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[新規発言 ] [問答有用(クマ板)へ ] [検索 ] [ホームメニューへ ] [旧思考錯誤へ ] 北村稔批判−『探求』序論に示された枠組みの問題点 タラリ 2002/12/02 21:39:20
├ ご案内。 とほほ 2002/12/04 01:23:45
└ ティンパーリーだと思うんだけどなあ しーほぁん ちょんくお 2002/12/05 04:17:07
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北村稔批判−『探求』序論に示された枠組みの問題点
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タラリ <vgezpxzsqe>
2002/12/02 21:39:20
前置き:前回第一部国民党国際宣伝処と戦時対外戦略についてを批判したが、そのとき、ティンパリーが南京にいてWHAT WAR
MEANSを書いたと誤って記してしまった。事実はティンパリーは上海にいて南京に入っていない。これは本書pp43にある記載をまだ、南京大虐殺の研究を始めて間もない私がそのまま書いてしまったからである。ただちに「南京大虐殺資料集掲示板」の常連の皆さんから指摘していただいた。 南京大虐殺を研究する歴史家なら常識に属するような事実を「板倉由明による『聞き書き』に基づ」いてすぐに信じるような、北村の基本的知識のなさを曝露するものであったことを指摘しておく。 そして、第三章以後に対する批判を書いているうちにどうしても、北村の本書を書くに至った動機や、手法自体に批判の目が向いてしまった。具体的な誤りの指摘は第三章の批判の中で書くとして、序論に示された枠組みについて一定の批判を済ませておこうと考えるに至った。(前置き終わり) #過去の侵略への「正確な歴史認識」を求める中国政府の要求は、敷衍していえば、このような侵略を生み出した明治以降の日本の政治体制と社会体制の持っている問題、すなわち日本近現代史の意味を自問せよと日本人にせまっているのである。pp10 #(「虐殺派」は)対外的な「政治姿勢」は反米(反安保)であり、pp11 この自問自体は正しい。しかし、中国政府が「明治以降の日本の政治体制と社会体制の持っている問題」を自問せよ、と日本人に迫っているという事実は寡聞にして私は知らない。南京事件ないし日中戦争に対して正しい認識を持つことは必要だ。しかし、そこから何を教訓とし、またしないかは中国が何を言おうとも日本人自身で決めることである。ところで、「虐殺派」が反米・反安保であるというにいたっては何を根拠に言っているのであろうか。むしろこういう決めつけを行うことに北村自身の南京事件に対する政治的立場が投影されていると言うべきであろう。 #国内において、「南京事件」が日本近現代史の踏み絵として機能する限り、筆者の研究には「政治性」が付与されざるを得ない。pp20 実は北村の研究の枠組みの作り方自体が、私にとっては始めからわかりにくい。 「南京事件」研究にまつわる「政治性」から一定の距離を保つ、という姿勢が北村の案件のひとつであった。筆者は「日本人」だから中国側から私の研究の「政治性」を免れないとまで考える。 私は個人はその生活史、生活環境において必ずイデオロギー的な磁場におかれており、どんな個人もそれを免れることなど出来はしないと考える。ただ、実証的な研究を通じて社会科学的な知識、理解が進むことにより彼が持つイデオロギー的立場が少しずつ変質(向上)するだけであろう。つまり北村氏がどのようなイデオロギー的立場から南京事件の研究をしようがそれは自由であり、研究によって北村自身の見解がどれだけ変わるか、どれだけ深化するかが問題なだけである。 #あれこれ考えてたどりついたのは歴史研究の基本に立ち戻るしかないということである。 #歴史研究の基本に立ち戻る研究とは、「南京での大虐殺」が在ったか無かったかを性急に議論せず、「南京で大虐殺があった」という認識がどのような経緯で出現したかを順序だてて確認することである。pp21 この条文も私にとっては謎である。なぜ1937−38年に南京で何が起こったかを精細に跡づけるという手法が駄目なのか。なぜ「大虐殺の認識」の出現を跡づけるという回りくどい道を選ぶのか。 北村は続ける。 #「南京事件」を確定したのは、南京と東京の戦犯裁判の判決書であった。pp21 どうやら、個々に分かれて認識されていた、虐殺をまとめて勘定したら30万人(20万人)になったのが南京と東京の戦犯裁判であった、ということを言いたいらしい。 #したがって、これらの判決書の内容を分析し、どのような論理の積み重ねで「南京事件」の全体像が認識されたのかを跡づけるのである。pp21 つまりは裁判批判ということか。(必ずしも否定的判断だけを志していると受け取っているわけではない)。私自身は1937年から38年にかけて南京で何がおこったかを研究するだけでいいという立場である。しかし、いまや、南京事件は様々な論客によって論じられており、戦犯裁判というエポックにおいてこの事件を解明しようという試みもまんざら否定できないだろうと考える。先を読んでみよう。 −−−−−−−−−−−−−−−−−− そのために #1.証拠資料の出現した背景を確認し、その証拠能力を検討するための知識を得た。 #2.この準備のもとに、証拠資料を「常識」に基づいて検討した。 #3.筆者(北村)のいう「常識」とは、人間が一定条件のもとで引き起こしうる行為の「質」や「規模」を、「実態に近い範囲に」認識できる判断力である。また証拠資料の内容に基づく論理展開の「整合性」を、認識できる判断力である。 −筆者は社会生活を営む大多数の人間にはこの判断力が備わっていると信じる。 −日本では停止中であるが、陪審裁判における有罪か無罪かの事実認定は、民間人から抽出された陪審員の判断力に委ねられている。pp22 −−−−−−−−−−−−−−−−−−− #1.の「証拠資料が出てきた背景」「証拠能力の検討」についての考察をするための手続きとは何なのか。北村はこれについて触れていない。 私はこのための手続きとして私が正当と考えるものをあらかじめ提示しておく。この手続きも歴史資料一般を扱うときと同じ態度が必要とされる。証拠資料に関する個々の資料の吟味と他の資料との比較対照、それからとりあえず得られる歴史像の間を往復しながら「背景」「検討」を行う。それだけである。 ところで、北村は「背景」「能力」の考察に関して「証拠内容に対立する日本人の反対証言や、新しい提出証拠を援用しない」というのである。北村によればこれが中国人に対してこの研究が政治的立場に依らなかったことの証になるというのである。 裁判批判が正しい認識に至る方途であるというなら、証拠内容に反する内容であれ、補強する内容であれ、出し合ってどちらが真実かを見きわめることこそ、一定の政治的立場に依らないことの保障であろう。中国人に対してのみ用心深く中立を装う姿勢こそ疑念を持たせる。 ところで本論で検証していくが、北村はなんのことはない、「証拠内容に対立する日本の反対証言」も使っているのである。逆に、述べられてはいないが、証拠内容を補強する賛成証言と新証拠についても一切提出してないのである。これは驚くべき研究態度である。 #2.の歴史の研究の上で「常識」を持ち出すことの意味は何なのか。一般市民の常識によって南京事件の全体像を判断に委ねるのもあるいはいいことかも知れない。しかし、陪審員の判断に委ねるためには検事側、弁護人側が自己に有利な証拠を余すところなく示し、論理を尽くすことが必要である。 歴史研究における検事、弁護人とは研究者その人である。研究者たるものはその事件に関する史料群を通覧し、そこから得られる事件像に照らしながら、再び資料の重要性、証言能力を問い返しつつ、さらに精選された事件像を再構成する。この過程には素人的な「常識」が入り込む余地はない。 なぜなら、「常識」というのは第一に社会人として通常持ち合わせる知識群であり、歴史を判断するにはけっして十分とはいえない。第二に、それはしばしば一定の誤解や偏見さえも入り込んでいる。例えば犯罪があればまず外国人を疑うなどの「常識」さえあるのである。研究者にとって必要なのは一般的な「常識」ではなく、それまでに蓄積された知識群と研究の経過で蓄積される専門的知識である。また、訓練された資料の読破能力と論理構成力である。その結果として発表された研究書においてはじめて、いわゆる常識のある社会人に十全の説得力をもって示すことが出来るのである。 結論を先に言ってしまうと、北村の「常識」なるものの中には、偏見が混じり込み、読解力が決定的に不足していた。 最後に【「南京事件」を確定した三種類の証拠資料】について述べると、三十万人説を最初に提供したのは国民党政府の現地調査であり、中国における法廷であった。北村はこの二種類の資料は現在すべては公開されていないという。とするならば、北村が三十万人説の発生はいつからと問うには決定的に資料不足なのである。ところが、このことに対する反省・留保はこの本のどこをとってもついぞ述べられてはいなかった。 被害側である中国側資料の重要性は言うまでもない。公開された資料が少ないなら、それなりに戦後になって編纂された中国側資料も参照して、三十万人説の発生の根拠を補うのが当然であろう。ところが、そこにおいて裁判資料に限るという枠組みの設定が「政治的に」有効たりえるのだ。北村はずる賢く、公開しない中国の無責任をほのめかすかのようである。少なくとも南京裁判の資料は日本法務省に譲渡されながら、法務省が公開を拒否しているはずであり、そちらに対する批判こそ優先するべきだと思われる。
├ ご案内。 とほほ 2002/12/04 01:23:45 ツリーへ
└ ティンパーリーだと思うんだけどなあ しーほぁん ちょんくお 2002/12/05 04:17:07 ツリーへ