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南京事件の真実1(南京の人口)


  南京事件の真実1(南京の人口) とほほ 2002/09/03 19:48:20  (修正1回)
  南京の真実2(南京渡洋爆撃とパナイ号) とほほ 2002/09/05 02:56:52  (修正1回)

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南京事件の真実1(南京の人口) 返事を書く ノートメニュー [問答有用(クマ板)へ]
とほほ <yclfglvbxs> 2002/09/03 19:48:20 ** この記事は1回修正されてます
南京の人口を、どうこう言う前に**さんは正に南京大虐殺とはなんなのかを勉強せねばなりません。
南京事件と言うのは南京攻略戦中及び陥落後の混乱期に軍兵軍属民衆が不法に殺害され、暴行を受け、略奪された中国軍民への日本軍の蛮行の事です。

「南京特別市は南京城壁内とその周辺地域からなる南京城区(中国の都市は西欧の都市と同じように周囲に城壁をはりめぐらした中にあるので、城あるいは城市とも言う)と、行政区として南京特別市に属する近郊県城(中国の県は県都にあたる小都市も城壁に囲まれていたので県城という)と村を合わせた近郊区からなる。」
「南京の金陵大学の社会学教授ルイス・S・C・スマイス(三六歳)の当時の調査によれば、<中略>近郊6県全部を合わせれば人口は150万人を超えていたと思われる。」
以上、南京事件(笠原十九司)

○南京攻略戦下の人口(南京城区)
1937年3月末 1,019,667人 200,810戸 (首都警察庁調べ)
38年2月末 200,000人(難民区人口を南京市自治委員会と特務機関が推定)
38年10月末 329,488人 82,195戸 (南京市自治委員会調べ)
39年10月末 552,228人 132,403戸 (南京特別市政府調べ)
41年3月末 619,406人 140,439戸 (南京市政府調べ)

○南京市政府(馬超俊市長)が国民政府軍事委員会後方勤務部に送付した書簡
「調査によれば本市(南京城区)の現在の人口は約50余万である。将来は、およそ20万人と予想される難民の為の食料送付が必要である」
#中国抗日戦争史学会編『南京大虐殺』

○1997年現在の人口(行政区として南京特別市内の人口)
六合県68万人
江浦県30万人
江寧県76万人
りつ水県40万人←漢字が出ない(^^;「りつ」は さんずい に栗
高淳県43万人
句容市60万人
南京城区263万人

○スマイス調査による当時の近郊区と城区の人口
近郊区(除く高淳県六合県半分) 120〜135万人
南京城区 100万人

わかりましたか皆さん。
これが否定論のトリックなのです。

「当時の人口は20万人」と皆さんが聞いたら、南京と言うのは20万人都市だったのか。と思ってしまいませんか。実は南京特別市全体で200万〜250万人、南京城区だけでも100万都市だったのです。

ところが南京攻略戦勃発後市民はどんどん避難をはじめて人口はどんどん減っていきました。南京陥落が12月です、大混乱の中人口がどのくらいあるかなどわかりようがありません、で2月頃になってはじめて難民区の人口を調査し20万人と言う数字が確認できるのです。つまり「つまり当時の人口は20万人」というのはこの数字を差します。

ここをビターと抑えとけば今後否定論者の人口うんぬんのトリックに引っかかることはありません。試験に出るからチェックしておくように(笑)

こういうのもトリックです。
「南京城市と言うのはとても狭い範囲の城壁で囲まれてます、人口も20万人でした。」なんて言われると、なんだか小さな町なんだな〜〜、って思うでしょ?
所が現在の人口を見てください260万人が城区だけに住んでます。考えても見てください、中国の首都だったのですよ。


これもそうです
> 虐殺が証明出来なくなったら、地域と期間の範囲を広げる(笑)。

今は南京の人口の話をしているわけです。虐殺の定義は**さんに合わせる、と私ははっきり宣言をしてます。例え「南京城区で6週間」という定義であっても南京攻略戦の全体像から検証しないことには南京に流入した数を掴めません。

いかなる事項もより狭い範囲に限定し読者に見せ、錯誤をあおるわけです。
これから以降の**さんの言動を見ているとそれがよくわかりますのでお楽しみ下さい。

>南京は戦前は、スマイス報告書にもあるように100万人都市でした。
> ですが、南京市民は日本機による爆撃によって避難して行く様子が、ラーベ日記や、マギー牧師の16ミリフィルムにも納められています。

南京渡洋爆撃が行われたのは同年の八月です。
南京陥落が12月です。
つまり南京陥落のわずか四ヶ月前です、こういう事を言って大分前から南京の人口が減少しているような印象を与えます。
確かに市民が避難をはじめたのは爆撃からですが、そこにどんな違いがあるのでしょう?面白いですね否定論者の末路は。

さてと、南京特別市が200万人を超える都市であったことは、ご理解いただけましたでしょうか。南京事件の前哨戦であるところの一連の爆撃は1937年8月15日に始まります。在南京日本大使館員と日本人居留民団員の最後の一団が午前中までに中国国民政府の四十名の憲兵に護衛され外交部の係官二名を随行し南京を離れた後、午後になって始まりました。

その後数10度に渡るこの爆撃は宣戦布告を伴わない無防備都市への爆撃であり中国全土に及び、南京城区だけで民間人392人死亡、破壊家屋七、八百戸に達っする大虐殺でありました。
世界の世論は一斉に日本を非難しました。

さて、この8月15日というのは、2次上海事変交戦開始の二日後です。上海事変とは宣戦布告もせずに中国に本格的に侵略をはじめた事件です。ところがこの時は南京攻略は予定になかったのです。軍中央、政府ともに居留民の保護が目的であり派遣軍には決して戦線を拡大しないように厳命しておりました。

よって南京攻略戦は予想が難しく南京市民もまだ対岸の火事程度の認識です。ここで皆さん考えてください。我が国日本は南京爆撃の何百倍もの壮絶な爆撃をその後経験しております、その時の東京の様子を考えてみてください。何人の人が避難できていたでしょうか?80%もの人たちが避難していたでしょうか?日本の場合は戦争をしていることを確実に都民は認識しております。
が、南京市民は戦争がはじまった、と知らされていないのです。当たり前です、宣戦布告もなにもしてないのですから、爆撃にしろ全く唐突なのです。

確かに空爆を避けるために避難をはじめましたが東京の例を考えてもこの時点で避難した人たちも大勢いましたが押して知るべしでしょう。

  南京の真実2(南京渡洋爆撃とパナイ号) とほほ 2002/09/05 02:56:52  (修正1回) ツリーへ

Re: 南京事件の真実1(南京の人口) 返事を書く ノートメニュー [問答有用(クマ板)へ]
とほほ <yclfglvbxs> 2002/09/05 02:56:52 ** この記事は1回修正されてます
南京の真実2(南京渡洋爆撃とパナイ号)

さて皆さん、否定論者と言うのは一筋縄でいかないことも確かです、先の私の投稿に対しても色んないちゃもん(当人は反論のつもりのようです)をつけてきます。

> 日本海軍が爆撃を行ったのは、主に飛行場や発電所、港湾施設などの軍事施設のみでした。

「爆撃はかならずしも目標に直撃するを要せず、敵の人心に恐怖を惹起せしむるを主願とするをもって、敵の防御砲火を考慮し、投下点を高度二千ないし三千メートル付近に選定し、かつ一航過にて投下を完了するごとく努められたく」
(南京空襲部隊制空隊の戦闘要領に関し希望事項)

とあるように無差別爆撃なのです。現代でさえ皆さんご存じのように、アフガン爆撃、軍事施設しか狙いません、等と言っても多くの誤爆があるわけです、当時の命中精度でしかもこのような命令の爆撃です。全く否定論者とは何を言い出すかわかりません。
また、南京市民にとっては唐突な爆撃であった、と言う私の主張に対し。

>これもウソです。7月7日盧溝橋事件が始まり19日に蒋介石はいわゆる“最後の関頭”演説を行い、日本軍に対する抵抗である戦闘を宣言したのです。

これは抵抗戦、中国への侵略に対し抵抗すると言うことです。つまりもうこれ以上は日本に譲歩しない、と言う「演説」です。日本が侵略するか否かは日本が主体です。侵略しなければ当然戦争になりません。**さんは戦時中のプロバガンダに犯されているようです(^^;

アメリカの軍艦も爆撃しました。と言うと。

> 米国砲艦パネー号の事だと思われます。パネー号は爆撃されていません。機銃掃射であり、沈んだ原因は、砲撃によるものです。

はぁ〜〜?(゜_。)?(。_゜)
爆撃したでしょう?日本軍機で(笑)
馬鹿じゃない(^^;

○ローズベルト大統領に提出されたヒューズ・パナイ号艦長の報告書。

一三時二七分、歩哨は、約一万五千フィート上空に二機の飛行機を目撃、と伝えてきた。天気は晴天で視界は良く、風はなかった。飛行機の高度は必ずしも報告とおりではなかったが、二機ともはっきり見えた。その時は、よもや我々を攻撃しようとしているなどと考えもしなかった。この頃私は遥かに見える飛行機の動きをよく見ようと、操舵長のジョン・ラングとともに艦橋にのぼった。一三時二十九分ごろ、艦橋の屋根に大きな穴があき、一発の爆弾が頭上を直撃したようだ。
<略>
またその頃は、独特の赤丸をみて、日本軍の海軍機であると識った。私の記憶では、パナイ号は二四回直撃をを受けたと思う。
<略>
日中全面戦争と海軍[パナイ号事件の真相] 笠原十九司 青木書店より。

もしその後機銃掃射と砲撃で沈んだのであればそれこそ日本の主張した「誤爆」なんてのはなんの言い逃れもできないじゃん。どこの資料にそんなことが書いてあったの?それこそ大問題だよ(^^;
英国砲艦クリケット号とスラブ号への砲撃と勘違いしていない?この二艦は空襲もされているけど。

○第十一戦隊機密第七七号ノ七三 昭和一二年一二月一八日、南京旗艦安宅第十一戦隊司令官より第三艦隊司令長官宛、『パナイ』爆撃事件に対する聴取書(島田文書)

一四一〇時頃、現場上流付近に達せるところ、砲艦が盛んに飛行機に対し射撃をなしつつあり、船のほうにも射撃し来りしをもって応射、避退し、危険と認め深用付近まで引き返し、歩兵部隊を一部右岸に揚陸せしめ状況偵察に掛かしめたるところ、該砲艦より盛んに射撃を受けたるをもってこれに対し応射せしも、遠距離なりしため、弾着全部近弾なりよしなり、その時は砲艦商船も大なる損害はみとめらざりし趣なり。間もなく空襲終りたるをもって、現状視察ならびに商船等の救助の目的をもって開源碼頭に到着せるところ、再び大挙空襲し来たり、盛んに「日の丸」を振りたるも頓着なく空襲せられ、そのさい巻き添えを喰い、一名爆死せるよしにて、(中略)その際の爆撃は前回に比し実に徹底し、大型爆弾を使用せるものらしく、これにより砲艦も商船も甚大なる被害を受けたり。一段落せるところにて、砲艦に近づき情況を視察せる時、左舷中央部に直径一尺くらいの穴あき、艦首を上流に向け左舷に傾き半ば沈没の状態にあり。主砲は「カバー」掛けたるままなりしも、高角砲機銃は盛んに打ちたるものらしく、打ち殻山積しありと。なお書類等を甲板にて焼きたる形跡ありしよしなり。

以上より判断するに、空襲当時、永山部隊の一部舟艇にて現場付近にありしこと確実にして、多少射撃を交換せるも真面目なる攻撃を加えたるものに非ず、むしろ遭難者を救助せんとの意志を有せるもののごとし。(中略)

一二月一二日頃、永山部隊以外に南京蕪湖間に行動せる部隊なし。

尚永山部隊長よりの実情は右のごとくなるも、永山一支隊が米船爆沈当時現場にありし件につきては、部外に発表なきよう希望ありたり。
日中全面戦争と海軍、笠原より。

と、グーの根も出ないような資料をつきつけられても。

> パナイ号の乗務員が爆弾と主張されても・・・

何を読んでいるのでしょうか?
二つ目の提示資料は日本側資料です。日本軍の主張です。しかも公式文書(笑)

まったく否定論とは下卑た主張です。


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