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  南京市の民間人死亡推計 タラリ 2003/02/01 22:47:24 
  家族構成員数の減少による計算方法(1) タラリ 2003/02/01 22:50:24  (修正2回)

  南京市の民間人死亡推計 タラリ 2003/02/01 22:47:24  ツリーへ

南京市の民間人死亡推計 返事を書く ノートメニュー
タラリ <vgezpxzsqe> 2003/02/01 22:47:24
新人口論による「民間人死亡数」の推定 −序論−

現今、あらゆる虐殺否定論者が南京市の陥落時人口を20万(から25万)とし、3
月時点において人口の減少がない、もしくは増加が見られるとして「虐殺なし、ある
いは少数」と主張する共通の根拠としている。

しかしながら、陥落時人口−虐殺終焉時人口をもって、虐殺数の推定を行うには非常な
困難を伴う。以下にその理由1−5を説明する。

1.第一に陥落時人口が確定しない。調査された、もっと易しい言い方をすると実際
 に人口を「数えた」資料がないわけです。挙げられた資料は人から人へ口伝えされ
 たものであり、その元をたどるとすべて個人の推測であり、陥落時に先立って行わ
 れた予測です。
  諸説がありますが、少ないものではアベック女史の15万人、多いものでは65
 万人くらいまであります。

2.また、虐殺終了時の人口は両派でもある程度の共通認識はあるものの、17−3
 0万人までの幅があります。陥落時と終焉時の人口の取り方如何で、30万人殺さ
 れたというものから、数千あるいは数百人しか殺されなかったという極論まで出る
 わけです。

3.また、問題を複雑にするのは南京市の範囲です。ある資料が人口について述べて
 いても、その範囲が城内か、安全区か、城区(城内と下関、城壁のすぐそば)か、
 判断が難しいことです。

4.多くの資料が南京の人口に触れていますが、ほとんどは城内ないし、城区(城内+  下関+城近傍)の人口で城外郷区の人口を述べた資料はほとんどありません。

5.また、南京市は閉じられた領域ではなく、陥落後に市民、農民が身の安全を求めて、 移動したことがことをいっそう複雑にします。移動には次のものがあります。

 @城外郷区の主として農民が南京市外へ避難、脱出する
 A城外近傍の市民・農民が城内に入り、安全区に住みつく
 B南京城内の非安全区から安全区への移動

 南京市が閉じられた領域でない以上、仮に陥落時と終焉時の人口を確定することが
 できても、郷区からさみだれ式に市外へ流出した人口を確定しないと虐殺人口はわ
 からないのです。

 ここに、虐殺否定派が実は薄弱な根拠しかない「陥落時人口20万人説」をかざし
た場合でも、反論、説得が極めて難しくなる理由があります。 

では、人口論以外に虐殺人口を特定する手だてはないものか。実は人口論の他にも
 @殺戮の記録または証言による目撃情報
 A遺体数のカウント
 B埋葬数のカウント
などが虐殺数の推定に使われる。この3つは同じもののように思えるが、少しずつ
違うことを確認して欲しい。殺戮は殺したと思った数、遺体数は死体を数えた数、
埋葬数は死体を埋めた数のことである。

どれも、複数の証言があり、その数が違っていたり、どの殺戮事案が他の証言のど
の殺戮事案に相当するのかが不確定だったり、埋葬については虚偽の報告かもしれ
ないものや、二重のカウントなどの可能性が指摘されている。逆に遺体から殺戮が
推定されるが、まったく記録・証言がないものもある。結局、どれも決めてに乏し
いのである。

だから、少なくとも同じ人口論の土俵の中でもって、「陥落時人口 マイナス 虐殺終
焉時人口」に代わる、別種の人口論によって、確実に「人口論による虐殺否定論」
を葬りさるのが私の目的である。

そのための第一が人口の回復の遅れを他の都市(香港、広島、無錫)と比較してそ
の原因を推定する人口推移論であった。

第二が家族構成員数の急減と回復の推移から虐殺数を推定する今回の試みです。

  家族構成員数の減少による計算方法(1) タラリ 2003/02/01 22:50:24  (修正2回) ツリーへ

Re: 南京市の民間人死亡推計 返事を書く ノートメニュー
タラリ <vgezpxzsqe> 2003/02/01 22:50:24 ** この記事は2回修正されてます
家族構成員数の減少による計算方法 (1)

南京市政府と警察庁は南京戦前後において、継続的に信頼の出来る人口統計を取って
いる。この人口統計には毎月の総人口、男女別人口、戸数が報告されている。ここか
ら、1戸当たりの家族構成員数の二次的パラメーターが算出できる。そして、家族構
成員数の性質を検討するに及び、この資料から現在考えられる、最も信頼出来
る民間人死亡数の推定が可能であることがわかった。
 
 #ところで、南京市政府と警察庁の資料は市来道義氏の『南京』においては、表に
 #よって表示が「南京市政府」と「警察庁」と区別がなされているが、両者の数字
 #は同時期でほぼ同数であり、かつ警察庁は南京市政府の組織内にあるものである
 #から、以下の論考では区別を行わず、単に「市政府」とのみ表記する。

1.1戸当たりの家族構成員数の安定した性質について

1戸当たりの家族構成員数は結婚、出産、死亡の割合、家族観、住宅事情などによっ
て、規定されており非常に安定した数字である。そのことは、時間的に他の都市の例
として広島市を例にとるならば、戦争、原爆被災を挟む時期である昭和元年から30
年における家族構成員数が、3.9人から4.6人であり、昭和20年から30年に
は3.9人から4.1人であった。また地理的には中国国内では1947年の中華民
国年鑑では、大部分の省、都市において5人台であり、地域的にも安定していること
を示されている。

この数字は単なる人口の流出入では容易に変化しない。南京においては首都になるこ
ろから男性単身者多数が流入し、短期的には低下傾向が予想されるが、その後数年し
ておこる結婚、出産の増加によってその効果は数年のうちにうち消された。

この数字が著しい低下を見るのは、自然災害、戦乱によって人命が失われるときだけ
といっていい。

ゆえに、自然災害、戦乱による人命の喪失はその数の聞き取りによらなくとも、人口
統計によって平時の家族構成員数からどれだけ低下したかを調査し、それに戸数をか
ければただちに概数を算出できる。

2.1938年8月時点における死亡者数の推定
南京戦の前に市民の避難が、後に帰還があったのはすべての人が認めるところである。
もしも、南京戦において民間人の平時を上まわる死亡がないとすれば、1戸当たりの
家族構成員数は変わらなかったはずである。いま、戦前の起算時点をとりあえず19
37年3月にとる。このとき5.078人であった家族構成員数は1938年8月時点に
おいて、1.067人の減少が起こっている。民間人の過剰死亡がなかった場合は1938
年8月の戸数76,677がもともと擁していた人口は307,546人ではなく、389,366人だっ
たはずである。したがってその差81,820人が76,677戸から失われた死亡者である。

計算式

@ 元人口(当月の戸数がもともと持っていたはずの人口)=当月の戸数 × 5.078 

A 推定死亡数 = 元人口 − 人口

1938年8月の例
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
              1戸当たりの    家族構成員の
年月   戸数  人口   家族構成員数 元人口 喪失員数 死亡者数
1937.03  200,810 1,019,667 5.078
1938.08  76,677  307,546 4.011 389,366  1.067   81,820
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

ただし、この死亡者数はあくまでも1938年8月までに南京市内に残留または帰還
した南京市民の家族中から失われたものである。

3.1938年8月以降の死亡者推定

1938年8月の後に破壊された家族と正常な家族が種々の割合で混合して帰還して
も、この計算から正しく、破壊された家族から失われた死亡者数を算出することがで
きる。

 #「破壊された家族」とは家族の構成員を失った家族のことを言う。南京における
  戦争被害を調査したスマイスが戦争がこの言葉を使っている。

a.正常な家族の家族構成員数は平均5.078人であった。正常な家族のみ4000戸が復
帰すると、戸数は4000、人口は20,312増えるが、

      戸数  人口  家族構成員数 元人口    死亡者数
1937.03  200,810 1,019,667 5.078
1938.08  76,677  307,546 4.011  389,366     81,820
*帰還後  80,677  327,858  4.064  409,678     81,820

 元人口は増えても推定死亡者数は81,820人のままなのである。

b.破壊された家族のみ4000戸が帰還し、帰還戸の家族構成員数は3.42人であったとす
る。すなわち、帰還戸からは4000 × (5.078−3.42)/3.42 = 6632人 の家族
が失われていた。
 戸数は4000、人口は13680人増えるが、

      戸数  人口  家族構成員数  元人口  死亡者数
*帰還後  80,677 321,226  3.981    409,678   88,452

死亡者数には失われていた帰還戸中から失われていた家族数が正しく足されている。

c.破壊された家族1000戸(帰還戸の家族構成員数は3.42人)と正常な家族3000戸が
帰還した場合。帰還戸からは1658人が失われていた。戸数は4000、人口は
1000 × 3.42 + 3000 × 5.078 =3420 + 15234 =18654人増える。

      戸数  人口  家族構成員数  元人口 喪失員数 死亡者数
*帰還後  80,677 326,220  4.044    409,678 1.014   83,478

※長々と例示したが、これは、ちょうど二つの濃度の異なる塩水を足しても、二つの
溶液の量と濃度がわかっていれば二つを混ぜ合わせた溶液中の塩分がわかるというの
と同じ原理である。

4.すべての死亡者の推定のために
すべての民間人死亡者数を推定するには、避難した「もともとの南京市民」がすべて
帰還を果たした時点において上述の方法で元人口と死亡者数を計算すればよい。それ
では、「もともとの南京市民の数」はいったいいつの時点の人口と設定すべきなのか、
また、すべて帰還したときというのはどのようにして決定するのか。

それは毎月の帰還者ないし流入人口における家族構成員数がおおよそ5.078人に上昇
し、推定死亡者数の月毎ののびが停止したときのはずである。これには、実際、計算
を連続してその時期を見つけるしかない。

少し長くなるが前述の方法で1月ごとの計算を提示する。

年月   戸数   人口  構成員数 元人口 喪失員数 死亡者数
1938.08 _76,677  307,546  4.011  389,366 1.067 81,820
1938.09 _87,550  349,655  3.994  444,579 1.084 94,924
1938.10 _92,706  372,065  4.013  470,761 1.065 98,696
1938.11 101,818  409,817  4.025  517,032 1.053 107,215
1938.12 108,090  438,013  4.052  548,881 1.026 110,868
1939.01 112,597  458,940  4.076  571,768 1.002 112,828
1939.02 113,847  466,153  4.095  578,115 0.983 111,962
1939.03 116,319  486,208  4.180  590,668 0.898 104,460
1939.04 120,870  507,718  4.201  613,778 0.877 106,060
1939.05 123,158  517,442  4.201  625,396 0.877 107,954
1939.06 123,144  507,843  4.124  625,325 0.954 117,482
1939.07 123,702  510,177  4.124  628,159 0.954 117,982
1939.08 126,524  524,050  4.142  642,489 0.936 118,439
1939.09 131,387  544,047  4.141  667,183 0.937 123,136
1939.10 132,403  552,287  4.171  672,342 0.907 120,055
1939.11 135,027  569,039  4.214  685,667 0.864 116,628
1939.12 135,318  576,347  4.259  687,145 0.819 110,798
1940.01 136,709  586,957  4.293  694,208 0.785 107,251
1940.02 136,990  588,777  4.298  695,635 0.780 106,858
1940.03 136,682  589,971  4.316  694,071 0.762 104,100

この表のサマリー

(1)月を追うにしたがって、戸数、人口、家族構成員数、元人口は上昇した。
(2)世帯当たりの喪失員数は減少した。
(3)一方、推定死亡者数は8.1万人から1939年9月の12.3万人まで上昇
し、以後は減少に転じた。

この表から生じる疑問
【1】とりあえず、計算の起算点は1937年3月にとったのだが、問題はないだろ
うか。陥落時に起算点を取らないために誤差が大きくなることはないだろうか。

 実は人口、戸数が違っていても家族構成員数さえ同じならば起算点はいつであって
も差し支えないのである。人口や戸数は常に動いている数字であるが、家族構成員数
は非常に安定している数字なのである。例えば、1931年から1937年3月までの間の家族
構成員数を示す。

年月    戸数     合計  家族構成員数
1931_   126,797   654,398  5.161
1932_   129,871   659,617  5.079
1933_   141,317   726,131  5.138
1934_   153,905   795,955  5.172
1935_   195,545  1,013,320  5.182
1936_   197,496  1,006,968  5.099
1937.03  200,810  1,019,667  5.078
1938.08_  76,677   307,546  4.011

変化幅 = (5.132−5.078)/5.078 ×100 = 2.048%

つまり、起算点が陥落時から離れていても、精々元人口に2%前後の誤差しか生じな
い。推定死亡数には数%の誤差におさまる。現在、1937年3月が陥落前で私が知る、
もっとも新しい数字であるためこの数字を使っているが、もちろん、新しい数字が判
明すればそれに切り替えることは容易である。

【2】推定死亡者数がある時点から減少に転じる理由は何か。

家族構成員数は結婚、出産、死亡の割合、家族観、住宅事情などによって、規定され
安定した数字である。しかし、破壊された家族が多い、戦後の南京市においては次の
ようにして破壊された家族の統合、婚姻、出産が進行して家族構成の修復、再構成が
しきりに行われたと考えられる。

1.結婚 
 男女の単身者の結婚では、世帯は2から1に減って家族構成員数が増加する。しか
し、二家族から男女1人ずつが出て、新世帯を構成する場合世帯は2から3に増えて
家族構成員数は減る。また、男子単身者が1家族から女性1人を引き抜いて新世帯を
持つ場合は世帯数は2のままなので、家族構成員数は変化しない。

2.出産
 通常の頻度の出産は家族内の自然死と均衡しており、家族員数の変化はない。急激
な結婚・出産ブームが起きるときにのみ増える。

3.破壊された家族の吸収
 戦争によって正常な家族の構成員が死亡し、孤児、孤老、寡婦、単身者などになっ
たものが、他の家族、あるいは親戚と同居し他の世帯に吸収される場合、家族構成員
数は増加する。

この1−3は戦後すぐの昭和21−23年頃の日本において顕著に観察された。1−
3の全体として家族構成員数を増やし、あるいは戸数を減らして1戸当たりの家族構
成員数を増やす動きが常に進行していたと考えられる。中でも3の要因が最も影響が
大であると思われる。


それゆえ、もしも、これらの家族構成の改変がないならば、元人口が十分大きくなる
まで、観察期間を延長すればよいのだが、1939年9月の推定死亡数12万300
0人以降は1−3の要因が働き、それ以上は追及できなくなるのである。これはこの
方法の限界である。実際は破壊された家族が優先的に帰還するわけではないから死亡
数はこれ以上だったと推定される。

それでも、得られた推定死亡数は1939年9月の資料から算出される元人口66.
7万人から考えるとまったく不満足な数字というわけでもない。というのは、193
7年10月末、11月末の南京市の人口は65万程度と見られる。この遠くには避難
できない貧民ばかりの数字と言われた。それより以前に脱出した南京市民は比較的遠
くに逃れており、日本軍の暴行を受けなかった可能性が高いのである。よって、元人
口がほぼそれに達した以上、真の死亡者数からそれほど遠くないと考えられるのである。
 #南京城区の人口は10月末53万人、11月末50余万人と言われ、その当時の
 #郷区の推定人口は約10万であった。

したがって、1939年9月の12万3000人以上をもってとりあえずの結論とする。              @@@@@@@@@@@@@ 

次の論考では今回は省略された、細かい補正作業を行う。


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