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  ちょっと遅れの更新のお知らせ ゆう 2003/05/27 22:48:00 
  『ネタになるかどうかは別として、資料整理... タラリ 2003/05/28 20:30:22 
  │└資料紹介、ありがとうございます。	 ゆう 2003/05/29 21:32:57 
  お久しぶりです>ゆうさん K−K 2003/05/29 00:02:09 
  たいしたネタにもなりませんが ja2047 2003/06/05 06:39:33 
  右翼・保守ではありませんが、こういうのも... KOIL 2003/06/11 22:31:30  (修正1回)

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ゆう <pmyqfxtjon> 2003/05/27 22:48:00
「資料:日本人の著作に見る南京事件」なるコンテンツを作りました。

http://www.geocities.co.jp/WallStreet/8503/nihonjin.html


と言っても、ほぼ毎週「更新」はしてますし、3日前の更新なので、今更、という気もしますが・・・。まあ、ここしばらく掲示板への書き込みが途絶えているようですので、「景気付け」です(^^)。

(よその掲示板で大活躍中のK-Kさん。こちらに「重光手記」を書くのをお忘れではありませんか(笑))


このコンテンツは、「右翼」もしくは「保守」と目される方々の、「南京事件」、あるいは「日中戦争」への認識を集めたものです。このコンテンツを作っていて面白く思ったのは、法眼氏や河相氏などの「外務省」筋が、結構石射猪太郎氏と同じように「日本軍の暴行」への認識を持っていたことですね。田中正明氏に騙されて(^^)、私もこんな認識を持っていたのは石射氏だけだった、と思い込んでいました。

実はこれに「東京裁判をさばく」の滝川政次郎氏の記述を加える予定したが、間違えて上巻を購入してしまい、あわてて下巻を注文したらもう売り切れでした。そのうち入手できたら、付け加えます。



次は石射証言を取り上げようと思っています。「極東軍事裁判」での石射証言、そして「外交官の一生」そのものを読むと、田中氏の「人格批判」が、いかに無茶苦茶で一方的なものであるかがわかります。

ただわからない点も多いので、とりあえずこちらの掲示板に投稿して、皆さんのご批判やアドバイスをいただきたいと思っています。月末にかかって少々忙しくなっていますので、週末までお待ち下さいm(__)m。

  『ネタになるかどうかは別として、資料整理... タラリ 2003/05/28 20:30:22  ツリーへ

Re: ちょっと遅れの更新のお知らせ 返事を書く ノートメニュー
タラリ <vgezpxzsqe> 2003/05/28 20:30:22
『ネタになるかどうかは別として、資料整理しやすくなったので』
こんばんは、ゆうさん(一応、晩方に書いてます)。
次々とWebの増ページご苦労様です。

>まあ、ここしばらく掲示板への書き込みが途絶えているようですので、「景気付け」です(^^)。

確かに書き込みが途切れると淋しいです。旧K−K板の方が頻度が高かったような...
下記の5つの資料は実は私が本から読み込んだのではなく、各種掲示板の過去ログを拾い集めたものです。最近、MyDocumentを時間をかけて整理し「私説」(自分が掲示板に書いた文章)、「他説・論争」(他者が掲示板に書いた文章・論争)、「証言・資料」(素材としての資料)のフォルダーにまとめたので便利になり、早速取り出してみました。ネタの提供になるかどうか。

【1】矢次一夫証言。場所は吉田茂なども参画した戦前シンクタンクでの話。
            ↓
   >『昭和動乱私史・上巻』1971(経済往来社)pp480−481
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
「女房もちの多くの兵たちが、突然動員され出征させられるのだから、中国各地で性犯罪が頻発するであろうことは自明だったのだが、これを抑制したり取り締まったりする方法はなかったわけだ。事実当時の逓信事務次官だった小野猛は、極秘だが、お目にかけよう、といって、数冊の分厚い写真帳を貸してくれたので、ひらいて見たら、暴行のかぎりをつくした写真が一杯ある。血刃を指し上げている一兵士の周囲に、数十箇の中国兵の首級が陳列されているものだとか、近衛に相似した中国兵の首級を木の枝にひっかけ、葉巻をくわえたような形で切断した男根を口にさしこんだものだとか、今や正にエイッと中国兵を打首にしようとしているものだとか、筆紙につくしがたい残虐写真が満載されていた。」
「私はこれをちょっと貸してくれ、と頼み、正午の国策研究会常任理事会にもちこんで、食事が済んだら大変な資料を見せる、と言ったら、下村海南、大蔵公望、今井田清徳、大橋八郎などの役員たちが、食事前でもよいから、見せろ、といって聞かない。私が、食事がまずくなる、というのに、下村海南など、思わせぶりをするなよ、早く見せろ、というので、では、といって写真帖を開いた。一同はこれを取り囲んで一見するや否や、さすがに顔色が変わり、ううんと唸ったっきり、しばらくは一言を発するものもない。これらの写真は、小野の説明によると、出征兵士たちが、自己の武勇?を誇示するためかどうか、写真に撮って家郷に送ったものが、途中検閲によって押収されたものだということだ。日本民族に潜在する残虐性が戦場という異常状態で爆発したものであるにせよ、かつて外国人によって書かれた『泰天二十年』に見られる日露戦争当時の、軍規整々、を謳われたものと同じ日本人、しかも私共の祖父の時代であるだけに驚きは大きく、とくに下村海南は、日露役当時逓信省の局長として活躍した人物だけに、痛恨の情は、ひとしおであった。」

#これは、児玉誉士夫著書のバリエーションみたいなもの。必ずしも南京を対象としたものではないですが、「支那事変」における暴行写真がテーマとなりますね。

【2】三笠宮崇仁
南京大虐殺についての質問に答えて
 三笠宮 「最近の新聞などで議論されているのをみますと、なんだか人数のことが問題になっているような気がします。辞典には、虐殺とはむごたらしく殺すことと書いてあります。人数は関係はありません。
私が戦地で強いシヨツクを受けたのは、ある青年将校から「新兵教育には、生きている捕虜を目標にして銃剣術の練習をするのがいちばんよい。それで根性ができる」という話を聞いた時でした。それ以来、陸軍士官学校で受けた教育とは一体何だったのかという懐疑に駆られました。また、南京の総司令部では、満州にいた日本の部隊の実写映画を見ました。それには、広い野原に中国人の捕虜が、たぶん杭にくくりつけられており、そこに毒ガス弾が発射されたりしていました。ほんとうに目を覆いたくなる場面でした。これこそ虐殺以外の何ものでもないでしょう。しかし、日本軍が昔からこんなだったのではありません。北京駐屯の岡村寧次大将などは、その前から軍紀、軍律の乱れを心配され、四悪(強姦 、略奪 、放火 、殺人 )厳禁ということを言われていました。
私も北京へ行って、直接聞いたことがあります。−中略・ー」 
1994 8 THISIS 読売 

闇に葬られた皇室の軍部批判−支那事変に対する日本人としての内省  三笠宮崇仁
1943年1月、若杉参謀の名で支那派遣軍参謀(大尉)として南京に派遣された。
現代人物事典には「軍規律の頽廃、捕虜虐殺の実態を見て批判的な意見を述べるが、かん口令をしかれた」との記述がある。翌年少佐。その後大本営陸軍参謀、機甲本部付、 航空総軍参謀


昭和天皇の末弟・三笠宮崇仁(たかひと)著 
『古代オリエント史と私』(学生社、八四年六月刊)所収の
「一 なぜ私は歴史に関心をもったか」。
 その中で三笠宮は「皇族の身位令」による義務で「軍人への道を進むことになり」、四三年一月、「支那派遣軍総参謀に補せられ、南京の総司令部に赴任したときに、日本軍の残虐行為を知らされました」
「ごくわずかしか例があげられませんが、それはまことに氷山の一角にすぎないものとお考え下さい」と前置きして、次のように書いています。
 「ある青年将校――私の陸士時代の同期生だったからショックも強かったのです――から、兵隊の胆力を養成するには生きた捕虜を銃剣で突きささせるにかぎる、と聞きました。また、多数の中国人捕虜を貨車やトラックに積んで満州の広野に連行し、毒ガスの生体実験をしている映画も見せられました。その実験に参加したある高級軍医は、かつて満州を調査するために国際連盟から派遣されたリットン卿(きょう)の一行に、コレラ菌を付けた果物を出したが成功しなかった、と語っていました。
 『聖戦』のかげに、じつはこんなことがあったのでした。」(十六?十七ページ)
 いずれも驚くべき事実です。日本軍の残虐行為は「南京事件」だけではなかったのです。これが日本軍の中国侵略の実態だったのです。
 三笠宮は、「今も良心の呵責(かしゃく)にたえないのは、戦争の罪悪性を十分認識していなかったことです」とものべています(十四ページ)。

「わたくしが上海地区へ視察に行ったとき、日本軍の上海附近上陸以来ちょうど六年たっていたが、ある第一線の師団長はしみじみとつぎのように述懐しておられた。「われわれが戦っている相手の中国軍と、日本軍に協力してくれている中国軍と比較すると、相手のほうが一般民衆にたいする軍紀が厳正です。われわれは正義の戦をしているはずなのに、軍紀のゆるんでいる軍隊を助けて、軍紀のひきしまっているほうの軍隊を討伐することに、つくづくと矛盾を感じます」と。この言葉はその当時のわたくしの心境にぴったりとあっていたのでいまだに忘れられない」
  (三笠宮崇仁『帝王と墓と民衆』(光文社 1956)より)

#こちらも、南京事件に直接の言及は少な目です。

【3】『潮』昭和47年10月号 「南京事件と広田弘毅」(上) 城山三郎
K−K - 02/11/07 02:30:58
電子メールアドレス:渡辺さんへ
内容《略》
#これは城山三郎氏がまとめた著作で、南京に対する認識の主体が日高信六郎、広田外相、堀内謙介と分散しています。出所はおわかりですね、なんと旧K−K板です。

【4】滝川政二郎 
南京占領後における日本軍の南京市民に加へた暴行が相当にひどいものであったことは、蔽ひ難き事実である。当時私は北京に住んでゐたが、南京虐殺の噂があまり高いので、昭和十三年の夏、律浦線を通って南京に旅行した。南京市街の民家が概ね焼けてゐるので、私は日本軍の爆撃によって焼かれたものと考へ、空爆の威力に驚いてゐたが、よく訊いてみると、それらの民家は、いづれも南京陥落後、日本兵の放火によって焼かれたものであった。南京市民の日本人に対する恐怖の念は、半歳を経た当時においても尚冷めやらず、南京の婦女子は私がやさしく話しかけても返事もせずに逃げかくれした。私を乗せて走る洋車夫が私に語つたところによると、現在南京市内にゐる姑娘[若い娘]で日本兵の暴行を受けなかった者はひとりもないといふ。

#引用元不明です。

【5】大谷敬二郎

二.二六事件後、憲兵司令官に任ぜられた中島中将の部下であった大谷敬二郎氏(敗戦時憲兵大佐、東部憲兵司令官)は、その著『陸軍80年』(『皇軍の崩壊』の改題、一九七八年、図書出版社)で、中島中将について、次のように伝えている。

《憲兵司令官当時、しばしば常軌を逸することがあり、部下たちを困らせていた。いささか異常性格と思わせる節がないでもなかった。この師団長が南京市の警備責任者であったのだ。昭和一三年一月はじめ、南京を訪問した陸軍省人事局長阿南少将が中島中将に会ったとき、”支那人なんかいくらでも殺してしまうんだ”とたいへんな気焔をあげていたとも伝えられていたが、この司令官のもとでは、殺人、略奪、強姦も占領軍の特権のように横行したであろう。現に彼は、のちに満州の第四軍司令官当時、蒋介石の私財を持ち出して師団偕行社に送っていたことがばれて、予備役に編入されている。当時、東京にはこの師団の非道さは、かなり伝えられていた。こんな話がある。松井兵団に配属された野戦憲兵隊長は宮崎憲兵少佐であったが、あまりの軍隊の暴虐にいかり、現行犯を発見せば、将校といえども直ちに逮捕し、いささかも仮借するな、と厳命した。ために、強姦や略奪の現行犯で、将校にして手錠をかけられ憲兵隊に連行されるといった状況が続いた。だが、これに対しつよく抗議したのが中島中将であった。この間の事情がどうであったか、くわしく憶えないが、当の宮崎少佐は、まもなく内地憲兵隊に転任される羽目となった。これでは、戦場における軍の規律はたもてない。高級指揮官が、略奪など占領軍の当然の権利のように考えていたからだ。すでに軍はその質を失っていた。》pp226-227

#ページのみ残っていますが、確か『南京大虐殺の証明』でしょう。

ゆうさんのテーマにとっては使いにくい素材もありますので、原典に当たって使えるものだけ使ってみて下さい。

  │└資料紹介、ありがとうございます。	 ゆう 2003/05/29 21:32:57  ツリーへ

Re: 『ネタになるかどうかは別として、資料整理... 返事を書く ノートメニュー
ゆう <pmyqfxtjon> 2003/05/29 21:32:57
資料紹介、ありがとうございます。


>『昭和動乱私史・上巻』1971(経済往来社)

ある方から、「児玉誉士夫」が面白かった、との嬉しいメールをいただきました。これもまた面白そうですので、早速捜してみましょう。


>三笠宮崇仁

これまた、私のページの趣旨にふさわしいネタです。残念ながら、「雑誌論文」ですので、今の私の環境では入手不可能ですが・・・。


>「南京事件と広田弘毅」(上) 城山三郎

これ、手元にあります(^^)。早速、読み返してみましょう。


>滝川政二郎 

「東京裁判をさばく」(下)ですね。私が入手し損なったやつです。しかし、(上)はひたすら「東京裁判」の法廷の様子の記述に終始していますので、どのような展開であの記述が出てくるのか、大変興味があります。


>大谷敬二郎

これも手元にある(^^)。「元東部憲兵司令官」だった方ですから、これも使えるかもしれない。読み返さなくては。



ところで、
>確かに書き込みが途切れると淋しいです。旧K−K板の方が頻度が高かったような...

ただ末期の「南京事件資料集」版は、アホなアラシ氏のおかげで、「まともな討論」に少々不自由しましたね。

アラシ氏がどんな無茶苦茶をやったかという「事実」を知る者も少なくなりましたので、わけのわからない「中傷」を防ぐために、どこかに事実経緯の「記録」を残しておく必要がある気がします。

  お久しぶりです>ゆうさん K−K 2003/05/29 00:02:09  ツリーへ

Re: ちょっと遅れの更新のお知らせ 返事を書く ノートメニュー
K−K <ecoepxmujl> 2003/05/29 00:02:09
お久しぶりです>ゆうさん

>と言っても、ほぼ毎週「更新」はしてますし、3日前の更新なので、今更、という気もしますが
>・・・。まあ、ここしばらく掲示板への書き込みが途絶えているようですので、「景気付け」で
>す(^^)。

 毎週更新とはすごい。HP管理では重要なことですね。
 私も、多少は見習わなければ・・・。


>(よその掲示板で大活躍中のK-Kさん。こちらに「重光手記」を書くのをお忘れではありませんか
>(笑))

 「大活躍」というほどでも無いのですが、佐々木寛なる人物と議論をしていることです(後はまぁ、いうなれば私の「追っかけ」みたいなもので、お遊び半分というところですね(笑))。

 こちらに「重光手記」を投稿しなかったのは、資料としてはそれほど重要性があると思えませんし、いずれHPに掲載するつもりですので、「とりあえずいいかな」と思った次第です。
 ただ、ある意味、ウヨクの方々には刺激があるのではないかと思い二、三投稿してみたのですが、案の定、いくつか面白い反応をみることが出来ました。


>このコンテンツは、「右翼」もしくは「保守」と目される方々の、「南京事件」、あるいは「日中
>戦争」への認識を集めたものです。このコンテンツを作っていて面白く思ったのは、法眼氏や河相
>氏などの「外務省」筋が、結構石射猪太郎氏と同じように「日本軍の暴行」への認識を持っていた
>ことですね。田中正明氏に騙されて(^^)、私もこんな認識を持っていたのは石射氏だけだった
>、と思い込んでいました。

 そうそう、田中正明氏は、石射氏を「反日だから云々」などと主張して、その証言を否定しようとしましたが、これだけ出てくれば、それももう主張できないでしょうね。


>次は石射証言を取り上げようと思っています。「極東軍事裁判」での石射証言、そして「外交官の
>一生」そのものを読むと、田中氏の「人格批判」が、いかに無茶苦茶で一方的なものであるかがわ
>かります。

 私はまだ、石射氏の著作を読んだことがありませんので、ぜひ、感想などもご投稿ください。

 ところで、外交官と言えば、日高信六郎氏も気になる人物ですよね。当時、上海で参事官をしていたのですから、何か、資料を残していれば面白いと思うのですが・・・。

  たいしたネタにもなりませんが ja2047 2003/06/05 06:39:33  ツリーへ

Re: ちょっと遅れの更新のお知らせ 返事を書く ノートメニュー
ja2047 <zguiletmbk> 2003/06/05 06:39:33
たいしたネタにもなりませんが

なにせ私が持ってる本で、ゆうさんが持ってないのは「歩兵33連隊史」と「最後の殿様」ぐらいだというのを知ってるだけに、提供できるネタもないのですが、
最近気付いたやつをひとつ、「続野戦郵便旗」から

「泥棒市は中山路の角から数町続き、次の十字路でまた横に続くにぎやかなものである。
狭い舗道で時々姑娘にも会うが、行き違うときひどく不安気に避けるのがいる。」
(続野戦郵便旗 佐々木元勝 現代史資料センター出版会 昭和48年 P68)

  右翼・保守ではありませんが、こういうのも... KOIL 2003/06/11 22:31:30  (修正1回) ツリーへ

Re: ちょっと遅れの更新のお知らせ 返事を書く ノートメニュー
KOIL <yyiivymypb> 2003/06/11 22:31:30 ** この記事は1回修正されてます
右翼・保守ではありませんが、こういうのもあります。
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おれは上がりかま
ちに腰かけて夕じゃをよぱれながら、反っ歯がじいさんにこんなことを自慢げに話しているのを聞
いた。
「上海から南京まで進撃していく間に、そうだな、おりゃ二十人近くチャンコロをぶった斬ったか
な。まあ大根を輪切りにするみてえなもんさ、それから徴発のたんぴにクーニャンとやったけや、
よりどりみどりで女にゃ不自由しなかった。ほれ、この指輪も蘇州でクーニャンがくれたやつさ。
たいしたもんじゃないらしいけんど、そのときもこれ進上するから命だきゃ助けてくれって泣きつ
きやがったっけ。でもさ、生かしておくってえとあとがうるせえから、おりゃ、やったあとはその
場で刀でパッサパッサ処分しちゃった……まあ命さえあぶなくなきゃ、兵隊ってのは、してえ事が
できて面白えしょうばいさ。それでお上から金ももらえるんだから、博労なんかよりもずっと割が

いいぜ」
おれはひどい奴だと思った。やったこともひどいが、それ以上におそろしいのは、それにたいし
てこの男にすこしも罪の意識のないことだ。もし娑婆でそんなことをすれぱ、この男は極悪非道な
殺人犯としてとうに自分の首が飛んでいるところだろう。ところが戦争ではそれがなんの罪にもな
らず、曹長にまで進級してこうしてそれを自慢しているのだ。たとえ敵国民にせよ、無辜の人間を
殺したことには変りはないのに…。
反っ歯は南京でのことも話していたが、その残忍さにおれは耳をうたぐったほどだ。あらかじめ
本人に穴を掘らせておいてその盛土の上で首をはねたり、女や子供たちを学校の運動場に並ぱせて
おいて、機関銃で射殺したり、ある場合には川原に連れていって頭から石油をぷっかけて生きたま
ま焼き殺してしまったそうだ。反っ歯の話では、そんなふうにして殺されたひとの数は南京だけで
も五、六万人はいただろうという。

『砕かれた神』/渡辺清/評論社/1976 p236-237
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のちに朝日新聞社から再版


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