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  東中野氏「南京攻略戦の真実」 ゆう 2003/08/09 08:56:08  (修正3回)
  「徴発」について 渡辺 2003/08/09 14:54:59  (修正1回)
  東中野氏「南京攻略戦の真実」買ったぞ。 タラリ 2003/08/09 20:07:20 
  │└私も買いました ゆう 2003/08/11 04:40:03 
  「どろんこの兵」より ゆう 2003/08/14 18:45:46  (修正3回)
  │├確かにひどい文章ですね K−K 2003/08/14 23:30:27 
  │├すみません、正確に引用します。 ゆう 2003/08/15 19:53:21  (修正1回)
  ││└今日気がついたのですが・・・ ゆう 2003/08/16 15:13:13 
  ││ └出版された「1937南京攻略戦の真実」で... ja2047 2003/08/16 20:12:13 
  │└ついでに・・・ ゆう 2003/08/18 22:00:48 
  歩兵第二十三聯隊戦記 ゆう 2003/08/15 09:29:50 
  │└纏足(P210) 熊猫 2003/08/29 21:11:26 
  │ ├いや、実は・・・ ゆう 2003/08/29 21:56:41  (修正2回)
  │ ├纏足の記述を見たときは、私も「おー、こん... ja2047 2003/08/30 05:46:42 
  │ └纏足の目撃証言 熊猫 2003/09/20 21:11:12 
  │  └田川市では、中国人の強制連行があったんで... 熊猫 2003/10/18 15:21:44 
  東中野氏「南京攻略戦の真実」やっと買いま... 熊猫 2003/08/15 22:23:01 
  │└近所の本屋さんに注文していて、今日やっと... K−K 2003/08/16 00:39:23 
  好鉄不打釘,好人不当兵。 熊猫 2003/08/29 21:51:17 
   └しかしこの本・・・ ゆう 2003/08/29 22:06:02 
    └はっきり言って勉強してません! 熊猫 2003/08/30 14:51:42  (修正2回)

  東中野氏「南京攻略戦の真実」 ゆう 2003/08/09 08:56:08  (修正3回) ツリーへ

東中野氏「南京攻略戦の真実」 返事を書く ノートメニュー
ゆう <pmyqfxtjon> 2003/08/09 08:56:08 ** この記事は3回修正されてます
まだお読みでない方のために、一読しての「感想」を報告します。


この本は、「偕行文庫室長」が出してきた「第六師団」兵士の手記、原稿用紙1900枚の「転戦実話・南京編」上下から、東中野氏がピックアップして文庫本一冊分の分量にまとめたものです。


こういう資料は、できれば、一切の「編集」なし、「省略」なしで、生のまま見たいところです。

しかし氏は、残念なことに、読み物として面白くするためでしょうか、原典の順番を無視して「テーマ別」に編集してしまっています。また、「旧かなづかい」をすべて「新かなづかい」に直してしまったことはまあいいとしても、「明らかな日付の間違い」を勝手に訂正するなど(一応そのまま掲載して、「注記」で訂正すべきところでしょう)、「編集」の姿勢も気になります。

東中野氏ではなく、「偕行社」の編集で読みたかったですね。


とはいうものの、この本の内容は、私の本棚に多数(でもないか)ある「郷土部隊公式戦史」もののひとつとして見れば、それなりに貴重なものです。本の帯の「発見!「虐殺論争」に終止符か!?」という笑えるキャプション(「公式戦史」がそんな材料に使えるわけがない。「?」が正直だ)、東中野氏のアホなコメントを読み飛ばせば、結構興味深い。

なにしろ、「モーゼル」を持って「徴発」に出かける軍曹は出てくるし(P63)、(おそらくは)13日に安全区の上海路に侵入してしまった23連隊兵士の話も出てくる(P125)。私のHPの美味しい材料です(笑)。



さて、東中野氏のアホなコメントの例です。


<東京裁判で南京「虐殺」を証言したベイツでさえ、東京のアメリカ大使館から詳細な情報収集のため一九三八年四月南京にやってきたキャーボット・コーヴィル武官にたいして、南京「虐殺」を持ち出していなかった。「私たちは英米では事実と見解の自由な表明に慣れている」というのが彼の信念であったにもかかわらず、彼は実名のときは何も述べなかったのである。>(P18)

おいおい、読んでいない人を騙してはだめじゃないか。「南京事件資料集1 アメリカ関係資料編」より、「カボット・コヴィルの南京旅行記」を引用します。

<金陵大学のM・S・ベイツ博士とスマイス博士、ともに博士号を持つ両者が南京大使館を訪れ、アリソン・エスピーと私とで夕食を共にした。お互いに日本の情勢に関心をもつ我々は、夜を徹して詳しい情報の交換をした。二人は戦争開始半年後の日本の経済に関する私の報告を読んでおり、私はこの報告にないその後の経過を口頭で補足した。

私は二人の南京での一連の経験を話し合ったが、これらはアリソンの全報告を十分に網羅し、さらに個人の経験が加味されて話をもりあげた。

(中略)

秩序と規律正しい日本軍、私利私欲のない軍制当局という伝説は、中国人民の心を深くえぐりとったアトロシティーズや過ちによって、台無しとなったので、日本側の支配は中国人にとって何ら意味を成さないことに中国人自身が気づくであろうこと、そして、彼らの悲痛な思いは、日本軍を追い出すまで不断の攻撃となって続くだろうことを、ベイツとスマイス両者は確信している。>
(P112)


ベイツらは、「アトロシティーズ」の存在を前提として、「南京での一連の経験」を話しています。この資料から、どうしてベイツが「南京「虐殺」を持ち出していなかった」と断言できるのか、よくわからん。



もう一つ。「徴発」についてです。

<他方、南京戦の四ヶ月前の昭和十二年八月、北支に上陸して間もない浜崎上等兵は、兄宛の手紙に、「一汁一菜ことごとく日本軍は代価を払います」と記している。従って、本章に、南京戦の途中、不注意で徴発した兵隊が、「所属連隊、中隊から官等級、氏名まで書きとめられ、陸軍刑法によって処罰すると言われ・・・震え上がり、・・・泣き縋ってあやまりました」という話が出てくるのも当然であった。>(P231)

これを読むと、「代価」を払わずに「徴発」しようとしたので「処罰する」と言われた、というように錯覚します。へえ、そんな話があるの、と興味を惹かれて読んでみると・・・。

<青浦に夕方着いたときです。何かお菜を探しに行こうと思いましたが、思い止まって炊事をしていますと、戦友Kが鶏がいるというのです。それではと行きますと、破壊された廃屋の隣に一軒少しもいたんでいないのがあります。中に入ってみますと、なるほどいるいる、しかもトヤ(鳥屋)(ゆう注.ここは、「注.鳥屋」と、せめて「注」の字を入れてほしい)の中に入っているのです。これはご丁寧にと、何の考えもなく十五、六羽いたのを一羽だけ残して絞め殺し、思わぬ獲物に戦友たちの喜ぶ顔を描きつつ、帰ろうとしますと、そこへ少佐の方が入ってこられました。パッタリ(ゆう注.「ばったり」ではなく「ぱったり」だが、原文通り)出逢ってしまったのです。

少佐殿が、私の手にブラ下げた鶏にチラと眼をそそがれたと思うと、われ鐘のような声で、
「この封印がわからんか」

いやもう、一ぺんに足がすくんでしまいました。さっきは気もつきませんでしたが、見るとちゃんと憲兵隊の封印が貼ってある。

「自分が破ったんではありません」
と言い訳しても聞かるればこそ、刀の鐺でいやというほど叩かれて怒られました。つくづく情けなくなってしまいました。>(P234)

「憲兵隊」が「封印」したところから「徴発」したから、怒られたんだろうが。



「反日撹乱工作隊」については・・・。

<安全地帯に中国軍将校が潜伏していたことを裏づける手記が出てくる。第三章の「南京城内 敵の自動車を取り逃がした失敗」である。中国軍の中国軍の高級将校が最後まで安全地帯に潜伏していたが、わざわざ安全地帯に残って何をしていたのであろうか。「掠奪、煽動、強姦に携わっていた」という新聞記事が残っている。これはさらに考えてみなければならない。>(P155)

これまた、随分と控えめなことで(笑)。

なお、上の文を読むと、これは「占領後しばらくたってからの出来事なのだろう」と錯覚しますが、実は、占領当日、「12月13日」の出来事だったようです。明らかな「印象操作」です。

  「徴発」について 渡辺 2003/08/09 14:54:59  (修正1回) ツリーへ

Re: 東中野氏「南京攻略戦の真実」 返事を書く ノートメニュー
渡辺 <oogeblxyju> 2003/08/09 14:54:59 ** この記事は1回修正されてます
「徴発」について

 「徴発」と「便衣兵」は、「南京事件」否定論の部分品みたいなものですね。「徴発」という語を都合よく適当に解釈しているように思われます。

>>兄宛の手紙に、「一汁一菜ことごとく日本軍は代価を払います」と記している。

 「徴発」に対しては、「賠償」をする必要がありますが、その場で売買が成立して代価を払えば「徴発」ではなく「購買」ということになります。

 「徴発」とは、(1)敵国において行う方法で、(2)高級指揮官の命令、あるいは許可により実施するのを通常とするが、(3)非常の場合は、指揮を執る高級先任の将校に徴発の権があり、(4)徴発する物資には賠償を与えるか証票を与えて後日賠償することになっています。(昭和13年9月『作戦要務令(第三部)』補給及給養 第百二十五〜百二十六)

 将校の指示のもとで「徴発」が行われるので、一兵卒が「不注意で徴発」することも、将校が指揮官でない「徴発」も原理的には有り得ません。
 石川達三は、進軍が早く奥地に向かっている軍に兵糧を輸送しきれなかったので「北支では戦後の宣撫のためにどんな徴発でも一々金を払うことになっていたが、南方の戦線では自由な徴発によるより他に仕方がなかった。」(『生きている兵隊』中公文庫,p.44)と書いています。(この箇所は、「新聞紙法違反」有罪の判決理由のひとつとなりました。)

 藤原彰『中国戦線従軍記』大月書店,p.100 も参考にしてみてください。

 『作戦要務令』は昭和13年のものなので、内容は変わらないとは思いますが、それ以前にはどうなっていたか調べてみたいと思います。

  東中野氏「南京攻略戦の真実」買ったぞ。 タラリ 2003/08/09 20:07:20  ツリーへ

Re: 東中野氏「南京攻略戦の真実」 返事を書く ノートメニュー
タラリ <vgezpxzsqe> 2003/08/09 20:07:20
東中野氏「南京攻略戦の真実」買ったぞ。

本日、書店によって、「南京攻略戦の真実」を買おうとしたが、見あたらず現代史のコーナーも一瞥。おや、松岡環さんの「『南京戦』閉ざされた記憶を尋ねて」−元兵士102人の証言− によく似た装丁の本がある、何回めかの増刷に際して装丁を変えたのかと手にとると、これがジャーン!

「『南京戦』切り裂かれた受難者の魂」−被害者120人の証言 編著 松岡環

奥付を見ると2003年8月15日 初版第T刷発行である。
ええと今日は何日? ま、いいか。
定価3800円は前著より400円安。買いました。

別の書店で東中野氏「南京攻略戦の真実」ありましたが、読むのはこれからです。
東中野の解説がうざい!

もう1冊の話、これはちょっと前に買ったものですが、

「すっきりわかる『靖国神社』問題」 著者はあの名著「書かれなかった戦争論」の山中恒である。こりゃ、買わなくては。ところで発行所はなんとあの「小学館」。

以前、”昭和の歴史シリーズを出した小学館がいまでは「サピオ」や小林よしのりの本を出している。出版社としての信念というものがないのか”というある歴史家の苦言を読んだことがあった。そして、今でも信念というものがないらしい(^^)。

それから、ゆうさん、HPに載せていただきありがとうございました。

  │└私も買いました ゆう 2003/08/11 04:40:03  ツリーへ

Re: 東中野氏「南京攻略戦の真実」買ったぞ。 返事を書く ノートメニュー
ゆう <pmyqfxtjon> 2003/08/11 04:40:03
私も買いました

中国側の証言集ですが、これだけボリュームがあると、消化するのが大変ですね。労作です。


最後に、前著「南京戦―102人の証言」に対する、東中野氏・阿羅氏らの批判についての反論が掲載されています。一読の価値あり、です。

*私のページへのご寄稿、ありがとうございました。おかげさまで、着々と充実しつつあります(笑)。

  「どろんこの兵」より ゆう 2003/08/14 18:45:46  (修正3回) ツリーへ

Re: 東中野氏「南京攻略戦の真実」 返事を書く ノートメニュー
ゆう <pmyqfxtjon> 2003/08/14 18:45:46 ** この記事は3回修正されてます
「どろんこの兵」より


ちょっと気がつきましたので、ご報告まで。

(左右に伸びて読みにくくなったので、再投稿します)



東中野氏新刊の紹介記事より。
(元記事が消えているため、ヤフー投稿より引用しました)

>だが、『転戦実話』によれば、六師団が突入した中華門付近には
「約二百五十の敵死体」が目撃されただけだ。しかも、六師団は
南京陥落から三日後の十二月十六日には南京から揚子江上流の蕪湖に
転戦しており、十日間も南京にとどまっていなかった。

http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=NW&action=m&board=1143583&tid=beaec0tbcsaja4nkacdaba4h2ddbja4ka4da4a4a4fa1ya1ya1ya1ya1y&sid=1143583&mid=81394



「十六日に転戦」というあたり、この本の数少ない「新ネタ」ですが・・・。



「正論」掲載「やっぱりなかった大虐殺 南京攻略戦、真実の証言」
(東中野氏)より(P122)

****************

(A伍長日記の引用あり)

どうであろう。A伍長の所属する第十三連隊(熊本)は十六日に南京を
離れていたことが分かるであろう。

事実、鹿児島第四十五連隊の浜崎富蔵(元鹿児島市警察署長)の
『どろんこの兵』(私家版)に、歩兵第四十五連隊第十一中隊
「百六十名」が十二月十三日未明南京を脱出中の敵兵「二万」と
上河鎮で遭遇し多数の戦死者を出したあと、同日「大薗中隊長以下
十数柱の火葬」を行ったと記している。

そして十六日の夜明けとともに第十三連隊は南京から蕪湖に向かい、
その他の部隊も逐次南京を離れていった。

従って、中華民国は第六師団が十六日から南京を離れ始めていたことを
知らなかったのである。そうとも知らずに第六師団は「二十一日迄」
南京で虐殺したと書いていた。

****************


さて、問題の『どろんこの兵』です。

>従軍履歴(軍隊手帳より抜粋)

>(略)
  十二月十五日より十二月二十一日まで 南京附近の警備
  十二月二十二日 南京出発
  十二月二十三日 大平府着

(「続 どろんこの兵」 P11)


・・・これって、「詐欺」って言いませんか?(呆)

東中野氏は、よく読むと微妙なところで表現をごまかしており、
確かにウソはついていないような気もしますが・・・。
「十三連隊」の話に突然「四十五連隊」の話を挟んであるので、
読む方は間違いなく錯覚します。



*なお「どろんこの兵」本文の日記では、本人は「二十一日夕」に
大平府に着き、「二十三日」「夕方」に着く後続部隊を待っていた
ことになっています。「歩兵第四十五聯隊史」も一応照合して
おきましたが、「聯隊は十二月二十二日南京を出発、大平府に向う。
二十三日大平府に着く」(連隊史P238)と、「軍隊手帳」の
記述を裏付けます。

  │├確かにひどい文章ですね K−K 2003/08/14 23:30:27  ツリーへ

Re: 「どろんこの兵」より 返事を書く ノートメニュー
K−K <ecoepxmujl> 2003/08/14 23:30:27
確かにひどい文章ですね

 なるほど、本来は、第6師団の内、第13連隊は12月16日に南京を出発しているけれど、第45連隊(の本隊)が南京を出発したのは12月22日だということですね。

 東中野氏は、第45連隊の12月22日の出発には触れず、第13連隊の12月16日の出発でサンドイッチにして、あたかも第6師団全体が12月16日に出発したかの様に見せかけた。みっともない小技ですね(笑)。

 45連隊第2中隊や47連隊第2中隊の陣中日誌が、『南京戦史資料集2』P388〜403に載っていますが、そこでも、
第45連隊第2中隊
---- 引用 ----
十二月二十二日 天候 晴 行軍
一、新警備地区へ移動のため午前七時上河鎮西端出発、南京城門東側附近に於て連隊主力の行軍序列に入り南進・・・
P393
---- 終わり ----

第47連隊第2中隊
---- 引用 ----
十二月二十一日 晴天 候家村
二、師団は蕪湖附近警備に任することとなり、中隊は六・二○出発、南門大隊集合場に至り○六・五○南京城出発、○八・○○安徳門を出発・・・
P402
---- 終わり ----
 となっていますし、一緒に載っている福田続日記(45連隊第11中隊・上等兵)でも出発は12月22日になっています。
 また、23連隊は年が明けた1月3日頃に南京を出発している様です(『南京戦史資料集2』折小野末太郎日記P340)。


 そもそも、『南京戦史』P232にも次のように書いてあります。
---- 引用 ----
師団その後の情況
 南京占領に伴う爾後の配備に関する方面軍命令により、第10軍は太湖中央を東西に連ねる線以南の地区を警備することになり、第6師団は太平府、蕪湖へ転進を命ぜられ、【おおむね12月20日以降】逐次に南京を発ち蕪湖へ転進した。
---- 終わり ----

 残念ながら13連隊の全体的な行動ありませんが、第6師団の大まかな行動としては、『南京戦史』の記している様に、12月20日以降に南京を出発したというべきでしょう。


【東中野氏】
>従って、中華民国は第六師団が十六日から南京を離れ始めていたことを
>知らなかったのである。そうとも知らずに第六師団は「二十一日迄」
>南京で虐殺したと書いていた。

 ゆうさんの仰るとおり、まったく呆れた文章ですね(笑)。
 12月16日【から】南京を離れ始めたのであるならば、「21日まで虐殺を行っていた」としても矛盾ありません。一体、何が「そうとも知らず」なのか、まったく意味が不明です。
 学者の文章とは思えませんね。

  │├すみません、正確に引用します。 ゆう 2003/08/15 19:53:21  (修正1回) ツリーへ

Re: 「どろんこの兵」より 返事を書く ノートメニュー
ゆう <pmyqfxtjon> 2003/08/15 19:53:21 ** この記事は1回修正されてます
すみません、正確に引用します。


昨日はちょっとアルコールが入っての投稿でしたので、(中略)の語がいつのまにか抜けてしまったようです(汗)

趣旨は変わらないのですが、余計な突っ込みを避けるため、「中略」した部分を含め、正確に引用しておきます。


「正論」掲載「やっぱりなかった大虐殺 南京攻略戦、真実の証言」(東中野氏)より(P122)

****************

(A伍長日記の引用あり)

どうであろう。A伍長の所属する第十三連隊(熊本)は十六日に南京を離れていたことが分かるであろう。ちなみに、南京を離れるまでの間を整理してみると、十二日から十三日の夜明けまでは全師団が、十三日は第六師団の大四十五連隊(鹿児島)の一部が、敵も味方も殲滅するための激戦に遭遇していた。

十三日の城門陥落後、第十三連隊は「散髪」「火葬」などをしている。

十四日、十五日には南京を離れる準備をしている。十九万もの集団虐殺に従事していたならば、「散髪」や「火葬」や「告別式」どころではなかったのではないか。

ただし、これはA伍長の所属する第十三連隊だけのことであるので、第六師団のすべてを言い尽くしたものではない。しかし十四日に「近日出発らしい」とA伍長が記していることから、陥落翌日には第六師団の転戦計画が立てられ、それが下級兵士にも伝わっていたことが分かる。「散髪」などの休養も、「火葬」「告別」もA伍長の所属する第十三連隊のみに認められていたとは考えられないので、おおむね、どの連隊も同じ状況にあったと言える。

事実、鹿児島第四十五連隊の浜崎富蔵(元鹿児島市警察署長)の『どろんこの兵』(私家版)に、歩兵第四十五連隊第十一中隊「百六十名」が十二月十三日未明南京を脱出中の敵兵「二万」と上河鎮で遭遇し多数の戦死者を出したあと、同日「大薗中隊長以下十数柱の火葬」を行ったと記している。

そして十六日の夜明けとともに第十三連隊は南京から蕪湖に向かい、その他の部隊も逐次南京を離れていった。

従って、中華民国は第六師団が十六日から南京を離れ始めていたことを知らなかったのである。そうとも知らずに第六師団は「二十一日迄」南京で虐殺したと書いていた。

****************


しかしここに引用された肝心の「どろんこの兵」の中に、第四十五連隊が「二十二日」まで南京にいた、との記述があったわけです。

  ││└今日気がついたのですが・・・ ゆう 2003/08/16 15:13:13  ツリーへ

Re: すみません、正確に引用します。 返事を書く ノートメニュー
ゆう <pmyqfxtjon> 2003/08/16 15:13:13
今日気がついたのですが・・・

この雑誌論文の文章、肝心の「1937南京攻略戦の真実」では、抜け落ちているようです。

さすがの東中野氏も、ミスに気がついた、ということでしょうか。

  ││ └出版された「1937南京攻略戦の真実」で... ja2047 2003/08/16 20:12:13  ツリーへ

Re: 今日気がついたのですが・・・ 返事を書く ノートメニュー
ja2047 <zguiletmbk> 2003/08/16 20:12:13
出版された「1937南京攻略戦の真実」での表現は 

P40の
「第六師団は南京戦が終わると、十二月十六日から蕪湖へと転戦し、
ついで徐州戦、武漢戦を経たのち、昭和十七年末に南太平洋のソロモン諸島に転戦し、
そこで敗戦を迎えている。」

ですね。

  │└ついでに・・・ ゆう 2003/08/18 22:00:48  ツリーへ

Re: 「どろんこの兵」より 返事を書く ノートメニュー
ゆう <pmyqfxtjon> 2003/08/18 22:00:48
ついでに・・・

「どろんこの兵」より、引用します。

********************

(十一月)十四日

午前六時出発。内邱城内に到着すれば、敗残兵を捕えたのか?いきり立った兵隊たちが火のくすぶる穴に突き飛ばしているのを見る。地獄図絵を見る思いがする。恨み骨髄に徹すると本心を失うものらしい。

俺にはかかる残忍行為はできない。正々堂々たる闘いならいざ知らず、戦闘力を失った者を何とむごいことをするものぞ。皇軍のなす行為ではあるまい。興奮と残虐は背中合わせのものか、皆の心理には驚く。

(「どろんこの兵」P49〜P50)

********************

東中野氏が、絶対に引用しそうにない文章です(^^)

  歩兵第二十三聯隊戦記 ゆう 2003/08/15 09:29:50  ツリーへ

Re: 東中野氏「南京攻略戦の真実」 返事を書く ノートメニュー
ゆう <pmyqfxtjon> 2003/08/15 09:29:50
歩兵第二十三聯隊戦記


まずは東中野氏の、「徹底検証」の文章から。私のページの「上海路の死体」をご参照下さい。

http://www.geocities.co.jp/WallStreet/8503/higasinakano101.html


****************

(ゆう注.十三日の)正午頃と言えば、日本軍は未だ現場(安全地帯)に到達していなかった。日本軍が掃蕩のため安全地帯に入るのは、翌十四日のことであったからだ。

(「徹底検証」P201)

****************


実際には、おそらくは日本軍の銃撃により、この「上海路」で南京市民に「いくつか」あるいは「二十体」の死者が出たとの記録が複数残っている(フィッチ、ラーベ、スマイス)ことは、上記私のページで紹介した通りです。


さて、東中野氏の新刊には、上の東中野氏の記述とは裏腹に、「十三日」に「安全地帯」に入ってしまった兵士の話が、ちゃんと掲載されていました。



****************

南京城内 敵の自動車を取り逃がした失敗
                歩兵第二十三連隊(都城) 第六中隊上等兵 T・T

昭和十二年十二月十三日、南京はついに陥落いたしましたが、いまだその一角では盛んに戦闘をしています。第六中隊は我々第二中隊を先発にして、西南の破壊口より城内に入り、城内の掃討をやることになりました。

城内には左のほうに何中隊かの一部が出て掃討をしておりましたが、これと連絡を取ることもせず、小隊は単独で小さな道をぐんぐん進んで、やがて大通りに出ました。

後でこの大通りが上海路であることを知りましたが、頑丈に作られた移動障害物等を取り除きながら、北へ向かって奥へ奥へと前進します。やがて難民区のところまで来ました。

東の方では彼我の銃砲声が盛んにします。我々の目の前にも迫撃砲弾が三、四発続いて炸裂しましたが、損害はありませんでした。難民区のところから五十メートル位先に十字路があります。そこで私は歩哨に立って通過する自動車を鹵獲(戦勝の結果、敵の軍用品を奪い取ること)することになりました。やがて一台のツーリングが右の方から疾走してきます。

「来たな」と、はやる心を押し静めて、姿を隠して待っていますと、段々近づいてまいります。四、五十メートルの近くに来たとき、飛び出して道路上で立射の姿勢をとり、自動車の前に立ち塞がりました。自動車はグーとスピードを落として停車しようとしますので、案ずるより生むが易しと内心喜びつつ、少し右に寄って停車を待ちました。

ところが今まさに停止しようとした車は、自分が身をよけたその隙を利用して、急にスピードを増し、北にカーブを切ってまっしぐらに走り出してしまいました。見れば確かに支那将校が乗っている。ハッと思ったが間に合いません。

後ろ姿を追うようにして、三、四発打ちっぱなしましたが、自動車は雲を霞と逃げ去りました。口惜しくて口惜しくてたまりません。功名心にかられて一人でかかったのが悪いのです。初めてのこととは言いながら、何の障害も設けずに警戒したのが失敗でした。うかうかと道を開けたのも、気を許して油断したのも失敗です。

南京城陥落の喜びの陰に、私のこうしたほろ苦い失敗もあります。

(「1937南京攻略戦の真実」P125〜P126)

***************


「上海路の死体」事件は、この部隊が引き起こしたものである可能性もありそうです。

しかし、上の文章の表現では、「侵入」が実際に「十三日」であるのか、微妙です。「十三日」は「南京陥落」にかかっているようにも読めないことはありません。


実はこの文章、東中野氏が気がついていたかどうかわかりませんが、既に「都城歩兵第二十三聯隊戦記」に掲載されていました。


****************

南京城内敵の自動車を取り逃がす
              第六中隊 橘忠雄

昭和十二年十二月十三日、南京は遂に陥落し第六中隊は我々第二中隊を先頭にして西南の破壊口より城内に入り、城内の掃討をやることになりました。

城内には左の方に何中隊かの一部が出て掃討しておりましたが、これと連絡を取ることもせず小隊は単独で小さな道をぐんぐん進んでやがて大通りに出ました。後でこの大通りが上海路であることを知りましたが、頑丈に作られた移動障碍物等を取除きながら北に向かって奥へ奥へと前進します。やがて難民区の所まで来ました。東の方では彼我の銃砲声が盛んにします。我々の目の前にも迫撃砲弾が三〜四発続いて炸裂しましたが、損害はありませんでした。

難民区の所から五○メートルくらい先に十字路があります。そこで私は歩哨に立って通過する自動車を鹵獲することになりました。やがて一台のツーリングが右の方から疾走してきます。「来たな」と、早る心を押し静めて姿を隠して待っていますと、だんだん近づいて参ります。四〜五○メートルの近くに来た時飛び出して道路上で立射の姿勢をとり、自動車の前に立ち塞がりました。すると自動車はスピードを落して停車しようとしますので、案ずるより生むが易しと内心喜びつつ、少し右に寄って停車を待ちました。所が今正に停止しようとした車は、自分が身をよけたその隙を利用して、急にスピードを増し北にカーブを切ってまっしぐらに走り出してしまいました。見れば確かに支那将校が乗っている。ハッと思ったが間に合いません。後姿を追うようにして、三〜四発ぶっぱなしましたが自動車は逃げ去りました。口惜しくてくやしくてたまりません。功名心にかられて一人でやったのが悪いのです。初めてのこととは言いながら、何の障害も設けずに警戒したのが失敗でした。南京城陥落の喜びの陰に、私の起こしたほろ苦い失敗であります。

(「都城歩兵第二十三聯隊戦記」P257〜P258)

****************


句読点の位置、一部の形容詞の相違、漢字か「かな」かの区別を除けば、全く同一の文章であることがわかると思います。

はっきり違うのが、最初の一文です。東中野氏の紹介する「転戦実話」と、「聯隊戦記」のものを、もう一度並べてみましょう。


(東中野氏)

昭和十二年十二月十三日、南京はついに陥落いたしましたが、いまだその一角では盛んに戦闘をしています。第六中隊は我々第二中隊を先発にして、西南の破壊口より城内に入り、城内の掃討をやることになりました。


(二十三聯隊戦記)

昭和十二年十二月十三日、南京は遂に陥落し第六中隊は我々第二中隊を先頭にして西南の破壊口より城内に入り、城内の掃討をやることになりました。



後者の文章では、明らかに「掃討」は「十三日」の出来事として書かれています。ちなみに前者の文章には、「いまだその一角では盛んに戦闘しています」という、東中野氏にとって都合のいい文章が、付け加わっています。

書かれた順番としては、「転戦実話」が昭和15年、「聯隊戦記」は戦後のものですから、あとの文ではなぜかこの部分だけ削除されたことになります。


・・・まあ、とりあえずは、「相違」を指摘するだけにとどめましょう。



ついでに、最初の投稿で紹介した、東中野氏の「アホなコメント」を再掲します。「印象操作」ぶりを、改めて味わって下さい。

<安全地帯に中国軍将校が潜伏していたことを裏づける手記が出てくる。第三章の「南京城内 敵の自動車を取り逃がした失敗」である。中国軍の中国軍の高級将校が最後まで安全地帯に潜伏していたが、わざわざ安全地帯に残って何をしていたのであろうか。「掠奪、煽動、強姦に携わっていた」という新聞記事が残っている。これはさらに考えてみなければならない。>(P155)



どうやら、この「最後まで」というのは、「日本軍の占領下において最後まで」ではなくて、「南京攻略戦の最後まで」の意味だったようです(笑)。

しかしこの手記から、「掠奪、煽動、強姦に携わっていたという新聞記事」に話をつなげてしまうのは、強引以外の何物でもありません。

  │└纏足(P210) 熊猫 2003/08/29 21:11:26  ツリーへ

Re: 歩兵第二十三聯隊戦記 返事を書く ノートメニュー
熊猫 <dhcvsuquwp> 2003/08/29 21:11:26
纏足(P210)
日本兵の記述による、纏足の女性を見た記録が、しっかり書かれてますね。
誰だったか、この時代の中国には既に纏足の女性は居ないような事を言ってたような気がしますが・・・。

  │ ├いや、実は・・・ ゆう 2003/08/29 21:56:41  (修正2回) ツリーへ

Re: 纏足(P210) 返事を書く ノートメニュー
ゆう <pmyqfxtjon> 2003/08/29 21:56:41 ** この記事は2回修正されてます
いや、実は・・・

「纏足物語」という本を買ったら、1930年代では、「纏足」は「河北」には残っていたが「華中」や「華南」にはもうほとんど見られなかった、という記述がありました。

まあ、この本の記述が正確なのかどうかわかりませんし、実際問題として「纏足」ひとつで「証言」を否定しようとする阿羅氏のやり方は無茶ではありますが(「纏足」が「ない」とまでは断言できません)、念のため、正確なところがわかるまで、私のページからは外してあります。

個人的には、我ながら力の入った文章で、気に入っておりましたので、何とか復活させたいところなのですが・・・。


*ちなみに「南京戦 被害者120人の証言」では、こうなっています。

「纏足が減少しだしたのは、封建制度の打倒を叫ぶ国民党の北伐軍(1926〜28年)がきてからである。したがって民国26年(1937年)といえども、まちがいなく中国各地で纏足の女性はなお少なからず見受けることができたのである」(P386)



**次は、「ラーベ日記は「三等資料」か?」を予定しておりますので、お楽しみに。

東中野氏は、内藤智秀氏の「史学概論」から「三等資料」の概念を引っ張り出したようですが、実は内藤氏の記述について、ひどい「トリミング」をやっております。「南京事件」と全然関係ないところでまで、こんなことをやるなよな・・・。

  │ ├纏足の記述を見たときは、私も「おー、こん... ja2047 2003/08/30 05:46:42  ツリーへ

Re: 纏足(P210) 返事を書く ノートメニュー
ja2047 <zguiletmbk> 2003/08/30 05:46:42
纏足の記述を見たときは、私も「おー、こんなのもあった。」と思ったんですが、読むと「40歳くらいの婦人」と書いてある。
これだと、清朝末期の生まれになります。
阿羅氏が取り上げた「102人証言」の方は「若い嫁さん」という証言だったので、「国民革命後は纏足はしないだろう」と言ってるわけです。

でもまあ、いかに激動の時代とはいえ、あんな広大な国の風俗習慣が20年くらいでガラリと変わるわけがない
と言うのが事実のように思いますね。


で、確かに、この本は一向に話題になりませんでしたね。
なんか肩すかしを食らったような感じがします。

  │ └纏足の目撃証言 熊猫 2003/09/20 21:11:12  ツリーへ

Re: 纏足(P210) 返事を書く ノートメニュー
熊猫 <dhcvsuquwp> 2003/09/20 21:11:12
纏足の目撃証言
 私の母から本日(9月20日)聞いた話です。
昭和20年前後、私の実家(福岡県田川市)で纏足の中国人女性を見たそうです。その女性がどのような経緯で、日本にやって来たかは不明です。子供の頃の記憶で定かではないが30歳〜40歳くらいだろうとのことでした。一度ではなく数回見たと言っておりましたので、田川市或はその近辺に滞在していたものと思われます。

  │  └田川市では、中国人の強制連行があったんで... 熊猫 2003/10/18 15:21:44  ツリーへ

Re: 纏足の目撃証言 返事を書く ノートメニュー
熊猫 <dhcvsuquwp> 2003/10/18 15:21:44
田川市では、中国人の強制連行があったんですね。
http://courtdomino2.courts.go.jp/kshanrei.nsf/0/08BB3C87C557673749256BAC0024566D/?OpenDocument
家族と共に、連行された人がいたとの事です。それで、母が纏足の中国人を見たのではないかと思います。

  東中野氏「南京攻略戦の真実」やっと買いま... 熊猫 2003/08/15 22:23:01  ツリーへ

Re: 東中野氏「南京攻略戦の真実」 返事を書く ノートメニュー
熊猫 <dhcvsuquwp> 2003/08/15 22:23:01
東中野氏「南京攻略戦の真実」やっと買いました。
近所の本屋さんに注文していて、今日やっと手に入りました。当時の兵士たちの心理状態がわかるいい本だと思いますよ。東中野氏のコメントが余分ですね(笑)。モーゼル銃・・・ゆうさんは喜んだでしょうね。

  │└近所の本屋さんに注文していて、今日やっと... K−K 2003/08/16 00:39:23  ツリーへ

Re: 東中野氏「南京攻略戦の真実」やっと買いま... 返事を書く ノートメニュー
K−K <ecoepxmujl> 2003/08/16 00:39:23
>近所の本屋さんに注文していて、今日やっと手に入りました

 この小学館の文庫本のシリーズは、どこの書店に行ってもスペースが狭いですね。私も、手に入れるのに苦労しました。


>当時の兵士たちの心理状態がわかるいい本だと思いますよ。

 これは事実ですね。出来れば、全部掲載して欲しかったですが・・・。
 靖国文庫も行けないことはないのですが、どうもあの地とは相性が悪くて、足が伸ばせません。暇があったら行こうとは思っているのですが・・・。


>東中野氏のコメントが余分ですね(笑)。

 あれはあれで、いいネタだとは思います(笑)。


※熊猫さん、現代風翻訳を有り難うございます。
※お返事をメールで出したつもりだったのですが、そのメールが届いていないことに一昨日気付きました(申し訳ないです)。
※送って頂いたワードでは、ちゃんと見ることができました。
※ただし、どうやって公開して良いのか、今のところ思案中です。
※また、よろしくお願いします。

  好鉄不打釘,好人不当兵。 熊猫 2003/08/29 21:51:17  ツリーへ

Re: 東中野氏「南京攻略戦の真実」 返事を書く ノートメニュー
熊猫 <dhcvsuquwp> 2003/08/29 21:51:17
好鉄不打釘,好人不当兵。
良鉄は釘にはならず、善人は兵にはならぬ。(P188)

翻訳は間違えていませんが、解釈は正しくありません。「好人」は、裕福な人或は一般の人と解釈するべきです。当時の中国には貧しい農民出身者や、浮浪者に近い生活をしている人々が兵士として志願していました。「志願兵になるものか」或は「兵隊なんぞになるもんか」という意味として解釈するべきです。
東中野氏は略奪を中国兵の仕業に見せかけるために印象操作を行った可能性があります。(今更、驚くことでもありませんが・・)

   └しかしこの本・・・ ゆう 2003/08/29 22:06:02  ツリーへ

Re: 好鉄不打釘,好人不当兵。 返事を書く ノートメニュー
ゆう <pmyqfxtjon> 2003/08/29 22:06:02
しかしこの本・・・

ネットでは、全然話題になりませんね。話題になっているのは、この掲示板ぐらいです(笑)。

「否定派」連中がこの本を根拠に何か言い出したら、私のページでも取り上げてやろうと密かに狙っているのですが、これでは張り合いがない・・・。

ネットの「否定派」連中は、東中野氏の本を読んで「勉強」する、ということさえしないんですかね。

それにしても、あの「正論」、まだ発売中であるようです(今月号だから、当たり前ですが)。東中野氏の大チョンボを見逃す手はありません。まだ買っていらっしゃらない方、今がチャンスです(笑)。

    └はっきり言って勉強してません! 熊猫 2003/08/30 14:51:42  (修正2回) ツリーへ

Re: しかしこの本・・・ 返事を書く ノートメニュー
熊猫 <dhcvsuquwp> 2003/08/30 14:51:42 ** この記事は2回修正されてます
はっきり言って勉強してません!
質問をして相手のあら捜しが専門のようです。
某掲示板を読んでの投稿が主で、その掲示板に書かれてないことを議論すると、ひたすら沈黙を守ります。戦争論を読んで、その内容を真に受ける自称否定派が多いようです。東中野氏を読んで自分の頭で理解している人は少ないと思います。根拠を示さず結論を出す東中野氏の学者として最低の行為に何人気が付くやら?


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