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  浦口におけるの虐殺の規模 タラリ 2003/03/31 00:25:06 

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浦口におけるの虐殺の規模 返事を書く ノートメニュー
タラリ <vgezpxzsqe> 2003/03/31 00:25:06
 1938年4月以降には南京市区の改正があり、浦口地区は省かれ、同時に従来の
南西から北東に少し細長い市区をほぼ丸い市区に変えたとされる。ただし、いつ実施
されたか不明である。したがって、南京市の被害を推定するのに、旧南京市域を対象
とするか、新南京市域を対象とするかという問題が出る。南京戦後の人口資料は新南
京市域で作られているから、被害人口の推定は新南京市域で行った方がしやすい。し
かし、日本軍が攻撃したのは「旧南京市」に対してであって、戦後に新市域を作った
としても、被害対象は旧南京市にするのが「すじ」であろう。

 新南京市域から削られた郷区は面積は無視できないが、人口密度は他の地区に比し
て希薄であり、その人口を確定する資料もないので考慮の範囲外とする。しかし、浦
口は交通の要衝となる衛星都市であり南京を避難したばかりで鉄道に乗るのを待って
いた避難民、また、揚子江をからくも小舟や筏で渡った兵士多数が待機していた。国
東支隊は南京城に向かう他の部隊と相前後して12月13日に浦口に殺到し、避難民
、兵士と浦口の住民多数を殺戮した。当然南京大虐殺のかかすことの出来ない一部で
ある。

 しかし、浦口を攻略した部隊の戦闘詳報では中国軍の遺棄死体数や掃討数について
かかれているが、どのくらいの規模の軍民の殺害があったのかはうかがい知ることは
出来ない。中国側の「虐殺現場地図」にも載っていない。しかし、南京人口志に見る
浦口の人口史料は特異である。ところで、これまたいつの時点は不明だが、浦口は
1946年までには再び南京市の中に組み入れられている。

1936年5月 南京人口政区分布 (南京人口志による)
      戸数        戸口    家族数
第一区  27,513   154,749  5.56    
第二区  18,549    95,586  5.15
第三区  17,297    98,219  5.67
第四区  27,892   148,675  5.33
第五区  31,082   155,020  4.98
第六区  14,334    78,081  5.44
第七区  19,223    95,669  4.97
第八区   8,784    35,919  4.08 ←浦口
燕子磯区 12,722    58,361  4.58
孝陵区   7,004    34,046  4.86
上新河区 13,542    64,823  4.78
合計  197,937  1019,148  5.14
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
城区  164,669   861,918 
郷区   33,268   157,230 


1946年1月
     戸数        戸口   家族数
東区 15,363   63,334  4.12
南区  29,199  135,819  4.65
西区  22,352  105,759  4.73
北区  10,698   44,413  4.17
中区  15,904   72,917  4.53
下関  10,921   50,622  4.63
浦口   3,479   15,129  4.34←
東郊   5,390   24,055  4.46
南郊  10,105   44,839  4.43
西郊  11,229   51,528  4.46
北郊   9,443   42,319  4.43
水上     904    3,630  4.58
計  144,987  653,974  4.48
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
城区 104,437  472,444
郷区  40,550  181,530

1)まず第一に人口回復が遅い。
浦口の人口回復は非常に遅れている。南京市ことに城内で回復が遅れているのは政府
機関関係者、富裕層など40−50万人が漢口、上海、香港などに脱出したからだと
言われている。浦口と条件が似ていると考えられる郷区ではとっくに戦前人口を上ま
わっている。とすれば戦前人口3.6万人と1946年人口の差は2.1万人はそっ
くり殺戮されたものと考えていいのではなかろうか。

再掲、まとめ
     1936年 1946年 回復率
南京市 102万人  65万人  64%
城内   86万人  47万人  55%
郷区   16万人  18万人 112%
浦口  3.6万人 1.5万人  41%

2)一戸当たりの員数(家族構成員数)が増加
区の変更があるため対応すると思われる区同士の比較しか出来ないが、他の地域では
すべて減少しているのにも関わらず、浦口だけは上昇しているのは異常である。大量
の殺害があれば家族構成員数の減少して当然である。浦口は歴史的にも他の地域に比し
て常に一戸当たりの員数は少なかった。それがかえって増加するということは、単に
殺戮による人口減少だけに留まらず、大量殺害の結果、入れ替わりに近い現象があった
のではあるまいか。

再掲、まとめ
     1936年   1946年
城区全体 約5.2人     約4.5人
第七区  4.97 → 下関 4.63
燕子磯区 4.58 → 北郊 4.43
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
第八区  4.08 → 浦口 4.34

浦口において大量殺戮があった資料・証言は数少ないが、元日本兵の証言を提示する。

『南京大虐殺 日本人への告発』 南京大虐殺の真相を明らかにする全国連絡会編
東方出版
南京戦に参加した元日本兵(八十歳 《注1992年当時》)福島県から参加。元
第十三師団・山砲兵第十九連隊第V大隊段列、つまり山田支隊であり歩兵第六五連隊
と行動をともにし、砲弾運びをされていた。

《 十二月十六、十七日に魚雷営で捕虜約五千人の「処分」をした後 》
 それに、いよいよ南京入場式も終わって、今度は浦口作戦、南京の川を渡って、
浦口という所に行って戦闘開始しなくてはならんというわけで、南京から船に乗って
浦口に渡ったのでありますが、驚いた事には、南京の川岸、まず六五連隊で殺した
捕虜兵どころではないんです。何万とも知れない死人の山です。石油、ガソリンをか
けて燃やした事と思いますが、とにかく見渡す限りの人の山です。あの光景は本当に
たいした、まず人を殺したもんだなと思う位、ほんに、誰も驚かざるを得なかったと
思います。


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