|>「弱者救済問題と差別問題を混同するべきではない」という意見に対してはとほほさんはどう考えますか?とほほさんの経験からの話でいいのですが、弱者救済問題と差別問題を混同する事によって何か弊害が起こっているのでしょうか。
基本的には私は私信でやり取りするような内容では無いと考えております。従いましてこのメールの内容は私のサイトの思考錯誤掲示板にも同じ内容で掲載いたします。ただし****さんからのメールである事は記載しませんし****さんの名前は伏字にして上記部分は導入部として引用させていただきます。
さて、「弱者救済なるものについて」の私の考え方についてですが、まず以下のページをご一読下さい。
ぼくの出会った子どもたちと(共育篇) http://www4.plala.or.jp/kokoronokinniku/newpage7.htm
上記ページ以上の事も以下のことも私には主張するつもりはありませんが、私の問答への発言から****さんが察していただいたように、私は彼らが「弱者である」と考えること自体が差別であると思っています。彼らは弱者でも劣っているものでもありません、ただ単に違う(区別)だけです。現代社会は「違う」ものに対して差別をして建設されているのです。 まずこの事を認識しなくてはなりません。差別撤廃の第一歩は差別がそこにあることを認識する事から始まります。
この「違うものに対する差別」を容認することが、いかなる組織も国家も一番単純で「組織化」と言う目的に一番「合理的」なんです。同じ人間だけで組織するコミュニティーが力を発揮する事は良く知られている事でスポーツにしろ何にしろ「チームワーク」「フォアザチーム」が大事な由縁です。
ですから私は「合理的差別」として差別を正当化するような言説には反対しているんです。合理的であろうが無かろうがそれは差別である。と認識する事が一番大事なのだと考えています。「合理的差別」が正当であるならばいかなる差別もこの世界には存在しないししなかったからです。
部落の子はいつ部落と出会うのか http://www4.plala.or.jp/kokoronokinniku/newpage8.htm
「合理的差別」を正当化しようとする人達はこのページにあるような差別は「合理的ではない」ので不当な差別である、と主張します。ところが「合理的とは何に対して合理的なのか?」との問いかけに答える事ができません。身分制度下の社会で社会の要請に対してこの差別が「合理的」であった事実を直視できないのです。社会が彼等に「違い」を認識しそれを根拠に合理的に差別が行われているのです。
我々が「差別」を「差別」として認識できる唯一の根拠は「人権」と言う観念なのです。「人は皆平等であり水平である」と言う観念なのです。これを追求した場合「人間は人間であり、違いを根拠に何者をものを差別してはならない」のです。「その区別が合理的であろうが無かろうが、です。」なぜなら「合理的である」とは社会の要請に対して合理的である、という事だからです。
現代社会が求め追求すべきものは「人権が完全に守られた社会」なのですから、社会の要請が差別を要請してはならない、従って障害者が弱者救済によって生活が出来るような社会は差別社会です。自分たちとは違う体を持つ人達も自分たちと同じように生活できる社会を建設する事こそが差別撤廃なのです。
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弱者救済問題と差別問題を混同する事によって何か弊害が起こっているのでしょうか。
これを主張していた方は「合理的差別」は差別ではない、と主張していた方です。矛盾しております、それが差別では無いのであればなぜ社会は「弱者救済」等をせねばならないのでしょう?つまり、弱者救済とはかわいそうな人達への「おもいやり」であり「自分たちが作った立派な社会の恩恵」であり、自分たちの立派な社会によって弱者は生かされているわけです。
大変傲慢で思いあがった考え方であると思います。
これは逆です。「人権の完全に守られた理想的社会建設の為」にあらゆる人間が平等に生きるために我々はそれをせねばならない義務があり、その義務を怠ることは差別社会建設に荷担する事になり、自然人権否定社会の建設に荷担しているのです。人権否定社会とは己の人権をも否定しているおろかさに気がつかないものなのです。
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この発言で参照しているページのホームページ # http://www4.plala.or.jp/kokoronokinniku/index.htm
以下、水平社宣言より --- 全国に散在する吾が特殊部落民よ団結せよ。
長い間虐められて来た兄弟よ、過去半世紀間に種々なる方法と、多くの人々とによってなされた吾等の為の運動が、何等の有難い効果をもたらさなかった事実は、それらの全てが吾々によって、又他の人々によってつねに人間を冒涜されていた罰であったのだ。そしてこれ等の人間をいたわるかの如き運動は、かえって多くの兄弟を堕落させたことを想えば、この際吾等の中より人間を尊敬することによって自ら解放せんとする者の集団運動を起こせるは、むしろ必然である。
兄弟よ、吾等の祖先は自由、平等の渇仰者であり、実行者であった。陋劣なる階級政策の犠牲者であり男らしき産業的殉教者であったのだ。ケモノの皮剥ぐ報酬として、生々しき人間の皮を剥ぎ取られ、ケモノの心臓を裂く代償として、暖かい人間の心臓を引き裂かれ、そこへ下らない嘲笑の唾まで吐きかけられた呪われの夜の悪夢のうちにも、なお誇り得る人間の血は、涸れずにあった。そうだ、そして吾々は、この血を享けて人間が神にかわろうとする時代に会うたのだ。犠牲者がその烙印を投げ返す時が来たのだ。殉教者が、その荊冠を祝福される時が来たのだ。
吾々がエタである事を誇り得る時が来たのだ。
吾々は、かならず卑屈なる言葉と怯儒なる行為によって、祖先を辱め、人間を冒涜してはならぬ。そうして人の世の冷たさが、どんなに冷たいか、人間をいたわる事が何であるかをよく知っている吾々は、心から人生の熱と光を願求礼賛するものである。
水平社は、かくして生まれた。
人の世に熱あれ、人間に光あれ。
大正十一年三月三日・全国水平社創立大会 ---
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