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  福田篤泰氏証言、三つのバージョン ゆう 2003/04/26 07:38:24  (修正2回)
  「ティンパレーの結婚」の件 渡辺 2003/04/27 02:33:51 
  │└RE:テインパーリ結婚の件 ゆう 2003/04/27 05:28:35 
  田中氏の「出所不明の追加」 ゆう 2003/04/29 09:19:08  (修正2回)
  │├板倉氏の電話インタビュー 渡辺 2003/04/29 13:44:27  (修正2回)
  ││└『档案』の原本 ゆう 2003/04/29 20:23:33 
  ││ └『ある軍人の自伝』 渡辺 2003/04/30 00:53:02 
  ││  └な〜んだ ゆう 2003/04/30 20:50:31 
  ││   └ゆうさん、こんばんは。 KOIL 2003/05/12 23:01:14  (修正1回)
  ││    └返事が遅れてすみません ゆう 2003/05/14 22:21:59 
  ││     └メールとかメールとかメールとか KOIL 2003/05/14 23:52:00 
  │└ゆうさん、こんにちは。名なし便衣兵です。 名なし便衣兵 2003/04/29 19:41:48 
  │ └はじめまして、「ゆう」です	 ゆう 2003/04/29 20:31:14  (修正1回)
  「現場検証」証言の検証 ゆう 2003/05/04 05:20:23  (修正1回)
  福田証言の検証(止) ゆう 2003/05/04 07:45:19 
   ├マギーの手紙の記述('37.12.19) 渡辺 2003/05/04 15:26:47 
   └バターフィールド・アンド・スワイア 渡辺 2003/05/04 16:01:19 
    └本題を離れますが・・・ ゆう 2003/05/04 19:32:21  (修正1回)

  福田篤泰氏証言、三つのバージョン ゆう 2003/04/26 07:38:24  (修正2回) ツリーへ

福田篤泰氏証言、三つのバージョン 返事を書く ノートメニュー
ゆう <pmyqfxtjon> 2003/04/26 07:38:24 ** この記事は2回修正されてます
「福田証言」は、しばしば否定派から「国際委員会記録」の信憑性を疑う材料として使われています。これをちょっと検討してみようと思い立ったのですが、とりあえず、微妙に異なる三つのヴァージョンがあることに気がつきましたので、投稿します。

第一のバージョンは、「一億人の昭和史 日本の戦史 日中戦争1」P261のものです。全文引用します。

*****************

ティンパレー報道の真相  福田篤泰(当時、外交官として中華民国在勤。現衆議院議員)

私が南京城内に入ったのは、陥落の翌日で、まだ市街戦が行われていた。上海から日本軍の進撃に同行していたのは、南京に残留している外国人を保護するために外務省の人間が必要だという軍の要請があったからだ。

私と、上海から同行した満鉄職員四人とは、入城後ただちに新街口の中国銀行南京支店に入り、ここで特務機関といっしょに領事館業務が再開する三月ごろまで合宿して電気、水道などをはじめ、市内の復旧にあたった。日高信三郎参事官らが船で上海から南京へ到着したのは陥落から四日後だと記憶している。

さて、問題の”残虐事件”のことだが、まずこれを世界に流したマンチェスター・ガーディアン紙の記者T・J・ティンパレーについていえば、彼は陥落直後、結婚のために帰国したいというので、日高氏が骨を折って軍にかけ合い、何とか出国証明をとって帰国させたのだが、このとき持ち出した資料をもとに『中国における日本軍の残虐行為』(一九三八年七月編集発行)を発表したと思われる。

残虐行為の現場は見ていないが、私はあれだけ言われる以上、残念ながら相当あったと思う。しかし私の体験からすれば、本に書いてあるものはずいぶん誇張されているようだ。

当時、私は毎日のように、外国人が組織した国際委員会の事務所へ出かけていたが、そこへ中国人が次から次へとかけ込んでくる。「いま、上海路何号で一〇歳くらいの少女が五人の日本兵に強姦されている」あるいは「八〇歳ぐらいの老婆が強姦された」等々、その訴えを、フィッチ神父が、私の目の前で、どんどんタイプしているのだ。

「ちょっと待ってくれ。君たちは検証もせずに、それを記録するのか」と、私は彼らを連れて現場へ行ってみると、何もない。住んでいる者もいない。

また、「下関にある米国所有の木材を、日本軍が盗み出しているという通報があった」と、早朝に米国大使館から抗議が入り、ただちに雪の降るなかを本郷(忠夫)参謀と米国大使館員を連れて行くと、その形跡はない。とにかく、こんな訴えが連日、山のように来た。

ティンパレーの原資料は、フィッチが現場を見ずにタイプした報告と考えられる。(注.『中国に―』の序文には、「本書作成に当っては、南京国際委員会の協力を得た」とある)

陥落直後の日本軍が非常に殺気立っていたことは確かだった。中国軍の抵抗は激しかったし、急な進撃で兵隊のなかにはボロボロの夏服でふるえている者もいた。途中、食糧は不足し、やせて悲惨な状況だったことが略奪の一因といえる。さらに、安全地区の難民に便衣兵が交じっていたことも事実で、日本軍がある家を捜索したら天井から鉄砲がゴッソリ出て来たこともあった。事件は、戦場という異状な状況が生んだ異常な出来事といえよう。

しかし、東京裁判でマギー神父が証言しているように、街路に死体がゴロゴロしていた情景はついぞ見たことはない。クリークに浮かぶ死体を見たことはあった。またマギー証言に登場する田中領事は、田中正一氏のことで、彼は陥落一ヵ月前くらいに漢口から来た人だ。(注.外務省人事課によれば田中正一氏は、昭和一三年二月二八日付で南京領事となっていて、昭和三二年に死亡している)。証言にある「一二月十八日」には南京にいなかったし、着任後もそんな話をきいたことはなかった。

ただ、各国の大使館はかなり荒らされていて、これには困った。各国外交団が南京へ戻るというので、二日間寝ずに修復したり、盗まれたオートバイや自動車を弁償したり、えらい苦労したものだ。軍のなかには、強姦している兵隊を見つけて、軍刀が曲がるほど殴りつけた参謀もあったというが、「殺せ、焼け」と言った師団長がいたという話を、中国人や参謀の一人から聞きもした。

入城後、松井軍司令官は、師団長を集めて「皇軍の赫々たる戦果はこの事件で水泡に帰した。陛下にご迷惑をかけて申し訳ない」と、泣いて訓示したと御厨(正幸)参謀から聞いた。この話を東京裁判で話したら、記録してくれなかったのが強く印象に残っている。(談)

*****************


次に、田中正明氏「南京事件の総括」のバージョンです。松尾さんのページで読むことができますので、ネットの世界では最も有名な版でしょう。しかしこの版、一見「一億人の昭和史」バージョンと同一のものであると錯覚しますが、よく見ると微妙に違っています。

*****************

こうした要望や告発の日本側の窓口は、当時外交官補佐の福田篤泰氏である。福田氏はのちに吉田首相の秘書官をつとめ、代議士となり、防衛庁長官、行政管理庁長官、郵政大臣を歴任した信望ある政治家で、筆者ともに昵墾の間柄である(東京・千代田区在住)。福田氏は当時を回顧してこう語っている。
 
 「当時ぼくは役目がら毎日のように、外人が組織した国際委員会の事務所へ出かけた。出かけてみると、中国の青年が次から次へと駆け込んでくる。
 「いまどこどこで日本の兵隊が15、6の女の子を輪姦している」。あるいは「太平路何号で日本軍が集団で押し入り物を奪っている」等々。その訴えをマギー神父とかフイッチなど3、4人が、ぼくの目の前で、どんどんタイプしているのだ。
 
 『ちょっと待ってくれ。君たちは検証もせずにそれをタイプして抗議されても困る。』と幾度も注意した。時には彼らをつれて強姦や掠奪の現場に駆けつけて見ると、何もない。住んでいる者もいない。そんな形跡もない。そういうこともいくどかあった。
 
ある朝、アメリカの副領事館から私に抗議があった。『下関にある米国所有の木材を、日本軍がトラックで盗み出しているという情報が入った。何とかしてくれ』という。それはいかん、君も立ち会え!というので、司令部に電話して、本郷(忠夫)参謀にも同行をお願いし、副領事と3人で、雪の降る中を下関へ駆けつけた。朝の9時頃である。現場についてみると、人の子一人もおらず、倉庫は鍵がかかっており、盗難の形跡もない。「困るね、こんなことでは!」とぼくもきびしく注意したが、とにかく、こんな訴えが、連日山のように来た。
 
 テインパーリーの例の『中国における日本軍の暴虐』の原資料は、フイッチかマギーかが現場を見ずにタイプして上海に送稿した報告があらかただと僕は思っている」
ちなみに、国際委員会書記長スミス博士も、「ここに記された事件(日本軍非行四二五件)は検証したものではない」と述べている。

(田中正明氏「南京事件の総括」P171〜P172)

*****************

違いを順番に書くと、

私は毎日のように → ぼくは役目がら毎日のように

中国人が → 中国の青年が

いま、上海路何号で一〇歳くらいの少女が五人の日本兵に強姦されている → いまどこどこで日本の兵隊が15、6の女の子を輪姦している

八〇歳ぐらいの老婆が強姦された → 太平路何号で日本軍が集団で押し入り物を奪っている

フィッチ神父が、私の目の前で、どんどんタイプしているのだ。 → マギー神父とかフイッチなど3、4人が、ぼくの目の前で、どんどんタイプしているのだ。

「ちょっと待ってくれ。君たちは検証もせずに、それを記録するのか」 → 『ちょっと待ってくれ。君たちは検証もせずにそれをタイプして抗議されても困る。』と幾度も注意した。

また、「下関にある米国所有の木材を、日本軍が盗み出しているという通報があった」と、早朝に米国大使館から抗議が入り、 → ある朝、アメリカの副領事館から私に抗議があった。『下関にある米国所有の木材を、日本軍がトラックで盗み出しているという情報が入った。何とかしてくれ』という。

ただちに雪の降るなかを本郷(忠夫)参謀と米国大使館員を連れて行くと、その形跡はない。 → それはいかん、君も立ち会え!というので、司令部に電話して、本郷(忠夫)参謀にも同行をお願いし、副領事と3人で、雪の降る中を下関へ駆けつけた。朝の9時頃である。現場についてみると、人の子一人もおらず、倉庫は鍵がかかっており、盗難の形跡もない。「困るね、こんなことでは!」とぼくもきびしく注意した

フィッチが現場を見ずにタイプした報告 → フイッチかマギーかが現場を見ずにタイプして上海に送稿した報告


またやったか、田中氏(笑)、と私も思い込んでしまったのですが、よく捜すと、実は「第三のバージョン」が存在しました。田中正明氏の旧著、「”南京虐殺”の虚構」です。

*****************

福田氏は当時を回想し、筆者のインタビューに答えて次のように語る。

ぼくは難民区事務所(寧海路五号)に時々行き、そこの国際委員会折衝するのが役目であるが、ある時アメリカ人二、三人がしきりにタイプを打っている。ちょっとのぞくと、今日何時ころ、どこどこで日本兵が婦人に暴行を加えた―といったようなレポートをしきりに打っている。

「君! だれに聞いたか知らないが、調べもしないで、そんなことを一方的に打ってはいかんね。調べてからにし給へ」とたしなめたことがある。あとから考えると、テンパーレーの例の本の材料を作っていたふしがある。支那人の言うことを、そのまま調べもしないで、片っぱしから記録するのはおかしいじゃないかと、その後もぼくはいくども注意したものだ(著者注.このタイプが例の四二五件におよぶ日本兵の”違法”を記録したのである)。

ぼくは彼らの文句の受付け役で、真偽とりまぜ、何んだかんだと抗議してくる。その抗議を軍に伝え、こういう事件が起きた、何んとか処理してくれと交渉するのがぼくの役目である。

ある時こんな例があった。アメリカの副領事がやってきて、今下関で日本兵がトラックで、アメリカの倉庫から木材を盗んでいる、というのだ。それはいかん、君も立会え、というので、参謀に電話し、急いで三人で出掛けた。朝九時ころだったネ、雪がどんどん降って来て寒い朝だった。三人は自動車で現地へ向かった。ところが現場には人の子一人もいない。倉庫は鍵が閉っており、開けた様子もない。「どうもなっていないじゃないか。おかしいじゃないか。参謀までわざわざ来てもらったのに、これからは確かめてからにし給へ! 一つの事件でも軍は心配して、このようにおっとり刀で駈けつけてくれるのだ、気をつけ給え」といって叱ったことがある。副領事も「これから気をつけます」といって頭をかいていた。

こんな事件は度々あった。アメリカもイギリスも、しょっちゅう軍の作戦を妨害していた。全く敵意を抱いていたネ。でたらめというか、一方的な点が相当あった。ティンパーレーがあることないこと一ぱい書いているが、その内容自身ほとんどが伝聞である。あの時の難民区にいたマギー外二、三人が、ポンポンとタイプを打っていたが、支那人が言ってきたこと、噂をしていること、それをそのままタイプにし、それが彼の文章になっている。どうもそれに違いないとぼくは思う。

日本軍に悪いところがあったのも事実である。しかし、二○万、三○万の虐殺はおろか千単位の虐殺も絶対にない。あの狭い城内に日本の新聞記者が一〇〇人以上も入っていたのである。その上、外人記者も外国の大公使館の人々も見ている。船も外国の艦船が五隻も揚子江に入っている、いわば衆人環視の中である。そんなこと(虐殺)などしたら、それこそ大問題だ。絶対にウソである。宣伝謀略である。

ぼくは南京が陥落した十三日に入城した。馬渕(誠剛氏)と二人で、日本大使館の国旗をあげた。そしてぼくら二人が大使館の鍵を開けて最初に入ったのだ。そのあと岡崎(勝男)大使、福井(淳)総領事等がだんだんやってきた。その夜(十三日)、鼓楼の近くにある中国銀行で、電気はないのでローソクをともし、持ってきた缶詰を開け、一升瓶の詮を抜いて、原田熊吉、長勇、佐々木到一といったつわものと祝杯をあげたことを覚えている。

(以下略)

(田中正明「”南京虐殺”の虚構」P35〜P37)

*****************


「一億人の昭和史」版になく、「総括」版のみに出てくる言葉は、あらかたこちらの「虚構」版に登場しています。

「一億人の昭和史」版は、最後に(談)とありますから、おそらく編集部のインタビューでしょう。「総括」版は、「福田氏は当時を回顧してこう語っている」とあるのみで、いつ、誰がインタビューしたものか、わかりません。最後の「虚構」版は、「筆者のインタビューに答えて」と明記されています。

以上三つの資料を並べると、どうやら田中氏の「総括」版は、「一億人の昭和史」版に「虚構」版の文を適当に加えて氏が独自に作成したものである、と判断するのが最も妥当であると思われます。

その中で「出所不明」なのが、「いまどこどこで日本の兵隊が15、6の女の子を輪姦している」「太平路何号で日本軍が集団で押し入り物を奪っている」という文章です(これに対応する「事例」を探しているのですが、まだ発見できていません)。たぶん、「虚構」版のインタビューテープに残っていたものを使ったのだろう、と好意的に解釈しておきましょう(笑)。


しかし、「総括」では、自分が昔インタビューしたものを使わずに、「一億人の昭和史」版を加工して使ってしまうとは・・・。どうも田中氏のやることはわからない。まさか、毎日新聞社「一億人の昭和史」のインタビューアーが実は田中氏だった、なんてことはないでしょうし・・・。


なお余談ですが、ラーベ日記(ヒトラーの上申書)には、「13日」に新街口の「交通銀行」の前で福田氏と出会った記録があります(文庫版P357)。「一億人の昭和史」版では福田氏の南京入りは「陥落の翌日」(つまり14日)とありますので、これはラーベの思い違いかと思っていたのですが、「虚構」版では「13日」と明記されており、経験談のリアルさから考えてどうやらこちらの「13日」が正しいようです。

さて、三つの中で「資料価値」が最も高いのは「一億人の昭和史」版であるようです。「虚構」版は(インタビューアーが田中氏だけに)ある程度疑いつつ使う、「総括」版は無視する、ということで、これから福田証言の「検討」を始めることにします。

*「検討」はまだこれからですが、まず疑問に思うのは、当時の日本大使館が国際委員会の報告を疑わしいものと考えていたのでしたら、本国へなぜそのまま「垂れ流し」で報告してしまったのか、ということです。少なくとも、田中氏のこれに続く文章を見ると、そう読めます。

  「ティンパレーの結婚」の件 渡辺 2003/04/27 02:33:51  ツリーへ

Re: 福田篤泰氏証言、三つのバージョン 返事を書く ノートメニュー
渡辺 <oogeblxyju> 2003/04/27 02:33:51
「ティンパレーの結婚」の件

K−Kさんから、ご依頼があったにもかかわらずいまだ整理していないのが、福田証言での「ティンパレーの結婚」の件です。

あ、その前に、「軍にかけ合い、南京とか出国証明をとって」と投稿されていますが「軍にかけ合い、何とか出国証明をとって」が正しいですね。

結論から言いますと、

(1)結婚のために、日本大使館の許可を得て南京を出たのは、ドイツ人キュルガー(クレーガー)である。(ジャーナリスト以外で、南京陥落後に南京を出た最初の外国人。)

(2)ティンパーリーは、1937年8月にエリザベス・チェインバースと南京・英国大使館で結婚し、9月始めに上海のフランス租界へ移った。
1937年6月前後に、ティンパーリーは上海から南京に移転し首都飯店に滞在していた。(結婚していなければ、南京に残った可能性が高い。)

(3)9月始めに、上海・日本総領事館を通して日本へ新婚旅行のため入国が可能を打診、外務大臣が許可を与えた。(外務省電報)しかし、恐らく日中戦争の拡大で急遽取りやめたと思われる。

以上のことから、「結婚」の件は、クリュガーと新婚旅行の件を福田氏が混同したと推察されます。
日高氏自身が、この件について語った資料はないようですが、ティンパーリーをよく知っていた日高氏が、この件で間違える可能性は少ないと思われます。
(『1億人の昭和史』にある福田証言でもティンパーリーが占領後の南京にいたとはされていない。洞『南京大虐殺の証明』p.46)

時間ができましたら、「新婚旅行」に関する公電などの資料を含めて投稿いたします。
この件は、従来のティンパーリーに関する記述を修正するものですので、慎重に発表したいと思います。
なお、ティンパーリーの所在は、1939年の始めに顧問編集者を辞するまで、「アジア」誌の扉頁に毎月記載されております。

それから、たびたび出てくるフィッチは、国際委員会の委員ではありません。
また、ティンパーリーの本の第1章とフィッチとの関係が日本で明らかになったのは、1984年のことです。(洞『南京大虐殺の証明』p.41)福田証言(1979年)が、ティンパーリーの本に関連してフィッチの名前を挙げているのは、興味深いと言えます。というのは、日本軍は、1938年当時に、ティンパーリーの本とフィッチの関係を疑っていたからです。
http://t-t-japan.com/bbs/article/t/tohoho/5/zpbqrf/sovqrf.html#sovqrf

  │└RE:テインパーリ結婚の件 ゆう 2003/04/27 05:28:35  ツリーへ

Re: 「ティンパレーの結婚」の件 返事を書く ノートメニュー
ゆう <pmyqfxtjon> 2003/04/27 05:28:35
RE:テインパーリ結婚の件

ティンパーリの結婚の件、渡辺さんの文を読んだ記憶があり、探しているのですが、見つかりません。再投稿、ありがとうございました。もし無事にコンテンツ作成に行き着くことができましたら、渡辺さんのご指摘、ということで紹介させていただこうと思います。(「クレーガーの結婚」の話は、「ラーベ日記」にも出てきますね)


とりあえず外国人の日記等に、「福田氏と一緒に行動した」趣旨の記述がないか調べているのですが、福田氏の登場は、もっぱら何かを通告するために「国際委員会」本部を訪ねる、というものがほとんどであるようです。

だいたい、「中国人」が「いまどこどこで強姦されている」と駆け込んできているのであれば、のんびりタイプを打っている場合ではないでしょう(^^)。福田氏に言われるまでもなく、早速現場に駆けつけるはずです。この点については、田中氏の「虚構」版の、

>ある時アメリカ人二、三人がしきりにタイプを打っている。ちょっとのぞくと、今日何時ころ、どこどこで日本兵が婦人に暴行を加えた―といったようなレポートをしきりに打っている。

>「君! だれに聞いたか知らないが、調べもしないで、そんなことを一方的に打ってはいかんね。調べてからにし給へ」とたしなめたことがある。

の方が、より「事実」に近く、「一億人の昭和史」版は「誇張」があるのではないか、と疑っています。


さらによく見ると、「タイプ」していた人間が、証言ごとに異なります。

「虚構」版  「マギー外二、三人」 
「一億人の昭和史」版 「フィッチ神父」

両方を繋ぎ合わせたと思われる「総括」版では、これが、「マギー神父とかフイッチなど3、4人」に化けてしまっています(笑)。

「極東軍事裁判」のマギー証言、

>私は「スミス」さんに沢山報告しましたが、其の報告は委員会の報告書の中にちゃんと書いてある筈でありまして、其の報告にはちゃんと報告者の名前も出て居ります。自分自身でも二、三見たことがありますが、何件「スミス」さんに報告したか覚へて居りませぬ。

を見ると、マギーはどうやら「記録者」ではなく「報告者」であったようですので、これは「フィッチ神父」の方が正しいようです。


以下余談。小説の話ですが、「南京陥落・平和への祈り」(下)P302以下は、スマイスと福田氏の対決シーンです。

********************
日本大使館の薄暗い応接間で、スマイスは、福田との交渉をどのように持っていったらよいか冷静に考えた。彼はゆっくりとこう切り出した。
「わが委員会がお届けしました書類と覚え書きですけれども、ご覧下さいましたか?」
「見ました」
「なぜ返事を下さらないのですか?」
「業務が忙しくて、暇がなかったんです」
「これも業務じゃありませんか。しかもきわめて重要な業務です。人の生命に関わる大問題ですよ! われわれは中立の立場を厳格に保持しています。中国と日本のどちらをも支持しませんし、どちらにも反対しません。だが、多くの捕虜や民衆が貴軍によって暴行され、多くの財物が貴軍によって略奪され、多くの家屋が貴軍によって焼かれたのです。これは人道主義の範囲に属する問題ですから、貴軍にご注意を促さないわけにはいかないのです」
(以下略)
********************

以下、4〜5ページにわたって、やりとりが続きます。


*誤字は訂正しました。私のパソコンでは、「南京」を「なん」と単語登録していますので、間違えたようです(^^;

  田中氏の「出所不明の追加」 ゆう 2003/04/29 09:19:08  (修正2回) ツリーへ

Re: 福田篤泰氏証言、三つのバージョン 返事を書く ノートメニュー
ゆう <pmyqfxtjon> 2003/04/29 09:19:08 ** この記事は2回修正されてます
田中氏の「出所不明の追加」

前回投稿では、最もポピュラーな田中氏「総括」版が、どうやら「一億人の昭和史」版に、田中氏の昔のインタビューである「虚構」版の内容を「加筆」したものらしい、ということを述べました。

ところで「総括」版を良く見ると、「一億人の昭和史」版にも「虚構」版にも存在しない、「出所不明の追加」がいくつか存在します。田中氏が勝手に付け加えた、とまで断定するつもりはありませんが、ともかくもこの「出所不明の追加」が、どうも怪しげなものであるのは確かです。今回の投稿では、「出所不明」部分が、「総括」版の中でどのように使われているかを見ていきましょう。


*3つのバージョンそれぞれについては、見やすいように、私のHPの空きスペースにアップしておきました。

http://www.geocities.co.jp/WallStreet/8503/hukuda1.html

(とりあえず「福田氏が何を証言したのか」ということを確定させないと、次のステップである「福田氏の証言は正確か」の検証に移ることができません。ロムの方、申し訳ありませんが、もう少しおつきあいを願います)


まず、「一億人の昭和史」版と、それを加筆したと思われる「総括」版の違いを確認します。前が「一億人の昭和史」版、後が「総括」版です。

1. 私は毎日のように → ぼくは役目がら毎日のように

2. 中国人が → 中国人の青年が

3. いま、上海路何号で一〇歳くらいの少女が五人の日本兵に強姦されている → いまどこどこで日本の兵隊が15、6の女の子を輪姦している

4. 八〇歳ぐらいの老婆が強姦された →  太平路何号で日本軍が集団で押し入り物を奪っている

5. フィッチ神父が → マギー神父とかフイッチなど3、4人が

6. 君たちは検証もせずに、それを記録するのか →  君たちは検証もせずにそれをタイプして抗議されても困る。』と幾度も注意した

7. 現場へ行ってみると → 強姦や掠奪の現場に駆けつけて見ると

8. 住んでいる者もいない。 → 住んでいる者もいない。そんな形跡もない。そういうこともいくどかあった。

9. 「下関にある米国所有の木材を、日本軍が盗み出しているという通報があった」と、早朝に米国大使館から抗議が入り、 →  ある朝、アメリカの副領事館から私に抗議があった。『下関にある米国所有の木材を、日本軍がトラックで盗み出しているという情報が入った。何とかしてくれ』という。

10. ただちに雪の降るなかを本郷(忠夫)参謀と米国大使館員を連れて行くと、その形跡はない。 → それはいかん、君も立ち会え!というので、司令部に電話して、本郷(忠夫)参謀にも同行をお願いし、副領事と3人で、雪の降る中を下関へ駆けつけた。朝の9時頃である。現場についてみると、人の子一人もおらず、倉庫は鍵がかかっており、盗難の形跡もない。「困るね、こんなことでは!」とぼくもきびしく注意した

11. フィッチが現場を見ずにタイプした報告と考えられる。 →  フイッチかマギーかが現場を見ずにタイプして上海に送稿した報告があらかただと僕は思っている


このうち一部は「虚構」版の記述を書き加えたものであるようですが、3、4、6、7、8、11には、「虚構」版に存在しない「出所不明の追加」が出てきます。順番に見ていくことにしましょう。


●「事例」の内容

3. いま、上海路何号で一〇歳くらいの少女が五人の日本兵に強姦されている → いまどこどこで日本の兵隊が15、6の女の子を輪姦している
4. 八〇歳ぐらいの老婆が強姦された →  太平路何号で日本軍が集団で押し入り物を奪っている

後の文は、「虚構」版にもどこにも登場しません。

「10歳くらいの少女」「80歳ぐらいの老婆」の強姦事件。読者から見ても、こんな「訴え」が本当にあったのかどうか、どうも怪しげです。田中氏はこんな印象を薄めるために、少しはもっともらしく見える「事例」に差し替えた、と見るのは、うがち過ぎでしょうか。

ちなみに「太平路」は、安全区外になります。「中国人」が「国際委員会本部」まで「訴え」に来る場所とは思えませんが・・・。



●「いくどかあった」?

6. 君たちは検証もせずに、それを記録するのか →  君たちは検証もせずにそれをタイプして<抗議されても困る>。』と幾度も注意した

7. 現場へ行ってみると → <強姦や掠奪>の現場に駆けつけて見ると

8. 住んでいる者もいない。 → 住んでいる者もいない。<そんな形跡もない。そういうこともいくどかあった。>


< >内が、「出所不明の追加」部分です。

「一億人の昭和史」版では、「注意した」のは「幾度も」ですが、実際に現場に行ったのはせいぜい1回限りであるように読めます。

一方、田中氏「総括」版では、「強姦や掠奪」「そういうこともいくどかあった」という表現が追加されており、複数回の「現場検証」を行ったことになっています。


●上海に送稿した

11. フィッチが現場を見ずにタイプした報告と考えられる。 →  フイッチかマギーかが現場を見ずにタイプして<上海に送稿した>報告があらかただと僕は思っている

この「上海に送稿した」という「追加」は、これ自体は誤りではありません。しかし、これに続く田中氏の文章を読むと、見事にミスリードする仕掛けになっています。


************************

 テインパーリーの例の『中国における日本軍の暴虐』の原資料は、フイッチかマギーかが現場を見ずにタイプして上海に送稿した報告があらかただと僕は思っている」
ちなみに、国際委員会書記長スミス博士も、「ここに記された事件(日本軍非行四二五件)は検証したものではない」と述べている。

前記したように、この61通の書簡の中に日本軍の非行行為425件が記録されており、この文章は、ティンパーリーの『戦争とは何か=中国における日本軍の暴虐』と、徐淑希の『南京安全区當案』に分けておさめられている。

 福田氏は現地で、実際に中国人や国際委員会の抗議を吟味してその内容の多くがでたらめであることを知っているが、毎回続々と送られてくる日本軍の暴行に対する国際委員会の抗議を受け取った当時の外務相東亜局の驚きはどんなであったか。

 東亜局長石射猪太郎氏は、回顧録『外交官の一生』(読売新聞社出版部)の中で次のように書いている。
 昭和13年1月6日の日記にいう。
 上海から来信、南京に於ける我軍の暴状を詳報し来る。掠奪、強姦目もあてられぬ惨状とある。嗚呼これが皇軍か。日本国民民心の頽廃(たいはい)であろう。大きな社会問題だ。(中略)これが聖戦と呼ばれ皇軍と呼ばれるものの姿であった。私はその当時からこの事件を南京アトロシティと呼びならわしていた(前掲同書305〜6ページ)。
 この文章は虐殺派がよく利用する。
 石射氏がこのようなでたらめ抗議を信用し、軍に反感を抱くにいたったには、それなりの原因がある。

(田中氏「南京事件の総括」P172〜P173)

************************



「日本軍の暴行記録」が、南京の日本大使館に提出されたものである、という「常識」を持たない方でしたら、「フィッチ・・・が上海に送稿した報告」が、そのまま石射猪太郎氏の下へ「上海から」送られたように読んでしまいそうです。

実際の石射氏の記述はこうでした。

************************

南京は暮れの一三日に陥落した。わが軍のあとを追って南京に帰復した福井領事からの電信報告、続いて上海総領事からの書面報告がわれわれを慨嘆させた。南京入城の日本軍の中国人に対する掠奪、強姦、放火、虐殺の情報である。憲兵はいても少数で、取締りの用をなさない。制止を試みたがために、福井領事の身辺が危いとさえ報ぜられた。一九三八(昭和一三)年一月六日の日記にいう。

上海から来信、南京におけるわが軍の暴状を詳報し来る。掠奪、強姦、目もあてられぬ惨状とある。嗚呼これが皇軍か。日本国民民心の頽廃であろう。大きな社会問題だ。

(略)

当時南京在留の外国人達の組織した国際安全委員会なるものから日本側に提出された報告書には、昭和一三年一月末、数日間の出来事として、七十余件の暴虐行為が詳細に記録されていた。

(以下略)

(「外交官の一生」 中公文庫版 P332〜P333)

*************************


石射氏の情報源は、「南京・・・の福井領事からの電信報告」と「上海総領事からの書面報告」です。「日本軍の暴行記録」は、「南京・・・の福井領事」から受け取ったもの、と思われます。

国際委員会→日本大使館→外務省、というルートの存在を明記すると、ではなぜ日本大使館は「その内容の多くがでたらめであることを知っている」文書をそのまま垂れ流しで送ったんだ、という話になり、ひいては「福田証言」の信憑性にも疑問が出てきます。

悪くとれば、田中氏はこの「疑問」を避けるために「上海に送稿した」という一語を加えた、という「推理」も、成立するかもしれません。


*「上海総領事からの書面報告」の内容を確認できませんでしたので、この内容次第では、上記の「推理」が全くの「空振り」となる可能性もないではありません。どなたか、ご存知ないでしょうか?

  │├板倉氏の電話インタビュー 渡辺 2003/04/29 13:44:27  (修正2回) ツリーへ

Re: 田中氏の「出所不明の追加」 返事を書く ノートメニュー
渡辺 <oogeblxyju> 2003/04/29 13:44:27 ** この記事は2回修正されてます
板倉氏の電話インタビュー

諸事情で細かく検討する時間がないので、おおざっぱな話しで申し訳ありませんが、
「"南京大虐殺"の真相(続)― ティンパーリーの陰謀」(『じゅん刊・世界と日本』1984年6月15日号)に、福田証言について板倉氏が電話インタビューしたという記事があるそうです。
私は、この記事を読んでいませんが、洞『南京大虐殺の証明』p.47 に一部が引用されています。
残念ながら、「ティンパーリーが南京にいた」かどうか、にのみ焦点であったようですが、福田氏の発言自体が一定していないことが分かります。
板倉氏によれば「ティンパーリーが結婚するので、大至急南京から出してやってくれ...他の記者たちと上海へ帰ったのではないか..」と福田氏が言ったとされていますが、『1億人の昭和史』では、「彼は陥落直後、結婚のために帰国したいというので...」と「南京から出して」ではなく、「帰国」になっています。
いずれにしても、『1億人の昭和史』が一番、本人の発言に近いものでしょう。

米国外交官の福田氏評は Timothy Brook, "Documents on the Rape of Nanking", Introduction p.5 に、短い引用があります。
Fukuda was "an ambitious, intelligent, and presentable young man" となかなか評判がいいようです。
Timothy Brook による Introduction の記述では、英語は流暢で、翻訳者(translator)と調整役(mediator)となっていたと説明があります。有名な天谷演説の通訳も福田氏ですね。
ラーベの日記でも評判が良いようです。

なお、ラーベの日記で福田氏について記述されている箇所は、ドイツ語原書の索引から17ヵ所であることが分かります。邦訳では割愛されている部分があります。
『南京の真実』(ハードカバー)p.151 12月28日にあるフィッチへの手紙で「このときとばかり私は福井氏に...」は「福田氏」の間違いであることを、今回、発見しました。(英語版ではp.105)
福田氏に依頼した、13日に射殺された遺体を除去してもらうという件について、約束したのが福井氏だったという文脈のようです。また、邦訳にある「軍部にかけあってくれないか」は、原文にありません。
また、この手紙の記述から、文書が日本大使館経由で送付されていたことが分かります。(当然ですが...)

追伸:
「ここに記された事件(日本軍非行四二五件)は検証したものではない」(田中氏「南京事件の総括」P172〜P173)って、何が典拠なんでしょうか?425件というのは、66号ないしは67号文書にあるものですよね。ちゃんと検証されていて図まで付いていますけど...
(なお、"Waht war means"と徐『档案』には、注釈にあるとおり図がありません。しかし、上海工部局警察の文書に『档案』の一部が保管されており、それには図があることが分かりました。この資料は、南京から上海の救済委員会に送られた『档案』の原本の可能性があります。受付印は 1938年4月22日になっています。工部局警察は、難民救済活動も業務として行っていました。)
http://hist1937.hp.infoseek.co.jp/document/docnanking.gif

  ││└『档案』の原本 ゆう 2003/04/29 20:23:33  ツリーへ

Re: 板倉氏の電話インタビュー 返事を書く ノートメニュー
ゆう <pmyqfxtjon> 2003/04/29 20:23:33
『档案』の原本

>しかし、上海工部局警察の文書に『档案』の一部が保管されており、それには図があることが分かりました。この資料は、南京から上海の救済委員会に送られた『档案』の原本の可能性があります。


すごい資料ではありませんか。発表を、楽しみにお待ちしています。


>「ここに記された事件(日本軍非行四二五件)は検証したものではない」(田中氏「南京事件の総括」P172〜P173)って、何が典拠なんでしょうか?425件というのは、66号ないしは67号文書にあるものですよね。


東中野氏の引用文は、原本を捜すと、意味を捻じ曲げた部分はあるものの、必ず原文が発見できます。(原本を入手したのにまだ発見できていないのは、「徹底検証」P21、「佐々木到一中将の『ある軍人の自伝』は、自らの恐ろしい体験として「両眼をえぐりとるという支那人特有の威嚇法」を紹介している」くらいです。どなたか、心当たり、ありませんか?)

ところが田中氏の引用文は、いくら捜しても原文がみつからないケースが多いのです。この文にしても、スマイス教授は、「極東軍事裁判」で、全く正反対の証言を行っているようですね。(「南京大虐殺の証明」P46=「南京大残虐事件資料集1」P113)

「東中野氏の徹底検証」もとりあえずは一段落したし、機会があれば、「田中正明氏の徹底検証」シリーズでも始めてみましょうか(笑)。


福田氏についての貴重な情報、ありがとうございます。次の三連休にでも、じっくりと取り組んでみる予定です。

  ││ └『ある軍人の自伝』 渡辺 2003/04/30 00:53:02  ツリーへ

Re: 『档案』の原本 返事を書く ノートメニュー
渡辺 <oogeblxyju> 2003/04/30 00:53:02
『ある軍人の自伝』

『ある軍人の自伝 増補版』p.174 にありました。済南事件のときのことです。
どの国にも、それぞれの「威嚇法」というのがありますけどね..(^^;

  ││  └な〜んだ ゆう 2003/04/30 20:50:31  ツリーへ

Re: 『ある軍人の自伝』 返事を書く ノートメニュー
ゆう <pmyqfxtjon> 2003/04/30 20:50:31
な〜んだ

東中野氏は、「通州事件」の「虐殺」の記述に続けて、こんな文を書きます。


********************

あまりにも残虐な虐殺法であった。しかし、これは古代支那から続く戦法であった。

(中略)

アーベントの『崩れゆく支那』によれば、一九二○年代の支那では、良民が針金や鉄線を通され数珠繋ぎにされた。家族全員が虐殺され、「手足を切られた女たちの屍体」が路傍に転がっていたという。

佐々木到一中将の「ある軍人の自伝」は、自らの恐ろしい体験として「両眼をえぐりとるという支那人特有の威嚇法」を紹介している。アグネス・スメドレーの「偉大なる道」も、その残忍な実行例に触れていた。

「田中清玄自伝」は、昭和二年(一九二七年)に中国共産党中央委員羅亦農が蒋介石軍の手に落ち「両目をくりぬかれる拷問を受けた」のち処刑されたことを記す。

(「徹底検証」P20〜P21)

********************


文脈から、「中国軍の残虐さ」の話かと思って読んでしまいそうですが、アーベンドの事例は、実は「匪賊」の話。「ある軍人の自伝」の方はといえば、


********************

この時、予の縄尻を取っている件の衛兵長らしき下士官が、空に向けて拳銃を一発ぶっ放した。それで群衆が少し輪を開いた。

だが、群衆の中から飛び出して顔面、胸部、背部、臀部のきらいなく拳突を試みるものがあっても知らぬ顔をして見ていた。ある者は両指を突き出して予の両眼に擬した。これは両眼をえぐるという支那人特有の威嚇法である。日本人はおそらくかかる残忍なことは知らないであろう。

(佐々木到一「ある軍人の自伝」P174)

********************


この程度の話でした。確かに「ウソ」は全くないので、勘違いした方が悪い、ということになるのでしょうが・・・。

「スメドレー」「田中清玄自伝」の方も、機会を見て捜してみることにしましょう。

  ││   └ゆうさん、こんばんは。 KOIL 2003/05/12 23:01:14  (修正1回) ツリーへ

Re: な〜んだ 返事を書く ノートメニュー
KOIL <yyiivymypb> 2003/05/12 23:01:14 ** この記事は1回修正されてます
ゆうさん、こんばんは。
スメドレーのほうは、これでしょう。
------------------------------------------
一九四六年三月から七月にかけて、秘密計画の第一段階が実行された。満州と華北一帯とにわ
たって戦闘がつづいているとき、国民党地域では、秘密警察のテロ時代が出現した。反対派、と
くに民主同盟の新聞雑誌社は、平服の秘密警察の暴徒におそわれて破壊された。印刷工や編集部
員が殴打され、多くの記者が誘拐されたり殺されたりした。西安では、秘密警察が民主的日刊紙
の印刷工場を破壊し、幹部をなぐり、主筆を射殺した。事件を告訴した弁護士ワン・エンは、と
らえられて処刑されたが、国民党はあとで、彼は阿片吸飲者だったと発表した!
上海の北の南通市では、国民党軍と新四軍とのあいだの戦闘をしらべに休戦班がくることにな
っていたが、秘密警察が住民に、家の中にいて証言をしないように強要した。ところが町のひと
ぴとは休戦班を歓迎に出て、二十人の教師や著述家や新聞人が証言した。この二十人は翌日姿が
見えなくなった。十六人の死体はついに見つからなかったが、四人の縛られた死体が数日後に近
くの川で発見され、その身体は切りさいなまれ、眼はえぐりとられていた。
------------------------------------------
アグネス=スメドレー『偉大なる道(下)』(岩波文庫)p308

なんと、戦後の話です。

  ││    └返事が遅れてすみません ゆう 2003/05/14 22:21:59  ツリーへ

Re: ゆうさん、こんばんは。 返事を書く ノートメニュー
ゆう <pmyqfxtjon> 2003/05/14 22:21:59
返事が遅れてすみません

ツリーが掲示板の下の方に行ってしまいましたので、あやうくKOILさんのレスを見逃すところでした(^^;

(実はちょっと「ヤフー」で遊んでいたものですから、こちらを覗くのが遅れてしまいましたm(__)m)


情報提供、ありがとうございます。東中野氏、決して「ウソ」の引用はしていないのですが、これもまた「説明文」とは微妙に異なる例でしたか。


ところで、「悪夢」のメール攻撃、どうなりました? そもそも、何であんな大量のメールが来たのでしょう? 「続報」を楽しみに待っていたのですが(^^)

(この掲示板で、こんなプライベートな話をしても・・・とほほさん、いいですよね(^^))

  ││     └メールとかメールとかメールとか KOIL 2003/05/14 23:52:00  ツリーへ

Re: 返事が遅れてすみません 返事を書く ノートメニュー
KOIL <yyiivymypb> 2003/05/14 23:52:00
メールとかメールとかメールとか

>ところで、「悪夢」のメール攻撃、どうなりました? そもそも、何であんな大量のメールが来たのでしょう? 「続報」を楽しみに待っていたのですが(^^)

これはですね、実はメール攻撃じゃなくて、ちとメーリングリストに入りすぎたのが原因です。ハイ。(^_^;)(ええと、AML、uketugu,no_more_war・・・・などなど)
メール攻撃じゃありません。大丈夫です。ハイ。

  │└ゆうさん、こんにちは。名なし便衣兵です。 名なし便衣兵 2003/04/29 19:41:48  ツリーへ

Re: 田中氏の「出所不明の追加」 返事を書く ノートメニュー
名なし便衣兵 <ydozdofjof> 2003/04/29 19:41:48
ゆうさん、こんにちは。名なし便衣兵です。

>「上海総領事からの書面報告」の内容を確認できませんでしたので、この内容次第では、上記の「推理」が全くの「空振り」となる可能性もないではありません

「上海総領事からの書面報告」もしかしたら、外務省外交資料館に保存されているかも知れません。
「南京事件関連資料」という(うろ覚えですが)ファイルが、資料館に存在するのは間違いありません。その中に、そうした記録が残っている可能性はあると思います。時間ができ次第、調べてみることにします。
とは言え、いつまでに、と断言できないのが悲しいのですが。

  │ └はじめまして、「ゆう」です	 ゆう 2003/04/29 20:31:14  (修正1回) ツリーへ

Re: ゆうさん、こんにちは。名なし便衣兵です。 返事を書く ノートメニュー
ゆう <pmyqfxtjon> 2003/04/29 20:31:14 ** この記事は1回修正されてます
はじめまして、「ゆう」です

さっぱり「はじめまして」という気はしないのですが(笑)。いつも「2ちゃんねる」で私のHPをご紹介いただき、ありがとうございます。そのためのHPですので、どんどんお使いください(^^)。

>「上海総領事からの書面報告」もしかしたら、外務省外交資料館に保存されているかも知れません。
「南京事件関連資料」という(うろ覚えですが)ファイルが、資料館に存在するのは間違いありません。

これ、恥ずかしいことに、全く知りませんでした。本当に残っていたら、素晴らしいですね。


  「現場検証」証言の検証 ゆう 2003/05/04 05:20:23  (修正1回) ツリーへ

Re: 福田篤泰氏証言、三つのバージョン 返事を書く ノートメニュー
ゆう <pmyqfxtjon> 2003/05/04 05:20:23 ** この記事は1回修正されてます
「現場検証」証言の検証

さて、「福田証言」本体の検証に移ります。

まず、この「証言」の一番のポイントである、「国際委員会への訴え」に関する証言から。時系列順に、並べます。


●「一億人の昭和史」版(1979年)・・・末尾に(談)との記載あり。

当時、私は毎日のように、外国人が組織した国際委員会の事務所へ出かけていたが、そこへ中国人が次から次へとかけ込んでくる。「いま、上海路何号で一〇歳くらいの少女が五人の日本兵に強姦されている」あるいは「八〇歳ぐらいの老婆が強姦された」等々、その訴えを、フィッチ神父が、私の目の前で、どんどんタイプしているのだ。

「ちょっと待ってくれ。君たちは検証もせずに、それを記録するのか」と、私は彼らを連れて現場へ行ってみると、何もない。住んでいる者もいない。


●田中氏「虚構」版(1984年)・・・「福田氏は当時を回想し、筆者のインタビューに答えて次のように語る」とのコメントあり。


ぼくは難民区事務所(寧海路五号)に時々行き、そこの国際委員会折衝するのが役目であるが、ある時アメリカ人二、三人がしきりにタイプを打っている。ちょっとのぞくと、今日何時ころ、どこどこで日本兵が婦人に暴行を加えた―といったようなレポートをしきりに打っている。

「君! だれに聞いたか知らないが、調べもしないで、そんなことを一方的に打ってはいかんね。調べてからにし給へ」とたしなめたことがある。あとから考えると、テンパーレーの例の本の材料を作っていたふしがある。支那人の言うことを、そのまま調べもしないで、片っぱしから記録するのはおかしいじゃないかと、その後もぼくはいくども注意したものだ。


●田中氏「総括」版(2001年)・・・「福田氏は当時を回顧してこう語っている」との表現。


当時ぼくは役目がら毎日のように、外人が組織した国際委員会の事務所へ出かけた。出かけてみると、中国の青年が次から次へと駆け込んでくる。

 「いまどこどこで日本の兵隊が15、6の女の子を輪姦している」。あるいは「太平路何号で日本軍が集団で押し入り物を奪っている」等々。その訴えをマギー神父とかフイッチなど3、4人が、ぼくの目の前で、どんどんタイプしているのだ。

 『ちょっと待ってくれ。君たちは検証もせずにそれをタイプして抗議されても困る。』と幾度も注意した。時には彼らをつれて強姦や掠奪の現場に駆けつけて見ると、何もない。住んでいる者もいない。そんな形跡もない。そういうこともいくどかあった。



並べると、「現場検証」については、「私は彼らを連れて現場へ行ってみると、何もない。住んでいる者もいない」(「一億人の昭和史」版)→記述なし(「虚構」版)→「そういうこともいくどかあった」(「総括」版)と、いつのまにか話が大きくなっています。

最後の「総括」版が、田中氏による「書き加え」の可能性があることは、すでに述べました。福田氏が実際に語った内容は、「虚構」版と「一億人の昭和史」の二つである、と考えてよさそうです。
(さもなくば、福田氏は証言のたびに話を膨らませている、という、福田氏にとって不名誉な記述を行わなければなりません)


既に指摘した通り、「一億人の昭和史」版は、不自然です。「いま・・・強姦されている」という訴えが来ているのであれば、フィッチは、何をさしおいても現場に駆けつけようとするでしょう。のんびりと「タイプ」を打っている場合ではありません。

また、「一億人の昭和史」版に出てくる話が、「虚構」版では消えてしまうのも、不自然です。本当に「現場検証」を行ったのであれば、「日本軍の暴行記録」の信頼性を疑わしめる大きな材料になるのに、なぜ消えてしまったのか。

さらに、この次に出てくる、「材木盗難のニセ情報事件」に比べても、この「現場検証」証言は、具体性に欠けます。「材木盗難」では、天気、時間、場所、同行者、会話に至るまで、非常に具体的な証言を行っている福田氏が、この証言全体の一番のキーポイントである「現場検証」証言を、なぜここまで簡単に流してしまったのか。

以上から、断定まではできないものの、この「現場検証」証言は、福田氏の頭の中で「記憶のすり替え」が行われた可能性が高い、あるいはそうでなければ、取材者へのリップサービスでつい言ってしまったものという可能性がある、と私は推定します。

念のためですが、「国際委員会文書」には、外国人が福田氏とともに現場を見に行った、という記録は、存在しません。いろいろ調べましたが、福田氏の「現場検証」証言を裏付ける資料は、皆無です。


ただし以下の「虚構」版の証言は、具体的であり、また無理が感じられないことから、私は大まかなところでは「事実」と認定してもいいように思います。

●ぼくは難民区事務所(寧海路五号)に時々行き、そこの国際委員会折衝するのが役目であるが、ある時アメリカ人二、三人がしきりにタイプを打っている。ちょっとのぞくと、今日何時ころ、どこどこで日本兵が婦人に暴行を加えた―といったようなレポートをしきりに打っている。

「君! だれに聞いたか知らないが、調べもしないで、そんなことを一方的に打ってはいかんね。調べてからにし給へ」とたしなめたことがある。・・・支那人の言うことを、そのまま調べもしないで、片っぱしから記録するのはおかしいじゃないかと、その後もぼくはいくども注意したものだ。


「いくども注意」した時の「国際委員会」側の反応が全く書かれていないことが気になりますが、「アメリカ人(フィッチ?)」が暴行記録をタイプで打っている場面を目撃した、ということは、おそらく事実でしょう。しかしこの福田氏の体験が、ただちに「国際委員会」記録の信憑性を疑わせるものになるとは、ちょっと言えないようです。「南京大虐殺の証明」でも取り上げられていますが、「極東軍事裁判」におけるスマイスの宣誓口供書の記述を掲げます。


●日本人が南京へ入城の後、一般支那市民や武装を解除された兵士に対する虐待行為に関して、我々が抗議を提出せざるを得ない事件が幾つも明(か)になつて来ました、私の役目は抗議書の下書きを作ることでした。「レーブ」氏の意見で我々外国人もその抗議書類に署名をする事で一役手伝をする事になりました。我々は日本軍占領以来の六週間もの間殆ど毎日二通の抗議書を提出し続けました。大抵の場合いその一通は「レーブ」氏か私が日本の大使館に持参し他の一通は使者に届けさせました。私は事件の顛末を書き上げ大使館に届けられる前にそれが果して正確か否かを検討するのに出来るだけの努力を払ひました。出来る限り如何なる時でも私はその事件を検分した委員会の代表者に会ふ事にして居ました。私は自分で考へて適確に報告されて居ると思う事件丈けを日本大使館に報告して居りました。
(中略)
「レーブ」氏と私が毎日の様に行った日本大使館での会談で彼等(日本人)はこれ等の正確さを否定する暇もありませんでした。彼等は何等かの処置を執ると云ふ口約を続けるのみでありました。
(「南京大残虐事件資料集1」P113)


つまり、フィッチらによって「記録」されたものがそのまま「抗議」に使われたわけではありません。「委員会」による「検分」を経た上で、スマイスが「事件を検分した委員会の代表者に会」い、「自分で考へて適確に報告されて」いる事件のみが、日本大使館に報告されたわけです。


参考までに、ティンパーリ「戦争とは何か」からも、引用しておきましょう。

●もともと作成された報告は一七〇件あったが(引用者注 12月13日から年末まで)、これらにしても、南京安全区国際委員会の目に留まった事件の中から選び出したものに過ぎない。報告の大半はいずれもおそらく真実であろうが、その大部分のものは即座に証明することができないために保留された。(「南京大残虐事件資料集1」 P103)


上記の事実を認識すると、以下の田中氏の「付け加え」が、意図的なものに思えてきます。

「ちょっと待ってくれ。君たちは検証もせずに、それを記録するのか」(「一億人の昭和史」版)→「ちょっと待ってくれ。君たちは検証もせずにそれをタイプして抗議されても困る」(「総括」版)

ご覧の通り、「抗議されても困る」の一言が、付け加えられています。「記録」イコール「抗議書の内容」ではないことは、既に述べた通りです。


以上、結論としては、次のようになります。

1.福田氏がフィッチらを連れて現場検証を行ったという証言は、不自然さが感じられ、信頼性に欠ける。

2.福田氏が、国際委員会事務所で事件をタイプしている現場を見たことはおそらく事実だろうが、国際委員会が中国人の報告をそのまま鵜呑みにして日本大使館への抗議に使った、というのは誤りである。


さて、最後に、福田証言の他の部分を見ていくことにしましょう。非常に「事実誤認」が多い証言であることがわかると思います。(続く)

  福田証言の検証(止) ゆう 2003/05/04 07:45:19  ツリーへ

Re: 福田篤泰氏証言、三つのバージョン 返事を書く ノートメニュー
ゆう <pmyqfxtjon> 2003/05/04 07:45:19
福田証言の検証(止)

以下、福田氏が語った内容に最も忠実であると思われる、「一億人の昭和史」版を使用します。元の文は、こちらをどうぞ。

http://www.geocities.co.jp/WallStreet/8503/hukuda1.html


●さて、問題の”残虐事件”のことだが、まずこれを世界に流したマンチェスター・ガーディアン紙の記者T・J・ティンパレーについていえば、彼は陥落直後、結婚のために帰国したいというので、日高氏が骨を折って軍にかけ合い、何とか出国証明をとって帰国させたのだが、このとき持ち出した資料をもとに『中国における日本軍の残虐行為』(一九三八年七月編集発行)を発表したと思われる。


渡辺さんの指摘の通り、ここは福田氏の記憶違いであると思われます。クレーガーが、「結婚のために」南京を出て上海へ向かった、という事実と混同しているようです。従って、「このとき持ち出した資料」云々に、意味はなくなります。



●残虐行為の現場は見ていないが、私はあれだけ言われる以上、残念ながら相当あったと思う。しかし私の体験からすれば、本に書いてあるものはずいぶん誇張されているようだ。

●ティンパレーの原資料は、フィッチが現場を見ずにタイプした報告と考えられる。


テインパーリ「戦争とは何か」を実際に読んだ方でしたら、ここでちょっと引っ掛かると思います。「戦争とは何か」は、ベイツ、フィッチらの日記体の報告がメインであり、「フィッチが現場を見ずにタイプした報告」なるものは、「暴行事件の報告」として、「附録」として記載されているに過ぎません。福田氏は、実際にはこの本を読んでいないのでしょうか? 少なくともこの福田氏の証言は、「戦争とは何か」の全体を否定しているものではありません。

なお「総括」版では、記述がさらにエスカレートしています。

●テインパーリーの例の『中国における日本軍の暴虐』の原資料は、フイッチかマギーかが現場を見ずにタイプして上海に送稿した報告があらかただと僕は思っている


「一億人の昭和史」版は「テインバレーの原資料」との表現で、これは「暴行事件の報告」のみを指している、という解釈もできなくはありません。

「総括」版の「書名」は、これまた田中氏の「付け加え」であるようですが、これでは、「戦争とは何か」全体が「フィッチがマギーかが現場を見ずにタイプして上海に送稿した報告」からできているように誤読されます。



●また、「下関にある米国所有の木材を、日本軍が盗み出しているという通報があった」と、早朝に米国大使館から抗議が入り、ただちに雪の降るなかを本郷(忠夫)参謀と米国大使館員を連れて行くと、その形跡はない。とにかく、こんな訴えが連日、山のように来た。

この体験はおそらく事実であると思われますが、「国際委員会」とは直接には関係のない話です。



●しかし、東京裁判でマギー神父が証言しているように、街路に死体がゴロゴロしていた情景はついぞ見たことはない。クリークに浮かぶ死体を見たことはあった。またマギー証言に登場する田中領事は、田中正一氏のことで、彼は陥落一ヵ月前くらいに漢口から来た人だ。


「マギー証言」の、「田中領事」に関する該当部分です。

●十二月八(十八)日のことであります。私は日本大使館の田中領事と一緒に同行することを要求されて、一緒に行つたのでありますが、それは南京の市内の外国人の住んで居る場所へ行つて、外国人の所有物を指摘し、それを保護する為に掲示をなす外国の財産を一々それを指示すると云ふ為でありました。
(引用者注 「田中領事」に続けて(田中末雄理事官)とのカッコでの訳注あり。また、「市内の外国人の住んで居る場所」は、「マギー師の宣誓口供書に、「下関市の端にある外国人所有地」とあるのが正しいと思われる」との訳注あり)

私が城壁外に出ることは殆ど不可能であつたのであります。唯田中領事と同伴の下でありましたので、城壁外に出ることが出来たのであります。私は近道をしようと思つて、横道に入りましたけれども、屍体が多くて、屍体の上を運転して行かなければ通れないのでありまして、到頭私達は其の横道を引返した程でありました。

丁度私共は「バターフィールド・アンド・スワイア」会社のある海岸の「バンド」の所まで行つたのでありますが、其処へ来ますと、田中領事は何か用事があつて其の建物の中に入つたのであります。田中領事は日本人の警官と一緒に其の店に入つたのであります。私が待つて居ります間に、海岸の所へ行つて下を見下しますと、其処に約三つになつて居る屍体の固まりがあるのを見たのであります。

私は其の屍体が正確に、どの位であつたかと云ふことは申上げ兼ねますが、大体の見当では約三百から五百と思ふのであります。是は多分実際よりも少かつたと思ふのであります。其の屍体の着て居りまする衣類は非常に焼けて居りました。さうして身体の到る処に傷があつたのでありまして、其の状況から見ますと、彼等は殺された後焼かれたと云ふことが分かるのであります。

(「南京大虐殺事件資料集1」P90。読みやすくするために、「宮本モニター」による「訂正」はすべて文中に押し込めました)



これについては、洞富雄氏が、「南京大虐殺の証明」の中で明快な説明を行っています。

●福田氏は、マギー証言の信憑性を疑わせる証拠として、こうしたことを言っているかのようであるが、これは氏の誤解である。たしかに、マギー師は一九四六年八月十五日の東京裁判法廷で、「田中領事」と同行したことをのべている。福田氏はこんなふうにいうが、じつは日本大使館には理事官として田中末雄氏がいたのである。マギー師は理事官を領事にまちがえたまでで、氏の証言を偽証とする理由にはならない。なお、安全区国際委員会から大使館へ一九三七年十二月十九日に提出した日本兵暴行記録の第六一件にも「田中氏」の名が見えている。
(「南京大虐殺の証明」P25〜P26)

(余談ですが、これを受けて上の訳注が加えられたものと思われます)


*「死体がゴロゴロ」云々にも取り掛かり始めたのですが、これだけで結構な長文となり、また重要性もそれほど高くないと思われますので、省略します。


以上、「福田証言」を検証してきました。否定派からは「国際委員会記録の信憑性」を否定する材料としてよく使われますが、それほどの材料ではなく、また詳しく見てみるとおかしなところがかなりある、というのが私の印象です。

   ├マギーの手紙の記述('37.12.19) 渡辺 2003/05/04 15:26:47  ツリーへ

Re: 福田証言の検証(止) 返事を書く ノートメニュー
渡辺 <oogeblxyju> 2003/05/04 15:26:47
マギーの手紙の記述('37.12.19)

 マギーの証言は、記憶だけではなく、12月19日付けマギーの家族への手紙によったものと思われます。
 原文は、Zhanh Kaiyuan, "Eyewitnesses To Masaccre", pp.172-173 にあります。(この本には、若干の誤植がみられますので、ご注意ください。それから、東京裁判の翻訳も、同時通訳によるものですから、かなり間違いや不正確な部分があり、要注意です。)

 マギーの手紙の邦訳は、滝谷二郎『目撃者の南京事件 発見されたマギー牧師の日記』(三交社、1992年)に掲載されていますが、全訳ではなく抜粋で、その翻訳は一部が割愛されたり丸められ不正確になっています。しかも、抜粋された部分の繋ぎに編集者の杜撰な見解が挿入されているという、資料としては困った本です。

=====
Sunday--Dec.19

.....

Yesterday l went to Hsiakwan with the new Japanese Consul‐General Tanaka
as he wanted to paste up notices on foreign property that this was American or
British property, etc. as the case might be. The only building standing at
Hsiakwan, about, are our place, Standard Oil, China Import & Export Co. and
the Yangtsze Hotel. Our front door was smashed and the house was in the great‐
est confusion with all drawers dumped in the middle of the floor. On the third
floor all remaining boxes were smashed open. l had fortunately left the smaller
of my tin-lined boxes open and had taken the locks off the cupboards. There
was considerable blood on the floor and on a bed in the 3rd floor and at least
one gun with a broken barrel so I'm thinking some Chinese soldier or soldiers
may have been cornered there, or at the least taken refuge there. The Chinese
probably broke open the boxes looking for clothing into which to change from
their soldier uniforms. Other valuable things seem to have been left untouched.
l am happy that the house was not burned down as I feared would be the case.
The sight of Hsiakwan is appalling with almost all familiar sights gone.
Bridge House is no more and l am exceedingly sorry for Mrs. Sims. To try to
begin again at her age is pretty discouraging. Hsiakwan was undoubtedly burned
by Chinese as they did not want to leave it for the Japanese and it also probably
helped to cover the Chinese retreat to the bank. On the bank there were three
great piles of charred bodies--partially burned. l imagine a great many of the
fires that have been started by Japanese during the last four or five days have
been for the purpose of burning up the dead that they have slaughtered. As l
write two fires are burning--one towards Hsiakwan and one towards the south.
.......
[Zhanh Kaiyuan, "Eyewitnesses To Masaccre", An East Gate Book, 2001, pp.172-173]

   └バターフィールド・アンド・スワイア 渡辺 2003/05/04 16:01:19  ツリーへ

Re: 福田証言の検証(止) 返事を書く ノートメニュー
渡辺 <oogeblxyju> 2003/05/04 16:01:19
バターフィールド・アンド・スワイア

話題がそれますが、
「バターフィールド・アンド・スワイア」(Butterfield & Swire) は、ティンパーリーが1937年9月始めに南京から脱出するとき、資料や家具などの荷物を預けていった会社です。こんなところに出てくるとは思いませんでした。この会社の場所が分かると、「遺体」のあった場所も判明しますね。
1938年3月3日付のバターフィールド・アンド・スワイアからティンパーリーに宛てた手紙には、まだ廃船"Shah"に荷物があるが、日本当局が廃船を動かしたり荷物をそこから動かすことを許可しないとあります。
結局、この荷物は「太平洋戦争」開戦時に押収されて失われてしまったと思われます。元奥さんの荷物もこのとき預けており、失われたとご本人から回答がありました。
"Japan: A World Problem" の序文にある、この本を書いた動機では、その件について述べているようです。

=====
Preface
MUCH of the material used here was gathered in 1935 and 1936 in preparation for a book that was to have called attention to the inevitability of a Sino-Japanese conflict. War broke out before that project could be completed and the work was laid aside. Althogh the bulk of my notes are now in Japanese hands, I have felt it timely to attempt a reconstruction of my thesis in the light of recent events and with object of presenting the problem of Japan in what I feel to be its true perspective.
.....
H.J. Timperley
New York City,
Feburuary 15, 1942

    └本題を離れますが・・・ ゆう 2003/05/04 19:32:21  (修正1回) ツリーへ

Re: バターフィールド・アンド・スワイア 返事を書く ノートメニュー
ゆう <pmyqfxtjon> 2003/05/04 19:32:21 ** この記事は1回修正されてます
本題を離れますが・・・


どうも、否定派の文を見ていると、あたかも外国人が「そこら中死体の山だった」風の証言をしているとのイメージを作り、それを「否定材料」にしているような気がしてならないのです。

例えば、東中野氏。

>まず、第一章前半のベイツの「上海の友人への手紙」は次のように主張している。

「二日もすると度重なる殺人、大規模で半ば組織的な掠奪、女性の安全にたいする攻撃を含む個人の家庭生活の滅茶苦茶な妨害が生じたことにより、将来の見通し全てが破壊されてしまった。南京を見て回った外国人たちは多くの非戦闘員の死体が通りという通りに横たわっていると報告している。・・・非戦闘員の死体のかなりが、日本軍が南京に入った一三日の午後か夕方に射殺されるか銃剣で刺された犠牲者であった。恐れたり興奮したりして走る者、日が暮れて大通りや路地で移動中の巡察隊に捕まった者は、誰でも即座に殺されたようである。・・・それはあらゆるところで安全地帯でも進行しており、多くの外国人や立派な中国人にあからさまに目撃されている」

第一章後半を書いたフィッチの主張も同じような内容で、フィッチの表現や記述を抜き出してみると、「犯罪と恐怖の物語」「掠奪物語」「十日間、完全な無政府状態が支配しており、さながらこの世の地獄」「かつて見たことのない生き地獄」となる。

(「正論」2003.4 「南京「大虐殺」を覆す証拠を発掘した」 P115〜P116)



「通りという通り」という表現で、何となく「死体の山」を想像してしまいますが、元の文はこうでした。

●しかし、二日もすると、たび重なる殺人、大規模で半ば計画的な略奪、婦女暴行を含む家庭生活の勝手きわまる妨害などによって、事態の見通しはすっかり暗くなってしまいました。市内を見まわった外国人は、このとき、通りには市民の死体が多数ころがっていたことを報告しています。<南京の中心部では、昨日は一区画ごとに一個の死体がかぞえられたほどです。>死亡した市民の大部分は、十三日午後と夜、つまり日本軍が侵入してきたときに射殺されたり、銃剣で突き殺されたりしたものでした。恐怖と興奮にかられてかけ出すもの、日が暮れてから路上で巡警につかまったものは、だれでも即座に殺されたようでした。その苛酷さはほとんど弁解の余地がないものでした。南京安全区でも他と同様に、このような蛮行が行われており、<多くの例>が、外国人および立派な中国人によって、はっきりと目撃されています。銃剣による負傷の若干は残虐きわまりないものでした。
(「南京大残虐事件資料集2」P24。”EYEWITNESSES TO MASSACRE”P4に原文あり)


「一区画ごとに一個の死体」です。その程度でしたら、阿羅氏の証言集に収められている日本人たちの証言とも、矛盾しません。

*ついでですが、「多くの外国人や・・・」は明らかな誤訳で、下の「多くの例が・・・」が正しいようです。



福田証言の、

>しかし、東京裁判でマギー神父が証言しているように、街路に死体がゴロゴロしていた情景はついぞ見たことはない。

も、ちょっとおおげさで、マギーの証言はこうでした。


●暫く致しますると南京の市内には到る所に中国人の死骸がごろごろと横(た)わつて居るやうになつたのであります。
(「南京大虐殺事件資料集1」P87)

これは、ベイツのいう、「一区画ごとに一個の死体」程度の証言と考えていいでしょう。


「一億人の昭和史」は、マギー証言と福田証言を並べてマギー証言の信頼性を疑わせる、という意地の悪い構成をとっています。こちらのマギー証言では、「近道をしようと思って、横道に入」ったところに大量の死体があったようですが、その場所がどうもはっきりしない。おそらく城外で、目撃した死体は「戦死体」が中心だと思うのです(だとすれば、マギー証言の信憑性を疑う根拠はありません)が、決め手に欠ける。

「バターフィールド・アンド・スワイア」会社のある海岸の「バンド」の場所がわかれば、あるいは手掛かりになるかもしれませんが・・・。


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