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  南京の人口と占領下の南京について ookumayuusuke 2002/10/21 23:45:19 
  南京の人口を、どうこう言う前に**さんは正... とほほ 2002/10/22 19:44:50 
  さて?この人の議論は? とほほ 2002/10/22 20:36:43 
  @陥落直前の南京は漸く15万人を数ふる小... 第四期石器人 2002/10/22 21:10:05 
  │├緘口令はしかれていません。<朝日新聞は報... ookumayuusuke 2002/10/24 10:51:50 
  ││└私は軍の報道関与を言ったのですよ。日本語... 第四期石器人 2002/10/24 20:15:45 
  │└<リリー・アベックの情報は日本軍に追い... ookumayuusuke 2002/10/24 12:56:14 
  │ └爆笑!リリー・アベックの記事と手記こそが... 第四期石器人 2002/10/24 20:39:15 
  │  └この文献のどこか僕の言っていることが嘘で... ookumayuusuke 2002/10/26 10:44:04 
  │   ├もう一度、議論を確認してください。 とほほ 2002/10/26 16:49:15 
  │   │└既に掲示していますが一部訂正した上で再掲... ookumayuusuke 2002/10/26 23:56:56 
  │   │ ├「南京が安全だという確実な情報が無い限り... ookumayuusuke 2002/10/28 22:05:43 
  │   │ └あなたの示した攻略時の人口の根拠は何です... タラリ 2002/10/29 01:48:42 
  │   │  ├当てずっぽうではありませんよ。南京安全区... ookumayuusuke 2002/10/31 02:59:32 
  │   │  │├ちゃんと国際委員会公式文書で確認できると... とほほ 2002/10/31 04:46:32 
  │   │  │└国際安全区委員会が12月13日前後に人口... タラリ 2002/11/01 08:55:53 
  │   │  ├中国民衆は独自の情報網を持っており、南京... ookumayuusuke 2002/10/31 04:20:21 
  │   │  │└妄想ではなく、事実を書きこんでください。 とほほ 2002/10/31 04:48:08 
  │   │  └昭和12年12月13日、国際委員会第16... ookumayuusuke 2002/12/15 11:37:26 
  │   │   └人口調査をしたか、と聞いております。 タラリ 2002/12/15 22:08:25 
  │   └1南京特別行政区からの移入2負傷兵も非戦... 第四期石器人 2002/10/26 18:23:11 
  安全区は難民たちの‘天国’だった! 第四期石器人 2002/10/22 21:20:06 
  │└数的資料があるのに<大量の捕虜虐殺の影で... ookumayuusuke 2002/10/24 10:44:53 
  │ └死体回収場所と被害者構成を良く見なさい。 第四期石器人 2002/10/24 21:45:58 
  │  └確かに婦女子の犠牲者は存在するが加害者が... ookumayuusuke 2002/12/10 10:28:54 
  │   └12月12日、13日に南京が陥落し、日本... タラリ 2002/12/12 23:16:41 
  中国軍が発電設備を破壊したとのデマについ... タラリ 2002/10/24 19:49:51 
  南京における強姦、加害証言と被害証言 タラリ 2002/10/24 21:18:47 
  紅卍会の埋葬史料の中には女、子どもの数も... タラリ 2002/10/24 21:33:58 
  │├先ず紅卍字会の4万については当時南京特務... ookumayuusuke 2002/11/18 22:44:51 
  ││└崇善堂とは基本的には宗教的ボランティア団... とほほ 2002/11/19 01:02:05  (修正1回)
  ││ ├南京自治委員会の準備会は、南京陥落後わず... ookumayuusuke 2002/11/20 10:42:27 
  ││ │├虐殺の街にこんな現象など絶対に起きない。... とほほ 2002/11/21 02:33:05 
  ││ ││└なんだか論点をずらしてません? ookumayuusuke 2002/11/22 08:05:38 
  ││ ││ ├はーー? とほほ 2002/11/24 21:43:24  (修正1回)
  ││ ││ └ookumayuusukeさんへ、あなたの誠実さは評価... とほほ 2002/11/25 23:17:43 
  ││ │└■南京自治委員会の発足 タラリ 2002/12/05 23:28:21 
  ││ └田中正明著「南京事件の総括虐殺否定の論拠... ookumayuusuke 2002/11/20 10:55:36 
  │└紅卍字会の水増しについて、一覧表を見ると... ookumayuusuke 2002/11/20 11:01:34 
  │ └後送された傷病兵と埋葬者…南京と上海戦闘... ookumayuusuke 2002/11/20 11:06:33 
  │  ├紅卍会埋葬に負傷兵死者の水増しがあるか タラリ 2002/12/12 00:11:08 
  │  └難民区における負傷兵の医療 タラリ 2002/12/14 17:35:02  (修正1回)
  水道局職員の射殺も日本軍 タラリ 2002/10/27 22:38:09  (修正2回)
  日本人記者の書いた記事を鵜呑みにするのは... タラリ 2002/10/27 22:52:30  (修正1回)
  │└投降勧告文が撒布された南京の給水は12月... ookumayuusuke 2002/10/31 09:57:46 
  │ └発電所の権に関していろいろ質問して来てい... タラリ 2002/11/01 21:41:37 
  │  └日本軍には南京市の警官、消防士、発電所、... ookumayuusuke 2002/12/10 11:55:19 
  │   ├日本兵に化けた国民党軍のゲリラ兵の可能性... とほほ 2002/12/10 23:56:21 
  │   │└京都第16師団師団長中島今朝吾中将の日記... ookumayuusuke 2002/12/12 11:09:40 
  │   │ ├補足 ookumayuusuke 2002/12/12 15:40:24 
  │   │ └新証拠をありがとう。司令官みずから、日本... タラリ 2002/12/12 18:32:26 
  │   │  └よく読んでください。」(「〜ラシク」と断... ookumayuusuke 2002/12/14 22:17:47 
  │   │   └>その後の調査で日本軍の冤罪が判明した例... とほほ 2002/12/14 22:19:50 
  │   └「動機がない」は否定派が千回も使った「へ... タラリ 2002/12/11 23:09:03 
  │    └<第16師団長中島今朝吾の宿舎に対してさ... ookumayuusuke 2002/12/14 22:03:57 
  │     ├そのほとんどが裏付けのない伝聞情報でラー... とほほ 2002/12/14 22:18:30 
  │     │└<なんでラーベが嘘を日記に書かなきゃなん... ookumayuusuke 2002/12/14 23:15:23 
  │     │ ├その後、日記の出版を目指しリトライに精を... とほほ 2002/12/15 00:19:47 
  │     │ │└1度も殺人を目撃せず、報告相手によって4... ookumayuusuke 2002/12/15 01:29:42 
  │     │ │ └資料を自分で読んでからコメントして下さい... タラリ 2002/12/15 21:36:18 
  │     │ ├ちなみに、日独が真に同盟関係に入るのは、... ookumayuusuke 2002/12/15 01:12:28 
  │     │ └四点にわたって反論 タラリ 2002/12/15 21:15:38 
  │     ├このスレッドの議題は人口についてです。 とほほ 2002/12/14 22:22:36  (修正1回)
  │     │├便衣兵や敗残兵による虐殺事件なら、おおい... ookumayuusuke 2002/12/14 23:28:48 
  │     ││└南京の人口について聞いているのです。わか... とほほ 2002/12/15 00:27:22 
  │     ││ └昭和12年12月13日、国際委員会第16... ookumayuusuke 2002/12/15 11:34:20 
  │     ││  └おかしいな・・・ ゆう 2002/12/15 20:12:02  (修正1回)
  │     │└それ以前に、<当然彼らは上官反逆罪で軍法... ookumayuusuke 2002/12/14 23:47:39 
  │     ├ちなみに、43人の発電所職員を殺していた... ookumayuusuke 2002/12/14 23:43:59 
  │     ├伝聞の意味 タラリ 2002/12/15 00:02:36 
  │     └泥棒集団と化していた日本軍 タラリ 2002/12/15 18:35:53 
  ラーベの「感謝状」 タラリ 2002/10/27 23:02:12 
   └単に儀礼的な挨拶?それは違うでしょう。中... ookumayuusuke 2002/12/15 00:00:01 
    └ラーベの「感謝状」なるものを実際に読んだ... タラリ 2002/12/15 00:14:26 

  南京の人口と占領下の南京について ookumayuusuke 2002/10/21 23:45:19  ツリーへ

南京の人口と占領下の南京について 返事を書く ノートメニュー
ookumayuusuke <snqgzmpety> 2002/10/21 23:45:19
先ずは南京の正確な人口について。
ドイツ・フランクフルター紙の特派員リリー・アベック女史によると、陥落直前の南京は漸く15万人を数ふる小都市になり下がった、という。さらに日本軍の捕虜となった張郡思少佐は「南京衛戌軍の兵力5万、非戦闘員10万」と述べており、松井石根大将は陣中日誌の12月20日に「其数十二万余ニ達シ」と記述しています。
次に占領下の南京について。
朝日新聞は1月3日付けの新春号に5段抜き凸版見出しで、「南京・今ぞ明けた平和の朝」と大書きし、「建設のかどでを飾り/光と水のお年玉/万歳・電灯と水道蘇る」と題した近藤特派員の一日発の電報を載せています。
そのリードの文は次の通りです。
「光と水の不足から苦しい喘ぎを続けていた首都南京も新春を迎えて甦ったように力強い息を始めた。大晦日の夕方5時から南京市内の主なる街々には思いがけない電灯がつき、それと同時に水道まで景気良くほとばしり出たのである。」とあります。
つまり、唐生智軍が退却事に破壊していった水道源や変電所など電源を、日本軍と中国の労務者が協力して、年末ぎりぎりに復興したのです。
近藤記者によると、南京は12月10日から水道は止まり、電気はつかず、水飢饉と暗黒の都市となったのです。
日本軍は入城と同時にこれの復活に着手したのです。
技術将校以下80名と中国人電工70名の班編成で、水道も同様に 150名の編成で、不眠不休、激烈な戦闘の疲れも忘れて取り組んだ結果であるといいます。
近藤記者はこの文章の最後をこう締めくくっています。
「光と水のお年玉に南京市の屋根の下に寝る我が皇軍の勇士や市民などは歓喜の万歳をあげた。中山路の中島部隊が宿舎にしている中央飯店には、赤青のネオンサインさへほの見えている。ちょうど20日ぶりで、再び電灯の光りの輝きだした南京の夜の何と賑やかさだ。22日には上海南京間には日の丸列車が開通して南京市民の喜びの矢先、また降って湧いたような贈り物だ。3日に発会式を挙行する南京自治委員会の力強い誕生と相まち、治安の基礎は全く確立して、明朗南京はいま新春の旭光に上がると共にさっそうとして建設の軌道をスタートした。」
さらに、1月3日の南京市民三千余名の旗行列を取材した同盟通信によると、「祝成立南京自治委員会」の横断幕を先頭に、市民は手に手に日の丸の旗や五色旗をかざして「万歳!万歳!」と連呼して、中山路の式典会場の鼓楼を取りまき、子供たちは爆竹を鳴らして喜んだと、南京の全市民をあげての歓喜・感動のもようを伝えています。
「南京虐殺」などなかった決定的な証拠です。
虐殺の街にこんな現象など絶対に起きません。  
僕が言いたいのは、東京裁判の検事側証人が言うごとく、日本兵が女子供を見境無く捕らえて殺したり、連日、何百名もの捕虜や敗残兵が引き立てられて機銃掃射を受けたり、昼夜の別なく強姦が行われ、連日放火が続いて、一区画ずつ焼き払った・・・かくして、武器を置いた兵を含む30万人が屠殺された―――という、そのような鬼畜にも劣る暴虐な悪魔か、地獄のような市街で、どうして3千数百人もの市民が、自治委員会の成立を喜んで、爆竹を鳴らし、万歳を唱え、旗行列に参加するであろうか?
だいいち、そんな街に自治委員会などできるはずが無く、人口は減るとも増えることなど絶対にあり得ないはずです。
ところが、南京安全区国際委員会の公式文章によると、南京の人口は1月に入ると5万から10万人以上も増加しているのです。
さらにジョン・ラーベ氏は南京安全区国際委員会を代表して感謝の書簡を日本軍に送っています。金陵大学病院医師マッカラム氏は日本兵の善行を日記や手記にしたためています。日本を憎悪していたマギー牧師でさえ「安全区は難民たちの‘天国’だったかも知れない」といい、スミス博士も調査報告書の中で「難民区内には火災も無く平穏であった」「住民のほとんどここに集まっていた」と述べています。(南京の全市民は例外を除き蝟集していました) 
<強姦した女性も片端から殺したからですよ>というタラリさんの解答、ハズレです。日本軍による婦人・子供の殺害事件等(戦死者・準戦死者は除きます)は全然起きていないし、そういう記録も無い。勿論、国際委員会の公文書の中にも記録されていません。紅卍字会の埋葬死体一覧表の中にも、婦人・子供は皆無にちかい。
概して南京の全市民が平穏であり、安泰であったことは、諸記録から見て疑う余地はありません。

  南京の人口を、どうこう言う前に**さんは正... とほほ 2002/10/22 19:44:50  ツリーへ

Re: 南京の人口と占領下の南京について 返事を書く ノートメニュー
とほほ <yclfglvbxs> 2002/10/22 19:44:50
南京の人口を、どうこう言う前に**さんは正に南京大虐殺とはなんなのかを勉強せねばなりません。
南京事件と言うのは南京攻略戦中及び陥落後の混乱期に軍兵軍属民衆が不法に殺害され、暴行を受け、略奪された日本軍の蛮行の事です。

「南京特別市は南京城壁内とその周辺地域からなる南京城区(中国の都市は西欧の都市と同じように周囲に城壁をはりめぐらした中にあるので、城あるいは城市とも言う)と、行政区として南京特別市に属する近郊県城(中国の県は県都にあたる小都市も城壁に囲まれていたので県城という)と村を合わせた近郊区からなる。」
「南京の金陵大学の社会学教授ルイス・S・C・スマイス(三六歳)の当時の調査によれば、<中略>近郊6県全部を合わせれば人口は150万人を超えていたと思われる。」
以上、南京事件(笠原十九司)

○南京攻略戦下の人口(南京城区)
1937年3月末 1,019,667人 200,810戸 (首都警察庁調べ)
38年2月末 200,000人(難民区人口を南京市自治委員会と特務機関が推定)
38年10月末 329,488人 82,195戸 (南京市自治委員会調べ)
39年10月末 552,228人 132,403戸 (南京特別市政府調べ)
41年3月末 619,406人 140,439戸 (南京市政府調べ)

○南京市政府(馬超俊市長)が国民政府軍事委員会後方勤務部に送付した書簡
「調査によれば本市(南京城区)の現在の人口は約50余万である。将来は、およそ20万人と予想される難民の為の食料送付が必要である」
#中国抗日戦争史学会編『南京大虐殺』

○1997年現在の人口(行政区として南京特別市内の人口)
六合県68万人
江浦県30万人
江寧県76万人
りつ水県40万人←漢字が出ない(^^;「りつ」は さんずい に栗
高淳県43万人
句容市60万人
南京城区263万人

○スマイス調査による当時の近郊区と城区の人口
近郊区(除く高淳県六合県半分) 120〜135万人
南京城区 100万人

わかりましたか皆さん。
これが否定論のトリックなのです。

「当時の人口は20万人」と皆さんが聞いたら、南京と言うのは20万人都市だったのか。と思ってしまいませんか。実は南京特別市全体で200万〜250万人、南京城区だけでも100万都市だったのです。

ところが南京攻略戦勃発後市民はどんどん避難をはじめて人口はどんどん減っていきました。南京陥落が12月です、大混乱の中人口がどのくらいあるかなどわかりようがありません、で2月頃になってはじめて難民区の人口を調査し20万人と言う数字が確認できるのです。つまり「つまり当時の人口は20万人」というのはこの数字を差します。

ここをビターと抑えとけば今後否定論者の人口うんぬんのトリックに引っかかることはありません。試験に出るからチェックしておくように(笑)

こういうのもトリックです。
「南京城市と言うのはとても狭い範囲の城壁で囲まれてます、人口も20万人でした。」なんて言われると、なんだか小さな町なんだな〜〜、って思うでしょ?
所が現在の人口を見てください260万人が城区だけに住んでます。考えても見てください、中国の首都だったのですよ。


これもそうです
> 虐殺が証明出来なくなったら、地域と期間の範囲を広げる(笑)。

今は南京の人口の話をしているわけです。虐殺の定義は**さんに合わせる、と私ははっきり宣言をしてます。例え「南京城区で6週間」という定義であっても南京攻略戦の全体像から検証しないことには南京に流入した数を掴めません。

いかなる事項もより狭い範囲に限定し読者に見せ、錯誤をあおるわけです。
これから以降の**さんの言動を見ているとそれがよくわかりますのでお楽しみ下さい。

>南京は戦前は、スマイス報告書にもあるように100万人都市でした。
> ですが、南京市民は日本機による爆撃によって避難して行く様子が、ラーベ日記や、マギー牧師の16ミリフィルムにも納められています。

南京渡洋爆撃が行われたのは同年の八月です。
南京陥落が12月です。
確かに市民が避難をはじめたのは爆撃からですが、そこにどんな違いがあるのでしょう?面白いですね否定論者の末路は。

さてと、南京特別市が200万人を超える都市であったことは、ご理解いただけましたでしょうか。南京事件の前哨戦であるところの一連の爆撃は1937年8月15日に始まります。在南京日本大使館員と日本人居留民団員の最後の一団が午前中までに中国国民政府の四十名の憲兵に護衛され外交部の係官二名を随行し南京を離れた後、午後になって始まりました。

その後数10度に渡るこの爆撃は宣戦布告を伴わない無防備都市への爆撃であり中国全土に及び、南京城区だけで民間人392人死亡、破壊家屋七、八百戸に達っする大虐殺でありました。
世界の世論は一斉に日本を非難しました。

さて、この8月15日というのは、2次上海事変交戦開始の二日後です。上海事変とは宣戦布告もせずに中国に本格的に侵略をはじめた事件です。ところがこの時は南京攻略は予定になかったのです。軍中央、政府ともに居留民の保護が目的であり派遣軍には決して戦線を拡大しないように厳命しておりました。

よって南京攻略戦は予想が難しく南京市民もまだ対岸の火事程度の認識です。ここで皆さん考えてください。我が国日本は南京爆撃の何百倍もの壮絶な爆撃をその後経験しております、その時の東京の様子を考えてみてください。何人の人が避難できていたでしょうか?80%もの人たちが避難していたでしょうか?日本の場合は戦争をしていることを確実に都民は認識しております。
が、南京市民は戦争がはじまった、と知らされていないのです。当たり前です、宣戦布告もなにもしてないのですから、爆撃にしろ全く唐突なのです。

確かに空爆を避けるために非難をはじめましたが東京の例を考えてもこの時点で避難した人たちも大勢いましたが押して知るべしでしょう。

南京渡洋爆撃
> 日本海軍が爆撃を行ったのは、主に飛行場や発電所、港湾施設などの軍事施設のみでした。

「爆撃はかならずしも目標に直撃するを要せず、敵の人心に恐怖を惹起せしむるを主願とするをもって、敵の防御砲火を考慮し、投下点を高度二千ないし三千メートル付近に選定し、かつ一航過にて投下を完了するごとく努められたく」
(南京空襲部隊制空隊の戦闘要領に関し希望事項)

>これもウソです。7月7日盧溝橋事件が始まり19日に蒋介石はいわゆる“最後の関頭”演説を行い、日本軍に対する抵抗である戦闘を宣言したのです。

これは抵抗戦、中国への侵略に対し抵抗すると言うことです。つまりもうこれ以上は日本に譲歩しない、と言う「演説」です。日本が侵略するか否かは日本が主体です。侵略しなければ当然戦争になりません。**さんは戦時中のプロバガンダに犯されているようです(^^;

  さて?この人の議論は? とほほ 2002/10/22 20:36:43  ツリーへ

Re: 南京の人口と占領下の南京について 返事を書く ノートメニュー
とほほ <yclfglvbxs> 2002/10/22 20:36:43
さて?この人の議論は?
言いたい事を言って反論には答えず、新たなスレッドを立てる。
ワンパターーンの宣伝手法だな(^^;

  @陥落直前の南京は漸く15万人を数ふる小... 第四期石器人 2002/10/22 21:10:05  ツリーへ

Re: 南京の人口と占領下の南京について 返事を書く ノートメニュー
第四期石器人 <irssnyejbj> 2002/10/22 21:10:05
@陥落直前の南京は漸く15万人を数ふる小都市になり下がった。リリー・アベック
A張郡思少佐は「南京衛戌軍の兵力5万、非戦闘員10万」
B松井石根大将は陣中日誌の12月20日に「其数十二万余ニ達シ」
C朝日新聞は1月3日付けの「南京・今ぞ明けた平和の朝」と大書きし、「建設のかどでを飾り/光と水のお年玉/万歳・電灯と水道蘇る」と題した近藤特派員の一日発の電報。

の4つですか?
まず、朝日新聞は報道統制下で出鱈目の情報しか配信していなかった。リリー・アベックの情報は日本軍に追い立てられて逃げ込んできた南京特別行政区の住民がカウントされていない。そして、張郡思少佐と松井大将の証言は南京安全区の人口が占領後に増えたことを裏付ける史料である。つまり、南京安全区に避難している住民の数が安全だからと言って、もとの住居へ戻っていっていない。それどころか難民は増えている。
よって、貴方の提示した史料に一つも南京虐殺を否定するもしくは規模を少なく見させれ史料は存在しないし、寧ろ、@ABは南京虐殺の存在を間接的に証明する史料である。

水道復旧や送電再開に10日もかけるなんて異常よ。2日で回復しないと話にならないよ。
アラビアのロレンスはアンマン攻略時に3日で水道供給を再開しましたよ。近代都市システムを理解しない、都市生活をしない遊牧アラビア人を使ってね

  │├緘口令はしかれていません。<朝日新聞は報... ookumayuusuke 2002/10/24 10:51:50  ツリーへ

Re: @陥落直前の南京は漸く15万人を数ふる小... 返事を書く ノートメニュー
ookumayuusuke <snqgzmpety> 2002/10/24 10:51:50
緘口令はしかれていません。<朝日新聞は報道統制下で出鱈目の情報しか配信していなかった>は第四期石器人 さんの妄想ですか?
<そして、張郡思少佐と・・・する史料である>資料の曲解もここまでくるとは・・・

  ││└私は軍の報道関与を言ったのですよ。日本語... 第四期石器人 2002/10/24 20:15:45  ツリーへ

Re: 緘口令はしかれていません。<朝日新聞は報... 返事を書く ノートメニュー
第四期石器人 <irssnyejbj> 2002/10/24 20:15:45
私は軍の報道関与を言ったのですよ。日本語分かりますか?
朝日新聞の報道は軍と一緒になった提灯記事です。

  │└<リリー・アベックの情報は日本軍に追い... ookumayuusuke 2002/10/24 12:56:14  ツリーへ

Re: @陥落直前の南京は漸く15万人を数ふる小... 返事を書く ノートメニュー
ookumayuusuke <snqgzmpety> 2002/10/24 12:56:14
<リリー・アベックの情報は日本軍に追い立てられて逃げ込んできた南京特別行政区の住民がカウントされていない。>それを裏付ける証拠・1次資料はあるのですか?貴方がそう思い込みたいだけでは?

  │ └爆笑!リリー・アベックの記事と手記こそが... 第四期石器人 2002/10/24 20:39:15  ツリーへ

Re: <リリー・アベックの情報は日本軍に追い... 返事を書く ノートメニュー
第四期石器人 <irssnyejbj> 2002/10/24 20:39:15
爆笑!リリー・アベックの記事と手記こそが君の嘘の一次史料だよ。

リリー.アベックは次のように「先週およそ二十万の人々が南京を去った。かつての百万都市南京は、既にそれまでに三十五万人に減少していたから、今ではせいぜい十五万人だ」と11月下旬に記録している。
つまり、11月下旬だよ。
更に、12月19日の記事で「「・・・南京駅に2000人の負傷者を乗せた汽車が到着したが、誰も見向きもしなかった。・・・死骸が空気を汚染し、悪臭を放った。」と、言う記事も書いている。

解る?君の言っていることが嘘である証拠を証明する史料は君自身が引用した史料で全て証明できるの!君は無知にも出鱈目な史料引用をしているだけなの

  │  └この文献のどこか僕の言っていることが嘘で... ookumayuusuke 2002/10/26 10:44:04  ツリーへ

Re: 爆笑!リリー・アベックの記事と手記こそが... 返事を書く ノートメニュー
ookumayuusuke <snqgzmpety> 2002/10/26 10:44:04
この文献のどこか僕の言っていることが嘘である証拠を証明になるのですか?南京が戦場になる可能性が高まったため、市民たちが次々と南京を離れていき人口が激減した証明にしかなりませんよ。
12月19日の記事に見た光景も前線から移送された戦死者や負傷兵の記述では?

  │   ├もう一度、議論を確認してください。 とほほ 2002/10/26 16:49:15  ツリーへ

Re: この文献のどこか僕の言っていることが嘘で... 返事を書く ノートメニュー
とほほ <yclfglvbxs> 2002/10/26 16:49:15
もう一度、議論を確認してください。

貴方は、南京の人口が増えているから大虐殺はなかったと主張しているのです。
それに対して南京の人口が増えたと言うのは間違いである、と反論しているのです。これに再反論できないのであれば「南京の人口が増えているから大虐殺はなかった」と言う議論は破綻した事になります。この点を確認してください。

論理的思考を無視した議論をこれ以上続けられるのであれば貴方の出入りを禁止します。

  │   │└既に掲示していますが一部訂正した上で再掲... ookumayuusuke 2002/10/26 23:56:56  ツリーへ

Re: もう一度、議論を確認してください。 返事を書く ノートメニュー
ookumayuusuke <snqgzmpety> 2002/10/26 23:56:56
既に掲示していますが一部訂正した上で再掲示します。
南京市民も乱世に対しての心構えは自然になされており、南京攻略戦の前の11月、既に富裕階級は南京を脱出、さらに中国軍の清野作戦で城外半径16キロを焼き払いその周辺も含め無人状態、移動手段が無い城内外の非戦闘員(多めに見積もって20万人)は安全区に殺到。攻略前でこの有様であり、南京特別市全体で200万〜250万人だったとしても攻略戦時の南京城外は無人状態かそれに近い状態、城内(南京の全市民は例外を除き安全区に蝟集していました。)は多めに見積もって20万人。(昭和12年12月17日)この真実は変わりません。
さらに攻略後、わずか一ヶ月で人口が25万〜30万人に。(昭和13年1月14日)人口が5万〜10万人以上も増えている。南京が安全だという確実な情報が無い限りこれだけの人口増はありえない。
30万人の大虐殺はおろか、4万人位の中虐殺、6千人位の小虐殺もありえない。何故なら、たとえ百人単位でも虐殺があった場所の人口が一ヶ月足らずのうちに人口が5万〜10万人以上も増える筈がないからです。この真実も変わりません。
このことは国際委員会公式文書で確認できます。

  │   │ ├「南京が安全だという確実な情報が無い限り... ookumayuusuke 2002/10/28 22:05:43  ツリーへ

Re: 既に掲示していますが一部訂正した上で再掲... 返事を書く ノートメニュー
ookumayuusuke <snqgzmpety> 2002/10/28 22:05:43
「南京が安全だという確実な情報が無い限りこれだけの人口増はありえない。」「30万人の大虐殺はおろか、4万人位の中虐殺、6千人位の小虐殺もありえない。何故なら、たとえ百人単位でも虐殺があった場所の人口が一ヶ月足らずのうちに人口が5万〜10万人以上も増える筈がないからです。」誰も僕のこの問いかけに反論しないのですね?南京大虐殺肯定派も底が見えてきたのかな?

  │   │ └あなたの示した攻略時の人口の根拠は何です... タラリ 2002/10/29 01:48:42  ツリーへ

Re: 既に掲示していますが一部訂正した上で再掲... 返事を書く ノートメニュー
タラリ <vgezpxzsqe> 2002/10/29 01:48:42
あなたの示した攻略時の人口の根拠は何ですか。測定されたものですか。
誰かが当てずっぽうで言ったものは文書に残っていても根拠になりません。
ここに測定された人口の資料だけを提示します。

1936年末 1,006,968人 (警察庁及市政府調査)
1937年3月末 1,019,667人 200,810戸 (首都警察庁調べ)
1937年10月28日 53万人余      (警察庁、広田外相電)
1937年11月23日 50余万人    (南京市政府報告)
1938年2月末 200,000人 (難民区人口を南京市自治委員会と特務機関が推定)
1938年3月1日 235,056人   (南京特務委員会、難民収容所にいる女性は含まれない)
1938年3月   250,000人     (スマイス調査)  
1938年8月 308,546人 (警察庁及市政府調査)
1938年10月末 329,488人 82,195戸 (南京市自治委員会調べ)
1939年10月末 552,228人 132,403戸 (南京特別市政府調べ)
1941年3月末 619,406人 140,439戸 (南京市政府調べ)

陥落直前の人口資料は存在しません。したがって、確固とした測定値と、概略を測定した測定値しかないのです。上記資料はすべて測定値であり、南京市自治委員会と特務機関の推定は難民区に限っており、またかなりおおざっぱなもの、スマイス調査は城外の調査も入っているが、これも有る程度おおざっぱなものです。

被害者をこれらの人口資料だけから推定するのはかなり無理があります。南京市の置かれた状況を他の資料から読みとることなしには何も言えないのです。

まず、広田外相電では「いずれも各機関の公務員、財産を移転できない者、地元の商人らあくまで南京に踏みとどまる必要のある人ばかりである」としています。また、城外には老人、病人で動けないひと、女子どもなどが多く残ったという証言があります。日本軍の追撃は急であり、ときに中国兵を追い抜くことさえありました。また、中国軍の崩壊は急速であり、日本軍首脳も南京がこれほど早く陥落するとは考えていませんでした。
したがって、最後まで移動を出来ない、あるいは移動を見合わせた住民の中には脱出できなかったものが多数いると予想されます。

それから、城外には多くの市民がいました。これは被害証言、加害証言、外国人報告が一致して日本兵の略奪、暴行、放火、殺人を記録しています。日本兵は1月中旬まで食糧をすべて城外の農家に求めてそこで食糧の徴発を繰り返しています。

あなたの数字で人口が5−10万人増えたのはなぜですか。虐殺がないと知って市民がもどって来たのですか。違うでしょ。外国人観察者は12月17日以降安全区で人が多くなって、道を歩こうとすると人にぶっつかってしまい、歩きにくいほどだ、と述べています。さらに1月に入ると、狭い難民区に思ったより人が充満しているのに気づき、安全区は蜂の巣のようだと述べています。これは市民からの便衣兵摘発に名を借りた虐殺行為が次第に少なくなって隠れていた人々が出てきたのです。また、城外にあっては城内よりも殺戮が長期化し市民、農民はより安全を求めて城内に入ったのです。また農民の多くは山に逃げ込んだのです。
「豚やニワトリ、その他の家畜は完全に絶滅させられた。こうした状況は劉郷鎮、湯山鎮から竜潭鎮に至るおよそ10−15キロの間、江寧と句容の県境で、すべての難民が見たり聞いたりしたことである。すべての家族が散り散りになった。彼らにはもはや家はなく、自分の家族を見つけることもできず、どこへ行くべきかもわからなかった。
 強制労働のために日本軍に連行され、そこから逃げ出してきたある難民は、『南京近郊周囲20−25キロには人は誰もすんでいない』とかたった。いたるところで地面に横たわる死体と路上に広がる血痕が見られた。」(農民の王耀山他4人がドイツ人、デンマーク人に語った内容、1938年1月26日付陳情書)

決して人口が増えたわけではないのです。南京市全体としては人口は減り続けてきたのです。もし、あなたが言うように虐殺もなかったし、南京が安全だったとしたならば、そしてわずか1ヶ月で5−10万人も帰ってきたとするならば8月までには35万人から70万人の増加が見込まれるはずではないですか。ところが、8月で30万人、10月で33万人ではないですか。1937年の10月、11月の時点でどうしても残るしかない人たちだけが50万人余残ったはずなのに、その50万人に戻るのになんと2年もかかっているのです。

何があったのか。虐殺はあった。数10万の人々が虐殺されました。空前の殺戮、暴行によって人々の心に拭いきれない恐怖を残しました。空前の略奪、放火によって例え日本兵による暴行、殺戮が完全になくなったとしても、家がなくなり、家畜がなくなり、種もみがなくなり、農地が荒れ地に変わりました。

  │   │  ├当てずっぽうではありませんよ。南京安全区... ookumayuusuke 2002/10/31 02:59:32  ツリーへ

Re: あなたの示した攻略時の人口の根拠は何です... 返事を書く ノートメニュー
ookumayuusuke <snqgzmpety> 2002/10/31 02:59:32
当てずっぽうではありませんよ。南京安全区国際委員会にとって最大の仕事は市民の食料を確保することで、何人分の食料が必要か正確に把握することが必要不可欠でした。当時の南京の人口は、12万から最高20万の間とみて間違ありません。ちゃんと国際委員会公式文書で確認できると書いた筈ですが。
{被害証言、加害証言、外国人報告が一致して日本兵の略奪、暴行、放火、殺人を記録しています。}これ、日本兵ではなく中国軍敗残兵の書き間違いですか?
{あなたの数字で人口が5−10万人増えたのはなぜですか。虐殺がないと知って市民がもどって来たのですか。}そのとうりですよ。南京の治安が急速に回復し、近隣に避難していた市民が帰還しはじめた証拠です。
{便衣兵摘発に名を借りた虐殺行為}と貴方は言いますがこれは戦死者、準戦死者として区分すべきでしょう。
貴方が南京安全区国際委員会の1次資料(国際委員会公式文書)を無視して勝手に{決して人口が増えたわけではないのです。南京市全体としては人口は減り続けてきたのです。}と空想するのは貴方の自由なんですけどね。

  │   │  │├ちゃんと国際委員会公式文書で確認できると... とほほ 2002/10/31 04:46:32  ツリーへ

Re: 当てずっぽうではありませんよ。南京安全区... 返事を書く ノートメニュー
とほほ <yclfglvbxs> 2002/10/31 04:46:32
> ちゃんと国際委員会公式文書で確認できると書いた筈ですが。

その公式文書というのは、何の文書のことですか?
ちゃんと、はっきりと提示してください。
貴方が言っている「国際委員会」とはどういう組織の事ですか?

他所に投稿した文書で恐縮ですが以下に転載します。

---
「私は戦史を精読している」または「好きだ」

>  光文社NF文庫
>  「ガダルカナル戦記」
>  亀井 宏著

「戦史」と「戦記」は別けて考えた方がいいです。
特に光文社等のものは小説的な意味合いもあります。

>  戦史を読むことは人間を知ることに直結している。

光文社の戦記を戦史だと思いこんでいるのであればそれは大変な間違いです。
戦記(純粋に戦記であるなら)が一次資料である事は確かですが一次資料が戦史を正確に反映しているわけではありません。この辺は自由主義史観派が巧妙なレトリックを行っているので注意して戦記は読むべきです。

つまり、戦記とは証言と同じです。
あらゆる証言(一次資料)を検討し総合的に論理的解釈を行い事実認定して行くのが「戦史」です。


  │   │  │└国際安全区委員会が12月13日前後に人口... タラリ 2002/11/01 08:55:53  ツリーへ

Re: 当てずっぽうではありませんよ。南京安全区... 返事を書く ノートメニュー
タラリ <vgezpxzsqe> 2002/11/01 08:55:53
国際安全区委員会が12月13日前後に人口調査が出来ましたか?
したという証拠がありますか?
国際安全委員会公式文書などという言葉はありません。
あなたがいう「公式」の意味は何ですか?

中国軍敗残兵が何件の略奪、暴行、放火、殺人をしましたか?
証拠を出してものを言って下さい。

外国人観察者と中国人被害証言は城内において治安がやや回復した
後も城外では日本兵による、よりひどい略奪、殺戮、強姦が頻発
したことを示しています。南京市の人口は増えたのではなく、南京
特別市内における人口移動があっただけです。

12月13日以降において中国兵が戦闘行為をしたことを証明して
下さい。便衣兵であることの証明がなく、殺害したのは国際法以前
の犯罪です。

  │   │  ├中国民衆は独自の情報網を持っており、南京... ookumayuusuke 2002/10/31 04:20:21  ツリーへ

Re: あなたの示した攻略時の人口の根拠は何です... 返事を書く ノートメニュー
ookumayuusuke <snqgzmpety> 2002/10/31 04:20:21
中国民衆は独自の情報網を持っており、南京市内の治安回復がわかるのです。

  │   │  │└妄想ではなく、事実を書きこんでください。 とほほ 2002/10/31 04:48:08  ツリーへ

Re: 中国民衆は独自の情報網を持っており、南京... 返事を書く ノートメニュー
とほほ <yclfglvbxs> 2002/10/31 04:48:08
妄想ではなく、事実を書きこんでください。

貴方がここで言う中国民衆とは、どのような集団であると定義しているのですか?

  │   │  └昭和12年12月13日、国際委員会第16... ookumayuusuke 2002/12/15 11:37:26  ツリーへ

Re: あなたの示した攻略時の人口の根拠は何です... 返事を書く ノートメニュー
ookumayuusuke <snqgzmpety> 2002/12/15 11:37:26
 昭和12年12月13日、国際委員会第16号文書、日本軍入城の際、安全区内に一般市民のほとんどが集まっており、其数、20万人。
 昭和13年1月7日、国際委員会第17号文書、「刻一刻と難民が急増している。」
 昭和13年1月19日、国際委員会第24号文書、「難民が5万人も膨れ上がって、最終的な人口は20万から25万人となった。」

  │   │   └人口調査をしたか、と聞いております。 タラリ 2002/12/15 22:08:25  ツリーへ

Re: 昭和12年12月13日、国際委員会第16... 返事を書く ノートメニュー
タラリ <vgezpxzsqe> 2002/12/15 22:08:25
人口調査をしたか、と聞いております。

再掲 1.
あなたの示した攻略時の人口の根拠は何ですか。測定されたものですか。
誰かが当てずっぽうで言ったものは文書に残っていても根拠になりません。

再掲 2.
国際安全区委員会が12月13日前後に人口調査が出来ましたか?
したという証拠がありますか?

>南京安全区国際委員会にとって最大の仕事は市民の食料を確保することで、何人分
の食料が必要か正確に把握することが必要不可欠でした。

「必要不可欠だから正確な人口の把握が出来た」ということになりますか。
「ookumayuusukeさんは車を買うことが必要不可欠だったからお金を持っていた」
これ正しいですか?

ところで16号文書の日付が12月13日だって? 1月7日までは文書を出してい
ないんですか? どこのコピペか知りませんが、よく調べようね。

  │   └1南京特別行政区からの移入2負傷兵も非戦... 第四期石器人 2002/10/26 18:23:11  ツリーへ

Re: この文献のどこか僕の言っていることが嘘で... 返事を書く ノートメニュー
第四期石器人 <irssnyejbj> 2002/10/26 18:23:11
1南京特別行政区からの移入2負傷兵も非戦闘員

つまり、貴方の主張の直前の人口でない。(11月下旬のことで、それ以降、南京特別行政区からの避難民がある)
そして、負傷兵も非戦闘員であるので、南京の非戦闘員の増加を意味する。
故に、貴方の南京の人口としての引用が嘘になる。

  安全区は難民たちの‘天国’だった! 第四期石器人 2002/10/22 21:20:06  ツリーへ

Re: 南京の人口と占領下の南京について 返事を書く ノートメニュー
第四期石器人 <irssnyejbj> 2002/10/22 21:20:06
安全区は難民たちの‘天国’だった!
当然でしょう。真冬の雪の降る中、寝る場所もない。食料も欠乏する安全区は安全区の外と比較して「天国」でしょう
安全区に避難した難民は、『食料も住居も暖房もある安全区の外へ一月も戻ろうとしないほど天国でしょうとも。』(自分でどれほど馬鹿なこと言っているか解ったかい)

婦人子供の虐殺も大量に発生しているとも。大量の捕虜虐殺の影で目立っていないだけ。

  │└数的資料があるのに<大量の捕虜虐殺の影で... ookumayuusuke 2002/10/24 10:44:53  ツリーへ

Re: 安全区は難民たちの‘天国’だった! 返事を書く ノートメニュー
ookumayuusuke <snqgzmpety> 2002/10/24 10:44:53
数的資料があるのに<大量の捕虜虐殺の影で目立っていないだけ>と強弁しますか?

  │ └死体回収場所と被害者構成を良く見なさい。 第四期石器人 2002/10/24 21:45:58  ツリーへ

Re: 数的資料があるのに<大量の捕虜虐殺の影で... 返事を書く ノートメニュー
第四期石器人 <irssnyejbj> 2002/10/24 21:45:58
死体回収場所と被害者構成を良く見なさい。
場所     男性 女性子供
城外 中華門外望江磯 100 9  
城外 中華門外高輦樹柏村 250 11  
城外 中華門外普徳寺 280    
城外 中華門外普徳寺 6,468    
城外 上新河黒橋 996 2  
城外 中華門外望江磯 407 21 3
城外 水西門外二道杵子 843    
城外 上新河太陽宮 457    
城外 水西門外南傘巷 124 1  
城外 上新河二硬 850    
城外 上新河江東橋 1,850    
城外 上新河棉花堤 1,860    
城外 漢西門外広東公墓 271 1  
城外 水西門外大王剛 34    
城外 下関渡固里 1,191    
城外 中央体育場公墓地 82    
城外 上新河中央監獄 328    
城外 上新河観音庵空地 81    
城外 上新河鳳凰街空地 244    
城外 漢中門外二道杵子 1,123    
城外 上新河北河口空地 380    
城外 下関九家汗 480    
城外 下関魚雷軍営傍ら 524    
城外 下関草鞋峡空地 197    
城外 下関草鞋峡空地 226    
城外 下関魚雷軍営埠頭 5,000    
城外 下関石榴園 147    
城外 幕府山ふもと 115    
城外 上新河五福村 217    
城外 下関草鞋峡空地 151    
城外 下関魚雷軍営埠頭 300    
城外 中華門外普徳寺共同墓地 106    
城外 下関姜家園 85    
城外 下関石瑠園 1,902    
城外 下関東砲台 194    
城外 下関上元門外 591    
城外 中華門外望江磯共同墓地 87    
城外 下関石溜園 1,346    
城外 三叉河西南空地 998    
城外 和平門外永清寺傍ら 1,409    
城外 下関石溜園 786    
城外 下関石炭港長江沿岸 1,772    
城外 下関海軍病院後の堤 87    
城外 三叉河後ろ 29    
城外 上新河甘露寺空地 83    
城外 中華門外華厳寺山頂 100    
城外 中華門外普徳寺西安里 799    
城外 太平門外の城壁の根元 500    
城外 中華門外安徳里山頂 133    
城外 二新河甘露寺空地 354    
城外 中華門外普徳寺共同墓地 1,177    
城外 上新河賈家桑園空地 700    
城外 三叉河空地 282    
城外 下関石炭港空地 385    
城外 下関兵站処長江沿岸 102    
城外 中華門外普徳寺 486    
城外 下関石瑠園 518    
城外 老江辺近く 94    
城外 下関長江灘近く 65    
城外 二新河黒橋 57    
城外 中華門外普徳寺山上 216    
城外 下関石炭港 74    
城外 中華門外普徳寺山上 26    
城外 中華門外普徳寺山上 29 5 1
城外 中華門外普徳寺 14 4  
城外 中華門外普徳寺 31 8 9
城外  中華門外普徳寺 42 13 7

明らかに次のことがはっきりと出ている。
女子供の被害者が出る場所(民間人がいる場所)と、男性以外いる可能性のない場所(軍関係など)がはっきりと出ている。
例えば中華門外普徳寺では大きな比率で女子供の被害が出ている。
つまり、捕虜虐殺により、男性被害者が目立っているだけで、その陰に隠れて大量の女性や子供の被害者が出ているのである。

  │  └確かに婦女子の犠牲者は存在するが加害者が... ookumayuusuke 2002/12/10 10:28:54  ツリーへ

Re: 死体回収場所と被害者構成を良く見なさい。 返事を書く ノートメニュー
ookumayuusuke <snqgzmpety> 2002/12/10 10:28:54
確かに婦女子の犠牲者は存在するが加害者が日本軍のみだという証明にはなりませんよ。

  │   └12月12日、13日に南京が陥落し、日本... タラリ 2002/12/12 23:16:41  ツリーへ

Re: 確かに婦女子の犠牲者は存在するが加害者が... 返事を書く ノートメニュー
タラリ <vgezpxzsqe> 2002/12/12 23:16:41
12月12日、13日に南京が陥落し、日本軍が入城するときの混乱においては
多少の中国人市民が中国兵の犠牲になった可能性はあります。しかし、いつ、ど
の部隊が何人の市民を犠牲にしたという具体的な証言は記録されていません。

逆に12月13日以降、資料に存在するのは日本軍兵士の暴行、殺戮ばかりです。
これは加害者証言、被害者証言それに第三者である外国人観察者の証言がそろって
日本軍兵士の暴行、殺戮のみを記録しています。

ookumayuusukeさん、一つでもいいから、中国兵による中国人婦女子の殺害の具体的
事例を是非見つけて下さい。

  中国軍が発電設備を破壊したとのデマについ... タラリ 2002/10/24 19:49:51  ツリーへ

Re: 南京の人口と占領下の南京について 返事を書く ノートメニュー
タラリ <vgezpxzsqe> 2002/10/24 19:49:51
中国軍が発電設備を破壊したとのデマについてだけ述べます。
12月12日深夜あるいは13日、日本軍が市内に入ろうとしたとき、
照明がついていて城壁の上の日本軍が中国兵に狙い撃ちされるから
という理由で市内の電灯を片端から銃撃したとの確かな証言が
あります。すなわち、この時点までは確実に発電、送電は行われて
いたのです。
しかも崩壊に瀕した中国軍はすでに組織的な行動をとれず、烏合
の衆と化し、はなはだしきは数千人の部隊が数十人の日本兵に降伏
しています。このような状態で発電設備の破壊など行うことは出来
ません。

それではいつ発電、送電がストップしたのか。12月18,19日
頃、日本兵が下関の発電所の職員を職員であることを知りながら
殺害したのです。この発電設備はアメリカ製であつて日本人に扱い
馴れていないものなので復旧に2週間前後を要したのです。

いかに日本軍が無茶な殺害を繰り返したが明らかでしょう。水道に
ついては確かな情報を知りませんが、当時の日本の新聞に報道の
自由がなかったことを留意して新聞史料を参照すべきでしょう。

  南京における強姦、加害証言と被害証言 タラリ 2002/10/24 21:18:47  ツリーへ

Re: 南京の人口と占領下の南京について 返事を書く ノートメニュー
タラリ <vgezpxzsqe> 2002/10/24 21:18:47
南京における強姦、加害証言と被害証言
加害証言
第16師団歩兵第33連隊第二大隊 M.I.証言
南京陥落後、金陵女子大学(タラリ注 安全区内)の警備に入った。警備に入った。そこに日本の翔平がよく来て「ちょっと入るで」と言って、女子大の校内に入っては女の子を連れて出ていった。将校たちはむちゃくちゃで女の子を連れて行って強姦した。わしらは警備といっても将校たちが女の子を連れていっても上官なので、みてるだけや。よく出入りする部隊は33連隊だけでなく、それ以外の9師団と16師団の30旅団もいた。あの人らはトラックで来た。昼間はあまり来ない。一日だいたい、2,3台ぐらい来るな。将校を含め兵隊四,五人で来て三人は銃を持っている。一台に20人ぐらいの女の子を乗せて連れていくこともあり、嫌がって泣く子もいた。トラックの荷台に引き上げられ、上からシートをかけるとおとなしくなった。送り返されてくる娘は少なかったな。

第16師団歩兵第33連隊第2大隊 I.M.
南京の手前の句容にいる時、天野中隊長はわしら兵隊に「強盗、強姦、放火、殺人、何でもやれ」と言ったんやで。句容での夜、分隊のみんなはクーニャン捜しにでかけた。わしは「そんなアホらしいことはでけへん」と思って出かけなかった。すると、叉銃してあった銃が何かの拍子で倒れ、その音を聞きつけた天野が「貴様あ」と叫んで近づいてきた。わしがクーニャン捜しに行かんから天野が向かっ腹たててる。そんなん言うんやったら突き殺したるぞ、と思っていたら、向こうから兵隊が「おったおった。クーニャンおった!」。叫び声聞いた途端、天野は上機嫌になり、怒るのを止め、「なに、おった、うん」とたちまち機嫌をなおした。嫌がる女の子を連れてくるとな、「取り調べるナニがある」と兵隊の前でうまい作りごと言って、自分は女を抱いて寝ているわけだ。天野は毎日違う女を捕まえさせた。
−−−
一個分隊は、南京に入ってからもクーニャン捜しをさせられたらしいで。16師団が南京を離れるとき、分隊全員が足止めをくって調べられたそうや。
−−−
クーニャン捜しは分隊や数人で行くことが多いな。見つけると分隊の何人もで押さえつけたんや。それで、女の子を強姦する順番をくじで決めた。一番のくじを引いたものが、墨を塗っている女の子の顔をきれいに拭いてからやった。交代で五人も六人もやったら、そらもう泡吹いてるで。兵隊もかつえている。女の子は殺される恐ろしさでぶるぶる震えている。
−−−
十九や二十の娘を引っぱり出すと、親がついてきて頭を地面にぶつけてな、助けてくれという仕種をするんや。助けてくれと言われてもだれも親のいうこと聞かん。わしもしたけど、こんなんしても何もええことなかった。日本中の兵隊がこんなこといっぱいしてきた。言うか言わんだけのことや、男やもの、分隊のうち十人みなやっとる。

注 強姦は摘発されたり注意を受けることは滅多になかった。当初南京に入った憲兵隊は日本軍七万人に対し十七名であったし、法務部も入っていなかった。そのため補助憲兵を中隊から一,二人借りたが補助憲兵の制止は誰も聞かなかった。将校などの中には注意をするものもあったが、平手打ち、口頭での注意に留まっていた。天野郷三中尉の場合はあまりにおおっぴらでやり放題だったのでみんなに知られ憲兵もほおって置くわけに行かず、軍法会議にかけられ二等兵に降格された。
 
被害証言
楊朴氏 女 77歳の証言(1984年当時)
南京が陥落した時、家は中山南路324号でした。日本軍は至るところで焼き殺し犯し掠めていて、私は高家酒館の門のところで、日本兵が青年を一名刺し殺したのをみました。妹婿の旧の妻は日本兵に強姦されてから恥辱を受けたと鋏で自殺したのでした。
私はそのとき沈挙人港の難民区に住まっていて、日本兵が至るところでホアクーニャン(紅枯娘)を捕まえるのを見ましたが、一度に婦女が何十人も日本軍に捕まえられていき、みんな強姦されてしまったのでした。(陸文奎と周秀英が記録)

董秀英 女 65歳
1938年の1月に、私は難民区の金陵女子大学に住まっていました。ある日の夜12時過ぎに、日本兵がたくさん来て、至るところで婦女を捕まえ、トラック3台に婦女たちを捕まえて行き、三日後にやっと送り返されて来ましたが、みんな既に日本兵に強姦されていたのでした。その中に二十六歳の娘がひとりいて、難民区に送り返された三日後に死んでしまいました。(高学奎が記録)

注 加害記録と被害記録の一致。また、難民区は立ち入り禁止とされていたが、抜け駆けでいくらでも日本兵は入ってきた。また、一月以降も強姦は続いていた。

高素華、女、64歳
日本軍が南京を占領してから、私たちは家中で沙洲■(土へんに干)まで逃げて隠れました。そのとき私は十八歳、妹は十四歳で、顔いっぱいに馬の糞を塗りたくって汚くしました。■に若いお嫁さんが一人いましたが、日本軍に見つかって、真っ昼間に強姦の憂き目に遭いました。そこには隠れられず、私たち家中でまた命を全うしに出かけましたが、その難を逃れる途中で、叔父が捕まって道案内にされ、脚を鬼たちに傷つけられました。毛家渡にある一家のひとで婦女を四人地下道に隠れさせていたのを、日本軍に見つかり引っぱり出され輪姦されてから、銃殺されました。

まあ、被害証言、加害証言はいっくらでもあります。

  紅卍会の埋葬史料の中には女、子どもの数も... タラリ 2002/10/24 21:33:58  ツリーへ

Re: 南京の人口と占領下の南京について 返事を書く ノートメニュー
タラリ <vgezpxzsqe> 2002/10/24 21:33:58
紅卍会の埋葬史料の中には女、子どもの数もちゃーんと記載されています。
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Labo/8596/mondai/maisou/koumanjikai.html

崇善会の埋葬のほうが、女、子どもの割合は多いです。
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Labo/8596/mondai/maisou/suzendou.html

埋葬は紅卍会、崇善会だけではありません。回教団体がしたものがあります。城外では
被害者を親族、近所のひとたちがしています。また、日本軍が中国人を使役して埋めた
ものがあります。また、日本軍が生き埋めにしたのがあります。
最大の墓場は揚子江であり、ここには1938年3月、4月を越えても日本軍によって
殺された市民が捨てられました。市民の中には女子どもも入っていました。

南京大虐殺について発言しようと思ったら、もう少し勉強して来なさい。
ookumayuusukeさん。

  │├先ず紅卍字会の4万については当時南京特務... ookumayuusuke 2002/11/18 22:44:51  ツリーへ

Re: 紅卍会の埋葬史料の中には女、子どもの数も... 返事を書く ノートメニュー
ookumayuusuke <snqgzmpety> 2002/11/18 22:44:51
先ず紅卍字会の4万については当時南京特務機関員で埋葬事業を指導した丸山進氏は、紅卍字会の埋葬報告には虚偽や水増しがあると指摘し、11万を埋葬したとする崇善会については、丸山氏も南京特務機関長であった大西覚氏も共に崇善会の埋葬事業があったこと自体を否定しており、また南京国際安全区委員長であったJ・ラーベの日記にも紅卍字会の埋葬事業の記述がありながら、11万もの死体を埋葬した崇善会については全く記述されていない。丸山氏によれば11万人を埋葬するには少なくとも14万人以上の苦力が必要であり、それには4万元以上の賃金を払わなければならないが、埋葬費用を負担している南京自治委員会の予算月額は4万元前後であり、更に4万元もの埋葬費を捻出できる余裕はなっかたと証言している。崇善会11万埋葬は、東京裁判のために急遽捏造された‘資料’であるとしか考えられない。

  ││└崇善堂とは基本的には宗教的ボランティア団... とほほ 2002/11/19 01:02:05  (修正1回) ツリーへ

Re: 先ず紅卍字会の4万については当時南京特務... 返事を書く ノートメニュー
とほほ <yclfglvbxs> 2002/11/19 01:02:05 ** この記事は1回修正されてます
崇善堂とは基本的には宗教的ボランティア団体であり、無償による労働力にその活動の基本を置いています。また崇善堂にかかるコストを南京自治委員会が負担する義務も必然性もありません、よって南京自治委員会の予算を根拠に論じる問題ではありません。

再度お尋ねします。
貴方は「南京自治委員会」というものをどのような組織であると認識しているのですか?
「南京自治委員会」そのものが全くのボランティア団体なのですよ。
どこかの政府の任命を受けたわけでもなくどこかの政府の予算が計上されている団体でもないのですよ。

  ││ ├南京自治委員会の準備会は、南京陥落後わず... ookumayuusuke 2002/11/20 10:42:27  ツリーへ

Re: 崇善堂とは基本的には宗教的ボランティア団... 返事を書く ノートメニュー
ookumayuusuke <snqgzmpety> 2002/11/20 10:42:27
南京自治委員会の準備会は、南京陥落後わずか10日目の12月23日に開かれ、委員長に陶錫山が選出された。
 陶委員長は即日声明を発表したが、それによると
 (1)日本軍の入城により治安は回復した。
 (2)我々は速やかな南京の復興と民生の安定を願う。
 (3)そのためには抗日・容共の不良分子を一掃して、日本との連繁の下に復興を図る、と述べている。
 すなわち国際委員会の管理から離れて、南京を市民の自治制の下におくことがその狙いだという。
 自治委員会の結成式は1月3日である。陥落から丁度3週間目だ。
 安全区に避難していた三千余の市民が日の丸と五色旗をかざしてそれを祝福したのである。
 「五色旗」とは北支の糞東政権が採択した新しい支那の国旗である。
 12月24日の読売新聞は、三面中央に5段ヌキ通し見出しで「南京に自治委員会/明朗政権・近く成立式」と大書きし、委員長および副委員長2名、委員8名の氏名と、陶委員長の声明全文を報道し、南京の治安回復状態を伝えている。
 さらに、1月3日の南京市民三千余名の旗行列を取材した同盟通信によると、「祝成立南京自治委員会」の横断幕を先頭に、市民は手に手に日の丸の旗や五色旗をかざして「万歳!万歳!」と連呼して、中山路の式典会場の鼓楼を取りまき、子供たちは爆竹を鳴らして喜んだと、南京の全市民をあげての歓喜・感動のもようを伝えている。
 「南京虐殺」などなかった決定的な証拠である。
 虐殺の街にこんな現象など絶対に起きない。

  ││ │├虐殺の街にこんな現象など絶対に起きない。... とほほ 2002/11/21 02:33:05  ツリーへ

Re: 南京自治委員会の準備会は、南京陥落後わず... 返事を書く ノートメニュー
とほほ <yclfglvbxs> 2002/11/21 02:33:05
>虐殺の街にこんな現象など絶対に起きない。

ホワイ?(笑)
数百万人もの犠牲者を出した「日本」という国ではそんな現象は日常茶飯事でしたよ。

なんたって万歳万歳と言いながら皆殺されいったのですから。

南京自治委員会は誰の手によって設立されたのですか?
もう少し突っ込んで聞いてみましょう。

  ││ ││└なんだか論点をずらしてません? ookumayuusuke 2002/11/22 08:05:38  ツリーへ

Re: 虐殺の街にこんな現象など絶対に起きない。... 返事を書く ノートメニュー
ookumayuusuke <snqgzmpety> 2002/11/22 08:05:38
 なんだか論点をずらしてません?
そんなことよりも、紅卍字会の虚偽や水増し、崇善会11万埋葬の捏造、{埋葬死体の殆どは、中国軍の戦死者の遺体であるということである。紅卍字会の埋葬死体の中に女性や子供の死体が皆無にちかいことでもこれを証明している。この死体数を即被虐殺数と見るのは大きな間違いである。}{上海、無錫、常州等の戦闘でおびただしい数の傷病兵が南京に後送され、在南京の某外人の日誌によると、「移転後の政府機関はもちろん私人の邸宅まで強制的に病室にあてられ、全市医薬の香りがびまんし、軍人の町と一変した」(「東京日々新聞」11・25)と言う。その傷病兵の死亡者、あるいは空爆による死亡者も当然計算の中に加えられるべきであろう。}{南京の掠奪と放火および若干の殺害は、すでに日本軍占領以前の時期、完全アナーキーの状態の中で、実在していたのである。しかも埋葬された死体数イコール日本軍による虐殺数として計算するがごとき、悪意に満ちた、作為的レポートを、鵜呑みにする訳にはいかない。}への反論がないと言うことはあなた方の主張が崩れたと受け取ってよろしいのですね?
 {「日本」という国ではそんな現象は日常茶飯事でしたよ。}それは国民が戦争を支持していたから。(決してバカだったから、政府に騙されていた訳でなく、「大東亜共栄圏」「八紘一宇」の理想に燃えて我慢に我慢を重ねていた。と、付け加えておきます。)
 {南京自治委員会は誰の手によって設立されたのですか?}もう一度僕のカキコをよく読んでください。

  ││ ││ ├はーー? とほほ 2002/11/24 21:43:24  (修正1回) ツリーへ

Re: なんだか論点をずらしてません? 返事を書く ノートメニュー
とほほ <yclfglvbxs> 2002/11/24 21:43:24 ** この記事は1回修正されてます
はーー?
あなたの論点ですよまさに(^^;

ではではお好きなように議論してください、付き合いましょう。大半が兵士の死体なのですね?

お伺いしますが南京攻略戦勃発時の南京防衛軍の人数はあなたはどのくらいいたと思いますか?
また陥落時の兵力は?
陥落以降は戦闘はありませんでしたので、南京防衛軍の兵力の推移を見れば戦死もしくは虐殺された陥落時までの中国軍兵士はおおよそつかめますよね?

ちなみにあなたが回答していない第四石器人さんの投稿は
http://t-t-japan.com/bbs/article/t/tohoho/3/dzsqrf/mvmqrf.html#mvmqrf
これです。

  ││ ││ └ookumayuusukeさんへ、あなたの誠実さは評価... とほほ 2002/11/25 23:17:43  ツリーへ

Re: なんだか論点をずらしてません? 返事を書く ノートメニュー
とほほ <yclfglvbxs> 2002/11/25 23:17:43
ookumayuusukeさんへ、あなたの誠実さは評価してます。
管理者の裁定に対し従い論戦を行おうとする姿勢は評価に値すると思います、アホウヨの非誠実な否定論に辟易している人はこの掲示板に多いです。ですから偏見があることは否めません(失礼な言い方ですが、無知を装い、でたらめを言う奴らの事です、つまりあなたが信望する田中正明とかそのっ周辺です。)

とほほ@投稿者モード(笑)は、あなたが本当に議論する気持ちがあるのであれば、出来るだけ時間を作って議論していこうと思ってますから、遠慮せずにご発言ください。
ただし容赦はしません。

  ││ │└■南京自治委員会の発足 タラリ 2002/12/05 23:28:21  ツリーへ

Re: 南京自治委員会の準備会は、南京陥落後わず... 返事を書く ノートメニュー
タラリ <vgezpxzsqe> 2002/12/05 23:28:21
■南京自治委員会の発足
進入した日本軍は自活するだけの物資さえ持ち合わせぬ飢えた兵の集団で、
まして住民を食わせ、破壊された公共施設を復旧して生活秩序を再建する
どころではなかった。・・・市政府に代わる自治委員会が再建するのは1
3年1月1日だから、占領から少なくとも二週間にわたり、南京市は無政
府状態に置かれたと表現しても過言ではない。
同じ中国戦線でも、古都北京の場合は、7月28日夜に冀察政権の宋哲元
以下が撤退すると、北京特務機関の画策で翌29日に財界の大物江朝宗を
主席とする治安維持階の準備会を開き、30日に設立・開庁と手際のよさ
を店、行政の空白は1日もなかった。(秦郁彦 「南京事件」より)

南京特務委員会が手配した南京自治委員会の顔ぶれを見た軍当局はあまり
の貧相な顔ぶれにがっかりしたという。1月1日付けで自治委員会は発足
した。委員会会長に就任した南京紅卍字会の会長でもあった、陶錫山は病
気を理由に執務をしなかった。その後、陶錫山は日本軍に占拠された自宅
から仏像、仏画と先祖の肖像、系図がすべて盗まれたことを「南京広報」
で告発した。

残りの主要メンバーは通訳の孫叔栄、骨董商の王典承(通称ジミー)など
であった。自治委員会の任務は食糧の配布と安全区からの難民の帰還であ
ったが、食糧の日本軍からのもらい受けは常に妨害され、滞り、治安はい
っこうに回復しなかったので、日本軍が強行姿勢を示しても難民は帰ろう
としなかった。

☆ラーベの日本大使館宛書簡より
1月8日、自治委員会は私たちにたいし、米1250袋が安全区外の無料
配給用に、米1万袋が販売用に割り当てられたと伝え、それらをトラック
で運ぶのを手伝ってほしいと依頼してきました。

私たちは9日の日曜日にその準備をおこない、月曜日の朝の作業のために
5台のトラックを用意しました。その間、自治委員会用に割り当てられた
1250袋を販売する許可と、割り当て量が引き下げられ、3日ごとに1
000袋しか確保できないと告げられました。

この件の交渉のために配給が2日おくれました。昨1月13日におこなっ
た調査では、私たちが12月17日に市民用の石炭が入手できると貴方に
指摘した倉庫から石炭がすべて運び出されたか、燃やされてしまったこと
が明らかになりました。
《中略》
米に加えて、販売用の大量の小麦と、また1,2ヶ月分の石炭2000ト
ンとその他の燃料が用意されるべきです。この冬の寒空を住民がなんとか
しのぐためには、目配りの利いた実効力ある計画が必要です。

見かねた国際委員会は国際救援委員会と名前を変えて存続し、従来の仕事
を続けざるを得なかった。

■発足式報道のホラ
さて、自治委員会の発足はどのように祝福されたのか。外国人の日記、外国
公館の報告にはその報告を見ない。日本軍将校の正月の日記にも一件を除き
まったく登場しない。南京戦史資料集に掲載された松井磐根、飯沼守、上村
利道、中島今朝吾、佐々木到一、木佐木久、折小野末太郎の1月の部分で発
足式について述べるのは飯沼守のみである。

☆飯沼日記より
1月元旦
《遙拝、万歳三唱等元旦行事》
午後二.〇〇鼓楼に於て自治委員会発会式、軍司令官殿下より金一万円下賜、
祝詞朗読、祝宴簡単な支那料理もあり支那酒もあり、民衆は一千人位集める
とのことなりしが大体其位か爆竹を盛に上く、然し芝生に寝そべって居るも
数人居たのは如何なる者か。

*ookuyamayusukeさん同盟通信の三千人はホラのようですね。また、爆竹は
本来中国人が持っていたはずですが、日本兵が物資をすべて自分のものにし
て配ったようです。要するに動員とヤラセ記事です。

  ││ └田中正明著「南京事件の総括虐殺否定の論拠... ookumayuusuke 2002/11/20 10:55:36  ツリーへ

Re: 崇善堂とは基本的には宗教的ボランティア団... 返事を書く ノートメニュー
ookumayuusuke <snqgzmpety> 2002/11/20 10:55:36
田中正明 著 「南京事件の総括 虐殺否定の論拠」から引用します。

 国民党政府は、1945年11月、東京裁判に資料を提出するためと、第6師団長谷寿夫中将の処刑を急ぐため、南京市あげての大がかりな資料集めにのり出した。
 「南京地方院検察処敵人罪行調査委員会」という、いかめしい名称の委員会が設置された。
 この委員会の構成メンバーは、中央の軍事委員会、調査統計局はじめ、南京警察庁、弁護士会、医師会、商工会、三民主義青年団、紅卍字会、自治委員会など官民合わせて14の団体である。(この中に崇善堂が含まれていないことに注目。)
 しかし、どうしたものか、いくら呼びかけても市民の間から日本軍の暴虐や大虐殺に対する告発がない。
 初期の調査に対し市民は「冬のセミのごとく口をつぐみて語らず」で、何の訴えもない。
 そこで委員会は、「種々探索、訪問の方法を講じ、数次にわたりて」手を変え品を変えて告発者をつのった。
 その結果まとめたのが次のような「敵人罪行調査書」である。
 「・・・退去に当り敵軍の掃射を蒙り、哀声地に満ち屍山を築き、流血膝を没するの惨状を呈し・・・争いて揚子江を渡り逃げんとする我が軍は、ことごとく掃射を受け屍体は江面を覆い、流水もなお赤くなりたる程なり」
 このような文学的名文?で「34万人が屠殺せられたり」と主張されても、信用できるはずがない。
 しかもこの文章で見る限り、これは戦闘時の状況であって、いわゆる「虐殺」でない。
 また姦淫(レイプ)に関してはこんな文章がある。
 「・・・或いは父をして其の娘を、或いは兄をして其の妹を、しゅうとをして嫁を姦せしめ楽しみとなす者あり、或いは乳房を割き、胸をアゴを破り、歯を抜き、其の惨状見るに忍びざるものあり・・・」
 このような姦淫を楽しむのは中国人であって、中国人はケンカ口論の時も近親情交を口にして相手をののしる。
 こうしたことは日本人にとっては楽しみでも何でもないし、日本にはそんな風習もない。
 ともかく、当時の国民政府はこのような"名文章"を付して、大々的に寄せ集めた調査資料を、証拠として東京裁判に提出したのである。(このたぐいが私の言う「後期資料」で、信憑性ゼロの資料である。)
 東京裁判はこのようなでたらめな証拠や証言を何ら検証することなく、南京大虐殺のキャンペーンに利用したのである。
 日本が敗れた昭和20(1945)年の12月13日は南京事件9周年に当たる。
 しかるに、「わずか数軒だけが死者に供物を捧げ、故人を追慕し、また戦禍に生き延びた自分の僥倖(ぎょうこう)を願い、涙を流して当時の悲惨な出来事を語る人はほとんどいない状態であった」と上海「大広報」(12・15)は不思議がって、次のように報じている。
 「蒋介石集団《国民党と国民政府》は、日寇の罪状を調査した時、50万という見積もり数字を提出したではないか。
 それが『わずか数軒』の供養とはどうしたことか」、というのである。
 とんだ所で尻が割れてしまった感がある。
 この50万人の見積もりというのは、次の34万人の見積もりにあとからさらに水増した数字のことである。
 東京裁判に提出した数字は次の通り。
 
 被殺害確数 34万人 焼却又は破壊家屋 4000余戸 被姦及拒姦の後殺害されたる者20人〜30人《この数字に注目》  被逮捕生死不明者 184人  被殺害者たる我が同胞  27万9586名
 
 (1)新河鎮地区  2873名(埋葬者盛世徴・昌開運証言)
 (2)兵工廠及び南門外花神廟一帯  7000余名(埋葬者丙芳縁・張鴻儒証言)
 (3)草鞋峡  5万7418名(被害者 魯甦証言)
 (4)漢中門  2000余名(被害者伍長徳、陳永清証言)
 (5)霊谷寺  3000余名(漢奸高冠吾の無主孤魂碑及碑文により実証)
 (6)其他崇善堂及紅卍字会の手により埋葬せる屍体合計  15万5300余
                (以上「極東国際軍事裁判(東京裁判)速記録」58号、昭和21・8・29)
 
 〈注〉・(1)〜(6)のトータルは22万7591名で、27万9586名にはならない。この数字と、初めの被殺害確数34万人との関係は不明である。 いかにでたらめで、ずさんなものか。強姦及び強姦後殺害20〜30人が、東京裁判の判決では2万件と約千倍に膨張している。(6)の埋葬内訳は次の通り。

 ◇紅卍字会による埋葬死体 4万3071  ◇崇善堂による埋葬死体 11万2261  合計  15万5332
 
 ここで筆者が問題にするのは、15万5千余の埋葬死体数である。両者とも、埋葬場所、月日、男女の別、死体発見場所等詳細な一覧表が付されている。ただしこれは戦後の作文である。
 しかし、この統計表がどれほど決定的な証拠能力を持っていたかは、東京裁判の判決文を見れば一目瞭然である。
 判決文中もっとも重要な殺害人数認定箇所にはこう書いてある。
 「後日の見積もりによれば、日本軍が占領してから最初の6週間に南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は20万人以上であったことが示されている。これらの見積もりが誇張でないことは、埋葬隊とその他の団体が埋葬した死骸が15万5千に及んだ事実によって証明されている」(『東京裁判』〈下〉103ページ)。
 これを見ても解るように、埋葬統計表が大虐殺の決定的な決め手となっている。もちろん弁護側もこの証拠に反論している。要約すると次の通りである。

 (1)、この統計表は10年もたってから作られたものである。死体を10年後に明確にしようとしてもそれは不可能であり、結局この数字は全く想像によるものと断ぜざるを得ない。

 (2)、死体発見場所からみても、これらの死体は戦死者の死体である。日本軍による虐殺死体とするは誤りである。

 (3)、この数字は多分に作為されたものである。例えば崇善堂の作業を見ると、最初の4月までの間は1日平均130体であったものが、急に1日平均2600体となり、これを連続10日間にわたり作業したことになり、その誇張・ずさんは信用しがたい。

 (4)、雨花台、水西門、中山門等は当時日本軍により清掃されたる地域にして、戦後5ヶ月を経過したるのち、このような多くの死体が存在するはずがない。

 (5)、紅卍字会の数字の中には、女・子供は皆無に近いが、崇善堂の数字の中には、すべて男子、女子、子供を適当な減少率で死体数を記入してある。明らかに作為的な数字である。
 
 この弁護側の反論は、埋葬表を見た人なら誰しもが持つ疑問であろう。東京裁判はこの弁論をしりぞけ、埋葬者をすべて不法な被殺害者として判決した。
 わけても崇善堂という団体に私はかねてから疑問をもっていた。南京事件の関係者はもちろん、南京を知っている多くの人に崇善堂とは何かを聞き、調べてもらった。
 第16師団参謀長中沢三夫大佐は次のように述懐している。
 「死体処理は日本軍が主体となって、各種民間団体、多数の苦力(クーリー)を使って行った。しかるに、紅卍字会や崇善堂が日本軍とは無関係に、独自に処理したかのように発表しているが、事実に反する、本表は、日本軍による処理作業に参加した苦力の話を基礎にして、後年になって作り上げたものである」
 「証言・南京大虐殺」によれば、崇善堂の各隊は主任1、隊員1、人夫10の計12名で構成されているという(「証言・南京大虐殺」南京市文史資料研究会編 邦訳(青木書店)167ページ)。
 ところが前述のように、1日平均2600体も埋葬している。
 ブルドーザーもパワーシャベルもなく、トラックも軍用以外ほとんどない時代に、どうしてこのような大量の埋葬が可能か。
 だいいちこのような埋葬隊の活動を見た日本人は一人もいない。
 どう考えてもマユツバものであると私は考えていた。
 はたせるかな、最近、阿羅健一氏によって崇善堂に関する重大な発見がなされた。
 以下は阿羅氏が国会図書館で発掘した資料である。
 
 その1は、南京市政府秘書処発行の「民国24年度(昭和10年)南京市政府行政統計報告」である。
 その中に、崇善堂のことが世界紅卍字会南京分会、その他の慈善団体とともに出ているのである。
 それによると崇善堂は、創立は清の嘉慶2年で古いが、その事業内容は施材(主として衣料給与)、恤救(寡婦の救済)、保嬰(保育)等の事業が主で、掩埋(葬儀・埋葬)はやっていないことが解った。
 
 その2は、「中華民国27年度南京市概況」(督弁南京市政公署秘書処編・中華民国28年3月出版)である。
 国民政府は、日本占領後、民間の各種慈善団体が資金難におちいり、一時停頓した事業を再開するよう補助金を与えている(昭和13年9月)。
 本著はその補助金を受けた26団体の一覧表である。
 その中に崇善堂もある。しかしこの団体の事業内容は死体処理に関係無いことが、ここでもはっきり解った。
 しかも崇善堂の項目には、「工作進行範囲狭小」(活動は続いているが、規模は小さい)と特に注記してある。また公文書には次のように記載している(日本文に翻訳)。
   
 棺桶および死体の処理
 城の内外に散在した死体は紅卍字会および自治委員会救済課で埋葬隊を組織して処分し、又事変前から未だ埋めていなかった棺桶は管理者に埋葬せしめ、管理なきものは南門外に運搬して埋葬した。
 崇善堂の名は出て来ない。
 埋葬したのは紅卍字会と自治委員会のみである。
 
 その3は、南京日本商工会議所編の「南京」の中にある。
 「南京市政公署振務委員会の収支表(民国27年〈昭和13年〉5月より12月編)」である。
 これは南京市の決算報告書の一部で、行政院が15万元を財源に慈善団体へ補助金を支出しており、その一覧表である。
 紅卍字会と普善会が一番多く、各月千元、崇善堂等7団体は各月2百元宛が支給されている。
 また「南京」には「民間各種慈善団体は事変の為資金難に陥り、一時停頓したが、振務委員会の補助を受け、漸次復旧し・・・」というくだりがあり、崇善堂が本格的な活動を再開したのは事件後8ヶ月後もたった「昭和13年9月から」と記録されている。
 従って事件後4ヶ月間に11万余の死体を埋葬したという中国の主張とは大きく違っている。
 以上中国側の史料に照らしても、南京攻略戦直後から翌年5月にかけて、崇善堂の11万2000という膨大な死体埋葬はまったく架空であることがわかる。(詳細は「サンケイ新聞」昭和60年8月10日付および同年10月号の「正論」阿羅健一著『架空だった“南京大虐殺”の証拠』をごらんいただきたい。)

  │└紅卍字会の水増しについて、一覧表を見ると... ookumayuusuke 2002/11/20 11:01:34  ツリーへ

Re: 紅卍会の埋葬史料の中には女、子どもの数も... 返事を書く ノートメニュー
ookumayuusuke <snqgzmpety> 2002/11/20 11:01:34
紅卍字会の水増しについて、一覧表を見ると、1ヶ所だけ埋葬場所も納棺場所も記入しておらず、「12月28日 6466」とだけ記入した欄がある。
 この数字は前後に比べ飛び抜けて多く、しかも28日はフイッチの日記および45連隊浜崎富蔵氏(鹿児島市在住)の日誌によると大雪の日である。しかも6千体もの大量の埋葬は、後にも先にもこの日しかない。
 「大阪朝日新聞」が13年4月16日付けで「最近までに城内で1793体、城外で3万311体を片づけた」と報道している。これを合わせると3万2104体である。
 紅卍字会の埋葬数4万3071体から前記の6000体を差し引くと3万6605体となる。
 まだ4000ほど違うが、この6000体は紅卍字会の水増しではなかろうかという板倉氏の疑問に対して洞氏は次のように反論する。
 昨冬大虐殺派のグループが南京を視察したが、それによると「南京市當案館収蔵の原本では、埋葬場所の欄に白紙が貼られており」その下に「下関江辺推下江内」と印刷されていたという。つまり正規の埋葬でなく揚子江に水葬したのを隠すためであり、数の多いのは、それ以前と合わせて6日分だからだ(ただしこれは洞氏の推測)と洞氏は言い逃れる(『南京大虐殺の証明』201ページ)。
 ところが中国の公式資料集と称される『証言・南京大虐殺』の171ページの表を見ると、12月28日、(城内各地で納棺)中華門外普徳寺6468とある。この矛盾を板倉氏は次のように衝いている。
 「下関は南京の北、中華門外といえば正反対の南である。更に面妖なことに東京裁判資料(法廷不提出)の中では、埋葬の証拠写真の15として、この普徳寺の6468体が崇善堂の埋葬となっているのである(日中戦争史料第8巻及び南京大虐殺事件資料集T・389ページ)。
 「洞氏が水葬を正しいものとして筆者(板倉)を攻撃するのならまず以上2つの公式資料なるものがデタラメであることを立証せねばならないが、それは結局埋葬記録そのものの信憑性を疑わせるものとなるであろう。」と板倉氏は言う。
 崇善堂は全くの架空であり、紅卍字会の水増しも、これでほぼ理解出来よう。
 なお、当然のことながら次のことを付言しておきたい。

 (1)、埋葬死体の殆どは、中国軍の戦死者の遺体であるということである。前述したように紅卍字会の埋葬死体の中に女性や子供の死体が皆無にちかいことでもこれを証明している。この死体数を即被虐殺数と見るのは大きな間違いである。

 (2)、上海、無錫、常州等の戦闘でおびただしい数の傷病兵が南京に後送され、在南京の某外人の日誌によると、「移転後の政府機関はもちろん私人の邸宅まで強制的に病室にあてられ、全市医薬の香りがびまんし、軍人の町と一変した」(「東京日々新聞」11・25)と言う。その傷病兵の死亡者、あるいは空爆による死亡者も当然計算の中に加えられるべきであろう。

※この文章は、謙光社刊「南京事件の総括」田中正明著を引用させて頂いてます。

  │ └後送された傷病兵と埋葬者…南京と上海戦闘... ookumayuusuke 2002/11/20 11:06:33  ツリーへ

Re: 紅卍字会の水増しについて、一覧表を見ると... 返事を書く ノートメニュー
ookumayuusuke <snqgzmpety> 2002/11/20 11:06:33
後送された傷病兵と埋葬者 … 南京と上海戦闘地域の関係
 上海戦での戦闘は、日中双方とも死闘に次ぐ死闘で、多くの戦死傷者を出したが、中国の場合その負傷者は、主として南京および蕪湖方面に後送された。
 その南京に後送された傷病者の数はいったいどの位になるかについて、畝本正巳氏は「証言による「南京戦史」」の中で次のようにくわしく述べている。
 〈11月25日の中支那方面軍特務部長の中央に対する報告によると、
 「上海の支那軍83個師団のうち、その半数は損耗しており、その実戦力は約40万内外」といわれる。
 上海の激戦地に逐次増援して83個師団の大兵力となった中国軍は、約4ヶ月間に累計10万人の死傷者を出したことになる。
 これらの死者は現地において処置され、負傷者は逐次後送されたのであろうが、後送された負傷兵の数はどのくらいになるであろうか。
 「当時における日本軍の戦死者と負傷者の比率からみて、少なくとも15万以上の負傷者が南京に後送された計算になり、3ヶ月に及んでいるので、1ヶ月5万人、1日平均1700人が連日南京に後送されたことになる〉 
 これらの負傷者は、一時南京にとどまり、逐次重傷者は船で漢口へ、あるいは陸路江北に移送されたものと思われる。
 しかし南京の病院で陣没して城内の墓地に埋葬されたものも相当数あるはずと推測している。
 なお、第16師団参謀長中沢三夫大佐は次のように述べている。
  「南京は11月下旬より、遠く南方戦線の戦死傷者の収容所となり、移転せる政府機関、個人の私邸まで強制的に病室に充てられ、全市医薬の香が、びまんしたる状態なり。これに生ぜし死者もまたすくなからず」
 全市に医薬の香りがびまんしたという表現は、前述の「東京日々新聞(現毎日新聞)」がスクープした某外人の日記の中にも「25日(11月)戦死傷者の南京後送で、移転後の政府機関はもちろん、私人の邸宅まで強制的に病室にあてられ、全市医薬の香りがびまんし、軍人の町と一変した・・・・」、とおり、すでに11月25日ころから南京全市が兵站病院の観を呈した様子がうかがえるのである。
 中沢参謀はさらにこう言っている。
  「入城時、外交部の建物は、大兵站(へいたん)病院開設せられあり、難民とともに外人の指導下にありて、数千を算する多数の患者を擁(よう)し、重傷者多し。日々、3、40名落命しつつありたり。
これらの処理を、運搬具乏しき当時如何にせしや疑問にして、付近に埋葬せられたること確実なり」(東京裁判に提出された紅卍字会の埋葬死体の中には、当然これらの死体が相当数あったはず)。
 もし1日平均3、40名死亡したとすれば、その他、鉄道部、軍政部門の傷兵医院、中央医院などの兵站病院を合計すれば、平均1日100名内外の死亡者を生じたものと考えられる。
 上海の激戦は8月下旬以来約3ヶ月間続いたから、上記の計算を準用すると、約9000人が南京において陣没したものと推測される。
 なお南京戦における中国軍の戦死者の数をダーディン記者は3万3000と推測している―――これらも紅卍字会によって埋葬されたわけだが、これらの城内墓地の埋葬死体数を、すべて日本軍による《虐殺死体数》であると東京裁判では判決しており、中国側も、日本の虐殺派の人々もそのように主張している。しかしこれはとんでもない錯誤であり、虐殺数を増すための作為的な虚構であるといわなければならない。
 以上が陥落直前までの南京の実情である。いわば断末魔の南京の姿であって、南京事件はこのような状況の中に日本軍が突入したことをまず念頭におく必要があろう。
 くりかえすがようであるが、南京の掠奪と放火および若干の殺害は、すでに日本軍占領以前の時期、完全アナーキーの状態の中で、実在していたのである。しかも埋葬された死体数イコール日本軍による虐殺数として計算するがごとき、悪意に満ちた、作為的レポートを、鵜呑みにする訳にはいかない。

  │  ├紅卍会埋葬に負傷兵死者の水増しがあるか タラリ 2002/12/12 00:11:08  ツリーへ

Re: 後送された傷病兵と埋葬者…南京と上海戦闘... 返事を書く ノートメニュー
タラリ <vgezpxzsqe> 2002/12/12 00:11:08
紅卍会埋葬に負傷兵死者の水増しがあるか

>中国軍は、約4ヶ月間に累計10万人の死傷者を出したことになる。
>当時における日本軍の戦死者と負傷者の比率からみて、少なくとも15万以上の負傷者
が南京に後送された計算になり、..
 
10万人の死傷者(死亡者+負傷者)で、負傷者数が15万人とはいったい、どういう計算
でしょうか。

>外交部の建物は、大兵站(へいたん)病院開設せられあり、難民とともに外人の指導
下にありて、数千を算する多数の患者を擁(よう)し、重傷者多し。日々、3、40名落
命しつつありたり。

>もし1日平均3、40名死亡したとすれば、その他、鉄道部、軍政部門の傷兵医院、中央
医院などの兵站病院を合計すれば、平均1日100名内外の死亡者を生じたものと考えられ
る。

収容した負傷者数は開戦当初から、11月末と同数ではありえません。仮に直線的に収容
人員が増えたとしても、平均の収容人員は11月の約半数になります。ということは11
月末に1日当たり30-40人死亡ということは全期間の平均では1日当たり15-20人死亡と
いうことになります。

外交部に収容された負傷兵から出る死亡者数が1日当たり15-20人とすれば90日で135-1
80人、その2−3倍として約500人となります。

鉄道部、軍政部門の傷兵医院、中央医院などの兵站病院からの死亡者数は収容可能人員
を具体的に示さないと議論になりません。

>紅卍字会の埋葬死体の中には、当然これらの死体が相当数あったはず。

南京戦の死者の紅卍会による埋葬記録は12月22日が最初です。負傷者の後送は遅くと
も城外攻防戦がはじまる12月の早い時期までのはずです。12月22日以前の死亡者は病
院によって別に埋葬されたとしか思えません。もし、仮に負傷兵の埋葬が一部繰り込
まれることがあったとしてもごくわずかであり、全体の数字に影響するほどとは考え
られません。

  │  └難民区における負傷兵の医療 タラリ 2002/12/14 17:35:02  (修正1回) ツリーへ

Re: 後送された傷病兵と埋葬者…南京と上海戦闘... 返事を書く ノートメニュー
タラリ <vgezpxzsqe> 2002/12/14 17:35:02 ** この記事は1回修正されてます
難民区における負傷兵の医療
12月10日にラーベは「医者の数は多ければ多いほどいいのだから、もしもそれが本当で、ここに来てもらえるのならこんなにありがたいことはない。ここ二日間で、千人もけが人が出ているのだから。」という驚きをもって記している。

■ookumayuusukeさん紹介の傷病兵が1日1700人後送されるという見積もりは明らかに誇大である。

クレーガー
(十二月十三日の記事)だが午後になって日本軍の態度は一転した。私は医者を四名病院に連れてきたが、立ち入りを拒否された。《中略》米だけは病院に運び込むことが出来たが、馬、医者、医薬品は許されなかった。病院接収時に気づいたことだが、[病傷人の]死亡率は非常に高く、助かる見込みがあるのは軽傷者だけである。もっとも日本兵に射殺されなければの話であるが。

 一方スミス(ロイター通信記者)の講演には12月14日の記事で「国際赤十字の旗がはためく外交部には約六百人の中国人負傷者が収容されていた。伝導団の二人の米国人医師はなかに入ることを拒否され、負傷者に食料品を送ることも許されなかった。外交部には何人かの負傷した中国兵も避難していた。かれらは日本軍に連れ出され、射殺された。」

■死亡率は高かった。■何人かの中国兵傷病兵が日本軍に射殺された。
■医療は拒否された。■食糧も供給不足であった。

つまり、日本軍の医療拒否、食糧も不十分しか与えないという政策により、治るものも治らず、重症者は死んでいったと考えられる。外国人の観察者はこの他、飯が少ないと言った傷病兵を日本兵が銃剣で刺殺した事例を記している。シャットアウトされて観察されていないだけで、もっと多くの殺害があったと思われる。

林(旧姓・吉田)正明日記 歩兵第20連隊第3中隊第1小隊第4分隊・伍長
 わが隊は正月前支那軍政府に入り、その中には支那兵の患者が二百余名も居るのだ。日に日に全快をみる。此のやつ等は如何に処置するか、全快すればもちろん連隊復帰であるが、友軍はどこへやら、国際上患者を殺すわけには行かぬ。全快すれば揚子江の岸にて我が銃先に立ち、長く眠りの度に行く、もしも全快せざる時には自ら死す、なさけない支那軍戦傷患者はかわいそうである。

《編集委員・記》昭和十三年一月下旬、傷病ホリョは軍政部(第三中隊の宿泊所)に二百名、外交部に数百名収容されており、中国人看護婦がついていた。
『南京戦史資料集』より

■一月下旬で傷病兵は軍政部二百、外交部数百。
南京陥落後、いくつかの兵站病院は上記二つの病院にまとめられた。したがって、十二月十三日以後の傷病兵からの死者が、一日100名内外との見積もりは明らかに誇大。十二月十四日の600名+αと一月下旬の200名+数100名では概数ではあまり変化がないので、高い死亡率だったとはいえ、この間の死亡者は数百名にとどまる。

それよりも林が記す「全快しても我が銃先に立つ」という予測のほうがリアルであり、不気味である。

前回も記したように十二月二十二日以前の紅卍字会の埋葬活動はない。それ以前は病院の中庭などに仮埋葬されて、後に紅卍字会によって埋葬し直された可能性も否定できない。しかし、傷病兵の一部の殺害など及び、治療の拒否、食糧供給不足による死亡、これらは立派な虐殺の一環である。

追補 ニューヨーク・タイムズ一九三八年一月九日 ダーディン記者
記事
(外交部の病院はには)十二月十五日水曜日の朝になると、外国人の立ち入りを阻止し、入院中であった五百人の中国兵の運命については何らの言明も行わなかった。

−外交部には五百人

『佐々木少将私記』昭和十三年一月五日
外国人宣教師(マギー牧師のこと)の手中にありし支那傷病兵を捕虜として収容

−捕虜が生かされた例はほとんどない。

  水道局職員の射殺も日本軍 タラリ 2002/10/27 22:38:09  (修正2回) ツリーへ

Re: 南京の人口と占領下の南京について 返事を書く ノートメニュー
タラリ <vgezpxzsqe> 2002/10/27 22:38:09 ** この記事は2回修正されてます
水道局職員の射殺も日本軍
「南京の給水は12月9日に断たれ、1月7日に日本軍の手で完全復旧した。発電所は12月12日夜まで間断なく稼働していたが、日本軍による電力供給の再開はやはり1月7日であった。両施設とも損傷はないに等しく、電気と水道の復旧にこれほど時間をかけた日本当局は褒められたものではない。」(ジョン・ラーベ)
 ラーベは発電所の管理をしていた電気技師でもあった。

「日本軍の占領が始まったころ、多くの武装解除された人々、負傷兵、市役所、発電所、水道局の勤労者、大勢の平和的な都市住民と農民が無意味に射殺された。」(クレーガー)『ドイツ外交官の見た南京事件』資料14 1938年1月13日付 
クレーガーは日本人将校と水道復旧について交渉したひとである。
<水道施設について損傷はないに等しく>ということは中国軍が破壊したというのは近藤記者の「誤報」あるいは日本軍発表のデマの鵜呑みですな。

  日本人記者の書いた記事を鵜呑みにするのは... タラリ 2002/10/27 22:52:30  (修正1回) ツリーへ

Re: 南京の人口と占領下の南京について 返事を書く ノートメニュー
タラリ <vgezpxzsqe> 2002/10/27 22:52:30 ** この記事は1回修正されてます
日本人記者の書いた記事を鵜呑みにするのは非常に問題がありますね。私は「『南京事件』日本人42人の証言」を読んで研究していますが、記者の関心があるのは南京城にどの部隊が一番乗りするかとか、入城式がどうだったとか、南京がいかに復興したかとかね日本軍がいかに信頼されているかと言うことだけです。捕虜や市民の殺害にはまるで関心がないのです。これはそういう記事を日本国民が要求しているということと、上海から日本軍と寝起きを共にして日本陸軍の行動・思想パターンをそっくり転写されているからなのです。

 興味深いのは記者と同じく行動しても従軍カメラマンは虐殺への認知度が高いことです。記者のように「受ける」ための作文ばかり書いていないので、事実をリアルに認識出来るわけです。

 記者は南京城に日本兵が並んで万歳をしている写真は「ヤラセ」だとはっきり言っています。そして、松井司令官の入城式や、「南京自治委員会」の成立などについては予定稿があって、実際にみたら少し書き足すだけになっているのです。電気や水道の復旧がいかに感激的に書かれているか、読み直してみなさい。また、ラーベは南京自治委員会は出来るのも遅かったし、あまり機能しなかったと言っています。歓迎のために少々喜んだようにみせないとまだまだ怖かったのです。つまり、強制されて祝賀したようなものです。

  │└投降勧告文が撒布された南京の給水は12月... ookumayuusuke 2002/10/31 09:57:46  ツリーへ

Re: 日本人記者の書いた記事を鵜呑みにするのは... 返事を書く ノートメニュー
ookumayuusuke <snqgzmpety> 2002/10/31 09:57:46
投降勧告文が撒布された南京の給水は12月9日に断たれ、発電所は陥落直前の12月12日夜まで間断なく稼働していた。「両施設とも損傷はないに等しく、」とあるがいつの時点での話でしょうね?
「日本軍の占領が始まったころ、多くの部素赤い序された人々、負傷兵、市役所、発電所、水道局の勤労者、大勢の平和的な都市住民と農民が無意味に射殺された。」(クレーガー)日本軍に殺されたとは一言も書かれてませんね。
{捕虜や市民の殺害にはまるで関心がないのです。}それはそうでしょうね。以下、「南京事件の総括」 田中正明 著 から引用させて頂きます。

1)120人の報道員とカメラマンは何を見たか

 鎌倉市よりも狭い南京城内に、日本の新聞記者やカメラマンが、約120人も占領と同時に入城して取材にあたっていながら、前述の今井正剛、鈴木二郎記者の虚構を除くほかは、1人として婦女子の虐殺や一般市民および捕虜の大量虐殺などは見ていないのである。
 当時、「朝日」「東日」「読売」「日経」など全国紙の各支局をはじめ、地方紙や通信社も、南京に特派員を派遣している。
 これらのプレスマンが異口同音に言うには、「東京裁判で、南京にあのような大事件があったと聞いて驚いた」である。
 これは南京に入城した将兵たちもほとんど同様である。
 当時、読売新聞の上海特派員だった原四郎氏(現在読売新聞社顧問)は「世界日報」の記者にこう述べている(57・8・31)。
 
 「わたしが南京で大虐殺があったらしいとの情報を得たのは、南京が陥落して3ヶ月後のこと。当時、軍による箝口令が敷かれていた訳ではない。なぜ今頃こんなニュースが、と不思議に思い、各支局に確認をとったが、はっきりしたことはつかめなかった。また中国軍の宣伝工作だろう、というのが大方の意見だった。」
 
 これと同じ意味のことを東京日々新聞特派員五島広作氏が書いている。氏は昭和41(1966)年4月に「南京作戦の真相=第六師団戦史」という著書を熊本日々新聞から出版している。
 「自分が南京戦を終えて上海に帰り、しばらくすると、南京に虐殺事件があったらしいといった噂を耳にした。おどろいて、上海に支局をもつ朝日や読売や同盟など各社に電話を入れてみた。どの社も全然知らぬ、聞いたこともないと言う。おそらく敵さんの例の宣伝工作だろうというのが話のオチであった。」
 これが各紙特派員の当時のいつわらざる実情のようである。
 最近、畠中秀夫氏が、じゅん刊「世界と日本」に「聞き書き 昭和十二年十二月南京」と題して、南京に入城した著名人の聞き書きを書いている。
 その中で死去する少し前の石川達三氏とのインタビューは特に興味深い。
 石川氏は前述の通り小説「生きている兵隊」で発禁処分を受け、執行猶予付きながら、実刑を科せられているのである。畠中氏はその石川氏と次のような問答をしている。
 「私が南京に入ったのは入城式から2週間後です」
 
 ――― そのときどのような虐殺をご覧になられましたか?
 
 「大殺戮の痕跡は一ぺんも見ておりません」
 
 ――― いわゆる「南京大虐殺」をどう思いますか?
 
 「何万の死体の処理は、とても2、3週間では終わらないと思います。あの話は私は今でも信じておりません」(同書14ページ)。
 
 自著が発禁になり、実刑まで受けた石川氏の言葉だけに重みがある。
 本多勝一氏は「南京への道」で、石川氏の「生きている兵隊」を引用して、南京大虐殺の有力な立証の材料に使っているが、石川氏に言わせるなら、迷惑千万な話だった訳だ。
 畠中氏はもう一人異色の人物にインタビューしている。
 当時「朝日」の上海支局次長であった橋本登美三郎氏である。田中内閣の時、自民党の幹事長や運輸大臣まで務め、ロッキード事件に連座して控訴中の人物である。
 氏は「朝日」の記者15人ほどを引き連れて、南京に一番乗りしたことで有名である。氏は畠中氏にこう答えている。
 「南京の事件ねえ。全然聞いていない。もしあれば、記者の間で話にでるはずだ。記者は少しでも話題になりそうなことは互いに話にするし・・・それが仕事だからね。噂としても聞いたこともない。朝日新聞では現地記者ばかり集めて座談会もやったが、あったのなら、露骨でないにしても、抵抗があったとか、そんな話が出るはずだ」
 もう一人、「朝日」の大先輩でやはり南京特派員であった足立和雄氏は畠中氏にこう答えている。
 「私は南京大虐殺なんて見ていません。あなた(畠中)がどういう立場の人か存じませんが、南京大虐殺の証言はできませんョ」
 きつくそう断られたが、押し問答の末、立場をはっきりし、お目にかかった、畠中氏はかねて疑問に思っていた“虐殺目撃者”として名乗り出た「朝日」の記者今井正剛氏について尋ねてみたそうである。
 足立氏は一言のもとに、今井氏をこう評したと言う。
 
 「あれは自分で見て記事を書く人ではなかった。人から聞いたことを脚色するのが上手かった。」
 
 婉曲に彼の「文芸春秋」で発表した2万人の虐殺を見たかのごとき作文など怪しいものである旨示俊したのである。
 はからずも同じ「朝日」の森山喬氏が筆者に語った今井評と一致する。
 森山氏も彼の虚言を立証している。
 なぜなら当時彼と一緒に南京で寝室を同じくして取材しているのに、そんな話はついぞ聞いたことがないと言うのである。

(2)南京入城者の証言

 阿羅健一氏は、雑誌「正論」に61(1986)年5月号から「日本人の見た南京陥落」を連載している。
 南京戦に参加した新聞記者、カメラマン、将兵等を訪ね、占領後の南京の模様について克明にインタビューし、それをそのまま記録した連載ものである。紙幅の関係で詳述はさけるが、61年5月号から12月号にいたる8回の登場者とその所見は次の通りである。
 主に“虐殺”の有無について抄出した。番号はその回数である。

1、最初の面接者は、上海派遣軍参謀 大西一大尉
 同大尉は2課の情報参謀で、最年少。引き続き南京特務機関長に就任、約1年在勤。

 「私は長参謀の下にいましたが、長参謀が命令(筆者注・やっちまえという虐殺命令のこと)を出したということは、見たことも聞いたこともありません(中略)。
 また、情報担当の長参謀が命令するというのもおかしな話です」

 ―――第16師団の中島(今朝吾)師団長の日記に「捕虜はせぬ方針なれば」とあり、これが捕虜虐殺の証拠と言われていますが?

 「これは銃器を取り上げ、釈放せい、ということです。中国兵は全国各地から集まっていますが、自分の国ですから歩いて帰れます」

 ―――上海派遣軍の中で虐殺があったという話はありませんでしたか?

 「話題になったことはない。第2課も南京に入ってからは、軍紀、風紀の取り締まりで城内を回っていました。私も城内を回った」

 ―――何も見ていませんか?

 「一度強姦を見た」

2、松井軍司令官付陸軍通訳官 岡田尚(おかだたかし)氏 降伏勧告文を翻訳し、軍使に加わる。

 「城内には死体はありませんでした。ですから一般市民に対しての残虐行為はなかったと思います」「火事があったとよくいわれますが、私には記憶ありません」「捕虜の話は聞いています。下関で捕虜を対岸にやろうとして(中略)その渡河の途中、混乱がおきて、撃ったと言うことは聞きました」

3、上海派遣軍特務部員 岡田酉次(おかだゆうじ)少佐
 「あの南京攻略戦を見てますと、中国軍の中には女がいました。私も女の中国兵が倒れているのを見ています。また敗残兵といっても抵抗するのもいたし、便衣兵というものもいて、これらがやられるのを見ました。これらの屍があとで虐殺と言われたのではないでしょうか?」

4、東京日々新聞カメラマン 佐藤振寿(さとうしんじゅ)氏

 ―――虐殺があったといわれますが?

 「見ていません。虐殺があったと言われていますが16、7日頃になると、小さい通りだけではなく、大通りにも店が出ました。また、多くの中国人が日の丸の腕章をつけて日本兵のところに集まっていましたから、とても残虐な殺しなどがあったとは信じられません」

 ―――南京事件を聞いたのは?

 「戦後です。アメリカ軍が来てからですから、昭和21年か22年頃だったと思います。NHKに「真相箱」という番組があって、そこで南京虐殺があったとの放送を聞いたのがはじめてだったと思います。

5、同盟通信映画部カメラマン 浅井達三氏

 ―――同盟通信のなかで虐殺というようなことが話題にならなかったですか?

 「なりませんでした。その頃、敗残兵や便衣隊がよくいて、それをやる(処刑)のが戦争だとおもっていましたから」

6、報知新聞従軍記者 田口利介氏

 ―――南京で虐殺があったといわれますが?

「当時聞いたこともなかったし、話題になったこともありません」

7、同盟通信無電技師 細波孝氏

 「トーチカの中だけでなく、揚子江岸にも死体はありました。中には針金で縛ってつないでいたのもありました」
 
 ―――死体の数はどのくらいですか。
 
 「さあ、どのくらいか。百人くらいでしょうか。湯山にいた捕虜をやったのでしょう」

8、都新聞記者 小池秋羊氏(12月13日入城)

 「城内はどの家も空き家で、物音一つしない死の都市でした。犬・猫の姿一つ見受けられず、不思議な妖気が漂い、街路は激戦の跡とも見受けられない整然とした街並みで、びっくりしてしまいました」
 
 ―――その他の難民区の様子はどうでした?
 
 「敗残兵探しの時は難民も動揺していましたが、一般に平静でした。
 また食糧が無く飢餓状態で、食糧をくれと我々にすがりつく人もいました。
 私たちの宿舎には発見された米が何俵もありましたので、難民区のリーダーを宿舎に連れていき、米や副食品などを大八車2台分やりました。
 難民区には6、7万人いたので、これだけでは九牛の一毛だったと思います」
 
 ―――南京では虐殺があったといわれますが、そういう死体を見ていますか?
 
 「虐殺されたものか、戦死体かわかりませんが、中央ロータリーのそばにつくりかけのビルがあり、この地下に数体の死体がありました(中略)。
 それと、把江門だったと思いますが軍のトラックでここに行った時、車に何度もひかれてせんべいのようになっていた死体が一体ありました(中略)。
 下関にあるドック、それはグラウンド・スタンドのような円形の造船所ですが、そこに累々たる死体が投げ込まれているのも目撃しました」 
 
 ―――ドックの死体はどのくらいですか?
 
 「5体や10体じゃなかったと思います。何10体かあったと思います。
 これは戦死体だと思います」
 
 ―――その他に死体はありませんでしたか?
 
 「ありませんでした」 
 
 ―――南京で虐殺の話を聞いたことはありませんか?
 
 「ありません」 

 筆者注 なお小池氏は13日、中正路で火事を見たが、そのとき2台の自動車に分乗した外人記者が街を縦横に疾駆して、パチパチとカメラのシャッターを切っていた、と重要な証言をしている。

9、読売新聞技師 樋口哲雄氏

 「自転車を持っていたので、毎日あっちこっちに行きました」
 
 ―――その頃、日本軍による虐殺があったと言われていますが?
 
 「どこで何があったのか知りません」
 
 ―――見たり聞いたりしませんか?
 
 「全然解りません。だいいちそういう形跡を見たことがありません。
 あったとよく言われますが、どこでどんなものがあったのか。中山陵など荒らされていないし、きれいでした。
 やらなきゃこっちがやられるからやったのを虐殺といっているのだと思います」

10、東京日々新聞カメラマン 金沢善雄氏

 「戦後、この時、何万人かの虐殺があったといわれていますが、不思議でしようがないのです。
 私は南京をやたら歩いていますが、虐殺を見たこともなければ聞いたこともありません」
 「ここ(南京)には1ヶ月ほどいましたが、戦後言われているような事は何も見ていなければ、聞いてもいません。
 ですから虐殺があったと言われていますが、あり得ないことです。松井大将が絞首刑になったのも不思議でしょうがないのです」

11、読売新聞上海特派員 森博氏

 「住民は敵意を持っていなかったし、日本兵を怖がってもいなかったと思います。
 逆に、便衣隊がいましたので日本兵の方が中国人を警戒していました。」
 「捕虜を捕らえたが、捕虜にやる食糧がないし、収容する所がない。
 放してもまた兵隊になる。それで困ってやったと言っていました・・・下士官が単独でやったと思います。分隊長クラスの下士官です」

12、第10軍参謀 谷勇大佐

 「14日の11時30分頃でした。
 中華門から入ったが付近に死体はほとんど無かった。
 3時頃になり私は後方課長として占領地がどんな状態か見ておく必要を感じ、司令部衛兵1個分隊を伴い、乗用車で城内一帯を巡回した。
 下関に行った時、揚子江には軍艦も停泊しており、艦長と会見した。この岸辺に相当数の死体があった。
 千人ほどあったか、正確に数えれば2千人か3千人位か。
 軍服を着たのが半分以上で、普通の住民服のもあった」
 
 ―――戦死体と違いますか?
 
 「城内から逃げたのを第16師団が追いつめて撃ったものと思う。
 これが後日虐殺と称されているものではないか?」
 
 ―――把江門にも死体があったと言いますが、ご覧になりましたか?
 
 「ものの本には把江門もだいぶ(死体が)あるように書いてあるようだ。
 14日午後通ったが、その時は無かったね」
 
 こう言いながら又アルバムを開く。
 14日の把江門の写真である。
 写真は3つの入り口を持った把江門全体が写っているが、周辺一帯に死体らしきものは見当たらない。
 「雨花台でもやったと書かれたものがあるが、そういう死体は全然なかった」

13、第10軍作戦参謀吉永朴少佐

 「13日早朝、中華門から入りました」
 
 ―――その時の南京の様子はどうでしたか?
 
 「儲備銀行に行く途中、身分いやしからぬ中国人の家族に会いました。そこで私は自分の名刺に、歩哨線を自由に通過させよ、と書いて渡しました。当日(13日)家族が歩ける位ですから、城内が落ち着いていることが解ると思います」
 「2、3日してから作戦上の任務で下関に行きました。
 揚子江の埠頭に相当数の中国軍人の死体がありました――数千はあったと思います。第10軍は南京の南側からだけ攻めたのではなく、国崎部隊が浦口から攻めましたので、この時の死体と思います。」

14、第10軍参謀 金子倫介大尉

 「南京に入ったのは13日か14日だと思います。
 城内では一人の死体も見ませんし、一発の銃声も聞きませんでした」
 
 ―――それでは、そのころ南京事件は聞いたことがなかったのですか?
 
 「ええ聞いたことはありませんでした。戦後東京裁判で聞いてびっくりしました。
 何か隠しているとか、言い渋っているとか言うことではなく、本当に南京では何も見ていません。南京では印象に残るようなことはなかったのでしょう」

15、 報知新聞カメラマン 二村次郎氏

 ―――南京虐殺ということが言われていますが。
 
 「南京にいる間見たことがありません。
 戦後よく人から聞かれて、当時のことを思い出しますが、どういう虐殺なのか私が聞きたいくらいです。
 逆に人が書いたものを見たりしています。
 アウシュビッツのように殺す場所がある訳でもないですからね、私が虐殺の話を聞いたのは、東京裁判の時です」

(3)作家・評論家の南京視察記

 南京に入城したのは約120人の新聞記者やカメラマンだけではない。
 大宅壮一、木村毅、杉山平助、野依秀市、あるいは西條八十、草野心平、林芙美子、石川達三といった高名な評論家や詩人、作家も陥落とほとんど同時に入城している。
 このほかにも、南京陥落後、13年の春から夏にかけて、南京を訪れた有名人は大勢いる。
 これらの人々は、帰国するや色々な雑誌や新聞にレポートを書き、講演もしている。
 例えば、杉山平助氏は朝日新聞に「南京」を連載している。
 木村毅氏は「江南の早春」を、林芙美子氏は「南京行」を、小林秀雄氏は「杭州より南京」を、詩人の草野心平氏と「実業の世界」の野依秀市社長が期せずして2人一緒に南京に入り、野依氏は同誌に「楽土激土」を書き、草野氏は「支那点々」を書いている。
 2人とも南京市の城壁の内外を車と足で歩いているが、その視察記はまことにきめ細やかな描写で、臨場感にあふれており、さすがだと思う。
 しかしそれらの視察記や紀行文の中には"大虐殺"を匂わすような文章はどこにも見当たらない。
 終戦になり、東京裁判が始まって、軍の作戦や旧軍人に対する批判が高まった時でも、これらの作家や評論家や詩人のだれ一人として南京事件を告発したり、あげつらう者はいなかった。
 批判力旺盛な口八丁、手八丁と言われた大宅壮一でさえ、南京虐殺には終始否定的であった。

筆者の見た南京

 実は筆者も、雑誌「大亜細亜主義」の従軍記者として、南京事件の翌年13年8月、南京を約1ヶ月にわたって視察し、9月から始まった漢口攻略戦に、林芙美子氏らと共に第6師団の北岸部隊に従軍し、11月、武漢一番乗りの部隊とともに入城した。
 大亜細亜協会会長松井石根大将から、その後の南京一帯の治安の状況や民心の動向などよく視察してくるようにと言われ、何通かの紹介状も頂いた。
 従って一従軍記者ではあったが、南京特務機関長や報道部長の特別の便宜を受け、南京城内外の古戦場や近郊の下関、雨花台、紫金山はもとより、湯水鎮、仙鶴門鎮、句容、浦口まで足を伸ばし、くまなく見て回ることができた。
 私が宿泊したのは、故楼近くの兵站宿舎であるが、そこは難民区の入り口に当たり、まだ歩哨も立っており、"良民証"の点検も行われていた。
 難民区内は名物の泥棒市や露天商、マーケットが軒をならべており、活況を呈し、大方巷の一角など早朝から喧騒を極めていた。
 当時すでに人口は50万近くにふくらみ、昔からの色街の秦匯街あたりは日本人経営の料亭や食堂の女性が夜の南京の街を浴衣姿で歩いている風景さえ見られた。
 東京裁判や国際委員会の報告等にも市街の3分の1以上が日本軍の放火で灰塵に帰したと告発しているが、これは全くのウソで、下関を除けば、焼け跡は予想外に少なく、街は意外に整然としていたのにはむしろ驚いたほどである。
 いうまでもなく、約半年ほど前、南京に"大虐殺"があったなどと言う噂も風聞もきくこともなく、ただ各地で、南京攻略戦当時の激戦の模様につき説明を受けたのみであった。
 雨花台のトーチカの中で、鎖に足をつないで、死ぬまで抗戦した中国兵の勇敢さと、その鎖を見た印象はいまだに消えない。
 多くの従軍記者やカメラマン、作家、詩人などが口をそろえて言うごとく、「南京大虐殺」などということは、東京裁判が始まるまで、見たことも聞いたこともない事件だったのである。
 最後にこのことを証明するかのように、細川隆元氏が昨年(61)終戦記念日前の日曜日、TBSの「時事放談」で、次のように言われたことを読者も記憶していよう。
 「わしが朝日新聞の編集局長であった時だ。
 南京に特派した記者達を集めて、南京に虐殺事件があったとかどうとか噂を聞くが、本当はどうだ?
 と、一人一人に聞いてみた。
 全然その様なことは見たことも聞いたこともありません――というはっきりした返事だった。
 ・・・・何万、何十万なんて言う虐殺など絶対にない。
 絶対になかったとわしは思う」という意味の強い発言をしていたことを付記したい。






  │ └発電所の権に関していろいろ質問して来てい... タラリ 2002/11/01 21:41:37  ツリーへ

Re: 投降勧告文が撒布された南京の給水は12月... 返事を書く ノートメニュー
タラリ <vgezpxzsqe> 2002/11/01 21:41:37
発電所の権に関していろいろ質問して来ているのですが、どういう意図か不明だね。
<「両施設とも損傷はないに等しく、」とあるがいつの時点での話でしょうね?>
損傷がもっと早い時期にあったと妄想しているのですか?

<日本軍に殺されたとは一言も書かれてませんね。>
中国兵に殺されたと妄想しているのですか?

ただただ訳もなく、また際限なく疑問を持って来られても困るよね。こちらも。日本軍が壊した、殺したという資料でもあるのならともかく。

1月25日のエスピー報告によると、12月15、16の両日に(中華工業国外貿易協会)の職員でないものを引き出すようにように要求し、電力会社の43名が「公務員」を理由に連行したという。
スマイスの3月8日の手紙では、日本大使館、海軍、陸軍が発電所復旧のために人集めを依頼している日に、別の部隊が56人中43人の発電所職員を殺していたと言う。

一方、その頃、日本軍は国際委員会に電気技師の派遣を要請していた。(『南京事件資料集 1アメリカ資料編』p.241)
このとき、ラーベは発電所、水道施設の状況を検分し、損傷がないのに等しいことを確認したわけだ。日本は入城式に備えて治安の確保、電気・水道の復旧を急いでラーベに要請したが、そのとき同時に他の部隊は市の職員すなわち、警官、消防士、発電所、水道局員を無意味に殺していたわけだ、わかったかね、ookumayuusuke君。

君の無意味な質問にはこれ以上答えないからね。そんなことより「南京市の人口」について君の反論を聞こうじゃないか。妄想でなく資料を出したまえ。

それから、後段の田中正明のクズ本、阿羅のクズ証言集については別スレを立てて大反論を加えた。

  │  └日本軍には南京市の警官、消防士、発電所、... ookumayuusuke 2002/12/10 11:55:19  ツリーへ

Re: 発電所の権に関していろいろ質問して来てい... 返事を書く ノートメニュー
ookumayuusuke <snqgzmpety> 2002/12/10 11:55:19
日本軍には南京市の警官、消防士、発電所、水道局員を殺害する動機がない。「日本大使館、海軍、陸軍が発電所復旧のために人集めを依頼している日に、別の部隊が56人中43人の発電所職員を殺していたと言う。」と言う記述もおかしい。必要な人材を無意味に殺すようなことをするはずがない。ここにある「別の部隊」とは何処の部隊なのか?日本兵に化けた国民党軍のゲリラ兵の可能性もあるのでは?

  │   ├日本兵に化けた国民党軍のゲリラ兵の可能性... とほほ 2002/12/10 23:56:21  ツリーへ

Re: 日本軍には南京市の警官、消防士、発電所、... 返事を書く ノートメニュー
とほほ <yclfglvbxs> 2002/12/10 23:56:21
> 日本兵に化けた国民党軍のゲリラ兵の可能性もあるのでは?

そんな事は誰も否定してないよ(笑)
それを実証するのは立論した貴方だ。
それを立証責任と言うの(^^;

  │   │└京都第16師団師団長中島今朝吾中将の日記... ookumayuusuke 2002/12/12 11:09:40  ツリーへ

Re: 日本兵に化けた国民党軍のゲリラ兵の可能性... 返事を書く ノートメニュー
ookumayuusuke <snqgzmpety> 2002/12/12 11:09:40
 京都第16師団師団長中島今朝吾中将の日記にもあるように「南京ノ電灯ト水道ハ十三日朝迄運転シアリタリトノコトナリシモ軍隊ノ入城掃討ノ際技師モ職工モ片付ケタラシク」(「〜ラシク」と断定はしていない。)日本兵と思われる者達により、日本軍の作戦に支障をきたすような行動があったということが軍上層部に報告されている。と言うことは当然、命令指揮系統の調査が行われ、関わった者が日本軍将兵だと判れば、関係した将兵の処分が行われているはずだが、処分された形跡や史料がない。
 さらに選別基準や連行、処断場所などを記した命令書が残されている筈だが、それもない。
 日本軍の仕業と断定するには証拠不十分である。

  │   │ ├補足 ookumayuusuke 2002/12/12 15:40:24  ツリーへ

Re: 京都第16師団師団長中島今朝吾中将の日記... 返事を書く ノートメニュー
ookumayuusuke <snqgzmpety> 2002/12/12 15:40:24
補足
 ここでいう選別基準とは、(中華工業国外貿易協会)の職員でない者のことです。念のために。

  │   │ └新証拠をありがとう。司令官みずから、日本... タラリ 2002/12/12 18:32:26  ツリーへ

Re: 京都第16師団師団長中島今朝吾中将の日記... 返事を書く ノートメニュー
タラリ <vgezpxzsqe> 2002/12/12 18:32:26
新証拠をありがとう。司令官みずから、日本兵の仕業と認めているわけですね。中国兵ゲリラの可能性が考えられれば当然捜索するはずですが、それをした形跡がないということはその可能性はなかったということですね。

中島司令官自身の宿舎に兵士、将校が押し入っても、取り押さえることが出来なかったくらいですから、日本兵の不法行為を抑制することは既に出来なかったのでしょう。

  │   │  └よく読んでください。」(「〜ラシク」と断... ookumayuusuke 2002/12/14 22:17:47  ツリーへ

Re: 新証拠をありがとう。司令官みずから、日本... 返事を書く ノートメニュー
ookumayuusuke <snqgzmpety> 2002/12/14 22:17:47
 よく読んでください。」(「〜ラシク」と断定はしていない。)と書いています。
 現在の日本政府の「従軍慰安婦」の対応にも言えることですが先に謝って水に流してしまおう、その後の調査で日本軍の冤罪が判明した例もありますし。信頼できる資料がない以上、日本軍の犯行と断定できない。あるのでしたら是非、掲示して下さい。

  │   │   └>その後の調査で日本軍の冤罪が判明した例... とほほ 2002/12/14 22:19:50  ツリーへ

Re: よく読んでください。」(「〜ラシク」と断... 返事を書く ノートメニュー
とほほ <yclfglvbxs> 2002/12/14 22:19:50
>その後の調査で日本軍の冤罪が判明した例もありますし。

何の事?秦調査の事?(笑)

  │   └「動機がない」は否定派が千回も使った「へ... タラリ 2002/12/11 23:09:03  ツリーへ

Re: 日本軍には南京市の警官、消防士、発電所、... 返事を書く ノートメニュー
タラリ <vgezpxzsqe> 2002/12/11 23:09:03
「動機がない」は否定派が千回も使った「へ理屈」
否定派の諸君がしばしば口にするのは「動機がない」「するはずがない」という
反対論であるが、歴史の真実は意外なところにある。私たちの現在の常識で動機
の有無を考えて否定するのではなく、当時、兵士が置かれた状況に照らし合わせ
てみてはじめて動機がわかるのだ。

例えば砒素カレー殺人事件など常識で考えると、「動機はない」ということにな
る。ところが金のためなら平気で親をも殺す、気に入らなければ平気で人を殺す
彼女の異常な性格が判明すると些細なことで近所のひとを恨んでいたということ
が立派な動機だったことが理解されるのである。

実際問題、敗残兵、捕虜、便衣兵とそれに名を借りた虐殺の動機は敵であり、こ
れを殺すのは正当であり、しかも戦闘行動の一種と教えられているからである。
また、当時の日本兵にとっては政府職員というだけで殺すのは正当と考えた。そ
して、軍司令部さえ兵士の無法行為に対し、これを制止することすら出来ず、要
するに統制力を失っていた。

統制力を失った兵士の行動は例えば第16師団長中島今朝吾の宿舎に対してさえ、
日本兵が盗みに押し入ったりしたことでも知れる。また、自分自身を苦しめるは
ずの市街地の放火を行ったこともその証左のひとつである。

この統制力の欠如の結果は電気・水道の復旧を遅らせ、南京自治政府の立ち上げ
の遅延、その実質的活動の阻害などに現れた。

動機を尋ねる前にすべきことは、日本兵による発電所職員の殺害の事実そのもの
を確かめることである。動機はその殺害の状況、それを取り巻く情況を詳しく調
べることによっておのずと浮き上がって来るものなのである。

発電所は下関にあり、下関一帯では12月13日に既に国民党軍は完全に一掃さ
れており、ましてや12月15−16日頃に日本兵に化けて出没するなどという
可能性は0です。

■重要ポイント 「動機がない」とある事実を否定するのではなく、事実関係を
       精査すること。それによって逆に動機が理解されることがある。

(12月22日)
ラーベ日記
-----
 私は日本軍に申し入れた。発電所の作業員を集めるのを手伝おう。下関には発
電所の労働者が五十四人ほど収容されているはずだから、まず最初にそこへ行く
ように。
 ところが、なんとそのうちの四十三人が処刑されていたのだ! それは三、四日
前のことで、しばられて、河岸へ連れていかれ、機銃掃射されたという。政府の
企業で働いていたからというのが処刑理由だ。これを知らせてきたのは、おなじ
く処刑されるはずだったひとりの作業員だ。そばの二人が撃たれ、その下じきに
なったまま河に落ちて、助かったということだった。
[『南京の真実』p.136]

■ラーベは日本軍当局に発電再開を依頼され、発電所に同行しています。つまり、
職員の殺害は偶然死を免れた職員が証言し、日本軍当局も認めているのです。

1月14日付け ラーベのジーメンス中国本社への書簡
日本軍当局は見たところ、部隊の統率力を失っているようです。日本兵部隊は数
週間にわたり、略奪を繰り返し、およそ二万人の婦女子を強姦し、何千人もの罪
なき市民(発電所の職員四十三人を含む)を無惨に殺害したうえ(機銃掃射大量
殺害も人道的な処刑とされていたようです)、
[『ドイツ外交官の見た南京事件』p95]

■動機は日本兵の無軌道な憎悪であり、軍当局がこれに対する統率力を失った
ことによるものです。
-----

  │    └<第16師団長中島今朝吾の宿舎に対してさ... ookumayuusuke 2002/12/14 22:03:57  ツリーへ

Re: 「動機がない」は否定派が千回も使った「へ... 返事を書く ノートメニュー
ookumayuusuke <snqgzmpety> 2002/12/14 22:03:57
<第16師団長中島今朝吾の宿舎に対してさえ、日本兵が盗みに押し入ったりしたことでも知れる> これは知らなかったです。当然彼らは上官反逆罪で軍法会議に掛けられていると思いますが、その後彼らにどのような刑が言い渡されたのか教えてもらいませんか。
<これを知らせてきたのは、おなじく処刑されるはずだったひとりの作業員だ。>またしても伝聞ですか。直接見たという人はいないみたいですね。
 それにしても、ラーベが委員長を務める安全区委員会の記録には、殺人事件25件、被害者49人。しかも、そのほとんどが裏付けのない伝聞情報でラーベ本人はただの一件も目撃していない。

  │     ├そのほとんどが裏付けのない伝聞情報でラー... とほほ 2002/12/14 22:18:30  ツリーへ

Re: <第16師団長中島今朝吾の宿舎に対してさ... 返事を書く ノートメニュー
とほほ <yclfglvbxs> 2002/12/14 22:18:30
> そのほとんどが裏付けのない伝聞情報でラーベ本人はただの一件も目撃していない。

あのね(^^;
じゃーなんでその作業員がうそをつくのよ?
なんでラーベが嘘を日記に書かなきゃなんないのよ?

  │     │└<なんでラーベが嘘を日記に書かなきゃなん... ookumayuusuke 2002/12/14 23:15:23  ツリーへ

Re: そのほとんどが裏付けのない伝聞情報でラー... 返事を書く ノートメニュー
ookumayuusuke <snqgzmpety> 2002/12/14 23:15:23
<なんでラーベが嘘を日記に書かなきゃなんないのよ?>
 ジョン・ラーベという人物は中国の蒋介石政権に武器を売り、莫大な利益を得ていた軍需産業ジーメンスの南京支社長でした。
 支那事変勃発後、日本はドイツに中国への武器輸出を止めるよう、再三要求した。ヒトラーは武器輸出による莫大な利益を手放すことに躊躇したが、結局、ソ連を牽制する為に日本と組むことを選び、武器輸出を控えた。
 ラーベにしてみればただじゃ済まなかったでしょう。何しろ30年間も中国に住み、培ってきた商売が水の泡なのですから。精一杯の抵抗として日本を残酷無比な存在に仕立て、こんな野蛮国との同盟は止めてくれとヒトラーに上申した訳です。
 だが、その話はあまりに不自然で、同朋のドイツ人にもあまり信じてもらえなかった。ラーベの話を聞いたドイツ大使館のシャルフェンベルク事務局長は、
「暴行事件といっても、全て中国人から一方的に話を聞いているだけではないか。」
と記しています。
 結局、策略は実らず、ドイツに呼び戻されたラーベは、2度と中国の地を踏むことはなかった。
 その後、日記の出版を目指しリトライに精を出した。もちろん、欧米の反日感情を高めるのが目的で、たっぷりと「日本軍の残虐行為」を書き込んだのです。わかりましたか?(ところが、日独の同盟強化は進み、日記の出版も実現せず、その後は不遇のまま戦後の貧困の中でなくなった。その日記が、まさか没後50年近くも経ってから世界中で出版されるとは夢にも思わなかったことでしょう。しかも、当時の望み通り世界中の反日感情を大いに高めている。半世紀の間、恨みを持って彷徨った魂が見事に復讐を果たしたという訳です。)

  │     │ ├その後、日記の出版を目指しリトライに精を... とほほ 2002/12/15 00:19:47  ツリーへ

Re: <なんでラーベが嘘を日記に書かなきゃなん... 返事を書く ノートメニュー
とほほ <yclfglvbxs> 2002/12/15 00:19:47
> その後、日記の出版を目指しリトライに精を出した。もちろん、欧米の反日感情を高めるのが目的で、たっぷりと「日本軍の残虐行為」を書き込んだのです。わかりましたか?

タラリさんと似たようなコメントになりますが、あなたラーベの日記を読んでないでしょう?読んだのであればあなたは嘘をついている事になりますので、論理的な議論は不可能と判断せざるを得ないのです、どうなんですか?読みました?

  │     │ │└1度も殺人を目撃せず、報告相手によって4... ookumayuusuke 2002/12/15 01:29:42  ツリーへ

Re: その後、日記の出版を目指しリトライに精を... 返事を書く ノートメニュー
ookumayuusuke <snqgzmpety> 2002/12/15 01:29:42
 1度も殺人を目撃せず、報告相手によって49人から6万人まで数字をコロコロ変える御仁の日記を信用しろということ自体無茶ですよ。こういう資料は疑ってかかった方がいいですよ。
「数字は嘘をつかない。嘘つきが数字をつくる。」この言葉をとほほさんに贈ります。
「南京の真実」自体は目を通してません。批判本なら目を通していますけど。

  │     │ │ └資料を自分で読んでからコメントして下さい... タラリ 2002/12/15 21:36:18  ツリーへ

Re: 1度も殺人を目撃せず、報告相手によって4... 返事を書く ノートメニュー
タラリ <vgezpxzsqe> 2002/12/15 21:36:18
資料を自分で読んでからコメントして下さい。

>1度も殺人を目撃せず、報告相手によって49人から6万人まで数字をコロコロ変
える御仁の日記を信用しろということ自体無茶ですよ。

49人は数人から20−30人単位の兵士による「作戦行動ではない」暴行の被害者
数。目的は略奪、強姦とときにサディスティックな暴行自体が目的のとき。

5,6万人の死亡は便衣兵容疑、あるいは戦闘能力を有すると思われる青壮年の民間
人の摘出、殺害であって部隊としての行動。

報告相手によって変えているのではありません。対象とした被害が別なのです。

また、ラーベ他の外国人は城外には出られず、城外で行われた敗残兵の掃討、城外で
捕まえられた捕虜の虐殺、近郊農村の民間人の虐殺は当然含まれていません。

>こういう資料は疑ってかかった方がいいですよ。
>「南京の真実」自体は目を通してません。批判本なら目を通していますけど。

私は資料を自分で読んでからコメントしています。
ookumayuusukeさんも誰かさんの受け売りを述べず、きっちり読んでからコメントし
て下さい。批判本だけでは駄目です。ookumayuusukeさんが疑ってかかるリストから
は批判本だけが、すっぽり抜け落ちているのですね。それで真実がわかると思います
か。

批判本が日付からして大間違いなのはゆうさんの投稿で確認しましたね。
「ラーベの感謝状」なるものの本文は読みましたか?

すべて原資料に当たれば批判本の嘘もわかるようになります。

  │     │ ├ちなみに、日独が真に同盟関係に入るのは、... ookumayuusuke 2002/12/15 01:12:28  ツリーへ

Re: <なんでラーベが嘘を日記に書かなきゃなん... 返事を書く ノートメニュー
ookumayuusuke <snqgzmpety> 2002/12/15 01:12:28
 ちなみに、日独が真に同盟関係に入るのは、リッペントロップが外相に就任した昭和13年以降である。
 現にドイツは米、英と共に蒋介石を援助する軍事顧問団を置き、第二次上海戦の陣地構築を指導している。このため我が軍の犠牲は大きかった。ラーベの所属するジーメンス社は、兵器や通信機の有名な製作会社である。ラーベの納めた高射砲は当時日本にもない優秀なもので、ラーベはこれらの兵器を売り込むため、南京支社に勤めていたのである。
 ラーベが委員長を務める国際委員会(米7、英5、独2、デンマーク1、計15名で構成)は、紅卍字会やYMCAの青年らを配下にして、日本軍の南京占領後の犯罪調査に乗り出している。
 すなわち12月13日の入城から翌年の2月9日まで、その間、日本軍将兵が犯した犯罪行為を克明に記録し、これをタイプして日本大使館および米、独等の大使館にも伝達した。
 この日本軍非行の告発書とも言うべき「公文書」は全部で61通、件数にして425件である。
 但し、委員会が作成した資料の中には、意図的に伝聞ないし噂話が多く混合している。
 国際委員会が告発した日本軍非行の425件の中には、非行でも何でもない事件もあり、伝聞、噂話、憶測もあるがこれらをすべてクロとみて分類すると次の通りである。
 殺人 49件、傷害 44件、強姦 361件(多数3件、数名6件)、連行 390件(多数1件、数名2件)、略奪その他170件
 この数字は、南京占領の12月13日から翌年2月9日までの南京における日本軍非行を記録した国際委員会の総トータルである。
 殺人わずか、49件。大虐殺などどこにもない。
 これをラーベ日記は、虐殺5〜6万、強姦実に2万件というのである。その根拠は何ら示していない。 

  │     │ └四点にわたって反論 タラリ 2002/12/15 21:15:38  ツリーへ

Re: <なんでラーベが嘘を日記に書かなきゃなん... 返事を書く ノートメニュー
タラリ <vgezpxzsqe> 2002/12/15 21:15:38
四点にわたって反論
■ジーメンスが軍需産業という嘘
>ジョン・ラーベという人物は中国の蒋介石政権に武器を売り、莫大な利益を得ていた軍需産業ジーメンスの南京支社長でした。

これは否定派の田中正明やその尻馬に乗っている小林よしのりが振りまいている嘘の一つで「ラーベがジーメンス社ないし自分の利益のために反日を煽る日記を書いた」という印象操作のためです。ジーメンスは電気事業会社であって軍需産業ではありません。ジーメンス南京支社の業務内容は発電所の保守管理、その他病院へのレントゲン機器の販売と整備等でした。

ジーメンス・チャイナのサイト の説明文を掲げます。
1939 Provided medical equipments for hospitals in Shanghai, Nanjing,
Beijing,Tianjin, Qingdao, Guangzhou, Changsha and Nanchang
1937/38 John Rabe, director of Siemens' Nanjing office, performs
humanitarian service during the Sino-Japanese War.
Rabe is appointed chairman of the International Committee for the
Establishment of a Military-Free Zone for the civilian population
and grants asylum to Chinese refugees on Siemens company property.
1937 Siemens China Company had 275 employees;
it is the largest overseas company outside Europe
1913 Installed China's first hydro power plant in Yunnan Province
1910 Founded Siemens China Electrical Company
1904 Opened first representative office in Shanghai
1899 Constructed China's first tram line in Beijing
1879 Delivered and installed China's first generator for the
illumination of Shanghai Harbour
1872 Supplied the first pointer telegraph to China

中国に対して武器輸出を行っていたのはドイツのハプロ社です。

■ラーベの日記の作為的切り出し
>ラーベの話を聞いたドイツ大使館のシャルフェンベルク事務局長は、
「暴行事件といっても、全て中国人から一方的に話を聞いているだけではないか。」
と記しています。

1938年2月10日の記録です。このときドイツ人たちの帰国が目前になり、中国
人の救済にいつまでも熱心なラーベをシャルフェンベルク事務局長はうっとうしく思
い始めていいました。

この文章の少し前から引用してみます。

「氏は2月4日、安全区の立ちのき期日に役目を放棄して南京を去ることもできたの
だ。そのときに、氏の偉業はピークに達した。ラーベ氏にはこのうえない輝けるラス
トシーンが用意されていただろうに。《中略》

ラーベ氏も同じことを漢字、南京から出るための許可を取ろうとしているが、最近ま
たぶり返した日本兵による血なまぐさい事件を阻止するべく、相変わらず奔走してい
る。だが、そんなことは我々ドイツ人には一切もう関係ないことなのだ。ほかに頼る
相手がいなくなった暁には中国人は手のひらをかえすように日本人と兄弟のような交
わりをするのは目に見えているのだから。第一暴行事件といっても、全て中国人から
一方的に話を聞いているだけではないか。」

つまり、早く帰りたいからラーベ君いい加減にしようよ。と言いたいのです。ラーベ
が日本側から確認を取っていないという非難ではないのです。

ところで最後の文章は翻訳が少し不適当で「第一、すべての暴行事件は(一般に)中
国人から一方的に話を聞くものなのだから。」に近く、ラーベがことさら確認せずに
暴行事件を認めているという意味とは違います。

日本兵の延々と続く殺人と強姦、酸鼻をきわめる日本兵の犯罪について当のシャルフ
ェンベルクの記録は、南東大虐殺を生んだ背景をこう推測している。

『チンギス・ハーンを思い出してしまう。要するに「根絶やしにしろ」ということだ。
ある参謀部の中佐から聞いたのだが、上海から南京へ向かった補給部隊は本隊に追い
つかなかったそうだ。それで、日本兵はべルゼイガー(北欧神話に出てくる熊の皮を
まとった大カで狂暴な戦士)のように手当たり次第に襲ったのか。「戦い抜けば、南
京で美しい娘が手に入る」とでもいわれたに違いない』

二カ月半にわたる上海攻防戦で生死の淵をさ迷い、疲弊しきった兵士たちは、その
まま四百キロ道程を満足な食料の補給もないまま、南京へ向かっている。故郷へ帰る
期待を裏切られ、自暴自棄になったとしても不思議ではない。しかし、南京の虐殺は
一時の暴発的行為ではない。実に二カ月にもわたって延々と繰り返されたのである。
シャルフェンベルクも結局、こう結論づけている。

『部隊が統制を失ったからだ、ということはやさしい。だが、私はそうは思わない。
アジア人の戦争のやり方は、我々西洋人とは根本的に違っているからだ。もし、日本
と中国の立場が逆だったとしても、おそらく大した違いはなかったろう』


■ラーベの態度は「反日・親中国」ではなく「親中国人」の立場で一貫していた。

ラーベが取った日本に対する態度は当初は同盟国日本の立場も尊重し、中国民衆のこ
とをあまり考えていない中国政府に批判的だった。

『ラーベの日記』より
十月三日
『政府高官筋の人々、とりわけ蒋介石夫人の宋美齢はドイツにあまり好感を持って
いないという噂だ。ドイツが日本と防共協定を結んでおり、ソビエトと同席したくな
いという理由から、ブリュッセル会議への出席を拒否したからだ。「私たちの味方で
ない者はすなわち敵」と夫人は言ったという。それなら、ドイツ人顧問はどうなんだ?
(中略)北部ではろくに訓練されていない兵士が逃げ出しているというのに、上海付近
の軍隊は勇敢に戦っている。だれが訓練したと思っているんだ?

ドイツ人の軍事顧問だろうが! 南京から逃げずにがんばっているのは?ドイツ人の軍
事顧問と我々会社員じゃないか! こっちにいわせれば、南京に残るのはまさに犠牲
的行為以外の何ものでもないんだ。それなのにやつらはそれがどうしてもわからない!』

十一月二十八日
『昨日、蒋介石と話し合った結果について、ローゼンの報告。「防衛は、この町の
外側だけか、それとも内側でも戦うのか」という質問に対して、「われわれは両方の
場合にそなえている」という答えが返ってきた。
次に、「もしも最悪の事態になった場合、だれが秩序を守るのか、つまりだれが行
政官として残り、警察力を行使して暴徒が不法行為を行わないようにするのか」とい
う質問に対する蒋介石もしくは唐(生智=南京防衛軍司令官)の返事は「そのときは日
本人がすればよい」というものだった。
言いかえれば、役人はだれひとりここには残らないということだ。何十万もの国民
のために、だれも身をささげないとは……さすが、賢明なお考えだ! 神よ、ヒトラー
総統さえ力をお貸しくだされば! 本格的な攻撃が始まったら、どんなに悲惨なこと
になるのだろうか。想像もつかない』

日本に対して批判的なことを書いたのは、日本軍入城以来の蛮行を見てからでした。

十二月十六日
『武装解除した中国人兵士がまた数百人、安全区から連れ出され、銃殺されたという。
そのうち、五十人は安全区の警察官だった。兵士を安全区に入れたというかどで処刑
されたという。(中略)あたりー帯は文字どおり死屍累々だ。日本軍が手を貸さないの
で、死体はいっこうに片づかない。安全区の管轄下にある紅卍字会(民間の宗教的慈
善団体)が手を出すことは禁止されている。銃殺する前に、中国人元兵士に死体の片
づけをさせる場合もある。我々外国人はショックで体がこわばってしまう。いたると
ころで処刑が行われている』

『女の人や子どもたちが大ぜい、庭の芝生にうずくまっている。目を大きく見開き、
恐怖のあまり口もきけない。そして、互いによりそって体を温めたり、はげましあっ
たりしている。この人たちの最大の希望は、私が「外国の悪魔」日本兵という悪霊を
追い払うことなのだ』

十二月十七日
『アメリカの誰かがこんなふうに言った。「安全区は日本兵用の売春宿になった」。
当たらずといえども遠からずだ。昨晩は千人も暴行されたという。金陵女子文理学院
だけでも百人以上の少女が被害にあった。いまや耳にするのは強姦につぐ強姦。夫や
兄弟が助けようとすればその場で射殺。見るもの聞くもの、日本兵の残忍で非道な行
為だけ』

■ドイツ外交政策の変化
ラーベは何か底意をもって日本軍のことを悪く書いているような言い方ですね。しか
し、その当時日本の蛮行を非難し、中国人に同情を寄せたのは南京に残留した外国人
たちすべてでした。また、ドイツ大使館の職員も日本軍の残忍な行為が中国市民をし
て共産主義に走らせている、日本軍は愚行を冒していると本国に書き送っています。

第一次大戦後、ドイツは中国と政治的、経済的に結びつきを深めており、1936年
には中国の対外貿易の15%のシェアを持つに至ります。蒋介石率いる国民党軍はド
イツ人軍事顧問団の全面的支援を得て強大になりつつありました。日中戦争勃発は日
独、中国ドイツ間でねじれ現象を起こしました。

このねじれ現象はドイツが戦争を決意するに及んで日本を味方に付けるため、かって
の経済的利益、対共産主義戦略(中国は中共と戦い、ソ連を仮想敵国としていた)の
パートナーであった中国を全面的に見捨てる政策をとったときに解消しました。

このときドイツ外相はノイラートからリッベントロップに代わり、外務省で大幅な人
員の移動と解雇が行われています。人道的な立場から南京の実状を訴え、ヒトラー総
統閣下ならなんとかして下さる、と信じていたラーベは沈黙を強いられました。

  │     ├このスレッドの議題は人口についてです。 とほほ 2002/12/14 22:22:36  (修正1回) ツリーへ

Re: <第16師団長中島今朝吾の宿舎に対してさ... 返事を書く ノートメニュー
とほほ <yclfglvbxs> 2002/12/14 22:22:36 ** この記事は1回修正されてます
このスレッドの議題は人口についてです。
あなたが立論した「南京の人口は増えているから虐殺は無かった」と言う事が間違いである事は認めるのね?

  │     │├便衣兵や敗残兵による虐殺事件なら、おおい... ookumayuusuke 2002/12/14 23:28:48  ツリーへ

Re: このスレッドの議題は人口についてです。 返事を書く ノートメニュー
ookumayuusuke <snqgzmpety> 2002/12/14 23:28:48
便衣兵や敗残兵による虐殺事件なら、おおいにYESです。

  │     ││└南京の人口について聞いているのです。わか... とほほ 2002/12/15 00:27:22  ツリーへ

Re: 便衣兵や敗残兵による虐殺事件なら、おおい... 返事を書く ノートメニュー
とほほ <yclfglvbxs> 2002/12/15 00:27:22
南京の人口について聞いているのです。わかりますか?

  │     ││ └昭和12年12月13日、国際委員会第16... ookumayuusuke 2002/12/15 11:34:20  ツリーへ

Re: 南京の人口について聞いているのです。わか... 返事を書く ノートメニュー
ookumayuusuke <snqgzmpety> 2002/12/15 11:34:20
 昭和12年12月13日、国際委員会第16号文書、日本軍入城の際、安全区内に一般市民のほとんどが集まっており、其数、20万人。
 昭和13年1月7日、国際委員会第17号文書、「刻一刻と難民が急増している。」
 昭和13年1月19日、国際委員会第24号文書、「難民が5万人も膨れ上がって、最終的な人口は20万から25万人となった。」

  │     ││  └おかしいな・・・ ゆう 2002/12/15 20:12:02  (修正1回) ツリーへ

Re: 昭和12年12月13日、国際委員会第16... 返事を書く ノートメニュー
ゆう <pmyqfxtjon> 2002/12/15 20:12:02 ** この記事は1回修正されてます
おかしいな・・・


>昭和12年12月13日、国際委員会第16号文書、日本軍入城の際、安全区内に一般市民のほとんどが集まっており、其数、20万人。


「第1号文書」が12月14日ですから、「12月13日」の文書など、あるはずがありません。「16号文書(Z27)」にも徐淑希編の「16号文書」にも、この記述はありません。


>昭和13年1月7日、国際委員会第17号文書、「刻一刻と難民が急増している。」

「南京大残虐事件資料集2」P139〜P140所収。私には、いくら捜しても、このフレーズは発見できません。


>昭和13年1月19日、国際委員会第24号文書、「難民が5万人も膨れ上がって、最終的な人口は20万から25万人となった。」

「南京大残虐事件資料集2」P146〜148所収。同じく、このフレーズはありません。


「安全区の人口」=「南京市の人口」とすることの問題はさておいても、これはちょっとひどい。自分でちゃんと原資料を確認した上で投稿していますか?

  │     │└それ以前に、<当然彼らは上官反逆罪で軍法... ookumayuusuke 2002/12/14 23:47:39  ツリーへ

Re: このスレッドの議題は人口についてです。 返事を書く ノートメニュー
ookumayuusuke <snqgzmpety> 2002/12/14 23:47:39
 それ以前に、<当然彼らは上官反逆罪で軍法会議に掛けられていると思いますが、その後彼らにどのような刑が言い渡されたのか教えてもらいませんか。>の質問に答えてもらいませんか。

  │     ├ちなみに、43人の発電所職員を殺していた... ookumayuusuke 2002/12/14 23:43:59  ツリーへ

Re: <第16師団長中島今朝吾の宿舎に対してさ... 返事を書く ノートメニュー
ookumayuusuke <snqgzmpety> 2002/12/14 23:43:59
 ちなみに、43人の発電所職員を殺していたというこの事件、安全区委員会の記録(殺人事件25件、被害者49人)には含まれていません。信憑性ゼロの証言だということが安全区委員会でも判っていたみたいですね。

  │     ├伝聞の意味 タラリ 2002/12/15 00:02:36  ツリーへ

Re: <第16師団長中島今朝吾の宿舎に対してさ... 返事を書く ノートメニュー
タラリ <vgezpxzsqe> 2002/12/15 00:02:36
伝聞の意味
<またしても伝聞ですか。直接見たという人はいないみたいですね。>

はい、伝聞といってもいろいろな段階があるのですよ。例えば何人の人を通過した
のかわからない噂話。あなたの友だちが「オレの友人が、浜崎あゆがサングラスか
けて産婦人科に入っていたの見たという話を聞いた」というような段階。これは噂
が飛び交うような条件があり、目撃した本人を補足して確認を取るということが出
来ません。

しかし、あなたの友だちが「知人が昨日、顔から血を流してオレのところにやって
きて、『バイクで転んで頭を打った』と言っていた」と言った。というときあなた
は「これは伝聞である。知人が直接見たのではないからこれは嘘だろう」あるいは
「私は事故の現場を見たわけではないからこれは信用出来ない」と思いますか。

友人が嘘をつく必然性がなく、友人に尋ねればその知人を掴まえて真偽をただすこ
とが出来る状態にあるわけですから、まず真であるとして受け取るでしょう。

発電所職員の場合処刑されそうになった当人が語ったことです。まず他の職員が殺
されたという事実があります。「殺された、殺されそうになった」ということにつ
いてはそもそも嘘が成り立ちません。「日本兵がやった」にという件についての嘘
をつく必然性もほとんどありません。

なぜなら、ookumayuusukeさんの妄想のように中国兵が日本兵に化けて殺したとし
ても、生き残った中国人職員には化けていたことが丸わかりになるはずです。中国
兵が殺したとすれば同僚が殺され、自分も殺されそうだったのだから、恨みもある。
わざわざ「日本兵が殺した」といって中国兵をかばう必然性もありません。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

発電所職員は彼ら単独で殺されたのではなく、他の便衣兵容疑の民間人あるい戦闘
能力があると見なされた民間人とひとまとめに殺されています。この処刑は当然白
昼に摘出され、殺害されています。ということは中国兵が南京の混乱を狙ってわざ
わざ発電所職員に対するテロを行ったという状況にはないのです。

中国兵の集団が他の日本兵に紛れて便衣兵容疑の民間人を摘出し、かつ殺害するよ
うなことは到底考えられません。

  │     └泥棒集団と化していた日本軍 タラリ 2002/12/15 18:35:53  ツリーへ

Re: <第16師団長中島今朝吾の宿舎に対してさ... 返事を書く ノートメニュー
タラリ <vgezpxzsqe> 2002/12/15 18:35:53
泥棒集団と化していた日本軍

『中島今朝吾日記』12月19日記事より
(この日軍官学校内校長(蒋介石)官舎に移る。日本兵のカッパライについての文)
《前略》
一、そこに日本軍が又我先にと侵入し他の区域であろうとなかろうと御構ひなしに強奪して往く此は地方民家につきては真に徹底して居る 結[極]局ズフズフシイ奴が得といふのである

其一番好適例としては
我ら占領せる国民政府の中にある既に第十六師団は十三日兵を入れて掃討を始め十四
日早朝より管理部をして偵察し配宿計画を建て師団司令部と表札を掲げあるに関わら
ず中に入りて見れば政府主席の室から何からすっかり引かきまわして目星のつくもの
は陳列古物だろうと何だろうと皆持って往く

予は十五日入城後残物を集めて一の戸棚に入れ封印してあったが駄目である翌々日入
て見れば其内是はと思ふたものは皆無くなりて居る金庫の中でも入れねば駄目といふ
ことになる

一、日本人は物好きである国民政府といふのでわざわざ見物に来る唯見物丈ならば可
なるも何か目につけば直にかっは[ぱ」らって行く兵卒の監督位では何にもならぬ堂
々たる将校様の盗人だから真に驚いたことである

自己の勢力範囲内に於いて物を探して往くといふならばせめても戦場心理の表現とし
て背徳とも思はぬでもよかろうが他人の勢力範囲に入り然もす既に司令部と銘打ちた
る建築物の中に入り手平気でかっは[ぱ]らうといふのは余程下等と見ねばならぬ

こともあろうに師団長の宿舎にそれも将校様が盗みに入って来ると慨嘆する中島今朝
吾であった。後の文章では内山旅団司令部がやったと書いている。しかし、配宿計画
もなんのその各部隊は入り乱れてよりいい宿舎の取り合いが展開されていた。

かっぱらいを怒る中島であるが、自らも高価な家具を日本へ梱包して送っていたのだ
から、立派な泥棒様であった。

連隊、旅団単位で行われる宿舎、金目の物の取り合いに憲兵はなす術を知らなかった。
犯人が捕まったり、処罰を受けたりということはあり得ませんでした。

  ラーベの「感謝状」 タラリ 2002/10/27 23:02:12  ツリーへ

Re: 南京の人口と占領下の南京について 返事を書く ノートメニュー
タラリ <vgezpxzsqe> 2002/10/27 23:02:12
ラーベの「感謝状」
ラーベの感謝状なるものは歴史修正主義社のデマ本、デマサイトが繰り返し取りあげるネタです。原文を読めばラーベが日本軍に本気で感謝したなどという大嘘はすぐにばれる代物です。
 
「貴軍の砲兵部隊が安全区に攻撃を加えなかったことにたいして感謝申し上げるとともに、安全区内に居住する中国人一般 市民の保護につき今後の計画をたてるために貴下と接触をもちたいのであります。」

これが冒頭の部分であり、単に儀礼的な挨拶の一部にすぎません。また、安全区に対して砲撃はしなかったが、南京城内は激しい爆撃によって民間人の死者は多数出ているのです。入城してくる日本軍に「感謝」するとしたらこのことしかなかったのです。

この下には安全区の難民のための食糧、水、電気の確保についての要請が続くのです。しかし、それらは、それ以後ラーベがいくら交渉してもなかなか日本軍の協力が得られなかったのです。

ラーベの日記には日本兵の暴虐と、日本の南京統治を非難し、中国人たちに同情した記載で埋まっており、ラーベが書いたものの中で形だけでも「感謝」を示しているのはこの「感謝状」一つだけなのです。否定派がいかに馬鹿げたトリミングをしているかの好例です

   └単に儀礼的な挨拶?それは違うでしょう。中... ookumayuusuke 2002/12/15 00:00:01  ツリーへ

Re: ラーベの「感謝状」 返事を書く ノートメニュー
ookumayuusuke <snqgzmpety> 2002/12/15 00:00:01
 単に儀礼的な挨拶?それは違うでしょう。中国軍の無軌道な振る舞いと比べたら絶賛に値しますよ。

    └ラーベの「感謝状」なるものを実際に読んだ... タラリ 2002/12/15 00:14:26  ツリーへ

Re: 単に儀礼的な挨拶?それは違うでしょう。中... 返事を書く ノートメニュー
タラリ <vgezpxzsqe> 2002/12/15 00:14:26
ラーベの「感謝状」なるものを実際に読んだ上で「儀礼的な挨拶ではない」と本気で思いましたか? とすれば相当頭がおかしいですよ。

それから、この時点ではラーベは日本軍とは接触しておらず、中国軍との比較は一切しておらず、また出来るわけもないのです。絶賛に値するというのはookumayuusukeさん、自分の思いこみです。


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