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  レイプで生まれた子供たち? ゆう 2003/05/05 06:51:40 
  強姦被害者のその後 タラリ 2003/05/12 00:23:47 
   ├大変興味深い記事、ありがとうございます。 ゆう 2003/05/12 21:25:34 
   │└つくりかけのコンテンツです(^^) ゆう 2003/05/12 22:31:21 
   └出典を発見しました(^^) ゆう 2003/05/29 21:03:59 

  レイプで生まれた子供たち? ゆう 2003/05/05 06:51:40  ツリーへ

レイプで生まれた子供たち? 返事を書く ノートメニュー
ゆう <pmyqfxtjon> 2003/05/05 06:51:40
●ちょっと横道にそれるが、『ニューズウィーク』の「レイプで生まれた子供たち」(1996年9月25日号)が報じたように、ボスニア紛争中に強姦された女性はEU(欧州連合)によると二万人であった。そのため、被害者の出産ラッシュと、捨て子という悲惨な問題が後を絶たなかった。アフリカのルワンダでも、それは同じであった。

しかし南京では、『南京安全地帯の記録』に見られるように、被害者の出産ラッシュという記録がない。言われるような二万人強姦事件がなかったことを、それがまた暗示しているのではないか。
(東中野氏「徹底検証」P273)

 
 「南京安全地帯の記録」の最後の文書は一九三八年二月十九日付。日本軍の南京占領は一九三七年一二月一三日。その間、三ヵ月しかありませんから、そもそも「南京安全地帯の記録」に「出産ラッシュという記録」など出てくるはずもありません。この記述は、東中野氏の勘違いでしょうか?


 さて常識的に考えて、レイプで妊娠してしまった場合、第一の選択肢は「堕胎」です。 事実、このような記録が存在します。


●「南京における救済状況」(ベイツ)  1938.2.14

3.医療 
  強姦された女性に感染した性病の問題は、いまや深刻になっている。われわれは直ちに医療サービスを広げて、それらの世話や自由な治療ができるようにしてやることが求められている。強姦された未婚の娘を連れて、堕胎してもらいにやってくる母親の問題はさらに痛恨事である。大学病院は現在まで、そのようなサービスは拒否せざるをえないできた。しかしその結果、家族は若い女性の健康を取り返しのつかないものにしてしまう手段にうったえることになる。
(「南京事件資料集 1アメリカ関係資料編」 P181)


●ベイツより妻リリアへの手紙  1938.2.13

 前から予見できた問題が出始めている。ある婦人がきょう大学に娘を連れてやってきて、婚約中である娘の堕胎を哀願された。彼女は、日本兵に強姦されて妊娠したのである。
 (「南京事件資料集 1アメリカ関係資料編」 P333)


 
 しかし現実には、当時の南京の医療状況を考えると、「堕胎」は困難なことであったかもしれません。次の選択肢は出産直後の「間引き」で、現実にはこれが最も一般的であったと考えられるでしょう。
 現代の我々からは想像もつかないことですが、中国では現代ですら、農村部には「間引き」の習慣が残されているようです。OECDのサイトから引用します。

●中国の両親は1人しか子どもをもたない場合がますます増えており,しかも両親の大多数はそれが男の子であることを望んでいる。
実際,中国の家庭では,男の子を求める社会的な,実体は身内からの強力な圧力がある。選別的な堕胎や女の子の「間引き」が一般的である。

http://www.oecdtokyo.org/observer/217218/217218-12.html

 悲しい「現実」です。


 「レイプ」で妊娠した子供を出産し、育てる、というケースは、あまり多くはなかったと思われます。しかしいずれにしても、当時日本の占領下にあり、かつ厳しい言論統制が行われていた、という状況から推して、「レイプで出まれた子供たち」の問題が世間に明るみにでる可能性は、ほとんどなかったでしょう。

  ジャーナリストにしても、戦時下の状況でこの問題にそもそも関心を持つかどうか、疑問です。例え関心を持ったとしても、実態調査は極めて困難でしょうし、またこのような「日本軍の恥部」の発表が許されるはずもありません。

 また、戦後になっても、中国という国の言論状況を考えれば、この種の情報が外部に漏れることは、まずありえないことだと思います。

 従って、「被害者の出産ラッシュという記録」がなかったからといって、「二万人強姦事件」(数はともかくとして)の存在を否定してしまうのは、無理のある議論だと言えるでしょう。

 そもそも東中野氏は、どのような「記録」にこの種の「事実」が記載されるはずだ、と考えているのでしょうか? 理解に苦しむところです。



さて、東中野氏が「例証」として取り上げる、「ニューズウィーク」の「レイプで生まれた子供たち」の記事を見ていくことにしましょう。 まずこの記事には、そもそも「出産ラッシュ」という表現がありません。確実な事例として紹介されているのは、次の事件1件です。


●「レイプで生まれた子どもたち」より(1)

 アレンの実母はイスラム教徒で、ボスニア頭部ミリェビナ村の出身。九二年四月、セルビア人勢力がこの村を制圧した後、隣人のセビリア人男性にレイプされ、しゃべったら殺すと脅された。レイプと殴打はその後もずっと続いたという。

 同年一〇月、彼女はゴラジュデに逃げたが、もう中絶するには遅過ぎた。途方に暮れ、川に飛び込んで死ぬことも考えたという。そんな彼女が生きていけるのは、いつかレイプ犯に復讐できる日が来ると信じているからだ。
(「NEWSWEEK」日本語版 1996.9.25 P36)


 なぜ「中絶」を行わなかったのか必ずしも明確ではありませんが、加害者が「隣人」であり、日常的に接触していた、という特殊事情があったようです。

 以下、このような記述が続きます。


●「レイプで生まれた子どもたち」より(2)

 EU(欧州連合)によると、ボスニア紛争中にレイプにあった女性は推定二万人。ボスニア内務省の発表では五万人に近い。 こうしたレイプによって生まれた子の数は誰にもわからない。みんな、この話題には口を閉ざしているからだ。

(中略)

 だが、沈黙は必ずしも子供たちのためにならない。親に見捨てられた子供の多くは、官僚主義に阻まれて行き場を失っている。

 たとえば、イスラム系の援助団体ヒューマン・リリーフ・インターナショナルが面倒を見ていた九人の孤児には、外国から養子の申し出が相次いだ。だが、ボスニア政府は孤児たちを国の管理化におくと主張、今年五月に子供たちを工業都市ゼニファに移してしまった。

 同孤児院の院長アイサ・クリツオ(57)は、子供たちの出生の秘密を明かすのを拒否している。子供たちにも名前と誕生日、国籍しか教えないという。
(「NEWSWEEK」日本語版 1996.9.25 P36)


 ある程度オープンな取材が許され、自由に発表できるケースですら、「生まれた子の数は誰にもわからない」のです。実際この記事を見ると、確実に「レイプで生まれた子供」と認定できるのはごく少数で、決して「出産ラッシュ」と言える数ではない、との印象を受けます。

 東中野氏は、もう一つ、ルワンダの事例を取り上げますが、こちらには「中絶は非合法」という特殊事情もあったようです。


●「レイプで生まれた子どもたち」より(3)

 人権擁護団体とルワンダ政府によれば、レイプされたツチ族の女性が産んだ子供は、二〇〇〇〜五〇〇〇人にのぼる。ほとんどは、生まれてすぐに孤児院の前に捨てられた。夫や家族を殺した男にはらまされた子を、みずから育てようという女性は少ない。

 内戦で荒れたキガリ中央病院でもたくさんの赤ん坊が生まれた。九四年八月からの四ヵ月だけで、レイプされて妊娠したツチ族女性は三〇〇〜四〇〇人。その六割が性器を切除されていた。

 みんな中絶を望んだが、ルワンダでは中絶は非合法だ。「子供に罪はないのだから」と、産婦人科局長のグラッドストーン・ハビマナは諭したという。「それでも彼女たちは『家族を殺した男の子を育てる気にはなれない』と言い張る。そして出産した翌朝にはたいてい姿を消してしまう」。九五年一月から四月までに、この病院だけで八〇人近い赤ん坊が置き去りにされた。

(「NEWSWEEK」日本語版 1996.9.25 P37)


さらにこの記事には、こんな記述も見られます。


●「レイプで生まれた子どもたち」より(4)

 アレンの実母をレイプしたとされる男は、今もミリェビナに住んでいる。だが、彼はレイプの事実を否定。「なぜ彼女をレイプしなくちゃいけないんだ。そんなに魅力的な女じゃない」と、彼は笑う。「なぜそんなことを言うのか、おれの目を見て説明してほしい」

 それこそ彼女の望むところ。旧ユーゴ戦争犯罪法廷(オランダ・ハーグ)で彼と対決したいと、彼女は言う。

(中略)

 だが、この男が罰せられる日は来そうにない。戦犯法廷はもっと大物の犯罪者を告発するのに忙しく、それさえも立件に手間取っているのが現状だ。戦犯第一号として起訴されていたドゥシャン・タディッチの場合も、レイプ容疑は取り下げられた。被害者が証言台に立つのを拒んだからだ。

(以下略)

(「NEWSWEEK」日本語版 1996.9.25 P36)


「否定派」の論理を悪用すれば、こんな極論も主張できかねません。

「これは被害者の側の一方的な証言であり、加害者は否定している。従って事実かどうかわからず、証拠能力はない。またレイプ容疑が立件されているものは一件もなく、EC発表の「約2万件」という推定根拠は疑わしい」

  強姦被害者のその後 タラリ 2003/05/12 00:23:47  ツリーへ

Re: レイプで生まれた子供たち? 返事を書く ノートメニュー
タラリ <vgezpxzsqe> 2003/05/12 00:23:47
強姦被害者のその後

出典はひかえておりませんが、私は次の文章をどこかの本から入力して保存しているので紹介しておきます。

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スマイスは調査結果もふまえ南京では数万人の女性が犠牲になったとみている。そして後日になっての観測であるが、強姦された女性の10人に一人の割合で妊娠したと見られる。母親が強姦された身古今の娘をつれて、堕胎をしてもらうために鼓楼病院にやってきたが、それを拒否せざるをえなかった病院の側も痛恨の思いであった。しかし、その結果、家族は無理な堕胎をこころみて娘の健康を取り返しのつかないものにしてしまう悲劇もおこった。また、妊娠を知った未婚の女性にはショックのあまり、自殺してしまうものもでた。さらに後日のスマイスの観察によれば、この時の妊娠で生まれた子どもは例外なく溺死や窒息死、あるいは捨て子にされ、ハーフが育てられることはなかった。日本軍の婦女凌辱は、あとあとまでも残酷な悲劇を残したのである。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

また、中国社会において一般的であった「間引き」の存在について 『中国女性史』、小野和子著、平凡社選書61 pp189から紹介します。

 このような農村では、女として生まれ落ちることそれ自体が受難のはじまりであった。女児は労働力として役にも立たねば、家の祭祀をひきつげるわけでもないのに、無駄飯を食わせなければならず、そのうえ大きくなれば嫁にもやらねばならぬ。まったくの余計者である。そこで溺嬰といって水につけて間引かれたのである。このような間引きが日常不断におこなわれるうえに、飢饉の年にまっさきに食事を減らされるのは女児であった。餓死はまず女児からはじまったのである。このため児童のあいだでは、男女の比率が著しく不均衡であった。
(このあと、性比の統計が示されています。一部のみ紹介すれば無錫、武漢を含む5つの地域では5歳から9歳の性比が143.0 113.6 139.0  142.1 111.1となっています。 )

また、日本軍兵士に冒されたあと自殺したり、自殺を周囲のものからとどめられた婦女が多かったことが記録されていますが、そのような行動の背後には「節烈」という儒教思想の影響があったと考えられます。

同じく『中国女性史』pp133から

 魯迅は『新青年』にいくつかの文章を発表しているが、この中に「私の節烈感」なるものがある。かれはこのなかで、封建時代、女の最高の道徳とされてきた女性の「節烈」につよく反対した。「節」とは「夫が死んでも再婚せず、私通もしないこと」、「烈」とは「夫が死ねば妻は後を追って自殺する」か、「暴力によって汚されようとした時に自害してしまうか抵抗して殺されること」である。民国の時代になっても、まだ女性の「節烈」が表彰されていた。というよりも共和の時代であればこそ、「節烈」を表彰し、家族制度のゆるんだたがをしめなおして社会秩序を維持することが必要だったのであろう。

   ├大変興味深い記事、ありがとうございます。 ゆう 2003/05/12 21:25:34  ツリーへ

Re: 強姦被害者のその後 返事を書く ノートメニュー
ゆう <pmyqfxtjon> 2003/05/12 21:25:34
大変興味深い記事、ありがとうございます。

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スマイスは調査結果もふまえ南京では数万人の女性が犠牲になったとみている。そして後日になっての観測であるが、強姦された女性の10人に一人の割合で妊娠したと見られる。母親が強姦された身古今の娘をつれて、堕胎をしてもらうために鼓楼病院にやってきたが、それを拒否せざるをえなかった病院の側も痛恨の思いであった。しかし、その結果、家族は無理な堕胎をこころみて娘の健康を取り返しのつかないものにしてしまう悲劇もおこった。また、妊娠を知った未婚の女性にはショックのあまり、自殺してしまうものもでた。さらに後日のスマイスの観察によれば、この時の妊娠で生まれた子どもは例外なく溺死や窒息死、あるいは捨て子にされ、ハーフが育てられることはなかった。日本軍の婦女凌辱は、あとあとまでも残酷な悲劇を残したのである。
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私は、この文章を見たことがありません。ベイツの記述が中ごろにはさまり、「スマイスの観察」で締めているところを見ると、どうやらどこかの「概説書」であるようですが・・・。出典がわかったら、ぜひ教えてください。


「間引き」の問題を含めて、あまりにデリケートな題材なので、表現に苦労しています。当初の投稿をあちこち修正して、とりあえずこんなコンテンツに仕上げましたが、またこっそりと書き直すかもしれません(笑)。
(もちろん直すのは自分の「解説」だけで、使用する「資料」はこのままになります)

http://www.geocities.co.jp/WallStreet/8503/higasinakano1211.html


*「福田証言」の方は、いろいろと悩んでいますので、もう少し寝かせることにしました。そのうち考えがまとまったら、コンテンツ化する予定です(「つくりかけのコンテンツ」が、やたらと増えています(^^; )。

   │└つくりかけのコンテンツです(^^) ゆう 2003/05/12 22:31:21  ツリーへ

Re: 大変興味深い記事、ありがとうございます。 返事を書く ノートメニュー
ゆう <pmyqfxtjon> 2003/05/12 22:31:21
つくりかけのコンテンツです(^^) 

http://www.geocities.co.jp/WallStreet/8503/nousonbu.html

「写し間違い」があるかもしれませんので、必ず原典をご参照ください。


資料:城外、農村部の住民


 前コンテンツでは、「安全区外の城内」に限定して、この地区の「残留住民」の資料を見ていきました。このコンテンツでは、「城外」及び「農村部」の居住者の存在を示す資料を取り上げます。

 南京占領以前には、下関、中華門外、江東門などに、「市街地」が存在しました。また、農村部(いわゆる「郷区」は、戦前人口約15万人を数えます。これらの地域は、「虐殺」の主舞台になっていた可能性が高いところです。

 念のためですが、中国側が主張する虐殺の範囲は、「郷区」を含む「南京市」です。日本側では、板倉氏ら「少数説」派を含めて、「南京市」に周辺県までを加えた「南京特別市」までを範囲とする議論が一般的です。詳しくは、「二十万都市で三十万虐殺?」をご覧下さい。

 なおこのうち、「下関」については、宝塔街の七千人〜二万人規模(諸説あり)の「難民キャンプ」の存在が有名ですので、省略します。ここでは、ネットではほとんど取り上げられない資料を中心に、紹介を行いたいと思います。

 


前田吉彦少尉日記 (歩兵第四十五聯隊第七中隊小隊長・歩兵少尉)
◇十二月十二日

 上河鎮の強攻は止むを得ないとすれば莫大な損害を覚悟せにやなるまい。それよりはどうしても上河鎮東側水西門との間隙に突入して下関への突入の道を拓くに如かず。

  将士の決意面上に溢るるを見る。

  徳永上等兵の第二分隊を路上斥候として堤防を下り楊柳の部落から畦道伝いに東に向う。一面の水田、クリークの間に点々と如何にも南京近郊の情趣溢るる農家が続く。不安気な土民の姿がチョロチョロと隠顕する。

(中略)

 敵弾の合間を科(ママ)って入口から飛び込む。うす暗い室内に何物かがうずくまっている。近寄って見ると何と半盲の老婆が念仏でも謡しているのかブツブツと小声で何かつぶやいている。「オー老太太」いやー婆さんか、敵サン真逆かこの同胞を撃ち殺す心算りじゃないだろうからもう暫くそこで我慢しとってくれと冗談を云い乍ら工事を覗く。

(「南京戦史資料集T」 P350、P352)



 

初年兵の手記 「硝煙の合間にて」 (歩兵第七聯隊第一歩兵砲小隊 N・Y一等兵)

 十二月九日

  南京迄はもう地図を見ても二里とはなかった。銃声も相当間近く激しく聞えた。途中で命令がきたらしく二時間余り休憩があって、自分達は早速民家に入って焚火をした。アンペラを敷いてみんなは泥のようにごろごろ寝した。敵の砲弾が民家の後のクリークを距てた畑に熾んに落ちた。しかしみんなは何事も知らぬげに睡っていた。午後になってようやく自分達の大隊の戦闘正面が定まって、又本道を引返し細い畦道伝いに行軍を続けた。

畑にはネギがあったり、部落にはおどおどした土民が自分たちを見ていた。自分達はてんでにネギを取って夜食の汁に入れる事を考へていた。

(「南京戦史資料集T」 P380)



 

牧原信夫日記 (歩兵第二十聯隊第三機関銃中隊・上等兵)
◇十二月二十七日

 午前六時起床、直に食事準備をなして食事を終え、午前八時野菜徴発に出る。四方伍長引率なり。漢中門を通過し揚子江方面に向かう。

 漢中門を出た所には五、六百の死体が真黒に焼かれて折重って居た。或は黄い皮が到る所むけ見苦しい状態で散乱して居た。大きな橋を通過し更に進む。道の到る所には遺棄死体が転って居た。約一里半の所迄前進する。当部落は避難民が多く集って居た(大多数は老人や子供である)。或る家に行き連れて来た支那苦力に実演さした。次昼食を準備すた所(家)には丁度日本に四年程行商して居た支那人が居て何かと思出話をやる。大変面白かった。午後一時出発する途中、友軍の射撃を受け四、五発は大変危険な弾がやって来た。此地で白菜の徴発をやり三車輌に満載して四時二十分宿舎に到着す。

(「南京戦史資料集T」 P408〜P409)


   └出典を発見しました(^^) ゆう 2003/05/29 21:03:59  ツリーへ

Re: 強姦被害者のその後 返事を書く ノートメニュー
ゆう <pmyqfxtjon> 2003/05/29 21:03:59
出典を発見しました(^^)

>スマイスは調査結果もふまえ南京では数万人の女性が犠牲になったとみている。そして後日になっての観測であるが、強姦された女性の10人に一人の割合で妊娠したと見られる。母親が強姦された身古今の娘をつれて、堕胎をしてもらうために鼓楼病院にやってきたが、それを拒否せざるをえなかった病院の側も痛恨の思いであった。しかし、その結果、家族は無理な堕胎をこころみて娘の健康を取り返しのつかないものにしてしまう悲劇もおこった。また、妊娠を知った未婚の女性にはショックのあまり、自殺してしまうものもでた。さらに後日のスマイスの観察によれば、この時の妊娠で生まれた子どもは例外なく溺死や窒息死、あるいは捨て子にされ、ハーフが育てられることはなかった。日本軍の婦女凌辱は、あとあとまでも残酷な悲劇を残したのである。



これは、笠原十九司氏「南京難民区の百日」P315の記述でした。

しかし残念なことに、私は、この記述のベースになったであろう「スマイスの観察」の資料を知りません。笠原氏に直接お伺いできればいいのですが・・・(どなたか、笠原氏とお知り合いの方、いらっしゃいませんか(笑))。


大変興味深い記述ですので、私のページにも紹介しておくことにします。まだ自分で「ウラ」がとれていませんので、「笠原氏は、このような見解を示しています」といった、ちょっと及び腰の紹介になりそうですが・・・。


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