夏服の日本軍 とほほ 2002/08/17 12:28:19 (修正1回)
└夏服の日本軍(資料追加、ゆうさんより) とほほ 2002/09/08 18:51:13
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夏服の日本軍 |
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とほほ <yclfglvbxs>
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問答有用 http://bbs2.otd.co.jp/mondou/bbs_plain?base=15018&range=1 から転載
###以下### いまだに、冬の南京の写真に冬服の日本兵が写っているのはおかしいと、秦郁彦博士まで言っておられるので、過去に投稿した資料に、更に2件を追加して参考資料とします。 追加分は最初の2件で、2番目の『岡村寧次大将資料(上)』の記事は、南京に関するものではありませんが、当時の「服装」に関する状況を示すものとして加えました。 引用はご自由ですが、誤字・脱字があるかもしれませんので、できましたら一次資料を参照くださいますようお願いいたします。
東京朝日新聞(東京版)昭和十三年二月十日
(十) ------------------ いまも夏服で活躍 皆傳部隊の陣中訪問 【南京にて守山特派員発】南京総攻撃が迫つたあの十二月上旬、太倉から南転して太湖の南を迂回し、わづか十日間に実に百里の道のりを突破し敵首都攻略戦に名をあげた皆傳部隊のその後をたづねて久しぶりで元気な兵隊さんたちの顔を見る。 ○ 宿舎の中庭では分捕り速射砲をかこんで兵隊さんたち ドイツ製だな、スゴイのをもってやがるな、こんどはこいつで支那兵をやつつけるんだ。 とワイワイいひながら機能点検に余念がない ○ ピアノがある立派な部屋でいまなほ夏の軍服をきた皆傳武久部隊長が語る 夏服の方が生地が薄くて活動に便利なんでね、そのかはり下着を一枚よけい着てゐるよ、この家は国民政府の衛生署長劉瑞恆といふ男が住んでゐたらしい、さうとうな高官らしく蒋介石といっしょに撮つたこんな写真があるよ・・・・・・ といひながら、その家に残されてゐたといふアルバムを記者に見せてくれた ○ その最後の一ページに貼られた一枚の古びた写真を記者は欲しかつたが部隊長なかなか手離さなかつた、それは『恋の蒋介石』ともいふべきすばらしい写真で、カメラを持つたモダンボーイの若い蒋介石とハンドバツグを持つた艶やかな宗美齢が無錫の公園のベンチにより添つてゐる図であらう、後年の東亜の風雲児にもこんな日があつたのだ【写真は分捕つた速射砲を点検する勇士達=大木特派員撮影】 ------------------ [引用者註] この引用では記事のレイアウトは再現されていない。 文中、「ワイワイ」、「なかなか」は、「く」記号で2文字反復されているが、該当の記号がパソコンにはないので読みの通りに表記した。 皆傳武久(かいでんたけ[ひさ])記事には「ひさ」以外ルビあり
元第二師団長
岡村寧次(おかむらやすじ) ------------------ 六
応急派兵の服装問題
十二年八月十八日午後四時、師団は軍機電報を受領した。その要旨は、藤原少将を長とする混成旅団を編成して北支(察哈爾方面)に派遣せしめられることになつたのである。 その頃まだ相当暑いので、当然夏衣袴着用と一般に思われていたが、私は、この出動の命令下達と同時に冬服着用を指示した。旅団長や副官などが度々来訪して、将兵全部の意向なりとして夏衣袴着用を懇願したが、私は断乎としてこれを拒止し、察哈爾方面は高原地帯で間もなく寒くなること、奉天―北京―察哈爾の唯一の兵站線は、到底冬服の追送など期待し得ないことを説いたので、彼らは渋々と冬衣袴を着用して出動した。 この年十二月、藤原支隊はせ赫々たる戦果をもたらして帰還した。その将校たちは、察哈爾の秋は寒さ厳しく、他の部隊が夏衣袴で寒がっていたのに、われらのみは冬服で良かった今更ながら私の先見に感謝したとのことであった。 私は壮年時から屡々中国に駐在し、兵要地誌からしても察哈爾の鉄道状況も知っていたので、こういう断乎たる措置を執ることができたのであって、平時研究の重要性を更めて思ったことである。 [稲葉正夫編『岡村寧次大将資料(上)』原書房、昭和四十五年、p.396] ------------------
元毎日新聞記者 佐藤振壽 ------------------ 「大毎」の松尾カメラマンが、藤田部隊に従軍して中華門攻撃の写真を撮っていた。そんなことから少佐は「大毎」南京支局をよく訪れた。 たまたま私が中国軍将校の冬オーバーを入手して、それを着ていたところ、「佐藤さん、それをわしにくれんかね」と無心された。 一二月も下旬となると南京でも霜を置くような気温になるのに、藤田少佐はまだ夏服を着ていたのである。 階級章は中国軍の少将だったのを、少佐の階級章に直して着ていた。 [元毎日新聞記者 佐藤振壽「従軍とは歩くこと」12月20日の記事 「南京戦史資料集U」偕行社、1993年、p.630] -------------------
曾根一夫 ------------------- 南京攻略戦は御指摘のとうり、厳冬期である。軍隊が衣替えして冬服になるのは十月であったから、一二月の季節に夏服でいるのは不自然と思われるかも知れない。 しかし、それは平時の考え方である。戦地でもこれに準じて衣替えしたのはもちろんであるけれど、条件の悪いところではそうばかりゆかない場合があった。 <途中省略> これによって南京後略戦のときにも、出発までに支給ができず、八月下旬か九月上旬に内地から着用してきた夏服で従軍して部隊が沢山あった。 このように戦場では常識で割切れないことがあった。虐殺現場にいた兵隊が夏服を着用していても、おかしなことではない。 [曾根一夫「続 私記南京虐殺」彩流社、1984年、
p.84-85] -------------------
中国軍戦闘詳報に記録された「便衣」の日本軍、その理由 ------------------- 四 戦闘経過概要 十二月四日 此の日句容以東四十里の地点におよび天王寺西北上葛村付近に便衣Aの敵軍が出現、我が前方派遣の遊撃隊と接触。 [「南京保衛戦戦闘詳報(一九三七年十二月)「南京戦史資料集T」偕行社、p.609] -------------------
上記の記事について、偕行社「南京戦史資料集T」編集者による解説 ------------------- A訳文 戦闘経過の概要 十二月四日 便衣の敵軍が出現…… 解説 我が第九師団はこのときまで夏服を着用し、防寒のため一部の兵が民服を着用 [同書
p.615] -------------------
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Re: 夏服の日本軍
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とほほ <yclfglvbxs>
2002/09/08 18:51:13 |
夏服の日本軍(資料追加、ゆうさんより)
「1億人の昭和史 日本の戦史 3 日中戦争1」 P261 福田篤秦「ティンパレー報道の真相」より。
<陥落直後の日本軍が非常に殺気立っていたことは確かだった。中国軍の抵抗は激しかったし、急な進撃で兵隊のなかにはボロボロの夏服でふるえている者もいた。途中、食糧は不足し、やせて悲惨な状況だったことが略奪の一因といえる。>
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