「百人斬り」東京地裁判決(部分-042)

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《紹介:洞富雄 「『 "南京大虐殺" はまぼろし』か」 と 田中正俊 「戦中戦後」 》
        • (カ) 洞富雄は,上記「ペンの陰謀」に「『"南京大虐殺"はまぼろし』か」を寄稿し,その中で,山本七平,イザヤ・ベンダサン及び鈴木明の見解を批判するとともに,

          「  それはさておき,山本七平氏のとなえるような,極端な『日本刀欠陥論』はうけいれられないにしても,たとえ捕虜の殺害とはいえ,二本や三本の日本刀で一○○人もの人を斬るなどということが,はたして物理的に可能かどうか,だれしもがいちおうは疑ってみるのが常識というものであろう。したがって,野田・向井両少尉が,無錫から紫金山まで約半月の戦闘で,どちらも一○○人以上の中国兵を斬った,と彼らみずから語ったのは,あるいは『大言壮語』のきらいがあるかもしれない。だが,たとえ『百人斬り』は『大言壮語』だったとしても,それは,二人の場合,捕虜の虐殺はまったくやっていないとか,『殺人競争』は事実無根の創作だったとかいうことにはならない。  」,

          「  極東国際軍事裁判で裁判長は,『百人斬り競争』を日本軍がおかした捕虜虐殺の残虐事件としてとりあげなかった。だが,このことは向井・野田両少尉を『不起訴』にしたとか,『無罪』にしたとかいうことを意味するものではない。極東国際軍事裁判はA級戦犯を審判した法廷であるから,向井・野田両少尉は,残虐事件の証人としてこの裁判の法廷に立たされることはあっても,戦犯として裁判されるはずはないのである。しかしながら,極東国際軍事裁判における検察側の処置は,ただちに両少尉を,中国関係B・C級戦犯の容疑者として,南京の軍事裁判で裁かれる運命からまぬがれさせるよりどころになるものではなかった。  」,

          「  私は拙著『南京事件』で,この『百人斬り競争』の話を,『軍人精神を純粋培養された典型的な日本軍人である』若手将校にみられた残虐性の一例として簡単に紹介しておいた(212−3.235−6.244−5ページ)。そこでは,五味川純平氏ののべているところなどにもふれながら,斬られたものの大半は捕虜である,と考えたのであるが,この見方は今も変わっていない。でも,私はこの二人の将校は,あやまった日本の軍隊教育の気の毒な犠牲者であると考えている。個人の残虐`性を責めるのではなく,その根源の責任が問われなければならない。  」

          と記載している(乙1)
          また,田中正俊は,「戦中戦後」において,

          「  南京攻略までにいたるいわゆる『百人斬り競争』について,調査官がその事実の信憑性に疑義を唱えたと聞くが,この"事実"は,当時の"検閲"を経て『東京日日新聞』1937年12月13日(月)に写真入りで報道されており,『百人斬り"超記録"両少尉さらに延長戦』の見出しのもとに,『十日の紫金山攻略戦のどさくさに百六対百五といふレコードを作って十日正午両少尉はさすがに刃こぼれした日本刀を前に対面した。(中略)

            両少尉は"アハハハ"結局いつまでにいづれが先きに百人斬ったか……』という記事を載せている。それぞれが人数を確認して百人以上も殺しておきながら,刃こぼれしたのは刀のみで,両人とも何の負傷も見せず,写真の中で肩をいからせているところを見ると,控え目に考えても,被害者の殆どすべての人々が非武装者であったのではないか,というのが,一歴史研究者としての私の客観的史料にもとづく実証的見解であるが,教科書調査官もまた,これらの記事を実証的に"調査"するとともに,これらの新聞紙面に窺われる当時の日本人の日中戦争観が,いかに傲慢で軽薄で,非人間的であったかについても,知見を広め,かつ深めておくべきであろう。  」

          と記載している(乙2)

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