「百人斬り」東京地裁判決(部分-047)

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《紹介:志々目彰の論稿に関する関係者の陳述》
        • (オ) 志々目彰の論稿に関する関係者の陳述等

          志々目彰の大阪陸軍幼年学校の同期生であるAは,志々目彰の論稿に対して,

          「  之だけはと思い,野田少尉の事だけは,私の私見ですが伝へておこうと思って次に書いておきます。野田少尉は,戦争の犠牲者と云うより,マスコミの犠牲者と云った方が正しい様な気がします。野田少尉の話は,附属の裁縫室でありました。私たちの組だけでした。上海上陸から南京攻略迄の話,色々の苦労話が主だったのですが,捕虜を切った話もありました。彼が出鱈目に捕虜を切ったわけではないのです。多数の捕虜の中には逃亡を企てる奴等は必ずいる。他の捕虜の見せしめの為には處罰しなければならない。その様な連中を切ったのです。それも百人もと云う多人数ではないと思います。彼が日本刀を抜いて見せた時,歯こぼれが沢山していて,何とかいう名刀も,こんなに歯こぼれがしては使いものにならない。日本刀は,実際の所,実戦では役にたゝない。支那兵は厚い綿入を着ているので,切りつけてもはねかえされてしまう。捕虜を何人か切ったけど,骨迄切り落す事は非常にむつかしい。骨にあたると,此の様に歯がかげてしまう。実際問題として,日本刀は役にたゝない。  」

          と供述している(乙3,11)

          これに対し,Bは,その陳述書において,志々目彰と同じ小学校で野田少尉の話を聞いたことがあるとした上,百人斬ったという話や捕虜を斬ったという話を聞いていないこと,志々目彰が聞いたとされる話を聞いていないことなどを述べている(甲72)

          また,Cは,その陳述書において,鹿児島一中において野田少尉の話を聞いたことがあること,その話が,

          「  百人斬りの英雄ということで有名になったが,自分は決してそういうものではない。迷惑で心外である。百人斬りなんて無茶なことができるわけはない。白兵戦なんていうのはめったにおこるものではない。  」

          という内容であったことを覚えている旨述べ(甲67)

          Dも,鹿児島一中において野田少尉の話を聞いたことがあること,その際,南京戦の戦況らしいものが説明されたことを覚えているものの,それ以上のことを覚えていないことを述べている(甲73)

          さらに,Eは,その陳述書において,田代小学校4年生のころ,野田少尉の話を聞いたことがあること,その際,印象に残っているのは,延々と続く高梁畑を進軍中に,敵弾を浴び,高梁の穂が銃弾で折れてぶら下がっている中での進軍であったとの話であり,敵と渡り合って切り結んだというような話は全然出てこなかった旨述べている(甲75)

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