注釈と疑問

《 001 》 「無錫で記者と会った」のか「常州で会った」のか [#2-4-2-ge-ka-a]{p07}

「両少尉の南京軍事裁判における陳述によれば,両少尉は,昭和12年11月29日,無錫郊外で浅海記者と出会い,その後,常州の城門近くで記念撮影をしたということである。」と原告側はいうが、両少尉の南京軍事裁判(昭和22年=1947年)での陳述では、両少尉が共に記者と会ったのは無錫であり、あとは野田少尉が麒麟門東方で、記者とあったのはこの2回きりで、写真を撮ったのも無錫だと言っているはずです。 長尺ファイルは[#3-2-1-sa]以降短尺ファイルは[#025]以降[#034]まで

両少尉のこれらの弁明は、検察官の尋問や起訴書への反論です。つまり日日記事から10年たち、両少尉は検察官の尋問によって当時の経過と記事の内容を反芻したものと思われます。

「無錫で記者と会った」のか「常州で会った」のかは、実は両少尉にとって重要なことで、(1)自分たちの承認の下に、(2)記者主導によって、(3)ホラ話が記事になった、以上のことを立証するキーポイントだったと思います。

日日記事第1報では、既に「競走」をはじめていた二人に「常州ではじめて会って」取材したことになっています。それを否定するためには、「無錫で会って記事の計画を相談した」という『事実』が重要なのです。2人は、佐藤カメラマンに写真を撮られた場所も、「無錫」であることを主張したのです。

原告弁護人はそれをあっさりと捨ててしまったのでしょうか? 原告弁護人は、「無錫で会って」「常州で写真を撮った」ということを主張しているのですが、これでは、「無錫」と「麒麟門」の2回しか会っていないという野田少尉の証言を、木っ端微塵にしてしまいます。野田少尉はこういっているのです。

「  浅海記者と会見したのは無錫付近と麟麟門東方との2回である。それにもかかわらず,新聞記載の回数は4回か5回であって,会見の回数より多いのは何を意味するか。記者が勝手に創作打電したことは余りにも明瞭であり,これが事実無根の第二の理由である。  」  <han/hanketsu-3.htm#3-2-1-sa-a>

なぜ原告弁護人が、少尉たちが記者たちと会った回数を増やしてしまったのか? 稲田朋美弁護士ご本人に訊かなければ真相はわかりませんが、おそらく、佐藤振壽氏の証言を法廷での決定打とするために、事前に提出してあった佐藤氏陳述書や佐藤著書に辻褄を合わせたのではないか、というのが私の推測です。

南京軍事裁判(昭和22年=1947年)で両元少尉は、「ホラ話であって現実ではない」と主張するために、時間と場所のズレ、つまりアリバイを主張したのですが、平成の原告側弁護士は、佐藤振壽氏の「あれはホラ話さ」という心証証言を得るために、両少尉のアリバイの主張を反故にしてしまいました。時と場所に関する佐藤氏の事実証言を、自ら採用してしまったのです。

原告である遺族の皆さんは、もしかすると裏切り行為かもしれない弁護士のこの安直な判断を、どのように受け止めているのでしょうか?  誰かが言うように、遺族のプライバシーと敬愛追慕の情を侵害しているのは、訴えられた被告達ではなくて、遺族を煽って裁判に持ち込んだ人たちかもしれません。

なお、
日日記事と両少尉の弁明との関連において、とても興味深いことに「お嫁さん募集」のことがあります。実は東京日日新聞の第1報には書いてないけど、大阪毎日新聞の第1報には書いてあるのです。(05.9.20記/05.10.5改稿)  参照:<東京日日新聞と大阪毎日新聞の比較>

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