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  12月13日、外国人の行動 ゆう 2003/02/16 19:04:58  (修正1回)
  ゆうさん、下記のフィッチの回想録の記述を... 渡辺 2003/02/16 23:49:15  (修正1回)
   └盲点でした(^^;	 ゆう 2003/02/17 21:36:06 
    └Re:盲点でした(^^; 渡辺 2003/02/18 02:32:39  (修正1回)
     └8月30日、渡辺さんの投稿 ゆう 2003/02/19 20:37:44 

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12月13日、外国人の行動 返事を書く ノートメニュー
ゆう <pmyqfxtjon> 2003/02/16 19:04:58 ** この記事は1回修正されてます
自分のHP用に上記題名のコンテンツを用意しています。「英文和訳」に対するアドバイスなど、ぜひ皆さんのご批評を賜わりたいと思いましたので、ここに投稿させていただきます。

(以前、「12月13日、ラーベの行動」という題の下に、旧「南京事件資料集」掲示板に投稿したことがありますが、スマイス博士の手紙を発見して認識がちょっと変わりましたので、あらためて投稿します)



ラーベ日記 12月13日 (「南京の真実」文庫版P122)

我々はメインストリートを非常に用心しながら進んでいった。手榴弾を轢いたら最後、ふっとんでしまう。上海路へと曲がると、そこにもたくさんの市民の死体が転がっていた。ふと前方を見ると、ちょうど日本軍がむこうからやってくるところだった。なかにドイツ語を話す軍医がいて、我々に、日本人司令官は二日後にくるといった。

日本軍は北へむかうので、われわれはあわててまわれ右をして追い越して、中国軍の三部隊をみつけて武装解除し、助けることができた。全部で六百人。武器を投げ捨てよとのめ異例にすぐには従おうとしない兵士もいたが、日本軍が進入してくるのをみて決心した。我々は、これらの人々を外交部と最高法院へ収容した。


この文章を見ると、ラーベたちが中山北路から上海路へ曲がったところで「たくさんの市民の死体」を発見し、そこで南から(安全区内を通って)進軍してくる日本軍と出会い、あわてて来た道を引き返して中国軍兵士を救った―そのようにしか読めません。

これでは、「十三日」段階で「日本軍」が安全区内に侵入し、かつ侵入以前に「市民の死体」があった、というおかしなことになります(東中野氏など、「徹底検証」P203以下で、早速噛み付いています)。

しかし、この翻訳を正確なものに修正し、さらに"EYEWITNESS TO MASSACRE"所収のスマイス博士の手紙などの資料と照合すると、 この日のラーベらの行動がかなり正確に見えてきます。以下、資料を紹介しながら、まとめてみます。


まず、スマイス博士の手紙から。原文は英文で、一応訳をつけましたが、何しろ学生時代以来英語にはご無沙汰している身、よくわからない部分も数ヶ所ありました(その箇所には、正直に(?)をつけています)。どなたかわかる方、ご教授いただけると幸いです。


"EYEWITNESS TO MASSACRE" P256 LEWIS S.C.SMYTHE

Monday morning,Dec. 13th
We went down Shanghai Road and found no Japanese soldiers on Kwangchow Road. Near the Seminary we found a number of dead civilians, about 20, whom we later learned had been killed by the Japanese because they ran. That was the terrible tale that day, any one who ran was shot, and either killed or wounded. Our instructions were off, but had not reached the people! But among that street we found a Japanese soldier, riding nonchalantly along on a bycycle with rifle strapped over his back. We hailed him, and he told us we would find an officer on Han Chung Lu near Sing Kao Ko. Sure enough we found a detachment of about 100 men sitting on the south side of the road, and a large group of Chinese civilians on the opposite side looking at them. We tried to explain to the officer the Zone and drew it on his map of Nanking, note it was not on his map. He said the Hospital would be all right if there was no one in there that shot at the Japanese. About the disarmed soldiers he could not say.

12月13日 月曜日
我々は、上海路を下り、漢口路には日本兵がいないことを認めた。神学校のそばで、我々は約20体の市民の死体を見つけた。あとでわかったことだが、彼らは、走り出したがゆえに日本兵に殺されたのだ。恐ろしい話だった。その日、走り出すものは誰しも、撃たれて、殺されるか傷つけられるかしたのだ。我々の指示は無視され、人々に届かなかったのだ!(?) しかし通りで、我々は一人の日本兵を発見した。彼は、背中にライフルを結び付け、無関心げに自転車に乗っていた。我々は彼を大声で呼び止めた。彼は、新街口近くの漢中路に将校がいる、と言った。はたして我々は、約100名の部隊が通りの南側に腰掛けているのを発見した。中国市民の大集団が通りの反対側から彼らを見ていた。我々は将校に安全地帯のことを説明しようと試み、彼が持つ南京の地図に記入した。彼の地図にはその表示がないのに気付いたからだ。(?) 彼は、日本軍に撃たれた者がいない限り病院のことは心配するに及ばない、と言った。武装解除された兵士については彼は何も言えなかった。(「ゆう」訳。(?)はよくわからなかった部分です)


次は、「戦争とは何か」所収の、フィッチの手記です。

十三日の午前一一時、安全地区にはじめて日本軍の侵入が知らされました。私は委員会のメンバー二人と一緒に車で彼らに会いにゆきましたが、それは安全地区の南側の入口にいる小さな分遣隊でした。彼らは何の敵意も示しませんでしたが、その直後には、日本軍部隊の出現に驚き、逃げようとする難民二○人を殺したのです。
(「南京大残虐事件資料集 第2巻」 P29〜P30)


さらに、ラーベ自身が書いた、国際委員会文書。

国際委員会文書 (T6、J9) 12月17日

十二月十三日午後、日本兵が隊長とともに漢中路で休憩中であるのをみました。われわれは隊長に地区の所在地を説明し、彼の地図に記入させました。われわれは三つの赤十字病院にかんして隊長の注意を丁重に喚起し、武装解除された兵士のことを話しました。彼の方でもくり返し保証するので、貴軍においてはいっさいが了解ずみと当方は考えました。(ラーベ)
(「南京大残虐事件資料集 第2巻」 P125 なお、Tはテインパーリ、Jは徐淑希による文書番号です)


最後に、ラーベの「ヒトラーへの上申書」。なお、こちらの方が、「日記」のオリジナルに近いものです。
 
私はアメリカ人数人と市の南部にでかけました。日本軍司令部と連絡をとり、また街の被害状況をざっと調べておこうと思ったのです。司令部はみつかりませんでした。自転車に乗った日本軍の前哨によれば、総司令官は三日たたないと到着しないということでした。中国人の民間人の死体がそこここにありました。いくつか調べてみたところ、至近距離から背中を撃たれているのがわかりました。たぶん逃げようとするところだったのでしょう。

(「南京の真実」文庫版P356。なお、ラーベはこのあと市南部の「夫子廟の手前」まで行き、「新街口」まで引き返したところで「何千人もの日本兵」が北へ行進しようとしているのを目撃し、安全区内を迂回して日本軍を追い越し、「山西道路ロータリー」で中国兵を武装解除しています)



資料間に微妙な食い違いはありますが、概ね以下のように考えて間違いないと思います。

1.12月13日昼前後、日本軍が進出した、との情報を受けて、外国人数人(ラーベ、スマイス、フィッチあるいはフォースター師)が、日本軍と接触を持とうと、上海路経由で出発した。

2.彼らは、「神学校」(おそらく、「安全区」の南端に近い、「金陵女子神学校」)付近で、20体程度の市民の死体があることを発見した。

3.安全区の南の境である「漢中路」に達した時、「自転車に乗った日本兵」に出会った。その日本兵から、新街口(漢中路と中山路の交差点。安全区の東南の端)に近いところに「将校」がいる、との情報を受けた。

4.新街口に近い漢中路の南側(安全区と反対側)に、100名ほどの日本人部隊がいて、それを中国人たちが北側(安全区側)から見ていた(日本軍が「安全区」を意識していたのかもしれません)。そこで「将校」(隊長)に対して「安全区」のことを説明し、「将校」の手持ちの地図に「安全区」を記入させた。

5.その後ラーベらは、市南部の「夫子廟」あたりまで出かけた。その帰路、「新街口」まで戻ると、そこに日本兵の大部隊(数千人)が北へ向かって進軍しようとしているのを見た。(「ヒトラーへの上申書」=「南京の真実」P357)

6.そこで彼らは、「安全区を通って回り道をし、急遽北へ向かうことにして、鼓楼病院の裏からふたたびメインストリートに出」て、「山西道路のロータリー」にいた中国人兵士たちを武装解除して救った。(「ヒトラーへの上申書」=「南京の真実」P357〜p358)



さて、問題となっている「ラーベ日記」を、英訳版から正しく(? (^^; )翻訳してみます。

ラーベ日記 12月13日
我々は、たいへん用心してメインストリートを下っていった。手榴弾がころがっており、踏みつけると空に吹き飛ばされる危険があったからだ。我々は上海路に曲がり、前進してくる日本軍へ向けて車を走らせた。上海路にはいくつかの市民の死体があった。ドイツ語を話す医者を伴なった日本軍部隊が、日本軍将軍はあと2日たたないとやってこない、と言った。日本軍は北へ向かって行進しているので、我々は彼らを迂回する横道に車を走らせ、武装解除することによって約600人からなる中国人の3部隊を救った。

(英語版からの拙訳です。渡辺さんの訳を参考にしました)


概ね、上のストーリーとぴったりと符合していることがわかると思います。「ドイツ語を話す医者」との出会いと「北へ向かって行進」する日本軍を追い越したことの間には、かなりの「省略」があるようです。

なお、「日本軍将軍はあと二日(三日?)たたないとやってこない」と言ったのは、「ドイツ語を話す医者」ではなく、「自転車に乗った歩哨」(ヒトラーへの上申書)である、と考えた方が妥当だと思われます。

  ゆうさん、下記のフィッチの回想録の記述を... 渡辺 2003/02/16 23:49:15  (修正1回) ツリーへ

Re: 12月13日、外国人の行動 返事を書く ノートメニュー
渡辺 <oogeblxyju> 2003/02/16 23:49:15 ** この記事は1回修正されてます
ゆうさん、下記のフィッチの回想録の記述を参考にしてください。
この本には、『戦争とは何か』に使われた「南京日記」(Nanking Diary)も掲載されていますので、その記述と食い違っているとは思いません。時間関係や場所の書き方や要約の仕方で、記述の内容が変わってくるのでしょう。

==========================
"NANKING DOOMED 1937-1938"
George A. Fitch, "My Eighty Years In China", Mei Ya Publications
First printing,1967, pp.100-101
Revised Edition, 1974, pp.94-95

At last the day came when shells from Japanese guns commenced falling inside the city walls. I went outside to watch them. They formed a perfect pattern, the explosions advancing in regular rows about twenty-five yards every half minute. They were coming from outside the south gate directly towards me. It was a little unnerving, for I couldn't help but wonder if they would advance all the way to where I was standing. To do so, however, they would have to pass through the Zone, and this the Japanese had promised not to do. Finally a few shells exploded in the southern part of the Zone, but then, to my great relief, they stopped.
In the meantime the attacking soldiers commenced coming over the great wall. I jumped into my car and drove down to see what damage had been done. At the southern edge a small advance detachment was approaching. The officer in charge spoke neither Chinese nor English and the little Japanese I had learned in my childhood was utterly inadequate. He brought out a map of the city and pointed on it to what was evidently the Safety Zone. It was gratifying to find that the Army had been informed about it and I felt we could hope for security. How wrong I was! When I turned to leave, two or three Chinese who were curious to see what was happening, turned and ran, afraid, now that I was gone. A couple of the Japanese soldiers shot them dead before they had gone fifty yards. This was disquieting, but it was nothing compared to what was to come.
=============

スマイスの日記のイタリックになっている note it was not on his map の部分ですが、note は原形ですから、「彼の地図には安全区の表示がなかったことに注意されたし」と読者に言っているのではないでしょうか。
フィッチの"NANKING DOOMED 1937-1938"にある記述のほうが、ラーベやスマイスの記述より時間的に前に来ると、解釈すべきだと思います。

   └盲点でした(^^;	 ゆう 2003/02/17 21:36:06  ツリーへ

Re: ゆうさん、下記のフィッチの回想録の記述を... 返事を書く ノートメニュー
ゆう <pmyqfxtjon> 2003/02/17 21:36:06
盲点でした(^^;

>フィッチの"NANKING DOOMED 1937-1938"にある記述のほうが、ラーベやスマイスの記述より時間的に前に来ると、解釈すべきだと思います。


フィッチ一行と「ラーベ・スマイス組」が別行動だったとは、全くの盲点でした。なるほど、フィッチと日本軍とのファーストコンタクトの後で「射殺事件」が発生し、「ラーベ・スマイス組」がその死体を目撃した、と考えれば、辻褄は合います。「50ヤード」ほど逃げたところを撃たれたようですので、「金陵女子神学校」の近く、というのも、概ね符合します。

(スマイスの手紙に、「馬に乗って銃を振り回す中国人将校、そしてその将校から銃を取り上げたハッツ」という、ラーベ日記と一致する話が出てくることから、二人は一緒に行動したものと推定しましたが・・・。このメンバーの組み合わせ、探ってみると面白そうです)


スマイスはこの日の午前にも「上海路と漢口路」の交差点に出向いたようですし(フィッチと一緒だったかどうかは、はっきりしませんが)、この日「外国人」たちは結構活発に動き回っていたようです。
 
"EYEWITNESS TO MASSACRE"は、ひょっとすると情報の宝庫かもしれません。頑張って、他の筆者の「十二月十三日」の記述も読んでみることにしましょうか(慣れぬ英文で、時間がかかって仕方がないのですが(^^; )。


*実はこの「ラーベ日記」の記述の不思議さは、私にとって、「南京事件」に取り組んだ当初からの大きな疑問点でした。1年がかりでようやく自分なりに納得できる回答を発見でき、嬉しく思っています(^^)。

**東中野氏は、フィッチの「難民二十人を殺した」の記述についても批判しています。

>もう一つは、フィッチの言う、日本軍の出現に驚いて逃げた避難民二十人が日本軍に殺されたという記述が、九号文書(ゆう注.J 9、ラーベの記述=「十二月十三日、外国人の行動」に引用済み)にはない。九号文書は公的な文書である。フィッチの記録は私的なものである。このように比較検討する時、フィッチの記述の不正確さがよく分かると言えよう。(「徹底検証」P202)

これがいかにアホな記述であるか、おかげでよくわかりました。そのうち、「ネタ」に使わせていただきます。

    └Re:盲点でした(^^; 渡辺 2003/02/18 02:32:39  (修正1回) ツリーへ

Re: 盲点でした(^^; 返事を書く ノートメニュー
渡辺 <oogeblxyju> 2003/02/18 02:32:39 ** この記事は1回修正されてます
Re:盲点でした(^^;

>フィッチ一行と「ラーベ・スマイス組」が別行動だったとは、...

あ、そうでしたか。以前、スマイスの日記を紹介したときは、そういうつもりだったんですけど...
ラーベ、スマイス、少し日本語のできるコーラの、少なくとも3人が、一緒にいたこということになりますね。

>"EYEWITNESS TO MASSACRE"は、ひょっとすると情報の宝庫かもしれません。

というより、イエール神学図書館の資料が、まだ十分刊行されていないということでしょうね。
ティンパーリーとベイツの書簡の原文を入手するには、どうやらイエール神学図書館に行かないといけないみたいです。マイクロフィルムが発売されているのですが、いまのところ、日本でこれを置いている図書館が見つかりません。
"EYEWITNESS TO MASSACRE"は誤植が多そうなので注意が必要です。多分原文が手書きの資料で読み間違いがあるのではないかと思います。
編者は、漢字で「章 開[さんずい+]元」(チャン・カイユエン)という人で、金陵大学でベイツに師事したと前書にあります。
「南京大虐殺60年東京シンポジュウム」での講演内容は、『南京事件をどうみるか』(青木書店)に「南京大虐殺を目撃した外国人―イェール大学進学図書館所蔵の文献評価―」(p.33-)という題名で掲載されています。
フィッチは中国生まれの中国育ちですが、スマイスやベイツの中国語能力はそれよりかなり落ちると思います。p.255で"pien ih"[?]となっているのも「便衣」の意味が分からなかったということじゃないでしょうか。
スマイスの日記で、問題の箇所の近くにある T'ehchiaopu と Chuinchengpu ですが、「鉄道部」(T'ie-tao-pu/Tiedaobu)と「軍政部」(Chun-cheng-pu/Junzhengbu)を意味しているようです。これは、誤植ではなく聞いたままを書いているようです。
(当時の英文資料では、多くの場合ウエード式表記が使われています。)
なお、ヴォートリンは直接現地の女性と接する必要があったので、会話はかなりできたと思います。ティンパーリーも、中国語には不自由しなかったはずです。

フィッチの"My Eighty Years In China"の初版の"NANKING DOOMED"には、"Nanking Diary"がケン誌とリ−ダーズダイジェストに掲載された経緯や、ティンパーリー主催のパーティーに出席、米国行きもティンパーリーが責任を持っていることなどが書かれています。しかし、邦訳されたのは、1970年代の、かなり短縮された改訂版で、その部分は削除されています。この資料は、初版からの邦訳がほしいところです。
北村稔教授が、フィッチが上海でティンパーリーとの「協議」について触れていないのは「国際宣伝処の影を消したのであろう」[p.56]と書いているのを読んだときは、苦笑しました。
苦笑したのは、書かれていないから怪しいという想像を平気で「歴史書」に書いてしまう、そういう姿勢に対してですが...
教授は、おそらく原書に当たっていないので、改訂版の内容は短縮されているという序文の説明を読んでいないのでしょう。

>九号文書は公的な文書である。フィッチの記録は私的なものである。...

これは、かなりレトロな(間違った)史料論らしいです (^^)

『中帰連』24号がまもなく出ますので、よろしくお願いたします。北村書批判の最終回になりますが、今回は、独創的な部分があまりありませんのであしからず...
なお、記事を書くに当たって埋葬記録の数字で、スマイスの都市部での調査の範囲外(巻末地図参照)のものを除き、スマイス報告にいう都市部に限りますと、紅卍字会と崇善堂の埋葬記録を合わせても4万以下なのですね。なるほど、スマイスやベイツが南京城内と城壁近傍での遺体数として4万何千という数字を言っていることに、納得が行きました。

     └8月30日、渡辺さんの投稿 ゆう 2003/02/19 20:37:44  ツリーへ

Re: Re:盲点でした(^^; 返事を書く ノートメニュー
ゆう <pmyqfxtjon> 2003/02/19 20:37:44
8月30日、渡辺さんの投稿


昨年8月30日に「旧南京資料集掲示板」でいただいた返信のことが、すっかり頭の中から抜けていました(^^; 。

http://members.fortunecity.com/kknanking/log/log09.html


渡辺 - 02/08/30 01:55:55

フィッチが、最初に日本兵に会ったのは、午前11時「安全区の南側にる小さな分遣隊」だったと言っています。『日中戦争史資料 9』p.29
詳しいのは、スマイス手紙の13日のところです。ラーベもいっしょにいた部分もありますが、みんなかなり忙しかったようです。
(中略)
スマイスたちは、南北の移動に上海路を使っていました。


渡辺 - 02/09/07 00:28:48

「上海路へと曲がったが、そこにはいくつかの市民の死体が転がっていた。そして、前進してくる日本軍に向かって車を走らせた。」
途中のいろいろなことが、省略されているのですね。
これは、わたしがまだ状況をよく把握していないときの訳ですので、「そこにはいくつかの」と、あたかも、すぐ「市民の死体」があったかのように訳しました。しかし、原文は英語訳とほぼ同じで、上海路のどこに「あった」かについては述べていません。結局、スマイスの手紙がすべてを説明しているようです。
「市民の死体」があったのは、安全区南端の漢中路(Han Chung Lu)近く(安全区内)の「先遣隊」が殺害した「20名」の遺体のことだというのが、結論になるでしょう。


しっかりと書いてありますね(^^; 。私の記述は、どうやら渡辺さんの「後追い」だったようです。


この日スマイスは、都合3回、上海路に出かけています。

第一回目、”Kwangchow Road”(私は「漢口路」だと思い込んでしまいましたが、もう一本南の「広州路」が正しいようです)で、「約6人の日本兵部隊」と出っています。この時にもう安全区内に日本兵が入り込んでいたとは驚きですが、「ヴォートリン日記」でも「午後四時」に金陵女子大のそばに日本兵が来たとの記述がありますので、「戦闘詳報」に残らないレベルの、孤立した小部隊の行動だったのかもしれません。(しかし、「彼らはバスを捜していた」”they were searching a bus"って、一体何なのでしょうね)

二回目は、フィッチ、ハッツとの同行です。約20名の中国軍兵士と出会っています。"pien ih"が「便衣」だったとは、考えつきませんでした(^^; 。「安全区の南端」で日本軍部隊と出会った話は、ここでは省略されているようです。

三回目は、ラーベらと。「日本語を少し話せる」コーラが同行しています。


・・・ということで、いいのかな。電子辞書を引きながら、もう少しじっくりと読んでみます(^^; 。
しかし、複数の資料を組み合わせると、当日の外国人の行動が、かなり見えてくる。「歴史研究」の醍醐味です。


とりあえず、「ラーベ日記」については、「誤訳」を訂正するなど読みやすくして(実は、他にもひどい「誤訳」をしています)、週末にでも、私のHPに加える予定です。何かお気付きの点がありましたら、ぜひ教えて下さい(^^)。

*T'ehchiaopu と Chuinchengpuのご指摘は、助かりました。このあたり、固有名詞がさっぱりわからず、苦労していますので(^^; 。


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