,「中国」昭和46年12月号に「"百人斬り競争"--日中戦争の追憶--」を寄稿した。また,洞富雄は,昭和47年から昭和48年にかけて,「歴史評論」誌上などにおいて,「百人斬り競争」の存在を肯定する論稿を発表した(乙3,丁2)

        山本七平(イザヤ・ベンダサン)は,「諸君!」昭和47年1月号において,「朝日新聞の『ゴメンナサイ』」を掲載し,これに対して被告本多が,「諸君!」昭和47年2月号で「イザヤ・ベンダサン氏への公開状」を掲載し,以後同年4月号まで同誌上で論争が繰り返された。この論争の中で,両少尉は,実名を挙げて議論の対象とされ,このころ出版された「中国の旅」単行本の番号一の1の記事においても,すべて実名で掲載された。その後,山本七平及び鈴木明は,同誌上で「百人斬り競争」を否定する論稿を掲載した。なお,鈴木明が昭和47年4月号から連載した「『南京大虐殺』のまぼろし」は,昭和48年,第4回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した(甲103,106)

        鈴木明は,昭和48年,上記論稿を単行本化した「『南京大虐殺』のまぼろし」を発表し,山本七平は,自らの軍隊経験などを基に,昭和50年「私の中の日本軍」を発表した。洞富雄は,同年に「"まぼろし"化工作批判南京大虐殺」を発表し,鈴木らの見解に反論した。被告本多は,昭和52年に「ペンの陰謀」を発表し,その中で,浅海記者及び鈴木記者の論稿を掲載するとともに,鵜野晋太郎の論稿を掲載し,さらに,昭和62年,「南京大虐殺」を主に取り上げた「南京への道」単行本を出版した(甲9,10,16,87,乙1)

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