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  『正論』誌、平成14年11月号の阿羅雑文批判 タラリ 2002/12/19 18:09:19 
  『南京戦閉ざされた記憶を尋ねて元兵士10... タラリ 2002/12/19 18:13:25 

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『正論』誌、平成14年11月号の阿羅雑文批判 返事を書く ノートメニュー
タラリ <vgezpxzsqe> 2002/12/19 18:09:19
正論の平成14年11月号に『南京戦』を中傷する阿羅健一の雑文「『南京戦・元兵
士102人の証言』のデタラメさ」がネット右翼によってネタにしているらしい。最
近この反駁のためにコピーをした。随分いい加減な文章で呆れた。その反論内容を紹
介して、反駁する。


以下【1】−【13】までは冒頭の町田義成さんの証言に対する異論である。

【1】町田さんは、二年以上も服役していた。さらに伍長まですすんでいた。こんな
ことはありえない。

△二年以上の服役について。次の規定がある。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
兵役法の規定
第十九条 左ノ各号ノ一ニ該当スルトキハ服役ノ期間ヲ延長スルコトヲ得
 一 戦時又ハ事変ニ際スルトキ
 二 出師ノ準備又ハ守備若ハ警備ノ為必要アルトキ
 三 航海中又ハ外国ニ於テ勤務中ナルトキ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

他の証言にも二年以上務めたと思われる記述がある。また、同時に二年内外で伍長に
昇進する例が見られる。

第三十三連隊第三大隊 平山仁三郎 1914年10月生まれ
「昭和九年兵です。四月に朝鮮に渡り、満州に入って北上しチチハルまで行った。ハ
イラルまでも行ったことがある。満州のあとは中支やった。・・・わしはずっと第一
線ばかりで機関銃の射手でな。」

−除隊、帰国のことは語られていない。二年以上務めた可能性あり。

三十三連隊第一機関銃中隊 大川俊介 1913年3月生まれ
昭和八年兵で昭和九年の一月に入隊。久居に一年間いた。一期検閲をすんで昭和十一
年、十二年は満州で予備役として初年兵の訓練にあたる。満州から帰ってきてから伍
長になった。

−現役期間は二年未満だが、引き続き予備役として務めたと思われる記述である。そ
していつの時点かははっきりしていないが、伍長に昇格している。

第三十三連隊第三大隊 沢田好次 1913年1月生まれ
昭和八年暮れ、現役でチチハルの第三十三連隊本部指揮班に勤務。三月にハイラルで
毒ガス教育を受ける。ハイラルには昭和九年三月から十一年三月までの大概二年居ま
した。

−2年4ヶ月以上服役したことになる。

第三十三連隊第一機関銃中隊 吉井光之助 1913年10月生まれ
支那事変で二回目の召集を受けて、北支、中支に行きました。当時の階級は伍長で
《中略》昭和八年チチハルに行って二年、北支二年、・・・

−いったんは満期除隊ないし、帰休兵となったらしい。伍長昇格もある。

第三十三連隊第三大隊 金谷正敏 1914年2月生まれ
初年兵で、一期検閲までチチハルで、一年間幹部候補生と下士官候補の特別教育を受
けました。

−以下の話には除隊になった話は出てこずじまいで、兵隊の苦労が語られたあと、「
すぐ支那事変が始まり、歩兵になりましたが、」と続く。

第三十三連隊第一大隊外山武雄1914年2月生まれ

満州へ行って、それから支那事変で中支へ行ったんや。《中略》満州から帰ってきた
ときは英雄扱いやったな。その上伍長になってな。その頃は上等兵になって帰ってく
るだけでもたいしたもんやった。

−いったん除隊になったが、そのときには伍長に昇進している。

【2】歩兵第三十三連隊の第三大隊にいた町田さんだから、下関に進出したのは十三
日の午後遅くなってからだ、昼にはまだどの部隊も下関に進出していない。

「町田さんは十時に下関を目指して」と書きだしているのをあえて、十時には着いた
ように曲解して否定している。また、戦闘詳報の記述では午後二時半に「第二大隊
(二中隊欠)を前衛とし」入ったとある。つまり、第二中隊に続いてということを意
味する。

ちなみに『歩兵第三十三連隊史』では以下の記述である。
「連隊主力(二,三大隊)は、午後二時三十分、その先頭をもって下関に到着[略]
徹底的に殲滅の効果を挙げた。」pp409

この証言集で他の第三大隊兵士二人が、下関には「第二大隊も第三大隊もいた」と証
言している。そして、同時に「海軍の砲撃によって下関の岸壁が破壊されたり、味方
が撃たれたりしたので大声を挙げて止めさせた」という証言を残しています。
(これはこの証言集以外にもあり)。


【3】伍長に任官していたはずなのに、ここで町田さんは一兵卒になっている。

伍長という階級は最小単位である分隊、通常10名を束ねる最下級の下士官であ
る。この先いくらキャリアを積んでも昭和12年当時では特務少尉止まりだ。この
文章の中では、部隊の作戦命令がどうなっているかはあずかり知らない、どうこう
言う立場にない、というところで一兵卒に過ぎないという言葉が出てくる。特に無
理な言い方ではない。

【4】十三日といえば、ユー江門はまだ閉ざされたままだ。

△この主張の根拠は何だろうか。ユー江門を通って城内に入った記載は『南京戦』
に多数出てきた。実際にユー江門を見たひとが閉ざされていたといったのだろうか。

第三十三連隊歩兵砲 下村宇一郎
「太平門から入ると思っとったけど、太平門は土嚢が積んであって、わしらの部隊は
馬を使ってるので入れなかった。《中略》わしらは道がなかったんで、ぐるっと下関
へ迂回して入ったので、南京入城は遅れました。下関の時にはもう、城門の土嚢は全
部どけてしもて、とって入れた」

−歩兵砲を積む馬が通れた。

第三十三連隊第三大隊 金谷正敏
「南京城内は、陥落の当日に入ってちょっとしてから出て、翌日十四日にまた入りま
した」

第三十三連隊第三機関銃中隊 河田義一
「下関に着いたその日の明るい時に、ゆう江門から南京城内に入りました。わしらが
入城する時は城門は開いておったんです。外から見て右の門が開いてました。つまり
南通路が開いてあったわけ。その門はだいぶひろかったですな。《中略》城内に入っ
て掃蕩する時には機関銃を分解して持ち歩きました。《中略》私らは小銃中隊の兵隊
と一緒に入城しました。小銃隊の兵隊が支那の兵隊を銃剣で突き刺しているのを目撃
しました。男はみんな捕まえてましたな」

−「外から見て右の門」と具体的な指摘がある。

第三十三連隊第一大隊 藤井次郎
それは下関です。ユウ江門って門があったわね。《中略》城内に残ってるのは、本当
によう動かん婦人、年寄り、若い人たちでしたね。《中略》そのまま掃討に入るが・
・・

第三十三連隊第三大隊井戸直次郎
南京陥落の日じゃった。城内にはいる時、・・


【5】城壁の高さが違う。10mだのに25mと言った。

城壁の高さは14−20mくらいである。ユウ江門あたりの城壁の高さがいくらかわ
からないが、25mと認識された、あるいは記憶が変わったとしても、証言の信憑性
に問題が生じるようなことではない。

【6】南京に租界はなかった。

12月13日に城内に入った兵士は「外国の権益」を侵害してはならないという注意
を受けている。このことを租界と同じように受け取ったと思われる。証言の信憑性に
問題が生じるようなことではない。

【7】町田さんが難民収容所から中国兵を摘出できるはずもない。

十二月十三日当日は城外の戦闘が終わったばかりである。その日に戦闘が終了する見
込みがあったとは思われず、城内における部隊の掃討範囲が確立していたとは考えら
れない。第三十三連隊は上記のごとく、短時間城内で掃討を続けており、「掃討範囲
の取り決め」をもってこの掃討を否定することは出来ない。

なお、第三十三連隊の戦闘詳報と連隊史にはこの日の入城、掃討を記述していないが、
被害者側の証言としては以前より十三日の難民区掃討を伝えるものがある。加害者・
被害者証言の一致である。

■潘開明による被害者側証言
侵攻当時は20歳そこそこの人力車夫であった。12月12日国民政府の呼びかけで
鼓楼二条巷の難民区に移ったが、翌13日、起居していた家屋の玄関前にいたところ、
現れた日本軍にいきなり連行されたという。

筆者の質問に対して潘は、逮捕されたときには何の取り調べもなく、侵入してきた日
本軍は青年と見れば誰彼の区別なく片っ端から連行していったと協調した。大方巷の
華僑招待所に一時監禁された潘は、その後、15日の日に三,四百人の青年といっし
ょに後ろ手に縛られ、ゆう江門から下関を通って煤炭港の石炭集積場まで連行された。
気がつくと野積みされた石炭の山の上には何梃かの重機関銃がすえつけられており、
突然その一斉射撃が始まった。この機銃掃射によって大部分の青年が射殺されたが、
潘はじめ八名ほどのものがかろうじて生き残り、夜半にその場を脱出したという。
(本多勝一『南京への道』より)

【8】「伍長に任官されました」という言葉遣いがおかしい。

−本来なら「伍長を拝命しました」とでもいうべきところであろう。しかし、日本語
で自動詞と他動詞の誤用が起こるのはよくあることである。阿羅はご丁寧に自分に敬
語を使ったと曲解してみせる。

【9】「現役で入隊しました」という言葉遣いがおかしい。
【10】「現役で派遣されました」という言葉遣いがおかしい。

−「現役として入隊」「現役として派遣」とでもいうべきところである。

【11】「大召集」という言葉がおかしい。

−召集と動員という似た言葉があり、十二年八月は「大動員」といわれた。このよう
なとき大召集という言葉を誤って創作して使うのもよくあることである。事実他にも
「大召集」という言葉を使った証言がある。

【12】「剔出」という言葉がおかしい。

−おかしいのは阿羅が「兵の摘出」、「腫瘍の剔出」という使い分けがあると考えて
いることだ。むろんどちらも戦前は「剔出」だったのだが、難漢字をなくそうという
ことで「摘出」に変わったのを知らないで言っているのだ。

【13】「掃討」という言葉がおかしい。下関に達するまでは遭遇戦、追撃戦だから
「掃討」というのはおかしい。

−戦闘詳報でも「掃討しつつ」と書いてある。おかしくもなんともない。

△以上は冒頭の町田義成さんの証言否定の根拠として阿羅が書き連ねたことである。
【1】、【2】、【4】、【7】は事実関係に属することであるから、他の資料も駆
使して検証しなければならない。

■『南京戦』では従来は曖昧であったり、資料が乏しかった事実を明らかにしている。
検証には既に名の通った資料との突き合わせだけでなく、従来、軽視されていた資料
ないし省みられなかった資料とも突き合わせる必要がある。場合によってはそれらの
資料の重要性、真実性が明らかになるときもある。13日における難民区の掃討を確
定したのは潘開明証言との突き合わせによる。

自分が持っている知識を絶対化して、それと違う事実を一切否定しようとすれば、新
しい発見もなくなる。新しい証言・証拠が出たならば、その証言内容を精査し、今ま
でにあった資料すべてを見直し、突き合わせ、どちらが信憑性が高いか、言及能力が
高いかを元に判断すべきである。この証言集はその豊富な証言がお互いに支え合って
新事実を提示している。

他の項目は言葉遣いなどの取るに足らないことであるばかりでなく、阿羅の思い違い
なども含まれる。

【14】「ソ連製のチェッコ」というのはない。

−当時の日本兵は敵兵の持つ機関銃のことをチェコ、チェコと言い習わしていたから、
チェコと言えば機関銃のことと思ったものがいても不思議はない。

#特に日本軍兵士の中国戦線での話で"チェッコ機銃"という記述がとてつもなく
#多い事を考えると、かなり日本はこのZB26に苦しめられたのが想像できる。しか
#し、「水冷式のチェッコ機銃・・・」とかいう記載もあり、すべてがすべてこの
#ZB26とは考えられず、むしろ「舶来の機関銃=チェッコ機銃」という構図だとい
#うのが正解なのだろう。
http://homepage3.nifty.com/sweeper/gun/m_gun/zb26.htm

【15】「重機関銃を半時間も連続発射」はあり得ない。
「二時間も連続して撃てない」と同じなので省略。

【16】「重機関銃は歩兵と別」
 まだ確認していない。

【17】「わしら砲兵」
 まだ確認していない。

【18】「馬車が重砲を積む」
ユウ江門から入った時、死体をようけ[たくさん]見た。死体が五、六尺に重なっ
ていて、重砲を積んだ馬車がその上を通る。pp67

−重砲の重量では馬車に積載することは出来ない。馬で牽引していたことを手短に
「積んだ」と言っただけであろう。

野砲を牽引車で運ぶところもありましたけど、わしら馬六頭でした。砲身とか、車両
だとか、現在は分解できるが、当時は出来なくて馬で引いていた。pp174

【19】「鉄舟から垂直に縄梯子で降りた」
御用船から上陸用の小舟艇である「鉄舟」に降りたというのが正しく、『南京戦』の
他のページにはそう書いてある。これも本人がその当時、誤って認識したのか、証言
時の言い間違いなのかはっきりしない。

【20】「従軍慰安婦、パンパン」という言葉を使うはずがない。
南京戦当時の言葉より後年のこの言葉の方がピンとくる言葉になった。何の不思議も
ない。

【21】生年と入隊の食い違っている人も二十名ほどいる。

−最初から20人か調べてみたが、食い違いと見なせるものはなく、途中で止めた。

       生年     入隊(昭和)     _年兵     年齢
町田義成  1913.2   9.1.10     9      20 
古川康三  1912.12 12.8召集     12      24
平山仁三郎 1914.10  −          9     19,20
吉川定国  1915.9  10.12.1    10      20 
大川俊介  1913.3   9.1        8      20 
佐藤睦郎  1914.2   −          9      20
野田典吾  1915.11             8      22
田中次郎  1908.2   3                 20
三上翔   1919.6   −          (南京戦当時18歳)
沢田好次  1913.1              8      20
依田修   1916.11 11.12.10   11      20 
松田五郎  1914.4.  −        (11.7.9帰休除隊)
秋山源治  1915.1  10.12.1    10      20
谷山吉蔵  1916.7   −       
吉井光乃助 1913.10  8          8     19,20
出井孝一  1916.3  12         11      20
吉川克己  1913.12             8      21
岡崎茂   1915.5  10                 20
金谷正敏  1914.2   −          −       −
中川洋平  1915.12  −          −       −

兵役法の規定により19歳の場合と20歳の場合がある。古川康三さんは徴兵を何ら
かで免れていたのであろう(当時の徴兵率は国民の25%程度)、召集によって始め
て入隊したので24歳でよい。三上翔さんは南京戦当時18歳と若いが、徴兵適齢は
19歳または20歳であっても、17歳から入営できた。吉川克己さんは遠洋航海を
していた船員のため入隊が遅れたと思われる。岡崎茂さんは証言では21歳のとき入
隊というが、昭和10年には19歳か20歳のはずで数え年を言ったと思われる。

阿羅は徴兵適齢の規定を正しく理解しているのだろうか。兵役法の規定を掲げる。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
兵役法   第三章 徴集

第二十三条 戸籍法ノ適用ヲ受クル者ニシテ前年十二月一日ヨリ其ノ年十一月三十日
迄ノ間ニ於テ年齢二十年ニ達スル者ハ本法中別段ノ規定アルモノヲ除クノ外徴兵検査
ヲ受クルコトヲ要ス
2 前項ニ規定スル年齢ハ之ヲ徴兵適齢ト称ス

第二十四条 戸主ハ其ノ家族中毎年十二月一日ヨリ同月三十一日迄ノ間ニ年齢二十年
ト為ル者アルトキハ翌年一月中ニ、一月一日ヨリ十一月三十日迄ノ間ニ年齢二十年ト
為ル者アルトキハ其ノ年一月中ニ本籍ノ市町村長ニ届出ヅベシ戸主年齢二十年ト為ル
トキ亦同ジ但シ命令ヲ以テ定ムル者ニ付テハ此ノ限ニ在ラズ
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

【22】天野中隊長に関する兵士の話が違う。

これは噂話として口から口に伝えられた。詳細が違ったり、尾鰭がついて何の不思議
もない。

【23】纏足の若い女はいない。

これはpp275にある。清朝末期から纏足禁止令はたびたび出されたが、纏足が美人との
考えは漢民族に行きわたっており、なかなか廃れなかった。中華民国成立後に禁止令
が出されてようやく、廃れたかに見えたが、現在まだ70歳以上の人にごく少数、纏
足の婦人がいるという。1937年当時では少数ではあったが、確実にいた。

以上、馬鹿馬鹿しいのを承知であえて事実を確認しつつ、阿羅の無内容な揚げ足とり
を批判した。つまりは否定派論客が頻繁に引用する阿羅健一もネット右翼と同じ程度
の無知をさらけだし、虐殺・暴行証言に肝を冷やして、あらぬ限りの否定材料を書き
連ねたということだ。

  『南京戦閉ざされた記憶を尋ねて元兵士10... タラリ 2002/12/19 18:13:25  ツリーへ

Re: 『正論』誌、平成14年11月号の阿羅雑文批判 返事を書く ノートメニュー
タラリ <vgezpxzsqe> 2002/12/19 18:13:25
『南京戦 閉ざされた記憶を尋ねて 元兵士102人の証言』はニュースステーショ
ンでその内容が紹介され、証言ビデオも話題になった。ネット右翼があわてふためい
て否定のための妄想をネット上に垂れ流し続けたのは記憶に新しい。

阿羅健一の批判もこれらと同質、同根なのを確認するために紹介する。
今まで私が認知したり、直接、反駁に関与しただけでもこんなにある。

1.「11才の兵士がいるから嘘」、これは誰が読んでも誤植。誤植一つで本がすべ
  て嘘と決めつけるのもどうかねー。
2.「腰だめという言葉はない」。あった。佐々木到一の日誌にも出てくる。
3.「腰だめで撃つと銃口は天を向き、銃手は倒れる」。日本軍の射撃法のマニュア
  ルに出てくる。
4.「腰だめで撃つのは不適当」。至近距離からの捕虜射殺であり、撃てば当たると
  いう状況だから適切。逃げ出す捕虜には小銃で射殺するつもりだった。
5.「二時間撃てない」。連続射撃と言っても、三点射、五点射の繰り返しでそれも
  適当な冷却期間を置いて撃つのが常識。そのような射撃法で二時間撃ったことを
  「二時間撃った」と言ったと見るのが至当。

6−10は第三艦隊第十一戦隊第二十四駆逐隊所属の兵士の証言についてである。

6.「駆逐艦隊とはいわない」。証言者の所属を表す部分でそういう表記がある。聞
  き取り者はこの証言集では海軍関係はこの一人だけだったので、海軍の知識はあ
  まりない。だから誤記した。しかし、証言本文では駆逐隊と正しい表現であるの
  で、まったく問題ない。

7.「第三艦隊というのはない」。砲艦「比良」の艦長だった土井申二中佐が「『南
  京事件』日本人48人の証言」でそう書いている。

8.「海風は建艦したばかりで参加したかどうか」。海風は5月で間に合う。
9.「第十一戦隊が参加したという証拠がない」。海軍の戦闘詳報に出てくる。土井
  申二中佐が書いている。
10.「海風が参加したという記事を見ていない」。「南京戦史」に書いてあった。
11.「処刑した捕虜の死体にガソリンをかけて燃やすのはおかしい。」「石油の一
  滴は血の一滴だから、そんなことに使うはずがない。」射殺した生き残りを見つ
  けるために焼いて動くのを銃剣で刺殺した。合理的。「石油の一滴・・」の標語
  は昭和18年製。
12.「日本軍にガソリンなどなかった」。中国軍の塹壕にもあった。外国人邸宅に
  も備蓄があった。さらに100万都市南京には石油会社、ガソリンスタンドもあ
  った。
13.「戦略物資だから、厳密に管理されたはずだ」各部隊で競争のように略奪して
  気ままに使っていた。

というわけで、否定派諸君は愚にもつかないことであーだ、こーだ、と責め立てて来
るが、目下のところ、13勝0敗だ。

いや、まだあったぞ。証言ビデオを見て「80才にしては頭の髪の毛が真っ黒なのが
おかしい」というのがあった。すっ、鋭い、鋭すぎる指摘だ、降参だ。

否定論者は都合が悪い証言が出てくると、「嘘だろう、そんなはずはなかろう」とあ
らぬ妄想をかき立てて事実関係の精査もすることなく「捏造だーー」と書いてしまう
ものらしい。


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