「百人斬り」東京地裁判決(部分-053)

| 前に戻る | 判決文の構成 | 凡例 | Searchに戻る | file-listに戻る | 次に進む |

《紹介:原告向井千惠子の手記・陳述など》
      • ・・・《原告向井千惠子の手記・陳述など》

        原告千惠子は,昭和46年に被告本多が「中国の旅」を発表し,「百人斬り競争」が論争されるようになると,周囲から向井少尉の子であることを指摘されることが多くなった。原告千惠子は,百人斬り競争に関連する出版が続くことに無念で,悔しい`思いをするとともに,向井少尉の無実を訴えようと考え,「諸君!」昭和64年新年特別号誌上において,「南京事件『百人斬り』『向井少尉の娘』の四十年」と題する手記を寄稿し,その中で,百人斬り競争が虚報であると指摘するとともに,

        「  そういう人たちは,まだ遺族が生存していることなど考えないのでしょうか。もしそれが真実なら,どんなことでも耐えなければなりませんが,しかし,事実でないことははっきりしています。これでは,日中平和を願って死んでいった父は,安らかに眠るどころではないと思います。自分の国の人に何度も引きずり出されては鞭で打たれているのです。死人に口なしで,生きている人は,どうにでも理由をつけ,自己弁護できるのです。
          私は,いつもジャーナリストの方に申し上げたいと思っていました。『私たち遺族は一生懸命生活しているのです。幼くして,一家の柱を失い,やむなく違った人生を歩き,曲がりなりにも,いまやっとわが子を成長させ,社会に送り出せたのです。皆さんも,人の子,人の親ともなればお分かりいただけるでしょう』と。  」

        と記載した(甲43)。

        なお,「週刊文春」昭和63年12月15日号誌上に掲載された「"創作記事"で崩壊した私の家庭 朝日.本多勝一記者に宛てた痛哭の手記」と題する記事は,上記「諸君!」に掲載された原告千惠子の手記を紹介している(甲44)

        原告千惠子の上記手記を読んだ被告本多は,平成元年10月,原告千惠子を訪ね,「南京への道」の文庫本化に伴い,実名をイニシャルにする相談をした。原告千惠子は,被告本多の申出を了承したが,文庫本化された「南京への道」文庫本においては,両少尉が,百人斬り競争を言い出したことについて「一種なすり合いをしている」旨の記述が加えられるなどしたため,再び被告本多に対して抗議したが,被告本多は,「再検討してさらに調査したい。」としたまま,それ以降原告千惠子に回答することはなかった。原告千惠子は,南京軍事裁判の判決文を入手し,「正論」平成12年3月号に「『無実だ!』父の叫びが聞こえる 南京戦百人斬りの虚報で処刑された向井少尉次女が慟哭の告白」の中で,向井少尉の獄中手記とともに公表した。また,産経新聞記者の鵜野光博は,「正論」平成13年8月号に「『百人斬り競争』の虚報を証明した野田少尉の手記」を寄稿し,野田少尉の手記を公表した(甲14,15,71)

| 前に戻る | 判決文の構成 | 凡例 | Searchに戻る | file-listに戻る | 次に進む |

 

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送