2.地歴・ジフェニルアルシン酸等の情報収集結果
2.1 神栖町及びその周辺における旧軍等に係る情報収集調査結果
昭和48 年の「旧軍毒ガス弾等の全国調査」フォローアップ調査において得られた情報(『昭和48 年の「旧
軍毒ガス弾等の全国調査」フォローアップ調査報告書』〔平成15 年11 月28 日・更新版平成16 年3 月31 日〕
において公表済)と、その後の情報収集で得られた神栖町及びその周辺地域における旧軍等に係る情報を整
理した。
1) 神栖町及びその周辺における旧軍等の展開状況等
これまでに得られている情報によれば、神栖町及びその周辺における旧軍等の展開状況等は下記の通り
である。
@旧陸軍
- ・旧陸軍は、戦争末期に鹿島灘沿岸の本土防衛部隊として第51 軍を配置した。うち、神栖町には独立
混成第115 旅団(独立歩兵第696 大隊・同687 大隊・同698 大隊・同699 大隊・同700 大隊・同701
大隊基幹)が展開していた(『戦史叢書 本土決戦準備〈1〉関東の防衛』)。
A旧海軍
- 戦時中、旧海軍の神ノ池飛行場が設置され、同飛行場には昭和19 年に神ノ池海軍航空隊(人間爆弾「桜花」の部隊)が発足した(『神栖町史』下巻)。なお、同部隊に係る昭和20 年9 月30 日付の引渡目録
には毒ガス弾等の引渡に関する記載はなかった(『神之池海軍航空基地 引渡目録』)。
- 神栖町に隣接する若松村(現波崎町)に存在した鹿島実験射場では、昭和14 年に旧海軍がイペリッ
ト及びルイサイト弾を用いた毒ガス実験を行ったとの記録が存在している(『特殊弾及化学兵器実
験』)。また、同地において毒ガス弾等の実験を行ったとの証言情報等も存在している(【2 神栖町の事
案に係る旧軍関係者の証言情報について】に示した証言情報及び『相模海軍工廠』)。
Bその他
- 神栖町の木崎地区には、昭和17 年に内閣中央航空研究所の陸上機用の実験部である内閣中央航空研究所鹿島実験場が竣工した(『神栖町史』下巻)。なお、同実験場の関係者は、神ノ池海軍基地ができる
までは海軍に敷地を貸しており、飛行機から投下する爆弾の威力実験等が行われたと記している(『文
化財かみす』第17 集)。
2) 神栖町の事案に係る旧軍関係者の証言情報
これまでに、神栖町の事案に係る証言情報は13 件寄せられている。証言情報が得られた時系列順に、そ
の概要を列挙すれば次の通りである(アンケート調査の結果、追跡的に証言聴取したケース1 件を含む)。
@元東部第38 部隊員の証言
- 昭和20 年7 月末に200 人ほどの部隊で神栖にやってきたが、その後移動し、移動先で終戦を迎えた。
- 終戦後、神栖町に戻ってきたところ、上官から書類や武器等の処分をするよう命じられ、教育施設(波
崎町)で各部隊から集めた書類・銃器・大砲等を焼却した。弾薬は、部隊ごとに土に埋めたり、沼に
投げたりして処分した。
- その際、ガスを所有していた木崎の2 等兵から、自分の所属の2 等兵を通し、ガス弾の処分をどうし
たらいいかという相談があり、自分の部隊で処分するよう指示した。(ガス剤そのものは見ていない。
また、その後、どのように処分したかもわからない。)
- ガス班は、当時、木崎地区の民家に宿泊していた。自分は神栖で直接ガスを扱ったり、見たりしたわ
けではない。
A内閣中央航空研究所から荷物を搬出した神栖町住民の証言
○第1 回証言
- 終戦直後、内閣中央航空研究所職員(A 氏)に依頼されて、進駐軍が来る前に運び出したい荷物があ
るので、手伝ってほしいと頼まれた。頼まれたのは当時、牛を持っていた証言者を含む3 人であった。
- 作業内容は、倉庫(格納庫の南側;当時の航空写真を見せて、場所を確認した)に積んである木箱(800個程度)を、牛車で倉庫と木崎の一本松(ビッキ松)の中問地点まで運ぶというもので、暑い時期で、
牛がまいってしまうと困るので、作業は朝と日没後にしてもらった(昼間は、牛を一本松や田畑の神
社につないで休ませておいた。)。
- 木箱の大きさは縦180cm、横60cm、高さ50cm、重さ50kg 程度で、中味は爆弾だが、絶対爆発しな
いと言われた(毒だとは言われていない)。
- 荷物を置く場所には、白い旗が立てられていたが、牛を休ませるのに(牛に負担をかけないように)
自分たちで勝手に旗を手前にずらした。また、道のすぐ横に箱を置いたが、周囲には背丈ほどの草が
生えており、中には入って行けなかった。
- 1 回に荷車(4 尺 2 間)に6 箱程度を積み、朝3 時頃から3 回、夜7 時頃から3 回運んだ。道は牛車
が通れるぐらいの幅で、現在の神栖高校通りだと思う。
- 最初は箱ごと指示された場所に置いていたが、次の日に行くと何もなくなっていたので、次の日から
は、バールで箱を壊し、中味(四角い缶)だけをそこに置き、板、くぎ、麻縄を持ち帰った(当時は
物が不足していたので、板やくぎがほしかった。持ち帰ってもA 氏からは特に何も言われなかった)。
- 荷物のことを知った人(木崎や田畑の人だと思うが面識はない、何故知ったかはわからない)が白旗
の所に集まり、同じように板やくぎを持ち帰っていた。
- (別添の資料を示し、運搬した箱の状況を聞いたところ)倉庫には、箱が大小2 種類あり、麻縄の持ち
手がついていた。運んだのは大きい箱で「厳禁」という文字が書いてあった。中には四角い缶が2 個
入っており、缶には赤いペンキで何か書かれていたと思う。
- 作業は1 週間やったが、倉庫にはまだ箱が残っていた。
○第2 回証言(第1 回証言に重複する情報については一部割愛)
- 最初の日に運んだ木箱が、次の日に行くと全部なくなっていたので、どうせなくなるならもらってし
まおうと3 人で相談し、木箱を壊し、板、釘、麻縄といっしょに、缶も持ち帰った。缶は四角い一斗
缶のようなものと丸い形のドラム缶を小さくしたようなものがあった。四角い形の缶は土色で、持ち
手とふたのついた口があった。
- 一斗缶は運んだ場所でふたを開けて逆さまにして置き、中身(液体)を捨て、人に見られないように
着物や毛布にくるみ、1 回に2 回くらい、全部で10 缶ぐらい持ち帰り、近所でどうしてもほしいとい
う人がいて売ってあげた。中身は液体で、臭いはしたと思うが、どのような臭いかは覚えていない。
また、色も覚えていない。いっしょに作業していた人が、捨てた液体に火がついた煙草を投げ捨てて
みたが、燃えなかった。液体を捨てた場所に生えていた草は、翌日行くと枯れていた。
- 丸い形の缶は、四角い缶より丈夫にできていて、中を洗っても臭いが取れなかった。後年(40 年ぐら
い前)、豆トラ(耕作機)の燃料を入れるのに使っていた。
B毒ガス弾等の演習を手伝った人物の証言
- 当時波崎町の砂地に海軍の爆撃演習場があった。爆撃演習場には、横須賀海軍工廠の将校が来ており、
地元の人々を雑役に使い、通常は爆撃した後の模擬爆弾を掘る作業をさせていた。
- その内、昭和11 年6 月頃の1 回(4〜5 日間)だけ、ガス弾の演習を行った。
- ガス弾の演習には、戦艦春日の砲身を使い神栖方面にむけて1 日100 発くらい撃った。
- 目標地点には、深さ1mくらいの穴を掘り、その中に板に縛り付けたウサギを入れておき、毒ガス弾
を撃った後に防毒マスクをつけた軍の人がウサギへの影響を調べていた。
- 発射前に将校から、ガス弾を撃つことを告げられ、ガス弾の演習であることを知ったが、ガスの種類
は分からなかった。
C昭和19 年から昭和21 年の夏まで神栖町に疎開していた人物の証言
- 疎開先の近くにあった飛行場の敷地内に神ノ池という池があり、その池の中や周囲に兵隊がいらない
ものを埋めているのを目撃した。その中に爆弾のようなものがあった。ただし、毒ガス弾かどうかは
わからない。
- また、飛行場の格納庫に爆弾らしきものがあったが、兵隊が近寄らせなかったので確認できなかった。
D元722 航空艦隊(神ノ池海軍航空基地)兵士の証言
- 上官の命令で、終戦から昭和21 年1 月まで基地に残り、保安隊として武器等の管理をしていた際、夜中に上官に起こされ、小学校等武器が集められていた場所をトラックで回り、銃器・通信機材・木箱(中
身不明)等を積み込み、橋の上から北浦に投棄した。投棄したものの中に毒ガス弾等が含まれていたか
は不明。
E終戦後、山形県から神栖町に復員した元兵士の証言
- 毒ガス部隊の存在は聞いたことがない。
- 戦後、内閣中央航空研究所の格納庫にはなにもなかった(復員してから格納庫が解体されるまで、何度
か見に行った)。格納庫は未完成で、骨組みだけだった。
F地元で徴兵された元兵士の証言
- 終戦後、昭和21 年3 月まで現在の鹿島市で集積されていた弾薬の見張りをしていたが、自分たちの任務が解かれた後弾薬類がどのように処分されたのかは不明。毒ガス部隊の存在は聞いたことがない。
- 警防団員が弾薬類を牛車で運んだという情報については聞いたことがある。警防団長か区長をしていた
人物が夜間に現波崎町まで運んだらしいが、その後どの様に処分されたかは聞いたことがない。
G元内閣中央航空研究所職員の証言
- 毒ガスやその他の兵器類や木箱は見たことはない。
- 内閣府の施設だったため、兵隊など軍関係者はいなかった。
- 終戦直前頃だったかと思うが(時期は定かではない)、浜の方(事務所の東の方の集落)から馬車が出
入りしていた。荷は見ていないが、滑走路造成のための土砂を終戦直前まで、運んでいたと聞いたこと
がある。
- 格納庫の1 つには小型の飛行機があり、監視員がついていた(自分の勤務期間中は常時有ったと思う)。
事務所の西に施設はあったが、ガソリンタンクだったかはわからない。
- 2 名の進駐軍がジープで中央航空研究所の施設を見に来たが、特に何事もなく帰っていった(終戦後、
自分がやめるまでの間:9〜10 月頃)。
H神栖町住民の証言
- 終戦当時、木崎地区に居住していた。木崎にも兵隊が駐屯していたが、毒ガスの情報は聞いたことがない。
I内閣中央航空研究所で土木作業に従事した人物の証言
- 昭和19 年から20 年6 月に徴兵されるまでの2 年間、中央航空研究所で土木作業に従事していた。毒
ガス部隊の存在は聞いたことがない。
- 中央航空研究所の格納庫には大型トラックが2 台停めてあり、本社(三鷹)との往復に使われていた
ようだが積荷は分からない。トラックは勤めていた期間中、日常的に格納庫の中にあったと記憶して
いる。
J終戦後、静岡県方面から神栖町に復員した元兵士の証言
- 終戦時は兵役についており静岡県の方にいた。9 月頃に復員したが、まだ木崎地区に兵隊が多数泊ま
っていた。木崎地区に残っていた兵隊は9 月中には引き揚げていった。
- 毒ガスに関わるような部隊や兵器については見聞がない。
K元神栖町住民の証言
- 中央航空研究所の事務所の西方にガソリンタンクがあり、コンクリートの基礎の上にタンクが複数基
載っていて、周囲は土手で囲われていた。自分が5 歳頃の時(昭和25 年か26 年頃)ガソリンタンク
が解体される様子を見た。
- 格納庫内に小型飛行機があり、格納庫付近に滑走路(未舗装)があったことを地元の事情に詳しい方
から聞いているが、詳細な位置や規模、時期等不明。
- 終戦後に弾薬の処分のためか、牛車で弾薬類の運び出しを依頼された民間人(警防団長)がいたこと
をある方から聞いたことがある。運搬先は波崎町内だったらしい(簡易な港が造成されていた)。
L神栖町で終戦を迎えた元兵士の証言
- 終戦直後から9 月9 日に復員するまでの間、県南の兵士とともに、鹿島に掘られた横穴の中に保管さ
れていた黄色火薬等の警備に従事していた。
- 昭和20 年7 月5 日に神栖に来て9 月に復員するまでの間、毒ガスについては見たり聞いたりしたこ
とはなかった。
3) 神栖町の事案に係る旧軍関係者に対するアンケート調査結果
- 元独立混成第115 旅団関係者の名簿等を調査した結果、63 名の情報が得られ、うち、住所を確認するこ
とができた20 名に対して旧軍毒ガス弾等に係るアンケート調査を実施したところ、4 名から回答が得ら
れた(物故者1 名を含む)。また、別の旧軍部隊関係者に対して発出したアンケートのうち、偶然、終戦
時に独立混成第115 旅団に所属していた1 名からも回答が得られた。うち、神栖町及びその周辺におけ
る毒ガス弾等についての言及がある情報は下記の1 件のみで、毒ガス弾等の廃棄・遺棄に係る情報は得
られなかった。
○元第211 師団歩兵第696 大隊兵士の回答
- 自分は神栖町の隣の鹿島郡軽野村の民家を宿舎にしていた。自分は兵器係だったが毒ガスは扱って
いない。銃や銃剣は兵器係の自分が戦後、村役場に集め、返納した。
- 毒ガスについては自分の上官の大尉(大隊長)が知っていたかもしれないが、もう亡くなっている
と思う。
図2.1.1 終戦直後に内閣中央航空研究所から木箱を搬出する作業に従事したとの証言情報に係る位置図
(S=1:25000)
(昭和22 年米軍空撮写真と国土地理院発行昭和48 年地図を合成し、証言情報に係る位置関係を
示した図〔茨城県作成〕に示された情報を反映したもの)
この地図および空中写真は、国土地理院長の承認を得て、米軍撮影の空中写真及び同院発行の2 万5 千分の
1 地形図を複製したものである。(承認番号 平17 総複、第184 号)