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  石射猪太郎氏の証言 ゆう 2003/05/31 11:13:23 
  −石射著書の優れた検証− タラリ 2003/05/31 23:52:55 
  3回に分けました ゆう 2003/06/01 05:41:05  (修正1回)

  石射猪太郎氏の証言 ゆう 2003/05/31 11:13:23  ツリーへ

石射猪太郎氏の証言 返事を書く ノートメニュー
ゆう <pmyqfxtjon> 2003/05/31 11:13:23
準備中のコンテンツです。

私にとって、ちょっとなじみの薄い題材です。手元の文献で可能な限り「確認作業」を行いましたが、思わぬところで誤った記述や勘違いをしているのではないか、と懸念しています。何かお気付きのところがありましたら、ぜひご指摘ください。

 「引用箇所」などが読みにくいと思いますので、できればこちらで読んでいただいた方が読みやすいのではないか、と思います。

http://www.geocities.co.jp/WallStreet/8503/ishii.html

以下、内容です。長文になってしまいましたので、読み通すのが大変かもしれません。




  石射猪太郎氏は、近衛内閣の外務省東亜局長として、軍部の日中戦争拡大方針に反対したことで知られています。「南京事件」については、次の記述を残しています。



「外交官の一生」より 

  南京は暮れの一三日に陥落した。わが軍のあとを追って南京に帰復した福井領事からの電信報告、続いて上海総領事からの書面報告がわれわれを慨嘆させた。南京入城の日本軍の中国人に対する掠奪、強姦、放火、虐殺の情報である。憲兵はいても少数で、取締りの用をなさない。制止を試みたがために、福井領事の身辺が危いとさえ報ぜられた。一九三八(昭和一三)年一月六日の日記にいう。

上海から来信、南京におけるわが軍の暴状を詳報し来る。掠奪、強姦、目もあてられぬ惨状とある。嗚呼これが皇軍か。日本国民民心の頽廃であろう。大きな社会問題だ。

  南京、上海からの報告の中で、最も目立った暴虐の首魁の一人は、元弁護士の某応召中尉であった。部下を使って宿営所に女を拉し来っては暴行を加え、悪鬼のごとくふるまった。何か言えばすぐ銃剣をがちゃつかせるので、危険で近よれないらしかった。

 私は三省事務局長会議でたびたび陸軍側に警告し、広田大臣からも陸軍大臣に軍紀の粛正を要望した。軍中央部は無論現地軍を戒めたに相違なかったが、あまりに大量の暴行なので手のつけようもなかったのであろう、暴行者が、処分されたという話を耳にしなかった。当時南京在留の外国人達の組織した国際安全委員会なるものから日本側に提出された報告書には、昭和一三年一月末、数日間の出来事として、七十余件の暴虐行為が詳細に記録されていた。最も多いのは強姦、六十余歳の老婆が犯され、臨月の女も容赦されなかったという記述は、ほとんど読むに耐えないものであった。その頃、参謀本部第二部長本間少将が、軍紀粛正のため現地に派遣されたと伝えられ、それが巧を奏したのか、暴虐事件はやがて下火になっていった。

 これが聖戦と呼ばれ、皇軍と呼ばれるものの姿であった。私はその当時からこの事件を南京アトロシティーズと呼びならわしていた。暴虐という漢字よりも適切な語感が出るからである。

 日本の新聞は、記事差し止めのために、この同胞の鬼畜の行為に沈黙を守ったが、悪事は直ちに千里を走って海外に大センセーションを引き起こし、あらゆる非難が日本軍に向けられた。わが民族史上、千古の汚点、知らぬは日本国民ばかり、大衆はいわゆる赫々たる戦果を礼賛するのみであった。

(「外交官の一生」 中公文庫版 P332〜P333)



 この「石射証言」を、氏の「人格攻撃」を行うことにより否定し去ろうとする記述が存在します。田中正明氏「南京事件の総括」です。



田中正明氏「南京事件の総括」より 

 福田氏は現地で、実際に中国人や国際委員会の抗議を吟味してその内容の多くがでたらめであることを知っているが、毎回続々と送られてくる日本軍の暴行に対する国際委員会の抗議を受け取った当時の外務相東亜局の驚きはどんなであったか。

東亜局長石射猪太郎氏は、回顧録『外交官の一生』(読売新聞社出版部)の中で次のように書いている。

 昭和13年1月6日の日記にいう。

 上海から来信、南京に於ける我軍の暴状を詳報し来る。掠奪、強姦目もあてられぬ惨情とある。嗚呼これが皇軍か。日本国民民心の頽廃であろう。大きな社会問題だ。(中略)これが聖戦と呼ばれ皇軍と呼ばれるものの姿であった。私はその当時からこの事件を南京アトロシティと呼びならわしていた(前掲同書三〇五〜六ページ)。

 この文章は虐殺派がよく利用する。石射氏がこのようなでたらめ抗議を信用し、軍に反感を抱くにいたったには、それなりの原因がある。
 
(「南京事件の総括」P172〜P173)



まず、「事実の誤り」から指摘しておきましょう。田中氏は、どうやら「極東軍事裁判」における石射証言を読んでいないようです。

 まず氏は、東亜局がリアルタイムで「国際委員会の抗議」を受けとっていた、という誤解をしているようです。「毎回続々と送られてくる日本軍の暴行に対する国際委員会の抗議」という表現から、そのことが読み取れます。

実際は、こうでした。



「極東軍事裁判」 石射証言より
○コミンズ・カー検察官 南京における国際安全委員会から、陸続として報告が ― 南京の総領事からこういう報告を陸続として入手したときに、あなたはどういう措置をとりましたか。

○石射証人 ただいま陸続としてということを言われたようですが、私の記憶では一まとめになつて、一回あるいは二回来たかと思います。

(「南京大虐殺事件資料集1」P223〜P224)

*「ゆう」注 石射氏は、「極東軍事裁判」に、弁護側証人として出廷しています。広田外相(当時)が、「南京アトロシテーズ」を何とか止めようとしていた、と証言する役回りです。


 

 さらに決定的な「誤解」は、どうやら田中氏は、石射氏が国際委員会の「でたらめ抗議を信用し」て、「アトロシテーズ」の存在を認識した、と思い込んでいることです。「宣誓口供書」から引用しましょう。



極東軍事裁判 石射猪太郎証人「宣誓口供書」

  私が東亜局長に任ぜられた後約二箇月、一九三七年七月七日、盧溝橋事件が勃発した。同年十二月十三日頃、我軍が南京に入城する、其のあとを逐つて、我南京総領事代理(福井淳氏)も上海から南京に帰復(ママ)した。同総領事代理から本省への最初の現地報告は我軍のアトロシテーズに関するものであつた。此の電信報告は遅滞なく東亜局から陸軍省軍務局長宛に送付された。当時、外務大臣は此の報告に驚き且心配して、私に対し早く何とかせねばならぬと御話があつたので、私は電信写は既に陸軍省に送付されて居る事、陸海外三省事務当局連絡会議の席上、私から軍当局に警告すべき事を大臣にお答へした。

其の直後、連絡会議が私の事務室で行はれ(会議は必要に応じ随時東亜局長室で行はれる慣行となつて居る。本来陸海両省の軍務局長及東亜局長が出席する事になつて居たが、其の頃は陸海両省の軍務局第一課長及東亜局長第一課長が出席し東亜局長が主会(ママ)する様になつて居た)、其の席上、私は陸軍省軍務第一課長に対し右アトロシテーズ問題を提起し、苟も聖戦と称し皇軍と称する戦争に於てこれは余りヒドイ、早速厳重措置する事を切実に申入れた。同課長も全く同感で、右申入れを受け入れた。

 其の後いくばくもなくして在南京総領事代理から書面報告が本省へ到着した。それは南京在住の第三国人で組織された国際安全委員会が作成した我軍アトロシテーズの詳報であつて、英文でタイプされてあり、それを我南京総領事館で受付け、本省に輸送して来たものである。私は逐一之に目を通し、其の概要を直ちに大臣に報告した。そして大臣の意を受けて、私は次の連絡会議の席上、陸軍々務局第一課長に其の報告書を提示し、重ねて厳重措置方を要望したが、軍は最早既に現地軍に厳重に云つてやつたとの話であつた。

其の後、現地軍のアトロシテーズは大分下火になつた。翌一九三八年一月の末頃と記憶するが、陸軍中央では特に人を現地軍に派遣したあとで、其の派遣された人物は本間少将である事がわかつた。それ以降、南京アトロシテーズは終止した。

(「南京大虐殺事件資料集1」P220)

*「ゆう」注 「陸軍省軍務第一課長」は、証言の中で、「陸軍大佐柴山兼四郎」に訂正されています。



 
  石射氏は、「国際安全委員会文書」を受け取る以前に、「南京総領事代理(福井淳氏)」から「本省への最初の現地報告」によって、既に「アトロシテーズ」の存在を認識していました。そして軍も、「国際安全委員会文書」による抗議以前に、「既に現地軍に厳重に云つてやつ」ています。

 従って、石射氏が「国際委員会の抗議」のみを材料に「驚き」を感じたかのように書く田中氏の文章は、誤りです。

 さらに言えば、田中氏は、石射氏が当時の日本において特異な見解を示していたかのような「印象操作」を行っていますが、実際には、「南京アトロシテーズ」などの陸軍の不軍紀ぶりを憂慮する見方は、石射氏のみのものではありませんでした。「資料:日本人の著作に見る「南京事件」」にいくつかの資料を掲載しておきましたので、ご覧下さい。



 田中氏の文を、続けます。


田中正明氏「南京事件の総括」より 

 昭和十二年十二月十四日(南京占領の翌日)に開かれた「大本営連絡会議」で、軍と激突し、次のように憤激している。 

「こうなれば案文などどうでもよし、日本は行く処まで行って、行詰らねば駄目と見切をつける(同日の『日記』より)。私はむしろサバサバした気持ちになり、反逆的な快味さえ感じた」(前掲同書三〇〇〜三〇三ページ)。

このように「反逆的快味」すら感じていた石射氏にとって、南京における陸軍の失点は反撃のチャンスでありザマミロということになる。「南京アトロシティー」は石射氏にとって陸軍を攻撃する格好の材料であったのだ。
 
(「南京事件の総括」P172〜P174)



 このように引用すると、石射氏は、もう日本がどうなろうとどうでもいい、陸軍さえ攻撃できればいい、と考えていたかのように読めます。これは、前後の文脈を無視した、一方的な論難です。

 少なくとも、最後の「石射氏にとって、南京における陸軍の失点は反撃のチャンスでありザマミロということになる。「南京アトロシティー」は石射氏にとって陸軍を攻撃する格好の材料であったのだ」との記述は、田中氏の単なる「想像」に過ぎません。田中氏がこの「外交官の一生」を自分で読んだのかどうかすら、怪しまれる記述です。

 

 経緯を見てみましょう。

 日中戦争が泥沼化しようとする水面下で、何とか戦争拡大を回避しようとする和平交渉が進められていました。しかし戦況が日本側に有利に進む中、日本側の和平条件は、最終的には中国側が到底呑めないような苛酷なものになってしまいます。



中公文庫「日本の歴史」25  「太平洋戦争」より


 広田外相はその効果を疑いながらも、十一月二日、和平条件を駐日独大使ディルクセンに伝えた。

(中略)

 しかし政府のほうでも、戦果の拡大にともなって、十一月二日の条件を加重しようという意見が強まっており、蒋介石の華北の主権保持などの要求が伝えられると、閣議では、広田外相・杉山陸相・近衛首相らが条件加重について発言、「だいたい敗者としての言辞無礼なりと結論に達し、その他みな賛同せり」というありさまだった(堀場一雄『支那事変戦争指導史』)。

 十二月二十二日、広田外相からディルクセン駐日独大使に伝えられた講和条件には、満州国の正式承認、日本軍占領地域を非武装地帯とする、賠償の支払いなどの新たな要求が含まれていた。この条件を決めるため、十二月十三日から十七日にかけて連日、大本営政府連絡会議が開かれたが、この条件では和平成立の公算はなくなるから再検討したいという、石射猪太郎外務省東亜局長や風見書記官長の意見は無視された。内閣も、和平交渉を真剣に行なうという気はなくなっていた。

(「日本の歴史25 太平洋戦争」P60〜P62)


 

 石射氏自身の記述を見ます。

  

「外交官の一生」より

政府大本営連絡会議 − 和平条件の加重

 連絡会議は、一二月一三日と予定されたが、その日は首相の都合でお流れとなり、翌一四日午後首相官邸において開かれた。

(中略)

 和平条件案は、すでに幹事から各員に配られていたので、私はすぐ説明にとりかかった。まずこの案が大乗的見地から立案された次第を述べ、しかもなお中国側の受諾を疑問視せざるを得ないとの観測を前提として、逐条的に説明を加えた。説明が終わると、質疑応答、続いて意見交換に入った。近衛首相は終始沈黙していた。原案を忠実に支持したのは米内海相と古賀軍令部次長のみで、多田、末次、杉山、賀屋の諸氏から出された異論によって条件が加重されていった。末次内相は折々隣席の米内海相に向って「海軍はこんな寛大な条件でいいのか」とか、「華南地区に海軍基地として永久占領地を持つ必要はないのか」と詰問を放った。かねてから和平論者との評がある多田次長から、条件加重の意見が出たのは不可解であった。わが広田外相に至っては一言も発言しない。

 私はもう我慢ならなくなった。説明以外に発言権のない立場を忘れて立ち上がり「かくのごとく条件が加重されるのでは、中国側は到底和平に応じないであろう」と争った。この発言は冷たく無視された。誰も応ずる者がいないのである。

 (中略)

 これは明らかに、中国に降参を強いるものではないか。列席者が席を立つのを待ちかねた私は、両軍務局長に向って言った。

「これではぶちこわしだ。もう一度連絡会議のやり直しを工作しようではないか」

「一旦きまった以上、やり直しは不可能だ」、両局長が同音に答えた。私は涙を呑む思いで引き揚げた。折から、南京陥落祝賀の大提灯行列が街路を遊行していた。一二月一四、一五両日の日記を見る。

 続いて連絡会議、我輩呼び入れられて案の説明をなす。賀屋、末次新内相、陸相、参謀次長等強硬論をはき、わが方大臣一言もいわず、とうとう陸軍案にして了わる。アキレタ話。

 こうなれば案文などはどうでもよし。日本は行く処まで行って、行き詰まらねば駄目と見切りをつける。

(「外交官の一生」P326〜P328)

 


「外交官の一生」より

「国民政府を相手とせず」

 年が改まって一九三八(昭和一三)年一月四日、デリクセン大使から広田大臣に国民政府との接触状況について中間報告がもたらされたが、諾否の確報はまだしであった。この前後から、もう和平交渉を打ち切って、国民政府との国交を絶つべきだとの声が、軍と政党方面から聞こえつつあった。

 私は大臣に進言した。あの加重された条件では、到底色よい回答が中国側から来るはずがありません。和平はさしあたり絶望です。日本が事変を持てあまして、目が醒めるまでは、時局を救う途はありません。そうした時期はやがて到来します。それまでは「国民政府を相手とせず」結構です。この点については私は争いません、と。

 (中略)

 明くれば一六日、連絡会議の決定が、広田大臣からデリクセン大使に伝えられ、声明が公表された。私はむしろサバサバした気持になり、反逆的な快味をさえ感じた。

(「外交官の一生」P329〜P330)

 
 

  石射氏が、国の行く末を真剣に思い悩んで動いていたことがわかると思います。「日本が事変を持てあまして、目が醒めるまでは、時局を救う途はありません。そうした時期はやがて到来します」との「予言」は、適切なものでした。

 しかし石射氏の思惑に反して、結果として日本は「戦争拡大」への道を突き進んでしまいます。経緯を見ると、石射氏の絶望感は、十分理解できるところでしょう。

 このうち一部を抜き出して、「石射氏にとって、南京における陸軍の失点は反撃のチャンスでありザマミロということになる」と言ってのける田中氏の記述は、私には、石射氏の心情を意図的に歪める、貧しいものに思われます。



 田中氏の文には、次にこんな記述が見えます。


田中正明氏「南京事件の総括」より 

  石射氏の陸軍に対する憎しみは反日的情念にまで結びついた感がある。なにしろ、石射氏のこの回顧録を見ると、始めから終わりまで、日本と中国の関係を「日中」ではなくて「中日」と記述しているのである。すなわち中国を主として、日本を従とする思考様式である。

 (「南京事件の総括」P172〜P174)



 「陸軍に対する憎しみ」が「反日的情念にまで結びついた」というのは、例によって田中氏の「想像」であるに過ぎません。

 石射氏が、この本では「日中」を「中日」と記述しているのは事実です。しかしこれをもって、氏を「反日的情念」を持つ人物である、と断定することはできないでしょう。「回顧録」を素直に読めば、常に日本の将来を憂い、自分の信じるところに従って必死に行動する一外交官の姿が浮かび上がってくるはずです。


 なぜ氏が「中日」という表現を使用しているのかは判然としませんが、終戦直後の一時期、あまり抵抗なくこのような表現が使われる「時代の雰囲気」があったのかもしれません。

 例えば、石射氏と同じ「東亜同文書院」の出身である岡田尚氏(松井軍司令官付)も、「極東軍事裁判」での「宣誓口供書」の中で、やはり「中日」との表現を、ざっと数えても少なくとも9回、使用しています。例えば、こんな具合です。



極東軍事裁判 岡田尚証人「宣誓口供書」より 

 其の際、大将より証人の任務に関し、次の様な話がありました。
 「自分は日本陸軍の先輩川上操六や中華民国の国親孫文等の思想を継承して、日支親善提携して亜細亜の解放・興隆を計る為めに数十年来努力し来たつた者であるが、今回、中日不祥事変を発生したるに際し、図らずも派遣軍司令官に任ぜられたことは感慨無量である。・・・」

(「南京大虐殺事件資料集1」P262)


中国の元老であり大先輩たる唐紹儀宣誓、日本の事情に通じてゐた李択一先生等とは懇談の機会を得、中日両国の不幸を少しでも早く解消する事に苦心致しました。

(「南京大虐殺事件資料集1」P262)



 この岡田尚氏は、阿羅健一氏「南京事件 日本人48人の証言」にも登場します(同書P192〜)。「極東軍事裁判」において「中日」との表現を使用したことだけを材料に、岡田氏を「反日的情念」を持つ人物である、と考える人は、まず存在しないでしょう。



 最後に、「勲章」論議です。


田中正明氏「南京事件の総括」より 

 日本国天皇からもらった勲章には「愛想をつかしていた」(同四五九ページ)が、中国からもらった勲章は「光栄とし愉快とする」(同四六〇ページ)などと臆面もなく書いている。このような人物が当時の日本外務省の東亜局長だったのである。

(「南京事件の総括」P172〜P174)



 まるで石射氏が、「日本国天皇」が大嫌いで、「中国」からの「勲章」に単純に大喜びをしている、変わった人物であるかのように記述しています。氏の真意を確認するために、元の文を見てみましょう。


 まず日本の勲章については、このように語っています。


「外交官の一生」より

 が、他の官庁は知らず、外務省人は多少の例外はあっても、なべて叙位叙勲に冷淡であったといえる。官吏をしておれば、年功なるものによって定期叙勲があり、そのうえに外務省は、外国との勲章のやり取りに介在するので、みな勲章ずれしている。そこに冷淡の原因があったのかもしれない。

 その中にあっても、私は勲章に対して最も冷淡な一人であった。全く無関心でさえあった。私にしては、多くの場合、その人の功績を、公平に評価するものとは思われなかった。殊に何々事件の功によりなどと総花式に授けられる勲章に至っては、無意味に近いと思った。自分では逆行的態度を持した満州事変でさえ、私は功により勲四等旭日に叙せられた。他の人々へのご相伴表彰に過ぎなかった。心に染まぬ叙勲ではあるが、これを辞する手は許されない。

  もう一つ叙勲に対して私を冷淡にしたものは、軍人の叙勲であった。叙勲規則が、彼らに厚くできているのであろう、少佐、中佐にして勲三等などの高級勲章を吊る者が珍らしくない。鉄砲の撃ち合いさえすれば、それがたとえ日本の国策に悪影響を来たすものでも、彼らの勲等が進むのだ。士気鼓舞のためとはいえ、こうした連中とともに功を論ぜられるのを潔しとしないが、どうにもならぬ。だからどうでもよい。つまり私は、勲章なるものに愛想をつかしていたのであった。

(「外交官の一生」P501〜P502)



  日本の勲章は、「年功」によって貰えるもので、「その人の功績を評価するもの」ではない。しかも軍人優遇で、「少佐、中佐にして勲三等などの高級勲章を吊る者が珍しくない」。だから貰ってもあまり嬉しいものではない。 ― あるいは立場によってはこれを「けしからん」と感じる方もいるのかもしれませんが、私には十分納得できる感じ方であるように思えます。

 
 それに比べて、外国からの勲章はどうか。田中氏はカットしていますが、氏は「シャム」(タイ)からの勲章にも、「光栄と喜悦」を感じています。


「外交官の一生」より

 外務省員は職掌柄、外国から叙勲される場合が多かった。私も外国の高級勲章を二度もらった。これは衷心うれしかった。一つはシャム政府から贈られたグラン・クロア・クローン勲章であった。駐シャム公使であったための儀礼的叙勲ではあったが、これは別な意味が付加されていた。各国ともに同様であるらしいが、シャムにおいても外国公使に対する儀礼的叙勲は、二年以上在勤した公使に限るとされていた。しかるにシャム在勤わずか半年の私に、この勲章が贈られたのは全くの例外であって、私が半年の在勤中に、シャム国に寄せた好意が高く評価されたのだと、在京シャム公使が本国政府の意向として、説明してくれた。そこに在勤中私の寄せた厚意が、シャム政府にありのまま反映したのを知って、私は光栄と喜悦を禁じ得なかった。

 他の一つは、私が上海総領事たりしこちに対して、国民政府から贈られた藍玉大綬章であった。一九二七年、国民政府が南京に成立して以来、中国勲章を贈られた日本人は、私の知る限り官民を通じてわずかに三人。有吉大使、堀内(干)書記官、それに私であった。殊に一地方的総領事に対しての叙勲は異例であるとせられた。国民政府から特別の説明はなかったが、ひっきょう私が総領事として「上海を無風状態に置く」ことに払った努力が、表彰されたものであろうと自解して、これも私の光栄とし、愉快とするところであった。

(「外交官の一生」P503)



 日本の勲章とは違い、自分の実質面の活動が評価された受賞である。だから「光栄」に思う。これまた、別におかしな発言ではありません。

 石射氏は、別に「日本の勲章」だからそれを嫌い、「中国の勲章」だからそれを「光栄とし、愉快と」したわけではありません。自分の業績を評価してくれているのが「シャム」「中国」の勲章だったから、それを「光栄」としているだけの話です。

  −石射著書の優れた検証− タラリ 2003/05/31 23:52:55  ツリーへ

Re: 石射猪太郎氏の証言 返事を書く ノートメニュー
タラリ <vgezpxzsqe> 2003/05/31 23:52:55
−石射著書の優れた検証−

こんばんは、ゆうさん。
大変、包括的で正確な検証でひきいられて読みました。
田中正明による石射猪太郎に対する印象操作についてはかねて気になっていました。
しかし、今回のゆうさんの検証は田中のウソと詭弁を暴きだして余りあります。

いずれ、「外交官の一生」を精読してみます。

  3回に分けました ゆう 2003/06/01 05:41:05  (修正1回) ツリーへ

Re: 石射猪太郎氏の証言 返事を書く ノートメニュー
ゆう <pmyqfxtjon> 2003/06/01 05:41:05 ** この記事は1回修正されてます
3回に分けました


自分でもこんな超長文になっているとは気がついておらず、何だか今回はコンテンツ作成に時間がかかるなあ、と呑気なことを考えていました。これでは、誰も読み通せない(^^;

というわけで、3回に分けてアップしました。

http://www.geocities.co.jp/WallStreet/8503/ishii1.html

http://www.geocities.co.jp/WallStreet/8503/ishii2.html

http://www.geocities.co.jp/WallStreet/8503/ishii3.html


何かお気付きの点がありましたら、ご指摘いただければ幸いです。


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