「百人斬り」東京地裁判決(部分-052)

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《紹介:冨山大隊第十一中隊に属していた望月五三郎の「私の支那事変」昭60.7 》
        • (コ) 望月五三郎の論稿

          冨山大隊第十一中隊に属していた望月五三郎は,昭和60年7月発行の「私の支那事変」において,以下のとおり記載している(丁12)

          「  このあたりから野田,向井両少尉の百人斬りが始るのである。野田少尉は見習士官として第11中隊に赴任し我々の教官であった。少尉に任官し大隊副官として,行軍中は馬にまたがり,配下中隊の命令伝達に奔走していた。この人が百人斬りの勇士とさわがれ,内地の新聞,ラジオニュースで賞讃され一躍有名になった人である。
            『おい望月あこにいる支那人をつれてこい』命令のままに支那人をひっぱって来た。助けてくれと哀願するが,やがてあきらめて前に坐る。少尉の振り上げた軍刀を脊にしてふり返り,憎しみ丸だしの笑ひをこめて、軍刀をにらみつける。一刀のもとに首がとんで胴体が,がっくりと前に倒れる。首からふき出した血の勢で小石がころころと動いている。目をそむけたい気持も,少尉の手前じっとこらえる。戦友の死を目の前で見、幾多の屍を越えてきた私ではあったが,抵抗なき農民を何んの理由もなく血祭にあげる行為はどうしても納得出来なかった。
            その行為は,支那人を見つければ,向井少尉とうばい合ひする程,エスカレートしてきた。両少尉は涙を流して助けを求める農民を無惨にも切り捨てた。支那兵を戦斗中たたき斬ったのならいざ知らず。この行為を聨隊長も大隊長も知っていた筈である。にもかかわらずこれを黙認した。そしてこの百人斬りは続行されたのである。

            この残虐行為を何故,英雄と評価し宣伝したのであらうか。マスコミは最前線にいないから,支那兵と支那農民をぼかして報道したものであり,報道部の検閲を通過して国内に報道されたものであるところに意義がある。  」

※ より詳細な紹介は、WEBサイト「inti-solのページ」の『百人斬り資料集 その2』にあります。

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