「歩兵第三十六連隊」は、「第九師団」の麾下、光華門の占領を行った部隊です。 その後、満州に移り、終戦は「大東島」で迎えたようです。
「会誌」を手に入れて読んでみたのですが、残念ながらここに収録されている「回想録」のほとんどが「満州」「大東島」の話でした。(戦場の体験談としては、結構面白く読めましたが・・・) それでもひとつだけ、「南京」に関するものがありましたので、紹介します。
「南京は指呼の間」(脇坂部隊第三次補充の回想) 鷲尾正
七、いわゆる「大虐殺」について 最近、南京戦が話題に出て、その生き残りの一人と分かると「ではあの大虐殺に加わったのですか」と質問されることがある。 三年位前、南京大学に留学中の日本の一青年から手紙を貰った。東京の大学を出て、ロンドンで二年間英語を身につけて帰国、一流商社マンになってから南京へ出かけた篤学の青年である。 中国人学生と寮生活を共にしていた。 手紙の中で問いかける。「本当に『大虐殺!?』はあったのでしょうか。」と。 私の回答が、大学当局や同僚の学友達の目に触れることを意識して、緊張を覚えた。 「自信をもって答えられることは、私自身それに手を染めなかったばかりでなく、現場を目撃したこともない。 当時の戦友たちと語り合っても同様の答が返ってくる。ある戦友は難民区を訪れて焼餅を買った思い出や、ささやかな加給品の菓子を子供に与えて喜ばれたことを懐かしげに語るのである。 勿論戦場における彼我の死屍累々たる惨状は戦争故に避けるべくもなかった。 光華門の例をとると戦場掃除の後、故伊藤善光部隊長以下の英霊を追悼する墓標が建てられ、少し離れたところに、中国戦士を悼む墓標も建てられていた。 入城後の方が皮肉にも攻撃中よりひもじい思いをしたが、私の周囲では略奪でそれを補おうとはしなかった。 帰国されたら「『南京大虐殺』のまぼろし」という本が、文芸春秋社から出ているので一読を、お勧めする」。そんな要旨の返事を出した。 脇坂部隊の戦友仲間で話し合う限り以上の通りなのだ。 しかしながら、私は昭和十五年九月から十九年八月まで南京の支那派遣軍総司令部参謀部第二課に勤務する間に、当時の派遣軍の他の兵団出身の歴戦の戦友とも宿舎を共にした。 敵脱出部隊の殲滅戦を担当した当時の現役中隊長の体験談には耳を覆わずにはおれない事実も聞かされた。 要するに、「見なかった」「やらなかった」ということと「無かった」ということは別なのである。 勿論、事実に伴う流説が膨大に増幅されたことも否めない。真に遺憾なことである。 (P107〜P108)
「戦友会誌」という性格上、「脇坂部隊の戦友仲間」の話を額面とおり受け止めることはできないかもしれません。
しかし注目されるのは、「敵脱出部隊の殲滅戦を担当した当時の現役中隊長の体験談」です。興味深い記述なのですが、これ以上の具体的な話が出てこないのが残念です。
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