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はじめまして


  はじめまして にょろ 2002/05/25 09:32:16 
  こんちは(^.^) とほほ 2002/05/25 17:14:53 
   └量子論を批判して「神はサイコロを振らない... にょろ 2002/05/25 23:03:53 
    ├むっむつかしーーしゅーー(^^; とほほ 2002/05/26 17:26:15 
    ├真実=客観的事実=科学的事実ということで... とほほ 2002/05/26 19:08:03 
    └むっむつかしーーしゅーー(^^; にょろ 2002/05/27 22:23:39 
     └にょろさんの提示された本多氏の文章を読ん... とほほ 2002/05/28 16:43:17  (修正5回)
      ├対象が自分の主観であれなんであれ嘘をつか... にょろ 2002/05/28 23:43:22 
      │└ちょっとまってください(笑) とほほ 2002/05/29 00:30:23  (修正1回)
      └ちょっとまってください(笑) にょろ 2002/05/29 22:11:07 
       └わかりました。では、前半部分は置いて、後... とほほ 2002/06/01 00:04:53  (修正1回)
        └本多氏がそのように問いかけているのはどの... にょろ 2002/06/01 07:58:30  (修正2回)
         └「部分ではないです。」 とほほ 2002/06/01 13:45:40  (修正1回)
          └なるほど。 にょろ 2002/06/01 20:26:14 
           └にょろさんの議論と私の議論は論点が異なっ... とほほ 2002/06/02 23:37:37 

  はじめまして にょろ 2002/05/25 09:32:16  ツリーへ

はじめまして 返事を書く ノートメニュー [問答有用(クマ板)へ]
にょろ <fswvjzltel> 2002/05/25 09:32:16
はじめまして。確認キー発行ありがとうございます。

削除されたようですが、問答有用板において「何が真実か?」というとほほさんの発言が数日前にあったようにおもいます。はなはだ漠然とした質問で恐縮なのですがとほほさんの定義による「真実」というのはどういったものなのでしょうか。

当方、本多さんの論考「事実とは何か」を読み「真実」というのは実体のない言葉であると思い、もし、あるとするならば、ある人のこうあってほしいという選択のもとに選ばれた事実、結局のところ主観的事実のひとつに他ならないように思うのです。

我ながらくだらない質問なのですが、本多さんの読者と思われるとほほさんの発言に使われていたことから妙に心に残った単語でした。

  こんちは(^.^) とほほ 2002/05/25 17:14:53  ツリーへ

Re: はじめまして 返事を書く ノートメニュー [問答有用(クマ板)へ]
とほほ <yclfglvbxs> 2002/05/25 17:14:53
こんちは(^.^)
そんな投稿をしてましたか、私(^^;正に根源的問題ですね。

私の「真実」に対する認識もにょろさんが紹介された本多氏の認識に近いと思います。が、そうですね例えばアインシュタインが量子論を批判して「神はサイコロを振らない」と言ったように「真実自体はそこにあるもの」と思ってます。それを人間が認識できるかいなか?とは別のものだと考えてます。

だからと言って人間は決して真実を知ろうとする姿勢を失ってはならない、知ろうとする事こそが人間が人間たる由縁だからです。もっともこういう思考を進めて行くとそれこそ唯物論とかカント主義とかを考えていかねばならないわけでしょ?そうなると私には御手上げです(笑)

私は本多氏の著作は「中国の旅」しか読んだ事がありません(^^ゞ従って本多氏を批評する事は出来ません、だから「応援する版」への書きこみ資格がないのです(笑)が、そこで為される様々な議論には共感する事が多いです。本多氏の代表作と言われる「殺す側の論理」「殺される側の論理」、この本も読んでませんがタイトルから察して両方の立場に視点を置いて真実を見ていこうとしているのだと思います。

が、「殺す側の論理」というものがあって良いのでしょうか?という風にも思います。

私が度々引用する上野千鶴子の言説も考えさせてくれます。が私の結論としては「真実はそこにある。人間に認識できるか否かは別問題」としてます。所詮は真実とは主観に過ぎない、とする結論は人間の存在意義を否定しており「我思うゆえに我あり」や不可知論にすぎないのでは無いでしょうか?

   └量子論を批判して「神はサイコロを振らない... にょろ 2002/05/25 23:03:53  ツリーへ

Re: こんちは(^.^) 返事を書く ノートメニュー [問答有用(クマ板)へ]
にょろ <fswvjzltel> 2002/05/25 23:03:53
> 量子論を批判して「神はサイコロを振らない」と言ったように「真実自体はそこにあるもの」と思ってます。

真実=客観的事実=科学的事実ということですか?
これも専門書などをよむと適用範囲がかなり狭いようですね。つまり、我々が普段接することのできる経験的事実にはまず適用できない。

> それを人間が認識できるかいなか?とは別のものだと考えてます。

多分、真実を認識できるのは全てを作り上げた絶対的な「神」のみという世界でしょう。

> だからと言って人間は決して真実を知ろうとする姿勢を失ってはならない、

この場合の「真実」というのはなんなんでしょうか。万人が納得できる事実のことですか。

> 知ろうとする事こそが人間が人間たる由縁だからです。

主観的事実を知ろうとすることは大切だとおもいます。それが人間たる所以かどうかは…寿命もありますし、個人個人の容量もありますから、イッパイしってりゃいいってもんでもないですし(笑)。

> そうなると私には御手上げです(笑)

人間には限界があるということでいいんじゃないでしょうかね。

もちろん、真実とはなにかを認識すべく研究することも有意義だとは思いますが、議論などにおいて事実はこう定義する、などとしておけば日常において十分使えるでしょう。社会一般で扱う事実は主観的事実しかなく客観的事実はないと。

> 私は本多氏の著作は「中国の旅」しか読んだ事がありません

十分なんじゃないですか。本一冊でなくても、小論ひとつでもいいんじゃないでしょうか。全集を全部読んだからといっても彼を知ったことにはならないでしょう。あれもまた彼のホンの一部なんですから。重要なのは、その限られた文章から読み手がなにを読み取ったか、つまり本質はなにかを自分なりに創ることができたかだと思います。

> タイトルから察して両方の立場に視点を置いて真実を見ていこうとしているのだと思います。

視点、立場は殺される側にしか置いてないと思いますよ。
本多氏といえども取材対象からすれば殺す側に過ぎないわけです。それゆえ、常に殺される側を視点を意識するようにしている。

殺される側の視点からみた主観的事実しかジャーナリストとして意味がないと彼がいっているように、殺す側の視点からならわざわざ報道する必要がないんです。人間、無意識に殺す側にたってますから。意識しないと殺される側の視点というのは持ち得ない。

認知の問題(http://zenkoji.shinshu-u.ac.jp/mori/profile/papers/ningen/gilo-i.html
)ですが、人間というのは無意識のうちに自己正当化したがるものです。自分の主張を支持する根拠を集めその反対は見ないようにしてしまう。

そうならないためのフィードバックとして殺される側を常に意識しないとならないんですね。

> 「殺す側の論理」というものがあって良いのでしょうか?という風にも思います。

そこらにありふれている論理じゃないでしょうか。

> 「真実はそこにある。人間に認識できるか否かは別問題」としてます。

かもしれませんね。認識できないものを否定も肯定もできませんから。

> 所詮は真実とは主観に過ぎない、とする結論は人間の存在意義を否定しており「我思うゆえに我あり」や不可知論にすぎないのでは無いでしょうか?

実用上「所詮は真実とは主観に過ぎない」で問題ないと思います。
あとはその事実を認識する背景=主観に受け手が同意できるかどうかでしょう。全ての経験的事実は暗黙の制限=論拠付きということです。

    ├むっむつかしーーしゅーー(^^; とほほ 2002/05/26 17:26:15  ツリーへ

Re: 量子論を批判して「神はサイコロを振らない... 返事を書く ノートメニュー [問答有用(クマ板)へ]
とほほ <yclfglvbxs> 2002/05/26 17:26:15
むっむつかしーーしゅーー(^^;

結局「客観性」とは何か?と言うところに行きつくのであって、唯物論における自己のみの存在を仮定した場合「客観」「主観」に意味が無いと言う事ですよね?もちろん私はキリスト教徒ですのでにょろさんのご指摘は正しく、そう思考する事に自分で決めてまして、その危険性も理解しているつもりです。

    ├真実=客観的事実=科学的事実ということで... とほほ 2002/05/26 19:08:03  ツリーへ

Re: 量子論を批判して「神はサイコロを振らない... 返事を書く ノートメニュー [問答有用(クマ板)へ]
とほほ <yclfglvbxs> 2002/05/26 19:08:03
> 真実=客観的事実=科学的事実ということですか?

これにも答えておくべきと私が認識しましたので返信します。
科学的事実と何なのか?という問題点なのです。

多様性を重んじた場合、客観性を最大限尊重し、その結論が、「科学的見解」なのではないのでしょうか?

    └むっむつかしーーしゅーー(^^; にょろ 2002/05/27 22:23:39  ツリーへ

Re: 量子論を批判して「神はサイコロを振らない... 返事を書く ノートメニュー [問答有用(クマ板)へ]
にょろ <fswvjzltel> 2002/05/27 22:23:39
> むっむつかしーーしゅーー(^^;

申し訳ないですぅ。

ネットの掲示板の議論などをよんでいると、レトリックによる口プロレスレベルはともかくとして、そうではないと思われる真摯な議論でも「真実」や「客観的」といった単語が安易に使われすぎじゃないだろうかと思うのです。

経験的事実を元に主張を行う、が議論の基本形だと思うのですが、立場が違う者同士だと、経験的事実に付帯している論拠、実のところこれが論者が一番言いたいことであるわけですが、これの説明がないと生産性や説得力のある議論にはならない。「真実」や「客観的」という単語はこの肝心な論拠を省く方便に使われすぎじゃないかと思うんです。確かに、このふたつの単語を使えばそれは本来絶対的な事実であり論拠を説明する論証不要となるので使いたくなるのでしょうが、実のところ実態がない単語なので大概相手に受け入れらない。
「真実」「客観性」「科学性」あるいは「常識」だの「新聞にでていた」といった自分=主観を隠すやり方で事実を提示、主張するのではなく自分の論拠を説明しないと議論は生産性のない時間つぶしにおわるのではないでしょうか。

と、そんなことを考えていたところに、とほほさんの「真実をなんたら」という発言が飛び込んできて、ネット言論界の有名人かつ自分でそれ用の掲示板をもっていらっしゃる方だったのでここはひとつ相談にのっていただければと。

> 結局「客観性」とは何か?と言うところに行きつくのであって、唯物論における自己のみの存在を仮定した場合「客観」「主観」に意味が無いと言う事ですよね?

とほほさんのおっしゃる仮定からだとそうなりますね。
ただし、現実には他者が存在しますのでそうはならない。

わたしは、客観は存在しないが、限界をわきまえた上で「客観」を指向し使うことは可能だとおもっています。客観の限定利用については本多氏の(http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Icho/4325/jijitu.html#h-2.2.2)が参考になるかもしれません。

> 科学的事実と何なのか?という問題点なのです。

これについては
http://www.kinokuniya.co.jp/02f/d05/2_050083.htm
が参考になるかと思います。

「科学的事実」のもつ一般的な受けとめられ方、ニュアンスと違い、結局、主観的事実と大して変わらないんじゃないでしょうか。

> 多様性を重んじた場合、客観性を最大限尊重し、その結論が、「科学的見解」なのではないのでしょうか?

科学のなりたちからすると「科学的見解」も誤解を生む表現じゃないでしょうか。村上陽一郎『近代科学を超えて』<講談社学術文庫>の第一章が参考になるかもしれません。「科学は事実から離れて成立する」という「あんまりな」見だしがあります。

また、宇宙科学者カール=セーガン氏は擬似科学を判定する際、「トンデモ話検出キット」(http://www.inh.co.jp/~penaeusj/Encyclopedia.html#tondemo)と名づけた「科学者は、科学者として養成される過程で」「手に入れている」検証方法をつかっています。これに基づいて出された結論が「科学的見解」といえばいえるかもしれませんが、キットの内容は議論における各要素、「主張」「経験的事実」「裏付け」「論拠」「反証」「限定」の点検や議論の手順を説明しているに過ぎず、「科学的」と限定する必要はないようにおもいます。

     └にょろさんの提示された本多氏の文章を読ん... とほほ 2002/05/28 16:43:17  (修正5回) ツリーへ

Re: むっむつかしーーしゅーー(^^; 返事を書く ノートメニュー [問答有用(クマ板)へ]
とほほ <yclfglvbxs> 2002/05/28 16:43:17 ** この記事は5回修正されてます
にょろさんの提示された本多氏の文章を読んで少し意味がわかってきました、この本多氏の文章を前提として踏まえた場合においてにょろさんの見解にはほぼ同意しますが以下の部分に少し反論させてください。

> 経験的事実を元に主張を行う、が議論の基本形だと思うのですが、立場が違う者同士だと、経験的事実に付帯している論拠、実のところこれが論者が一番言いたいことであるわけですが、これの説明がないと生産性や説得力のある議論にはならない。「真実」や「客観的」という単語はこの肝心な論拠を省く方便に使われすぎじゃないかと思うんです。確かに、このふたつの単語を使えばそれは本来絶対的な事実であり論拠を説明する論証不要となるので使いたくなるのでしょうが、実のところ実態がない単語なので大概相手に受け入れらない。

この論理はいわゆるジャーナリストとしての視点から為されている論理です。ジャーナリストとはいわゆる「観測者」でありしかもそれを他者に伝える使命を持ち合わせています。ジャーナリストとはジャーナルする為にまず事象を「観測」します。この観測すると言う行為はその主体があくまで観測者でありますので「主観にすぎない」とはおっしゃる通りです。
ただ、ここで本多氏の言っている事は自分の主観にたいして嘘を付いてはいけない、と言っているのでは無いでしょうか?

例えば「科学」です。科学者はジャーナリストではありません、己の主観である「観測」を根拠に論理を構成します。その論理も「他者に伝える事」は根源的には科学者の使命には含まれません。他者がその論理を評価する場合において「客観性」が正当になるのです。科学者を名乗る人物が「観測」した、と他者にコミュニケートしたときの内容に「嘘」がある場合、これが擬似科学です。(もちろん間違いと嘘の意味は違います、がその間違いを認めず、破綻した論理を繰り返すのは「嘘」を付いているのと同じです。)

「嘘や間違い」を判定するのは「論理」です。

同様に掲示板上で己の見解を表明する立場、と言うのはこれも根源的にジャーナリズムではありません、己の見解を表明するとき己の観測した事実に基づき表明しているだけに過ぎません。つまり根源的には「議論」を前提とはしていないのです。もちろん「自分の観測に自信のない場合」また「論理構成に自信のない場合」は議論を前提として書きこまれる事もあるでしょう。

補足しておけば、自身が為した言説が「他者の宗教観、人生観」において重大な侵害をしている場合に「反論」が出現するわけです。その反論が確かに論理的であれば論者は反論に対し答えねばならないでしょう。

私が「客観性に意味がない」とする言説に否定的に「真実とは何か」を主張するときは、客観性を根拠に「嘘の主観」を発見したと判断したときです。

#あーもー、何回修正したらきがすむねん<とほほ(笑)

      ├対象が自分の主観であれなんであれ嘘をつか... にょろ 2002/05/28 23:43:22  ツリーへ

Re: にょろさんの提示された本多氏の文章を読ん... 返事を書く ノートメニュー [問答有用(クマ板)へ]
にょろ <fswvjzltel> 2002/05/28 23:43:22
対象が自分の主観であれなんであれ嘘をつかないのはジャーナリスト、科学者、職種を問わず東西老若男女基本中の基本の約束ごとでしょう。本多氏も「嘘をつくな」とは当たり前すぎて書いていないと思いますよ。

ある事実を見たけど自分の主張にあわないからその事実を書かない、その事実を撰択しない、これは嘘じゃないですし、捏造でもでっち上げでもありません。けれど、それをやっては記者が伝えたい主張のもつ説得力が弱くなってしまうのでやるなといっているだけでしょう。

科学においてとほほさんのおっしゃる事実の取あつかいは「ベーコン主義」すなわち、つねに、直接事実に当たれ、予め仮設的な理論や秩序の存在を想定するなというスローガンと同一だと思いますが、これは残念ながら空論に近く、現実には仮説が事実に先だってあると先の投稿でポイントした村上陽一郎氏は指摘しています。

「他者がその論理を評価する場合において「客観性」が正当になるのです。」はすいませんが、ちょっと意味がとりかねます。「「客観性」が正当になる」ってどういう意味ですか。

      │└ちょっとまってください(笑) とほほ 2002/05/29 00:30:23  (修正1回) ツリーへ

Re: 対象が自分の主観であれなんであれ嘘をつか... 返事を書く ノートメニュー [問答有用(クマ板)へ]
とほほ <yclfglvbxs> 2002/05/29 00:30:23 ** この記事は1回修正されてます
ちょっとまってください(笑)
このにょろさんの意見には多いに直感的異議があります(^^;
もう少し時間下さい。

      └ちょっとまってください(笑) にょろ 2002/05/29 22:11:07  ツリーへ

Re: にょろさんの提示された本多氏の文章を読ん... 返事を書く ノートメニュー [問答有用(クマ板)へ]
にょろ <fswvjzltel> 2002/05/29 22:11:07
> ちょっとまってください(笑)

 わかりました。では、前半部分は置いて、後半部分から続けます。
 わたしは文を書くのは苦手ですので、意味のとれないところなどがありましたら、ご指摘ください。うまく説明できるか自信ありませんが(笑…えん)努力します。

> 「嘘や間違い」を判定するのは「論理」です。

> 同様に掲示板上で己の見解を表明する立場、と言うのはこれも根源的にジャーナリズムではありません、己の見解を表明するとき己の観測した事実に基づき表明しているだけに過ぎません。つまり根源的には「議論」を前提とはしていないのです。もちろん「自分の観測に自信のない場合」また「論理構成に自信のない場合」は議論を前提として書きこまれる事もあるでしょう。

 先の投稿で”経験的事実を元に主張を行うことが議論の基本”という意味合いのことを私は述べました。これは、とほほさんのおっしゃる「己の見解を表明するとき己の観測した事実に基づき表明している」と同じ主張だと思います。したがって、「つまり根源的には「議論」を前提とはしていないのです」という解説には「?」であります。なぜなら、とほほさんのおっしゃっていることは「根源的には「議論」を前提としていない」にもかかわらず、私のいうところの「議論の基本」の解説そのものだからです。

 う〜ん、申し訳ない。とほほさんのご主張がよく見えませ〜ん。「「議論」(すること)を前提とは(根源的には)せずに、己の観測した事実に基づき己の見解を掲示板上で表明している。」ということでしょうか? だとすると、たとえば、とほほさんがよく書きこまれている「議論をするために設けられた掲示板=問答有用板」へ、議論を前提とせずに書きこんでいる、ということ? 最後に「書きこまれることもあるでしょう」と他人事として書かれているからこれはとほほさんご自身のことではない? むー、わからんですぴー。

 話が変わってもう一点、本多勝一氏の小論を参考としてだしたので「ジャーナリズム」や「ジャーナリストとしての視点」からの事実論を述べているという偏見をもたれてしまったようです。たしかに、本多勝一氏はジャーナリストであり、この小論は現場体験を元に論考されています。しかし、氏の考える事実に対する認識がジャーナリスト共通の認識やジャーナリズムの主流ではないことは、新聞の大本営発表のタレ流し体質(これについては週刊金曜日No.366の「4紙1週間を徹底分析 大新聞は何を伝えているのか」(渡邉正裕氏)による記事分析 も参考になるでしょう。)を見れば了解していただけると思います。つまり、この小論は、ジャーナリストの本多勝一氏の書いた事実論でなく、事実について考察したひとりの人間=本多勝一氏がたまたまジャーナリストだっただけの話でしょう。それゆえ、ジャーナリズムという枠内に氏の事実論はとどまらない思います。
 それとも、各種ジャンル別に事実があるとおもわれるのですか?

> 補足しておけば、自身が為した言説が「他者の宗教観、人生観」において重大な侵害をしている場合に「反論」が出現するわけです。その反論が確かに論理的であれば論者は反論に対し答えねばならないでしょう。

 そうですね、重大かどうか各人の判断基準によるでしょうが、事実からある主張を導く論拠に異見がある場合、たとえば、「他者の宗教観、人生観」を元にしてのつっこみがあることは考えられるでしょう。ただ、宗教観についてはわたしは無宗教なのでわかりませんが、人生観に基づいての反論?は反論しようがないんじゃないでしょうか。理屈抜きに俺はこう思うからこうだってやつでしょうから。逆に論理的である場合ってあるんでしょうか。

> 私が「客観性に意味がない」とする言説に否定的に「真実とは何か」を主張するときは、客観性を根拠に「嘘の主観」を発見したと判断したときです。

 こ、これは難しい…もちょっと優しく教えてくだされ。

       └わかりました。では、前半部分は置いて、後... とほほ 2002/06/01 00:04:53  (修正1回) ツリーへ

Re: ちょっとまってください(笑) 返事を書く ノートメニュー [問答有用(クマ板)へ]
とほほ <yclfglvbxs> 2002/06/01 00:04:53 ** この記事は1回修正されてます
>わかりました。では、前半部分は置いて、後半部分から続けます。
> わたしは文を書くのは苦手ですので、意味のとれないところなどがありましたら、ご指摘ください。うまく説明できるか自信ありませんが(笑…えん)努力します。

その前に本多氏が問いかけているのは「あなたはジャーナリストですか?」ではないでしょうか?

この1週間いろいろ考え、以下の作文はできたのですが、なんとも自分でも議論がどこに行っているのか(笑)

私はこのように思います。
にょろさんが紹介された本多勝一氏しろ常石敬一氏にしろやはり前提としている科学的事実と言うものが問題になっているのだと思います。私は「科学哲学の歴史」を読んではいませんがやはり常石氏の著書「医学者達の組織犯罪」の中で人体実験について以下のような事が書かれています。

---引用開始---
日本生理学会の英文機関誌に、部隊の吉村寿人・元技師が生後三日の赤ん坊について凍傷の実験をしている論文を発表していることは、すでに見たとおりである。また彼が文部省の科学研究費による研究で、部隊で得られた成果をあたかも通常の研究によるものであるように操作した、いわば情報操作(ロンダリング)の例も見てきた。こうしたことがまかり通るのは、研究者たちが仲間内だけで研究し、その評価だけを問題としているためである。また、戦後も彼らの世界では、石井機関での人体実験は公然の秘密でありつづけているためである。なお、吉村が発見したのと同じ凍傷の治療法は、すでに一九世紀にロシアの医者がじっこうしていたものだった。

これは、日本の医学会が、戦前・戦中・戦後と何も変わっていない、戦争経験を生かそうとしていないという実例である。
「医学者達の組織犯罪(関東軍第七三一部隊)」常石敬一 朝日新聞社 288P-290P
---引用ここまで---


        └本多氏がそのように問いかけているのはどの... にょろ 2002/06/01 07:58:30  (修正2回) ツリーへ

Re: わかりました。では、前半部分は置いて、後... 返事を書く ノートメニュー [問答有用(クマ板)へ]
にょろ <fswvjzltel> 2002/06/01 07:58:30 ** この記事は2回修正されてます
本多氏がそのように問いかけているのはどの部分でしょうか?

         └「部分ではないです。」 とほほ 2002/06/01 13:45:40  (修正1回) ツリーへ

Re: 本多氏がそのように問いかけているのはどの... 返事を書く ノートメニュー [問答有用(クマ板)へ]
とほほ <yclfglvbxs> 2002/06/01 13:45:40 ** この記事は1回修正されてます
「部分ではないです。」

と書きたいところですが、これは間違いですね(^^;
前提があります。
私が「本多氏を評価する資格」に対する前提です。私は本多氏を知らない。読んだ著作は1冊だけで後はネット上で散見するのみです。ですから私の認識における「本多氏」は必ずしも真実ではありません。これが本多氏に対しての真実ではない、とする主張は正しいです。が、真実ではないのであれば「真実」を主張すべきではないでしょうか?

「どこの部分ですか?」に対する正確な回答は「私の知る本多氏の部分です」以外にありません。

          └なるほど。 にょろ 2002/06/01 20:26:14  ツリーへ

Re: 「部分ではないです。」 返事を書く ノートメニュー [問答有用(クマ板)へ]
にょろ <fswvjzltel> 2002/06/01 20:26:14
なるほど。
とほほさんのおっしゃる「真実」の意味は了解しました。

著者名不明の場合の小論「事実とは何か」の評がどうなるのだろうかと気になるところですが、今回の投稿の主題とは関係ありませんのでここで終りにしましょう。

いろいろご指導どうもありがとうございました。

また機会がありましたらよろしくお願いします。

           └にょろさんの議論と私の議論は論点が異なっ... とほほ 2002/06/02 23:37:37  ツリーへ

Re: なるほど。 返事を書く ノートメニュー [問答有用(クマ板)へ]
とほほ <yclfglvbxs> 2002/06/02 23:37:37
にょろさんの議論と私の議論は論点が異なっているんです(^^;それはお互いにわかっているんですが、どちらに論点を持っていくのか?こそがまた「真実とは何か?」と言う問題で、だから難しいのだと思います。

つまり認識できない真実など可も否もない、つまり認識できない事実は真実とは言えない。がまずにょろさんの議論の前提でしてもちろんこれはこれで一つの論理です。ただここで守一雄さんの実験を根拠にするのは誤りだと思います。被験者 A・B 二人が虚偽の真実を見せられているわけですのでその伝達が間違いになるのは当たり前のことで、目撃証言等があやふやになることなど経験的に我々は知っています。ましてや同一の真実を見ている、と信じているもの同士で互いの記憶を確認しあって再記憶を繰り返す事により記憶と言うのは作られていくわけです。

逆にあの実験で互いに一切相談させず別室で互いの目撃証言をさせてみたらその結果は互いに自分が見た真実に近い伝達をするでしょう。あの実験はあくまで人間の記憶と事実認識に対する実験であり、真実とは何か?と言う議論とは異なると思います。
現に被験者はその後実験者から事実を伝えられる事により「真実」を認識できるわけで明らかにそこには真実はあるのではないでしょうか?

とはいえ(^^;
にょろさんの論理で考えて行くと結局観測すると言う行為は観測される物に対して必ず影響を与えてます。よって正しく観測された結果もまた真実ではない、も真理です(笑)これは量子論の基本的考え方だと思うのですがやはり難しいです(^^;


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