「百人斬り」東京地裁判決(部分-060)

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《そこで、重要な部分について一見して明白に虚偽であるかを検討したところ、両少尉が「百人斬り競争」を行ったこと自体が何ら事実に基づかない新聞記者の創作による、とまで認めることは困難であった》
      •  そこで,次に,本件各書籍における前記イで述べた本件摘示事実及び本件論評の基礎事実が,その重要な部分について一見して明白に虚偽であるといえるか否かについて検討する。
        • (ア) 本件摘示事実について
          • 原告らは,そもそもいわゆる「百人斬り競争」を報じた本件日日記事自体が,浅海記者ら新聞記者の創作記事であり,虚偽である旨主張する。

            そこで,検討するに,本件日日記事は,昭和12年11月30日から同年12月13日までの間に掲載されたものであるところ,南京攻略戦という当時の時代背景や「百人斬り競争」の内容,南京攻略戦における新聞報道の過熱状況,軍部による検閲校正の可能性などにかんがみると,上記一連の記事は,一般論としては,そもそも国民の戦意高揚のため,その内容に,虚偽や誇張を含めて記事として掲載された可能性も十分に考えられるところである。そして,前記認定のとおり,田中金平の行軍記録やより詳細な犬飼総一郎の手記からすれば,冨山大隊は,句容付近までは進軍したものの,句容に入城しなかった可能性もあること,昭和15年から約1年間向井少尉の部下であったという宮村喜代治は,百人斬り競争の話が冗談であり,それが記事になった旨を言明した旨陳述していること,さらには,南京攻略戦当時の戦闘の実態や冨山大隊における両少尉の職務上の地位,日本刀の性能及び殺傷能力等に照らしても,両少尉が,本件日日記事にある「百人斬り競争」をその記事の内容のとおりに実行したかどうかについては,疑問の余地がないわけではない。

            しかしながら,前記認定事実によれば,
            • @ 本件日日記事第四報(*)に掲載された写真を撮影した佐藤記者は,本件日日記事の執筆自体には関与していないところ,「週刊新潮」昭和47年7月29日号の記事(*)以来,当法廷における証言に至るまで,両少尉から直接「百人斬り競争」を始める旨の話を聞いたと一貫して供述しており,この供述は,当時の従軍メモを基に記憶喚起されたものである点にかんがみても,直ちにその信用性を否定し難いものであること,
            • A 本件日日記事を発信したとされる浅海・鈴木両記者も,極東軍事裁判におけるパーキンソン検事からの尋問以来(*)(**),自ら「百人斬り競争」の場面を目撃したことがないことを認めつつ,本件日日記事については,両少尉から聞き取った内容を記事にしたものであり,本件日日記事の内容が真実である旨一貫して供述していること,
            • B 両少尉自身も,その遺書等(*)において,その内容が冗談であったかどうかはともかく,両少尉のいずれかが新聞記者に話をしたことによって,本件日日記事が掲載された旨述べていることなどに照らすと,少なくとも,両少尉が,浅海記者ら新聞記者に話をしたことが契機となり,「百人斬り競争」の記事が作成されたことが認められる。
                      
            また,前記認定事実によれば,昭和13年1月25日付け大阪毎日新聞鹿児島沖縄版(*)には,野田少尉から中村碩郎あての手紙のことが記事として取り上げられ,その記事の中で野田少尉が「百人斬り競争」を認めるかのような文章を送ったことが掲載されていること,野田少尉が昭和13年3月に一時帰国した際に,鹿児島の地方紙や全国紙の鹿児島地方版は,野田少尉を「百人斬り競争」の勇士として取り上げ,「百人斬り競争」を認める旨の野田少尉のコメントが掲載され,野田少尉自身が鹿児島で講演会も行っていることなどが認められ,少なくとも野田少尉は,本件日日記事の報道後,「百人斬り競争」を認める旨の発言を行っていたことが窺われる。

            もっとも,原告らは,向井少尉が丹陽の戦闘で負傷し,救護班に収容されて前線を離れ,紫金山の戦闘に参加することができなかったと主張し,南京軍事裁判における両少尉の弁明書面や南京軍事裁判における冨山大隊長の証明書にも同旨の記載がある。しかしながら,前記認定事実によれば,両少尉の弁明書面や冨山大隊長の証明書は,いずれも南京軍事裁判になって初めて提出されたものであり,この点に関して南京戦当時に作成された客観的な証拠は提出されていないこと,向井少尉が丹陽の戦闘で負傷し,雛隊しているのであれば,向井少尉直属の部下であった田中金平の行軍記録に当然その旨の記載があるはずであるにもかかわらず,そのような記載が見当たらないこと,犬飼総一郎の手記には,向井少尉の負傷の話を聞いた旨の記載がなされているものの,その具体的な内容は定かではないことなどに照らすと,向井少尉が丹陽の戦闘で負傷して前線を離れ,紫金山の戦闘に参加することができなかったとの主張事実を認めるに足りないというべきである。

            また,原告らは,紫金山の攻撃については,歩兵第三十三連隊の地域であり,両少尉とも紫金山へは行っていないと主張する。しかしながら,前記認定のとおり,冨山大隊は,草場旅団を中心とする追撃隊に加わり,先発隊として活動していたのであって,その行軍経路には不明なところがあるものの,第九連隊第一大隊の救援のため,少なくとも紫金山南麓において活動を展開していたと認められ,紫金山南麓においては,比較的激しい戦闘も行われていたようであって,本件日日記事第四報の「中山陵を眼下に見下す紫金山」なる場所に誤りがないとは限らないが,両少尉の所属する冨山大隊がおよそ紫金山付近で活動していたことすらなかったものとまでは認められない。

            さらに,原告らは,向井少尉が,昭和21年から22年ころにかけて,東京裁判法廷において,米国パーキンソン検事から尋問を受け,「百人斬り競争」が事実無根ということで不起訴処分となった旨主張する。しかしながら,向井少尉の不起訴理由を明示した証拠は何ら提出されておらず,また,パーキンソン検事が向井少尉に対して,「新聞記事によって迷惑被害を受ける人は米国にも多数ありますよ。」と述べたことを裏付ける客観的な証拠も何ら存在しないのであって,その処分内容及び処分理由は不明であるというほかなく,仮に向井少尉が不起訴であったとしても,東京裁判がいわゆるA級戦犯に対する審判を行ったものであることからすると,A級戦犯に相当しないと見られる向井少尉の行為が,東京裁判で取り上げられなかったからといって,当然に事実無根とされたものとまでは認められないというべきである。

            以上によれば,少なくとも,本件日日記事は,両少尉が浅海記者ら新聞記者に「百人斬り競争」の話をしたことが契機となって連載されたものであり,その報道後,野田少尉が「百人斬り競争」を認める発言を行っていたことも窺われるのであるから,連載記事の行軍経路や殺人競争の具体的内容については,虚偽,誇張が含まれている可能性が全くないとはいえないものの,両少尉が「百人斬り競争」を行ったこと目体が,何ら事実に基づかない新聞記者の創作によるものであるとまで認めることは困難である。

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