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  ■幕府山事件について−これからの構想 タラリ 2003/09/04 23:30:02 
  ■1■民間人の釈放はあったか タラリ 2003/09/06 21:16:02 
  DELETED   タラリ   2003/09/06 21:22:33  (削除)
  ■2■収容所の火事の際に捕虜の大量逃亡は... タラリ 2003/09/06 21:37:19 
  │└幕府山捕虜に与えられた食糧の出所について... タラリ 2003/09/16 23:23:45 
  │ └Re:富貴山地図 渡辺 2003/09/17 05:19:23  (修正1回)
  │  ├富貴山の地図をありがとうございました。幕... タラリ 2003/09/17 19:55:44 
  │  └幕府山附近地図 渡辺 2003/09/18 23:48:30 
  │   └幕府山附近地図原本について タラリ 2003/09/19 22:49:42 
  │    └Re:ティンパリー#1 渡辺 2003/09/25 13:23:58 
  │     └「ティンパリーの『謎』」を嗤うその1 タラリ 2003/10/05 20:40:13 
  ついに自前のホームページ! タラリ 2003/09/08 22:33:45 
  │├リンク集に追加しました ゆう 2003/09/09 07:10:21  (修正3回)
  ││└「LIFE」1938年1月10日号 渡辺 2003/09/10 01:03:39 
  ││ ├松尾氏はよくわからん 渡辺 2003/09/12 23:35:34 
  ││ │└こんにちは、渡辺さん。 K−K 2003/09/13 00:35:13 
  ││ │ └Re:1月10日号の50ページ前後の所に書いてあ... 渡辺 2003/09/16 13:42:41 
  ││ └ライフ4月号記事の連続写真の出所について タラリ 2003/09/16 23:06:59  (修正1回)
  ││  ├Re:連続写真撮影の経過について#1 渡辺 2003/09/19 18:12:06 
  ││  ├Re:連続写真撮影の経過について#2 渡辺 2003/09/23 23:20:08 
  ││  └「従軍カメラマンの戦争」の元著者です。 石川保昌 2004/04/03 10:17:00 
  ││   └こちらに、返信をいたしました。 渡辺 2004/04/13 01:51:54 
  │├ホームページに追加 タラリ 2003/09/19 00:23:34 
  ││└下関を「げかん」と読むことについて 渡辺 2003/09/19 01:07:05 
  │└HTMLエディターについて。 タラリ 2003/09/25 21:40:57 
  ■3■軍命令に反する捕虜開放について(そ... タラリ 2003/09/09 20:56:43 
  ■3■(その2)軍命令に反する捕虜開放に... タラリ 2003/09/12 12:58:21 
  タラリさんのホームページ開設おめでとうご... 戦史おたく 2003/10/01 22:39:39 
   └戦史おたくさま、サンキュウ、ベリベリマッ... タラリ 2003/10/01 23:44:11 
    └この板の3ページ「両角業作手記の検証」と... とほほ 2003/10/02 13:37:52 

  ■幕府山事件について−これからの構想 タラリ 2003/09/04 23:30:02  ツリーへ

■幕府山事件について−これからの構想 返事を書く ノートメニュー
タラリ <vgezpxzsqe> 2003/09/04 23:30:02
両角回想ノートはいわゆる「正史」の中心であった。幕府山の捕虜について単独の資料で包括的に述べた唯一の証言であった。

両角回想ノートの内容はすでに、多くの研究者の努力により否定されるに至った。そのもっとも大きな力になったものは小野賢治が発掘した13師団の兵士たちの日記群であった。

しかし、ネット上の否定派は今なお、「『否定派』と『大虐殺派』の違いは単に否定、肯定のどちらの資料を取るかによって、結論が分かれるだけだ」と主張したり、あるいは東中野のように両角回想ノートを柱にしながら、『兵士たち』の日記を巧妙に(へたくそにといった方がいいが)取り込んで正史伝説を補強するあがきを続けているものもいる。

私は今までに次の論証を書いた。

1.ノートの記述自体の不自然さ−−−−これは「両角証言の検証」によった。

2.一次資料であり、信頼性の高い『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』などの日記や証言によって捕虜数、殺害数を明らかにした

−−−これは「幕府山の捕虜は何人か」、「幕府山の捕虜殺害数は何人か」によって行った。

しかし、もう少し両角回想ノートの記述に沿いつつ、事実が何であったか、両角はどこをどう歪めて書いたのかを明らかにすることが、否定派の息の根を止めるために必要ではないか、と考えている。

両角回想ノートの内容の骨子は
1.1万5300人の捕虜の中から約半数の民間人を解放した。
2.収容所に火事がおこり、半数の4000人が逃亡した。
3.軍命令に反して捕虜開放をしようとした。
4.開放しようとして捕虜が騒ぎ、自衛発砲をした。
5.大部分の捕虜に逃げられ、捕虜殺害数は少数であった。
の5点からな

今後、およそこの順に論証をしていこうと考えています。

完全なものを書こうとすると、時間がかかります。少し雑でもなるべく早く上げるつもりでおります。

なお、今まで私が書いたものについてはご意見、ご批判が少なかったように思います。
どんなささやかな疑問でも書いてみてください。それを頼りとしていっそうの深化、次のテーマが拓けると思いますので、是非よろしくお願いします。

  ■1■民間人の釈放はあったか タラリ 2003/09/06 21:16:02  ツリーへ

Re: ■幕府山事件について−これからの構想 返事を書く ノートメニュー
タラリ <vgezpxzsqe> 2003/09/06 21:16:02
■1■ 民間人の釈放はあったか

非戦闘員の大量釈放を証言する唯一の資料が両角回想ノートである。

★☆★両角回想ノート★☆★

 「幕府山東側地区、及び幕府山付近に於いて得た捕虜の数は莫大なものであった。新聞は二万とか書いたが、実際は一万五千三百余であった。しかし、この中には婦女子あり、老人あり、全くの非戦闘員(南京より落ちのびたる市民多数)がいたので、これをより分けて解放した。残りは八千人程度であった」

捕虜の中に民間人がどれくらいいたのか。

★1★遠藤重太郎
十二月二十二日(この日に記述したが、記述内容は十四日のものと見られる。)
馬龍[幕府]山に付[着]く日の朝五時出発、一里も行軍しない内、まだくらいのに敵兵は白旗を立てて我が軍に降伏して来た、見れば皆支那兵、服装は四分五列[裂]でこれでも皇軍にていこうしたのかとびつくり驚いた、そこで一大隊は千八百名武器から馬から皆せんりょうした、二大隊も三大隊も皆

「服装は四分五裂」であったが、「皆支那兵」との認識であった。

★2★近藤栄四郎
十二月十四日 <略>南京も目の前に南京城を見て降伏兵の一団を馬上より見下すのも気持ちが悪くない、南京牧場宿営、女を混じへた敵兵の姿。

女性と言えば民間人の可能性は高かった。しかし、問題はその数である。

★3★目黒福治
十二月十三日<>途中敵捕虜各所に集結、その数一万三千名との事、十二三才の小供より五十才位迄の雑兵にて中に婦人二名有り、残兵尚続々の[と]投降す、各隊にて捕い[え]たる総数約十万との事、午後五時南京城壁を眺めて城外に宿営す。

少年、老人について触れているが、それは少年兵や老年の兵のことであった。女性については数が一目でわかるほどの数であった。
この三人の日記では民間人の数はわずかであった、あるいはほとんどが兵士と見なされたことを示している。

当時の中国軍は南京防衛のために兵員を急募・徴兵した。輸送や塹壕堀りに当たる軍の要員は通常の兵員とは別の制服を与えられていた。このことが服装が四分五裂であるとの印象をもたらしたのである。戦闘員ではなかったが、純然たる民間人でもないという軍要員が多数混じっていたのである。

★4★I氏(伊達郡) 証言 第9中隊所属・伍長
南京附近で捕虜はかたまって無抵抗で投降してきた。相当年輩の捕虜もおり、十四−十五歳の若者もいた。敗残兵は少なかったのではないのか。

I氏の属する隊は南京附近を掃討した。ここでは「年輩」、「若者」と書き、「敗残兵は少なかったのではないか」と書く。南京附近から落ち延びた集団には兵が少なかった可能性もある。この捕虜は上元門付近の収容所Bに収容されたと思われる。

★5★唐広晋 『この事実を』P19-20
中国語の話せる日本人が「だれか幕府山の前を道案内できるのはいないか」と言うと、誰かが道案内に立ち上がり、私たちを幕府山に連れて行き、空の兵舎に閉じこめました。そこに収監されたおよそ二万人は、ほとんどが捕虜となった兵士達で、一部が警官とラオパーイシン(老百姓−市民、農民のこと)でした。三日三晩食べさせも、飲ませもせず、年寄りや子供が飢え渇いて相継いで氏にました。婦女子は総べて輪姦されました。

唐氏は兵士が多く、ラオパーイシンは一部であったとする。このあと、揚子江河岸での虐殺へと話は進むのだが、ラオパーイシンの釈放などの話は登場しない。唐氏は収容所Bに入れられた可能性が高い。

つまり、幕府山攻略経路にあった兵士は兵士主体の捕虜を収容し、東部上元門の収容所Aに入れた。揚子江沿いに南京城に向かった兵士が捕らえた捕虜の中には一部民間人が混じっていた。

したがって、両角が非戦闘員がいたと記すことウソではない。また、連隊長、支隊長を含む本隊は十二月十四日の午前十時には上元門に達し、早くも捕虜の収容を始めたと見られる。

しかしながら、当時の日本軍に詳細不明な軍要員らしきもの(輸送兵や塹壕堀の要員)について解放するというような考えはなかったであろう。また、少数の民間人が混じっていたとして、それわわざわざより分けたかどうかはかなり疑問である。とにかく、捕虜の釈放については両角以外の誰もいっさい触れていない、ということだけが事実である。そして問題はもし、解放があったとしても、それが両角が主張するような半数もの釈放であったか、どうかだけが争点となる。

ここに、両角以外の関係者でただひとり、釈放について明確に述べた人物がいる。それがかっての支隊長山田栴二氏である。しかし、この言明は、あるいは言わされたというべきかも知れない。

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★☆★鈴木明による山田聞き取り   『南京大虐殺のまぼろし』より

(捕虜の大量獲得のあとを受けて)−山田旅団長は「抵抗しないものは保護する」といった。道路端には、彼等の投げた鉄砲だけで、五千挺を数えることができたという。
 とにかく、どこかへ入れなければならない。山田氏の話では、学校に竹矢来をめぐらしている場所があり、そこに入れたという。そこに入れる時、両角部隊長と二人で、たしかに軍人かどうか、一人一人確認して入れたのを記憶している。横田記者の記事では、一万四千七百七十七とあるが、それは少し多すぎるのではないかとも思われる。一万五千人といえば、確認に一人二秒を要したとしても、八時間もかかる。両角部隊長は八千人ぐらい、といっていたそうだ。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

聞き取りといえば、引用文で書かれ、地の文は少ないのが普通だが、この聞き取りにはさっぱり引用文が登場しない。引用すると長くなるのでいちいち紹介できないが、山田氏がさんざん証言を渋ったあげく「イチかバチお話しよう」といって聞き取りが始まった。しかし、その直後から鈴木氏の揣摩憶測と山田氏の生返事だけが続く。結果として、出てくるステートメントが山田氏が言ったものなのか、鈴木の解釈や意見であるのか、区別ができないような書きかたで一貫しているという困った代物である。

どちらの収容所も「学校」とはほど遠いものであったはずだが、それは置く。
「横田記者の記事では、一万四千七百七十七とあるが、それは少し多すぎるのではないかとも思われる」−これは山田氏が言ったと見てよかろう。山田氏は重い口ながら捕虜数を少な目に言いたいようである。

「一万五千人といえば、確認に一人二秒を要したとしても、八時間もかかる」−山田氏は単に記憶の通りを話せばいいのであるから、その根拠や記憶内容の妥当性について弁じ立てる筋合いはない。山田氏が言ったとすれば、一万五千人より少なかったという主張に何らかの不安を感じていたから持ち出したことを示す。あるいは、この計算は瞬時に暗算可能なものではないから、鈴木氏が著書を書く際に付け加えたものと考えることもできる。
「両角部隊長は八千人と言っていたそうだ」−これは山田氏であろう。鈴木氏はすでに両角回想ノートなどの予習は済ませているはずだし、聞き取りの側が誘導するような意見を差し挟むことまではしないだろう。しかし、両角の主張は一万五千三百から非戦闘員を釈放して八千になったということだから、山田氏が一万四千七百七十七を否定して八千であったというのはおかしな話になる。

支隊長の山田が捕虜の数を知らなかったとか忘れるというのはあり得ない。もし、両角が上げた数字と自分の記憶があっていれば自らも同数であったとしても必ず数字を口にするはずである。自らは捕虜の数を主張しなかったということは隠したということである。

ところで鈴木氏の計算は山田証言を補強すべく助け船を出したつもりかもしれないが、墓穴を掘っている。

「一万五千人といえば、確認に一人二秒を要したとしても、八時間もかかる」
(八時間もかけたはずはない。そんなには多くなかったはずだ)と鈴木は言いたかった。
ところが、両角は当初一万五千三百人いた、と明言していたのである。一万五千三百からより分けて半数を解放するには一人二秒かかるとして八時間かかる。これが鈴木の計算の結論である。八時間もかけたはずはない、と主張すれば、もともと一万五千三百もいなかった、ということになり、両角のあげた数字はウソだということになる。

あるいは、山田が「両角部隊長と二人で、たしかに軍人かどうか、一人一人確認した」と言ったのは人数が少なかったという記憶を強調するためのはウソの説明だったことを物語ることになる。かくして、鈴木がせっかくお膳立てした捕虜の釈放説は崩壊するのである。

それから、一番最初に戻るが、山田は何を隠そう、自分の書いた日記において

十二月十四日<略>捕虜の仕末に困り、恰も発見せし上元門外の学校に収容せし所、一四、七七七名を得たり、斯く多くては殺すも生かすも困つたものなり、上元門外の三軒屋に泊す

と明記しているのである。ところで、奇妙なことに山田日記については、これまで出版された書物の中には三つのバージョンが存在するのである。ここに示した『南京戦史』版、鈴木明の『南京大虐殺のまぽろし』、阿部輝郎の『南京の氷雨』版であり、ご丁寧に後の二つは「一四、七七七名」を含む部分は削除されているのである。このバージョンの異動についてはいずれ稿を改めて書くことにしよう。

ところで、捕虜の釈放は両角によれば収容所に入れる前に確認したことになっている。ということは当然昼間に行ったということになる。

ということで鈴木が誘導した山田証言というのはすべて崩壊した。ただ、山田が両角回想ノートを補強しようとして下手なウソまでついた、ということだけが浮き彫りになった。よって、捕虜の釈放について述べるのはやっぱり、両角ただ一人なのである。

再確認するが、両角の自衛発砲、殺害少数説を支持、補強する元将兵の中にも「民間人の解放」について述べるものは一人もいない。これでは両角の「非戦闘員捕虜の釈放説」は信憑性はほとんどない。

ただし、一人の証言者だけが証言したことであっても、その事実が絶対にないとは言えない。その一人の証言者だけが見ることができた事実であった、という場合もないとはいえないのである。また、複数のものが見た事実であったが、たまたま、その他のものは証言・記録を残すことなく死んでしまったということもありえるからである。

したがって、この当時では、両角しか知るものがなかったが、少数の捕虜の釈放があったということまでを否定することはできない。しかしながら、両角の「非戦闘員の捕虜が釈放されて【 捕虜数が半分になった 】」という部分だけは以下の理由によって絶対的に否定できる。

まず、両角が収容前に何らかの点検をしたのは収容所Bでありながら、収容所Aの人数である一万五千三百を引き合いに出して、その半数を釈放したなどと、故意に混同させている。収容所Aの捕虜はほとんどが兵士ないし、軍要員であった。この収容所に対して非戦闘員の釈放を指示したとしても、人数はほとんど変わらない。また、収容所Bには、夜半に至り、宮本中尉が数千名の捕虜を引き連れて、「万余」に達したと報告しているのである。よって万一、他の日記・証言に現れない非戦闘員の釈放があったとしても、捕虜が半数になったということは完全に否定されるのである。

  DELETED   タラリ   2003/09/06 21:22:33  (削除) ツリーへ

Re: ■幕府山事件について−これからの構想 返事を書く
タラリ <vgezpxzsqe> 2003/09/06 21:22:33 ** この記事は削除されました

  ■2■収容所の火事の際に捕虜の大量逃亡は... タラリ 2003/09/06 21:37:19  ツリーへ

Re: ■幕府山事件について−これからの構想 返事を書く ノートメニュー
タラリ <vgezpxzsqe> 2003/09/06 21:37:19
■2■収容所の火事の際に捕虜の大量逃亡はあったのか。

火事の際の逃亡について詳しく述べるのは両角手記しかない。この手記は両角が書いていた「日記/メモ」を元に戦後になって書いたものであり、阿部輝郎氏はそれを書き写したものを持っていると言う。ところがこの手記/回想ノートには二つのバージョンがあるのである。ひとつは「『ふくしま 戦争と人間』白虎編」にあるものであり、もうひとつは『南京戦史』のものである。掲載は「『福島 戦争と人間』白虎編」が早い。読み比べると微妙な差がある。「『ふくしま 戦争と人間』白虎編」が発刊されたときにはすでに両角氏は故人となっており、偕行社には阿部氏が書写本から提供したとされる。ということは同じ書写本からずるずると「ふくしま」版と「南京戦史」版が出てくるのである。阿部氏の研究者としてモラルが問われる所以である。


★両角手記『ふくしま 戦争と人間』白虎編版
八千人の捕虜は、【幕府山のふもと】に十数むねの細長い建造物(思うに【幕府山砲台】の使用建物らしい)があったので収容した。周囲には不完全な鉄線が二本か三本張られているだけであった。食物はとりあえず、【砲台の地下倉庫】に格納してあったものを運び、彼ら自身で給養するよう指導した。
 当時、若松連帯は進撃に次ぐ進撃で兵力消耗が激しく、幕府山のこの場所にいたのは千数十人でしかなかった。この兵力で多数の捕虜の処置をするのだから、とても行き届いたことはできない。四周の隅に警戒兵を配置して監視をするのみだった。夜の炊事で火事が起こった。火はそれからそれへと延焼し、その混乱はたいへんだった。直ちに第一中隊を派遣して沈静にあたらせたが、火事は彼らの計画的なものであり、この混乱を利用し、申し訳ないことだが、半数の捕虜に逃亡されてしまった。もちろん射撃して逃亡を防いだのが、暗闇に鉄砲では当たるものではない。報告によると”逃亡四千名”とあった。

★両角手記『南京戦史』版
残りは八千人程度であった。これを運よく【幕府山南側】にあった厩舎か鶏舎か、細長い野営場のバラック(思うに【幕府山要塞】の使用建物で、十数棟併列し、周囲に不完全ながら鉄線が二、三本張りめぐらされている)−とりあえず、この建物に収容し、食糧は【要塞地下倉庫】に格納してあったものを運こび、彼ら自身の手で給養するよう指導した。
 当時、我が聯隊将兵は進撃に次ぐ進撃で消耗も甚だしく、恐らく千数十人であったと思う。この兵力で、この多数の捕虜の処置をするのだから、とても行き届いた取扱いなどできたものではない。四周の隅に警戒として五、六人の兵を配置し、彼らを監視させた。
 炊事が始まった。某棟が火事になった。火はそれからそれへと延焼し、その混雑はひとかたならず、聯隊からも直ちに一中隊を派遣して沈静にあたらせたが、もとよりこの出火は彼らの計画的なもので、この混乱を利用してほとんど半数が逃亡した。我が方も射撃して極力逃亡を防いだが、暗に鉄砲、ちょっと火事場から離れると、もう見えぬので、少なくも四千人ぐらいは逃げ去ったと思われる。

ほぼ同趣旨であるが、後になって発表された南京戦史版の方が多くの語句が付け加わって内容豊富となり、整理されている。
大きな違いは
1.【幕府山のふもと】→【幕府山の南側】に変わっている。
2.【幕府山砲台】、【砲台の地下倉庫】→【幕府山要塞】、【要塞地下倉庫】に変わっている。

つまり、【幕府山のふもと】は幕府山西端のことであり、上元門集落(日本側呼称では北部上元門ということもある)のことである。【幕府山砲台】もこの場合は幕府山西端の小さな砲台のことである(図+)。【幕府山の南側】とは幕府山の南麓にある原野であり、【幕府山要塞】とは頂上尾根に展開する砲台・陣地群のことである。

この書き換えが両角によって行われたのか、阿部が率先して行ったことなのかは不明であるが、いずれにせよ、研究者、資料紹介者としての阿部のモラルは問われる。

これによって収容所Bにかかる記述を収容所Aに読み替えたのである。これは収容所Bの存在を隠し、捕虜総数から収容所Bの収容者数を除くことを意図したものであろう。

■お断り。二つの収容所の所在については、htmファイルをつけるはずであったが、付属の画像ファイルが入らないので取りやめました。■

この、収容所の火事−捕虜逃亡に対しても、両角配下の元将兵からの証言は非常に少ない。「ふくしま」では両角手記のあとに続けて「関係者」の証言を引用する。

☆『ふくしま 戦争と人間』白虎編 p122
 放火、脱走・・・・・。このとき捕虜ょ収容していた建造物の警備を担当していたのは第十二中隊(八巻竹雄中尉)などだったが、関係者の回想によると・・・・。
「建造物は細長く、草屋根のバラックのようなものだった。最初は彼らを捕虜という感じではなく、とにかく投降の意思があるように見えたので、集団でそこに宿営してもらうという感じだった。武装解除はしているが、しかし身体検査をいちいちしたわけではないから、爆薬などを持っていた兵隊がいたかもしれなかった。警戒もそれほど厳重にしていなかったのが仇になり、いっぺんに二むねが全焼し、半分ほどの兵隊に逃亡されてしまった。けれども私たちは、本音をいえば”これで安心”と思ったのです」

「ふくしま」には多数の証言が出てくるが、【関係者】などというあいまいなものの証言が出てくるのは幕府山関係ではこの一件だけである。名前、所属はおろか、仮名さえないという証言である。その内容は両角手記の中の事実関係も火災事件に対する見方もそっくり、引き写したものであり、「関係者」の実在さえ疑われる。

【捕虜という感じではなく、とにかく投降の意思があるように見えたので】【爆薬などを持っていた兵隊がいたかもしれなかった】などのいいわけがましい証言はウソにつきもののご愛敬とも言える。

ただし、焼けたのは十数棟のうち【二棟】だけというのは、両角手記にはない記述である。収容所Aの火災では半数が消失したとされるから、これは収容所Bのことであり、相継いで二つの収容所に火災があったことを示している。


両角の主張する自衛発砲説、殺害少数説を補強する立場の平林貞治(中尉)は捕虜逃亡について次のように発言する。

☆「南京大虐殺」のまぼろし pp198-199より
「大量のホリョを収容した、たしか二日目に火事がありました。その時、捕虜がにげた
かどうかは、憶えていません。もっとも、逃げようと思えば簡単等に逃げられそうな竹
がこいでしたから。それより、問題は給食でした」

収容は十四日であり、二日目といえば指して言うしていると考えられる。しかし、記憶は鮮明でないようで特定はできない。発生時刻もわからないので収容所Aの火事について言ったのか、Bの火事について言ったのか不明である。

さて、火事はあったが、【捕虜がにげたかどうかは、憶えていません】と言うのである。これでは半数逃げた可能性はほとんど否定される。しかし、【もっとも、逃げようと思えば簡単等に逃げられそうな竹がこいでした】などと逃げ道を開けておき、その上で、逃亡の有無から話題を避けるかのように、【それより、問題は給食でした】と話を逸らしていくのである。つまり、両角証言を否定したくはないが、かといって、自分の知るところとあまりに違うことを言うのもはばかられるということであろう。

『兵士たち』の日記には一六日の火災については多数の証言があるが、発生時間は十二時半くらいである。また、消失は約半数の房である。捕虜の逃亡があったと書くものはひとつもない。自衛発砲説を唱える兵士らの間でも収容所の火事のさいに捕虜の逃亡があったという事実を述べたものは一人もいないのである。これでは、両角ノートの信憑性は疑われてしかるべきである。

ところで平林証言にはもうひとつ田中正明聞き取りが存在するのであるが、こちらの方は11年前の鈴木聞き取りをあっさりと覆し、「非戦闘員の釈放」も「夕刻の火災」も両角回想ノートの筋書きにしたがって「思い出す」のである。このへんが田中正明という人物のいかがわしさをよく表している。

ところが、捕虜の脱走について述べた証言がひとつだけ存在していた。それは中国側証人によるものであった。

唐広晋『私が経験した日本軍の南京大虐殺』−−『南京大虐殺と日本軍』より
十二月十二日、つまり南京が陥落する前の日に南京を脱出して下関から揚子江に沿って下流を目指した。そこで日本軍の捕虜になったと回想し、続いて次のように述べている。

「私たち二人はこの一群にしたがって、幕府山の国民党教導総隊の野営訓練臨時兵舎に連れていかれた。この臨時兵舎は全部で七、八列あり、すべて竹と泥でできたテントだった。中は捕まえられた人でぎっしり詰まっていた。

私たちは中に閉じこめられ、ご飯さえたべさせてもらえず、三日目になってようやく水を飲ませてくれた。敵は少しでも思うようにならないと発砲して人を殺した。五日目になった。私たちはお腹の皮が背中につくほどお腹が空いてみなただ息をするだけであった。

明らかに、敵は私たちを生きたまま餓死させようとしており、多くの大胆な人は、餓死するよりも命を賭ける方がましだと考え、火が放たれるのを合図に各小屋から一斉に飛び出ようとひそかに取り決めた。

その日の夜、誰かが竹の小屋を燃やした。火が出ると各小屋の人は一斉に外へ飛び出た。みんなが兵舎の竹の囲いを押し倒したとき、囲いの外に一本の広くて深い溝があるのを発見した。人々は慌てて溝に飛び降りて水の中を泳いだり歩いたりして逃走した。しかし、溝の向こうはなんと絶壁でありみな狼狽した。

このとき敵の機関銃が群衆に向かって掃射してきた。溝の水は血で真っ赤に染まった。逃走した人はまた小屋の中に戻された。小屋は少なからず焼け崩れ、人と人は寄り添いあっておしあいするしかなく、人間がぎっしりと缶詰のように詰まり、息をするのもたいへんだった」

この翌日朝早くから、縛られ河岸の空き地で大虐殺に遭遇するが、唐さんは奇跡的に殺害を免れた。

唐さんは揚子江沿いにいったん燕子磯まで落ち延びたあと、日本軍に捕えられ、十華里以上も離れた草営房に収容されたらしい。このルートは収容所Bに収容されたと思われる。草営房を出てすぐのところに絶壁が迫っていたということも、上元門に近い収容所であることを示していると思われる。

唐さん日付に関する記憶はいくつかある証言の間で少しずつ食い違っており、不確かである。どの証言でも収容所に入れられてからの日数が長すぎるのである。十二月十二日の捕まった日を一日目としたとすると、五日目の十二月十六日に火災が起こり、六日目の十二月十七日虐殺があったことになる。しかし、捕まったのが十二日とは少し早過ぎるように思われ、全体に一−二日の誤差があるのではないか。

ところで、唐広晋氏は証言集『この事実を・・・』でこう述べている。

「四川の兵が一人、飢え渇きに堪えかね、大勢と打ち合わせて脱走したため、一千人以上が日本軍に外堀の中で射殺されました」

一千人が射殺されたというのは信じがたい。一緒に逃走しなかった唐さんは堀の中の様子を直接見たわけではない。その後に房に戻された仲間から聞いたのであろう。逃亡しようとしたものは恐怖から被害数を多めに見積もるだろう、また唐氏は収容人数を二万人と過大な見積りをしているからである。

唐さんの経験した火災は夜起こった。そして収容所はBである。これは両角ノートと一致している。ただし、逃げようとした捕虜は全員射殺あるいは引き戻された。この事実は他に記録したものがいない。しかし、収容所Bで火災があり、脱走未遂があったということは後年、両角が捕虜人数を少な目に言うためのヒントとなった。

両角は収容所の人数が八千名であったという。実は収容所Aの捕虜数を一万七千としたとき、収容所Bの捕虜数が八千とすれば、くしくも私が考えた捕虜総数二万五千に一致する。人数を少な目に言う場合にも、人間、何らかの実際に起こったことを時間・空間をずらして、それにことよせてウソを言いたくなるものだ。ひょっとすると、八千は実際に把握していたのかも知れず、ただ収容所Bだけの人数を言ったとも考えられる。

ただし、両角の言う半数逃亡はなかった。両角ノートの骨子を補強すべき人物さえ、肯定していないのである。唐氏の収容所Bの火事に関する唯一の証言ははっきりとこれを否定しているのである。

  │└幕府山捕虜に与えられた食糧の出所について... タラリ 2003/09/16 23:23:45  ツリーへ

Re: ■2■収容所の火事の際に捕虜の大量逃亡は... 返事を書く ノートメニュー
タラリ <vgezpxzsqe> 2003/09/16 23:23:45
幕府山捕虜に与えられた食糧の出所について教えてください。

北村稔「『南京事件』の探求」pp112-123には「新申報」に捕虜に対するインタビュー記事があり、捕虜の一人である教導総隊の参謀、沈博施が富貴山の砲台下の地下室にある米糧について述べる記事があります。そしてこの記事と同源のものが「福島民友新聞」にあるというをどこかで読みました。

そこで教えてほしいのですが、この富貴山そして富貴山砲台がどこにあるか、ご存じないでしょうか。また、「新申報」、「福島民友新聞」の同記事をお持ちの方、記事の提供をお願いします。

二つの収容所があると推測して、考察を進めましたが、もう一つ決定打が欲しいと思っている次第です。南京の地図は2種類コピーしましたが、残念ながら私の持っている地図は情報量が少なくほとんど役に立っていません。

  │ └Re:富貴山地図 渡辺 2003/09/17 05:19:23  (修正1回) ツリーへ

Re: 幕府山捕虜に与えられた食糧の出所について... 返事を書く ノートメニュー
渡辺 <oogeblxyju> 2003/09/17 05:19:23 ** この記事は1回修正されてます
Re:富貴山地図

富貴山附近の地図は、下記 url にアップしました。
「砲台」というのは、fuki2.GIF の地図で、頂上にある、かぎ括弧の印の場所じゃないでしょうか。

なお、どちらの地図も色刷りですが、白黒になっていて、それも256階調でファイルサイズが大きく申し訳ありません。(144bpiでスキャンしました。)

1)
1/10,000 地図(画像ファイル容量=約300K)
南京市 明故宮、中華民国22年航空撮影測量23年3月製版24年1月印刷 参謀本部陸地測量総局
http://hist1937.hp.infoseek.co.jp/nmaps/fuki2.GIF

2)
1/20,000 地図(画像ファイル容量=約596K=どでかい)
最新南京地図、昭和13年10月1日印刷、至誠堂
http://hist1937.hp.infoseek.co.jp/nmaps/fuki1.GIF

  │  ├富貴山の地図をありがとうございました。幕... タラリ 2003/09/17 19:55:44  ツリーへ

Re: Re:富貴山地図 返事を書く ノートメニュー
タラリ <vgezpxzsqe> 2003/09/17 19:55:44
富貴山の地図をありがとうございました。幕府山のどちらかの収容所近辺であろうと思いそちらの方ばかり見ていたのでわかりませんでした。なんと城内とは。これなら、私の地図にもありました(^^;)。

  │  └幕府山附近地図 渡辺 2003/09/18 23:48:30  ツリーへ

Re: Re:富貴山地図 返事を書く ノートメニュー
渡辺 <oogeblxyju> 2003/09/18 23:48:30
幕府山附近地図

ついでに、サービスで幕府山附近地図もアップしました。
これは、『南京大虐殺の現場へ』p.152 にあるもの(だいぶ画像がつぶれている)と同じです。
この地図の原本は、黒のほか、赤と青の多色刷りです。

gif に変換するときに、ざらざらができてしまいました。
不都合なら、スキャンしなおします。
白黒2値画像の gif にすると、劇的にファイル容量が小さくなりますが、ソフトによっては取り込めないものがあるようです。

1/10,000 地図(画像ファイル容量=約599K=容量大きい)
南京市 下関(東半分)、中華民国22年航空撮影測量23年3月製版24年1月印刷、参謀本部陸地測量総局
http://hist1937.hp.infoseek.co.jp/nmaps/Xiaguan.gif

  │   └幕府山附近地図原本について タラリ 2003/09/19 22:49:42  ツリーへ

Re: 幕府山附近地図 返事を書く ノートメニュー
タラリ <vgezpxzsqe> 2003/09/19 22:49:42
幕府山附近地図原本について
ありがとうございます。『南京大虐殺の現場へ』にあるものと同じですが、魚雷営の位置なども入っていて有用なので、こちらに差し替えさせてたいと思います。

「従軍カメラマンの戦争」の件
>この本で、興味深い箇所といえば、当初は問題とされなかった南京入場式の写真で、後の出版物からは、松井石根以外の主だった司令官クラスの将官の顔が消されているという箇所です。(p.110-)

そうそう。ここも興味深いところです。

下関(げかん、シャァカン)
>実際に番組を見ていないので、どういう状況かは分かりませんが、当時「シャァカン」と呼ばれた、という一言があれば、よかったんではないでしょうか。

確かにそこまで勉強してもらえれば言うことないです。

ところで、北村批判でティンパリーのところを大幅に書き換えてuploadしたいという希望を持っています。
私の切り口は北村のずさんな論理展開、推理の道筋を暴露することです。ただし、渡辺さんがあれだけ新発見の事実を書かれている以上、今の時点でそれを使わないで書くことは意味がありません。

渡辺さんが見つけられたことはいちいちクレジットを入れておくのは当然ですが、書き方によっては「おいしいところを全部持っていく」ということにもなりかねません。

他の論考は自由にreviceしてuploadしておりますが、ティンパリーのところはもう一度この板に投稿して、ご意見を承りたいと思いますが、よろしいでしょうか。

ただし、書き上がるのはもう少し先です。

  │    └Re:ティンパリー#1 渡辺 2003/09/25 13:23:58  ツリーへ

Re: 幕府山附近地図原本について 返事を書く ノートメニュー
渡辺 <oogeblxyju> 2003/09/25 13:23:58
Re:ティンパリー #1

タラリさん:>
>ところで、北村批判でティンパリーのところを大幅に書き換えてuploadしたいという希望を持っています。
>私の切り口は北村のずさんな論理展開、推理の道筋を暴露することです。ただし、渡辺さんがあれだけ新発見の
>事実を書かれている以上、今の時点でそれを使わないで書くことは意味がありません。

>渡辺さんが見つけられたことはいちいちクレジットを入れておくのは当然ですが、書き方によっては「おいしいところを全部持っていく」ということにもなりかねません。

>他の論考は自由にreviceしてuploadしておりますが、ティンパリーのところはもう一度この板に投稿して、ご意見を承りたいと思いますが、よろしいでしょうか。

引用については、読者のためにも典拠を示していただきたいと思いますが、考え方などは自由に使ってください。こちらも、たくさんの方からアドバイスをいただきましたが、クレジットしていません(^^)

『季刊 中帰連』21〜24号(訂正は24号に掲載)に書いたものが、私の「公式発表」です(^^;
ですが、原稿締切りや、頁数...かなりの枚数をいただきましたが...の制限で、書ききれなかったことや、調査中のことがあります。

北村稔氏の議論を読んでいると、Timperleyがどうのこうのと、そんなことは「南京事件」と関係ないじゃないかという思いが、いつも浮かび、脱力感を誘います。
そこで、個々の事項を議論するのではなく、別の事実を記述し、その中で批判をするという方法で、記事を書いたわけです。
タラリさんの「北村のずさんな論理展開、推理の道筋を暴露すること」も、そういう意味で、高所からの視点で有意義だと感じています。

さて、Timperley についてですが、日中戦争の急速な進展を背景として、思ったより複雑な事情があるようです。
また、わずかな時間の違いで、物事の意味も異なってくるようです。
検討中の資料も多く、それらの資料を整理している方の立場もありますので、現時点では公開できることが限られています。しかし、改めて、可能な範囲で概要を投稿したいと思います。

  │     └「ティンパリーの『謎』」を嗤うその1 タラリ 2003/10/05 20:40:13  ツリーへ

Re: Re:ティンパリー#1 返事を書く ノートメニュー
タラリ <vgezpxzsqe> 2003/10/05 20:40:13
「ティンパリーの『謎』」を嗤う その1
ようやく書き上げました。長くなったのでその1,その2に分けました。それでもその1は41Kbyteあり長いです。幕府山1,2より難産でした。
以前の北村批判は読んでここがおかしいじゃないか、と言いたいことの20%くらいしか、言えてなかったですが、今回は80%くらい言えたと思います。渡辺さんの証拠資料は存分に利用させていただきました。ありがとうございました。

  ついに自前のホームページ! タラリ 2003/09/08 22:33:45  ツリーへ

Re: ■幕府山事件について−これからの構想 返事を書く ノートメニュー
タラリ <vgezpxzsqe> 2003/09/08 22:33:45
ついに自前のホームページ!
予定していた『ふたつの収容所』というHTMファイルを添付したところ画像が載らないことに気づきました。そこで、急遽、自前のホームページを立ち上げ、これまでのファイルもupすることにしました。

現在、使いなれたfrontpage expressが使えず、いろんなeditorを使っています。それぞれ特徴がありますが、frontpage expressの機能をすべてカバーはしておらず、しかも、あるeditorを通すと他のeditorでは文字化けが起こったり、画面が乱れたり、なかなか思うようには行きません。

しかし、ゆうさんの熱心なお誘いもあってようやく自前のホームページを立ち上げることができました。

「南京事件の真実」
http://www.nextftp.com/tarari/index.htm
をよろしくお願いします。

  │├リンク集に追加しました ゆう 2003/09/09 07:10:21  (修正3回) ツリーへ

Re: ついに自前のホームページ! 返事を書く ノートメニュー
ゆう <pmyqfxtjon> 2003/09/09 07:10:21 ** この記事は3回修正されてます
リンク集に追加しました

HPの立ち上げ、おめでとうございます。早速、私のページのリンク集に追加させていただきました。他にも掲載にふさわしい投稿が数多くあると思いますので、今後とも充実を期待しています。



おまけです。タラリさんのページとは関係ありませんが・・・。


(松尾さん掲示)

「LIFE」1938年1月10日号 投稿者:松尾一郎  投稿日: 9月 8日(月)23時45分52秒

「LIFE」1938(昭和13)年1月10日号に、次の論評が掲載されています。
 もちろん記者は米国人。

 「中国軍は占領後も南京城内で一般人の服装(便衣)に着替えてゲリラ戦を続けている。そうした混乱の中で、一般市民も被害を受けたことは事実であろう。」

 ゲリラ戦は国際法違反でっせ(笑)




(「ライフ」記事)

国民政府の首都南京、地獄の一週間
               <ライフ>一九三八年一月十日

蒸気船に乗り込む南京市民

 十二月五日、恐慌に陥った南京市民のうち裕福な者だけが、四〇〇マイル上流の漢口行きデラックス汽船の切符を手に入れることができた。この一週間後に、日本軍は南京城壁を乗り越えて、パナイ号事件を起こすことになる。これら難民はサンパンを雇い、浅瀬から、このやや荷台の深い汽船に辿り着いた。ズボンがずりおちかけた舵とりのあやつるサンパンには、トランクを持ち込んだ者やズボン着用の婦人苦力のような使用人を連れこんだ者がいる。婦人、子供が極端に少ない。男性のほとんどが苦力の上着や中折れ帽(フェドラ)をかぶっているが、おそらく執事であろう。兵士の一団がトップデッキと舷で乗船を監督している。難民の一人がキルトの上着とポットと鳥籠だけは持ち込みたいと苦心惨澹している。逃走中の中国人難民は、アメリカ人だとてそうであろうが、他人の助けなどあてにしていない。寒さを凌げるかどうかだけを気づかっている。可愛がっている鳥は、万一の時の食料となるのだろう。

 難民が向かおうとしている漢口は、中国のシカゴといわれる、平坦な農業地帯で、岸辺には柳が育ち、ここから上流は小高い丘陵となっていく。漢口までは四日間の行程だ。三〇〇マイル離れた宣昌に向かう者もいる。ここは長江が急流となるところで、長江から重慶に至る名高い渓谷が一四〇〇マイル奥地に続く。ここを通る軽荷役船は盗賊の襲撃を避けるため、装甲板を携行する。また、蒋介石がまだ戦闘を継続していく場合には、ここは中国軍の最遠隔基地ともなる。

 難民というこの船荷は、夏の時期のバッタにも類比できるとるに足りない荷となっているが、中国の最も富裕な人口過密地域で、いま何がおきているのかを如実に表している。おそらく何千万人という中国人が現在避難行にあるのであろう。日本軍が侵攻してくる進路にあたるところでは、新しい中国の愛国主義者が、無数の民に住み慣れた家を放棄するよう指導している。戦闘のない平和な時でさえ、中国人は懸命に働いても生活は楽ではなかったはずである。なのにいま、中国軍は撤退する時、ありとあらゆるものを破壊する「焦土作戦」を行おうとしている。抗州では、都市の一番の誇りであった発電所、電話交換所や水道事業といった国民政府の偉業を爆破し、青島では、一億ドルの値打ちはある日本の紡績工場や中国一といわれる日本企業の財産を破壊。ロシアのナポレオン対策の二番煎じともいえるこの作戦は、中国が日本に打撃を与えられる唯一の方法なのかもしれない。

 日本軍に「占有」された地域では、僅かばかりの武装地域に人がひしめき混乱をきわめている。例年になく今年の冬は厳しいようだ。あと一月もすれば、無数の飢えた者、凍死に瀕した者、また九死に一生を得た婦人たちの群れが日本軍が「獲得」した肥沃な地になだれこむことになろう。日本が供給するくらいの種子では、来年の食料生産はたかがしれていて、住民分はおろか、日本軍用の不足は言うに及ばず、日本製品を購入するための金銭などとても得られないだろう。この冬、住民は天然痘、しょうこう熱、発疹チフス、脳脊髄膜炎、ジフテリア、インフルエンザといった疫病に襲われるだろうし、春になれば、コレラ、腸チフス、赤痢、マラリアも待ち受けている。いま中国で増え続ける難民のことを思う時、世界大戦におけるヨーロッパ難民の数などは、冷静にみて比較にはならないといえる。



国民政府の首都、南京、地獄の一週間

 近代史上における最悪の大虐殺がおきたのは確かなようだ。公式の発表はなされていないが、十二月十日から十八日にかけ中国の首都、南京で大虐殺が行われた。専門家の忠告を聞き入れず、蒋介石総統は最強部隊を市内死守のため残留させていた。部隊には第八八モデル師団、ドイツ式訓練をうけた旅団と広西省の白宗禧将軍率いる南方部隊が含まれている。日本軍にあたうる限りの犠牲を出させ、自滅することが使命とされていた。

 ところが、城壁が破壊されると、兵士のなかには下着になって市民の服を探しまわる者もいた。「筆舌につくせない大混乱」のなかで、逃げ回る者や暗い露地で捕らえられた者は、全員射殺され、兵士であると嫌疑のかけられた者は、群れをなして処刑された。「安全区」のある建物からは、四〇〇人が縄に繋がれて連行され、射殺された。強姦事件も数件報告されている。

 ところが、驚くべき事実が二件明らかにされている。一、およそ十四万の中国兵が市街戦を戦い抜いて、西北に新しい布陣を敷いたこと。ニ、日本陸軍は兵士の組織的略奪を認めたこと。軍の補給が不足しているものと思われる。

 南京のスラム街の火災にもかかわらず、国民政府関係の建物の大部分、市外にある孫中山の陵墓には損傷が少ない模様。


(ゆう注 以下は写真のキャプションとのことです)

・南京市民―悲嘆に暮れ、瀕死の息子を運ぶ市民は、自身も日本軍の爆弾の裂片で負傷している。この写真は十二月六日、日本軍の縦隊が城壁内に押し寄せてくる直前のもの。門の内側に土嚢が積まれている。日本軍の攻囲中、およそ一五万人の市民が、南京残留の二七名の白人が非公式に組織した「安全区」で、かたずをのんでおとなしくしていた。二七名のうち一八名がアメリカ人であった。安全区に対して、日本軍はわずかばかりの配慮はしていた。

・兵士と市民―軒並みの反抗に遭遇し、憤る日本軍は、中国人を五〇人ずつグループに縛り分けて処刑した。画面上方の死体は、しばらく前から放置されている。下方には、死体にかぶさり倒れる電柱と電線。後方の日本兵は、商店から組織的に略奪した品、おもに食料を運ぶのに荷車を使用している。通常、規律の行き届いているはずの日本軍であるだけに、南京での組織的略奪は異例なこと。陸軍兵站部は威信を顧みれないほど食料の必要に迫られているらしい。

・征服者 松井石根大将は、大役を果たして日溜まりで静かに瞑想にふけっている。南京防衛軍に対し、投降しないなら互いに激闘は免れないことを警告していた。疲労の色濃い部落に小休息を与えたのち、松井は一四〇〇マイル内地に入った蒋介石追跡の準備にとりかかった。

・中国人の首 根っからの日本反抗者のこの首は、十二月十四日、南京陥落の直前、郊外の有刺鉄線バリケードにさらされた。氷結するほどの寒さのため保存がよく、南京市の方角に向けられている。十二日には日本で占領祝賀祭が行われたものの、南京では十三、十四、十五日と連続して戦火がふきあれていた。そして十六日、「南京は完璧に静寂であるとはいいきれない。もうニ、三日の猶予が必要だろう」と言わしめている。

(「南京事件資料集1 アメリカ関係資料編」P552〜P553。訳注は省略しました)


急いで写したので、写し違いがあればご容赦を。

う〜ん、元の英文には、松尾さんが掲示したような文があるのでしょうか?

  ││└「LIFE」1938年1月10日号 渡辺 2003/09/10 01:03:39  ツリーへ

Re: リンク集に追加しました 返事を書く ノートメニュー
渡辺 <oogeblxyju> 2003/09/10 01:03:39
「LIFE」1938年1月10日号

 引用記事の掲載されている頁数を、松尾氏に問えば、はっきりするんじゃないでしょうか?
 なお、同号の LIFE誌が、今、目の前にあるのですが、下記のような記事はありません。ま、こんなものがあれば、今までに誰かが指摘してるでしょうね(^^;
-----
中国軍は占領後も南京城内で一般人の服装(便衣)に着替えてゲリラ戦を続けている。そうした混乱の中で、一般市民も被害を受けたことは事実であろう。
-----

 なお、ゆうさん引用の箇所は、訳が1行抜けているようです。[ ]内は、原文にない箇所、<>内が不足している箇所です。
-----
「[ところが、]城壁が破壊されると、兵士のなかには下着になって市民の服を探しまわる者もいた。<しかし、ある者は、まる1週間、完全に包囲された市で闘った。>「筆舌につくせない大混乱」のなかで、逃げ回る者や暗い露地で捕らえられた者は、全員射殺され、...」

原文:
Some of them, when the walls were breached, stripped to their underware and ran around looking for civilian clothes. But some fought for a full week in the completely invested city. In the "indescribable confusion" Japanese shot down everyone seen running or caught in a dark allay.
["LIFE, January, 10, 1938", p.51]
-----

 ちなみに、確か4月頃の号に、南京で手榴弾を投げて抵抗する市民がいたという記事と、逃走して捕らえられるまでの連続写真、それから城壁の前で仲間5人くらい(1人は連続写真の男)が処刑される寸前の写真が掲載されています。
 記事の時期といい、連続写真ができすぎているという理由から、この記事は疑問を持っているのですが、他に比較すべき内容の資料がないので、その信憑性をまだ判断しかねています。

  ││ ├松尾氏はよくわからん 渡辺 2003/09/12 23:35:34  ツリーへ

Re: 「LIFE」1938年1月10日号 返事を書く ノートメニュー
渡辺 <oogeblxyju> 2003/09/12 23:35:34
松尾氏はよくわからん

 先ほど「電脳」掲示板を見てきましたけど、元ネタは下記の記事なんですね。

『日本恫喝の切り札に使われる「証言・南京大虐殺」を衝く 伊藤玲(評論家)全貌社刊「ゼンボウ」、昭和60(1985)』
http://www.history.gr.jp/nanking/books_zenbou_198502.html

 「原文」で示した、資料集の邦訳で脱落している" But some fought for a full week in the completely invested city." の部分の意味を取り違えているんじゃないでしょうか?ちなみに、"a full week"とは、この記事では12月10日から18日のことだと思います。
 「そうした混乱の中で、一般市民も被害を受けたことは事実であろう」は、著者のコメントなんですね。

 ま、松尾氏はライフの全頁をコピーとのことで、ご苦労さんですが、持っているだけでは宝の持ち腐れです。
 ちなみに、全頁をコピーするより、現物のほうが安く買えます。ライフは号にもよりますが、米国では US$10前後、だいたい $5〜$20 くらいで売られています。紙質や印刷が良いので、保存状態がよければ10年前の本だと言われても分からないくらいです。当時の日本の雑誌類とは雲泥の差です。

 それにしても、松尾氏はようわからん人やのう(^^;



  ││ │└こんにちは、渡辺さん。 K−K 2003/09/13 00:35:13  ツリーへ

Re: 松尾氏はよくわからん 返事を書く ノートメニュー
K−K <ecoepxmujl> 2003/09/13 00:35:13
 こんにちは、渡辺さん。

 おそらく無視するのでしょうが、一応、松尾さんに聞いてみました(笑)。

 「1月10日号の50ページ前後の所に書いてあったはず」と書いていますが、おそらく、渡辺さんの投稿を読んだのではないでしょうか?

 確かに意味不明な人ですが、根は比較的単純な人だと思います。

  ││ │ └Re:1月10日号の50ページ前後の所に書いてあ... 渡辺 2003/09/16 13:42:41  ツリーへ

Re: こんにちは、渡辺さん。 返事を書く ノートメニュー
渡辺 <oogeblxyju> 2003/09/16 13:42:41
Re:1月10日号の50ページ前後の所に書いてあったはず

これは、参りました。
どうやらコピーの件は、ハッタリみたいですね。やはり、実物か、その写しでも見なくては、話になりません。

問題の部分は「キャプション」ではなく、記事本体です。
12月6日の写真というのは、中央に死に瀕した子供(his dying son)を抱いて悲嘆にくれている市民が写っている、横長の写真のことです。4枚の写真には、それぞれ、キャプションがついています。これは、資料集にも収録されています。

いずれにしろ、資料というものは、相互の突き合わせなどの作業が必要です。新聞・雑誌は、その情報源が不明であったり、編集者が手を加えている場合もありますから、特に突出した内容の記事を発見した場合は、慎重に扱わなければいけませんね。

>確かに意味不明な人ですが、根は比較的単純な人だと思います。

うーん、ノーコメント(^^;

  ││ └ライフ4月号記事の連続写真の出所について タラリ 2003/09/16 23:06:59  (修正1回) ツリーへ

Re: 「LIFE」1938年1月10日号 返事を書く ノートメニュー
タラリ <vgezpxzsqe> 2003/09/16 23:06:59 ** この記事は1回修正されてます
ライフ4月号記事の連続写真の出所について
渡辺さんへ

> ちなみに、確か4月頃の号に、南京で手榴弾を投げて抵抗する市民がいたという記
>事と、逃走して捕らえられるまでの連続写真、それから城壁の前で仲間5人くらい
>(1人は連続写真の男)が処刑される寸前の写真が掲載されています。
> 記事の時期といい、連続写真ができすぎているという理由から、この記事は疑問を
>持っているのですが、他に比較すべき内容の資料がないので、その信憑性をまだ判断
>しかねています。

連続写真撮影の経過については「従軍カメラマンの戦争」新潮社、平成5年刊 写真 
小柳次一 文・構成 石川保昌 pp142-144

の中にこの連続写真の出所に違いないと思われる記載があります。
この本には日本の報道写真の草分けになった名取洋之助が小柳次一氏らを手足として
写真通信社プレス・ユニオン・フォト・サービスを立ち上げ、欧米の報道に対抗して
日本軍が残虐な行為はやっていないという写真を撮影して海外に配信していった事情
が書かれています。

−−−−−引用開始−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 写真配信のポイントは、日本軍の前線のニュース写真の中に、日本軍が蒋介石政府がしきりに宣伝しているように残虐な軍隊ではないことを示す写真わ組み込んでいくことであった。これは、現代の大企業が日常的に行っているパブリシティ活動と似た広報的な情報宣伝活動を考えれば理解しやすい。具体的には、
「南京で撮影したんだったか、漢口だかはっきりしないんですが、名取さんと手分けして中国兵捕虜の軍事裁判を撮影しましてね。便衣隊でした。裁判風景から処刑まで細かく撮影しまして。本当に破壊活動をしていたから有罪になったんだという取材(*2)をしました」
 小柳の記憶では、日本軍が裁判をしないで中国人捕虜を処刑しているという非難記事が多かったので、日本軍も正式な裁判をやっているということを知らせる組写真を撮影したという。
−−−−−引用終了−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

注*2の部分
−−−−−引用開始−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

『LIFE』(一九三八年四月四日号)に、「一中国人個人主義者の死−ジャパニーズ南京のありふれた朝」と題して、手榴弾を投げた中国人便衣隊が日本兵に逮捕され、処刑されるまでの五枚組写真(処刑シーンは実写・逮捕格闘シーンは再現撮影)が名取洋之助の配信ニュースとして掲載されている。小柳の回想にある裁判や処刑の撮影は、この取材を指すのではないかと思われる。しかし、名取の思惑とは逆に、軍事裁判のカットなどは掲載されなかったために、日本軍による中国人の処刑が日常茶飯事であるという印象を与える構成で掲載されている。

−−−−−引用終了−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


注記 2003/09/16 23:06:59 「連続写真撮影の経過について」に対して引用文が長すぎ
る点を考慮し、修正しました。

  ││  ├Re:連続写真撮影の経過について#1 渡辺 2003/09/19 18:12:06  ツリーへ

Re: ライフ4月号記事の連続写真の出所について 返事を書く ノートメニュー
渡辺 <oogeblxyju> 2003/09/19 18:12:06
Re:連続写真撮影の経過について #1

タラリさん、ありがとうございました。

「従軍カメラマンの戦争」新潮社は、一部を見た記憶があるのですが、問題の箇所には気がつきませんでした。
4月4日の LIFE の記事には、確かに「ナトリ」という名前がありました。
内容については、後程、実物を確認してから投稿いたします。

最初に、この本について知ったときは、あまり興味がなかったのですが、日本のプロパガンダ写真(こういう名称は好きではないが)について、なかなか面白いことが書いてあります。
名取氏は LIFE の依頼で上海に来てから、特務機関と関係ができるのですね、なるほど。(p.107-)
この本で、興味深い箇所といえば、当初は問題とされなかった南京入場式の写真で、後の出版物からは、松井石根以外の主だった司令官クラスの将官の顔が消されているという箇所です。(p.110-)
確かに、漠然と、松井石根一人が、なぜか強調されているな、という印象は私も持っていました。
筆者の「推理」では、皇族将官に問題が波及しないようにするためではないかということですが、これは、確認してみる価値がありそうです。

  ││  ├Re:連続写真撮影の経過について#2 渡辺 2003/09/23 23:20:08  ツリーへ

Re: ライフ4月号記事の連続写真の出所について 返事を書く ノートメニュー
渡辺 <oogeblxyju> 2003/09/23 23:20:08
Re:連続写真撮影の経過について #2

『ライフ』1938年4月4日号の記事のスキャンと、文字をOCRで読み取ったものを転載いたします。
前の投稿で、確かに「ナトリ」の名があったと書きましたが、この記事ではありませんでした。時間を見て探してみます。

該当の頁は、下記 url に、2つに分けてアップしました。
144dpiでスキャンしましたので、かなり大き目の容量になりました。14インチ画面では、実物の2倍くらいに見えます。

連続写真を見れば、なぜ私が、この写真に疑いをもったかは分かっていただけるでしょう。
『従軍カメラマンの戦争』によれば、最後の「処刑」の写真だけが、本物とのことです。

上(318K):
http://hist1937.hp.infoseek.co.jp/life/Life4-1.jpg

下(321K):
http://hist1937.hp.infoseek.co.jp/life/Life4-2.jpg

LIFE, April 4, 1938
p.33

記事:
DEATH FOR A CHINESE INDIVIDUALIST
A routine morning in Japanese Nanking

Nanking, former capital of China's Ming Emperors and recent capital of Chiang
Kai-shek, has been under Japanese control since Dec. 14. On March 22 it was
announced that a Japanese puppet state would be set up in Nanking headed by
complacent Liao Feng-hsi, friend of a friend of the sainted Dr. Sun Yat-sen.
This does not mean that peace has come to the old city. Spurred by the success
of battered Chinese armies in the north in keeping Japanese armies beyond the
Yellow River for five weeks, Chinese guerrillas in this and other Japanese-con-
trolled cities intensified their ceaseless sniping at their stumpy little conquerors.
Early morning when very few civilians are likely to be hurt is the favorite time
to throw a grenade or fire a hidden pistol. Nearly every day in all the Chinese
cities occupied by Japanese troops, the scenes on this page are being re-enact-
ed, but Chinese peasants for whom life must always be hard, face death easily.

写真説明(上から):
A CHINESE PATRIOT THROWS A GRENADE AND SCUTTLES FOR HIS LIFE

NABBED BEFORE HE REACHES THE CORNER, HE IS HUSTLED OUT INTO THE SUN

HE IS FLUNG ON HIS FACE IN THE DUST AND QUICKLY SEARCHED FOR WEAPONS

(右):
A KICK ON THE SHINS KEEPS HIM QUIET, THE SENTRY HAS FOUND ANOTHER GRENADE

(一番下):
WITH SIX OF HIS COMPATRIOTS, THIS CHINESE. (SECOND FROM LEFT) WAITS FOR DEATH UNDER THE ANCIENT BRICK WALL OF NANKING. THE CITY IS NOT YET FULLY AWAKE

  ││  └「従軍カメラマンの戦争」の元著者です。 石川保昌 2004/04/03 10:17:00  ツリーへ

Re: ライフ4月号記事の連続写真の出所について 返事を書く ノートメニュー
石川保昌 <jptergnbwp> 2004/04/03 10:17:00
「従軍カメラマンの戦争」の元著者です。
責任所在が不明なハンドルネームでやりとりされる論述への、筆者の著作物からの引用転載は、部分引用も含めて、どのような思想に立つものであれ、印刷・インターネット上媒体も含めて認めておりません。
私の本からの引用部分の掲載削除を要求します。
正直申し上げて、右からも左からも自分たちの都合のよい部分だけ使われるのに迷惑しております。
インターネット上であれ、歴史認識について論議する以上は、実名で発表されるべきだと「古いオジさん」は考えています。
あなた方が現代史について深い興味をお持ちなのはわかりますが、存在した事実について発言するのに、なぜ匿名で行うのですか。
反論されたり、中傷されたり、攻撃されるのが怖ければ、反論のしようのないところまで事実を検証すればいい。責任を持つということはそういうことではないでしょうか。自分の発言に責任を持つということ、しかもそれを継続できなければいけない。実名で発言するということはそういうことです。
申し訳ないですが、そういうわけで、私の著作物からの引用転載はお断りする次第です。石川保昌。



  ││   └こちらに、返信をいたしました。 渡辺 2004/04/13 01:51:54  ツリーへ

Re: 「従軍カメラマンの戦争」の元著者です。 返事を書く ノートメニュー
渡辺 <oogeblxyju> 2004/04/13 01:51:54
こちらに、返信をいたしました。
http://t-t-japan.com/bbs/article/t/tohoho/8/rfqqrf/epaqrf.html#epaqrf

  │├ホームページに追加 タラリ 2003/09/19 00:23:34  ツリーへ

Re: ついに自前のホームページ! 返事を書く ノートメニュー
タラリ <vgezpxzsqe> 2003/09/19 00:23:34
ホームページに追加
以前とほほ板にに追加した論考も順次アップしていきます。
すべて、現在の時点で自分が納得いくよう手を入れています。
今回のは、これ。

「北村稔批判−『探求』序論に示された枠組みの問題点」
かなり書き換えています。
     
「阿羅雑文を批判する」
松岡さんたちの反批判も入れています。                           

  ││└下関を「げかん」と読むことについて 渡辺 2003/09/19 01:07:05  ツリーへ

Re: ホームページに追加 返事を書く ノートメニュー
渡辺 <oogeblxyju> 2003/09/19 01:07:05
下関を「げかん」と読むことについて

タラリさんの下記のページについて、
http://www.nextftp.com/tarari/arazatsubun.htm
----
24】久米宏キャスターが下関を「げかん」、「げかん」と言った。

ニュース報道では中国の地名は中国語音がよく知られているものの他は原則、日本語音読みである。黒竜江は「こくりゅうこう」であり、南京は「ナンキン」である。これらは慣習であり、規則ではない。
-----

実際に番組を見ていないので、どういう状況かは分かりませんが、当時「シャァカン」と呼ばれた、という一言があれば、よかったんではないでしょうか。

しかし、戦前の絵葉書で下関を「Gekan」としているのが、あるんですが、阿羅氏はご存知ないと思います。

松尾氏のHPにある「Gekan Pier」の絵葉書:
http://www.history.gr.jp/nanking/siakan.html
(この写真が、なぜ昭和13年撮影といえるのかは、書かれていない。)

  │└HTMLエディターについて。 タラリ 2003/09/25 21:40:57  ツリーへ

Re: ついに自前のホームページ! 返事を書く ノートメニュー
タラリ <vgezpxzsqe> 2003/09/25 21:40:57
HTMLエディターについて。

FrontPage Expressを使っていたが、OSがWindowsXPに変わって、これが使えなくなり、一時はかなり困ってしまった。

FrontPage2003にしようかと思ったが、Microsoftは馬鹿高い。いろいろ機能が多すぎてかえって使いにくいという評価も聞いた。

しかし、バソコン本体、周辺機器にオマケでついてくるWYSIWYG系エディターを持っていたので使ってみた。(WYSIWYGとはマウス操作とキータッチでページを作りながら、即出来上がり画面を見ることのできるエディターです)

1.PageMillは基本的な操作は揃っている。テーブルの作成が容易。画面はブラウザのものとかなり違う。

2.ThinkFreeWriteも基本的操作は揃っている。立ち上げにやや時間を食う。テーブルはボーダーの色は真っ黒に表示される。

3.IBMhomepageBuilder これはもらった市販ソフト。何でも出来て、何でも揃っている。しかし、動作が遅く、お節介なコードも作ってしまうのが好きになれない。女子ども向け。

そこで、無料ソフトをダウンロード。WYSIWYGではページマスター、タグエディターでは「へむてるクリエーター」をゲット。

4.へむてるクリエーター:何より早いのがいい。入力補助機能も豊富、強力である。しかし、タグの機能を覚えているかというとそうではないので、やはりファイルをいちいち保存してはIEのブラウザで見なければならない。ただし、タグの機能、文法を覚えるとWYSIWYGエディターの使い方も向上するように思う。

5.ページマスター:立ち上がりも早く、画面にも素早く反映される。画面表示はPageMill、ThinkFreeWriteよりブラウザに近い。FrontPageExpressよりかなり強力だし、使い勝手もいい。ただ、XPには本来対応してなく、よくruntimeエラーが出る。放置していいときもあるが、ときどきfreezeして強制終了せざるをえず、それまで書いたファイルがパーになってしまうことがある。そこでときどき保存しながら書き進めている。

現在、あれを使ったり、これを使ったりしながら書いている。
私が心がけるのはひたすら目に優しく、読みやすいこと。文章の論理構成に応じたレイアウトにすること。いろいろ使ってみて、FrontPageExpressだけのときよりは一歩前進した感じがする。

終わりになりましたが、ゆうさん、K−Kさん、リンクしていただきありがとうございました。いずれ、私もリンク集を作りますのでよろしく。

  ■3■軍命令に反する捕虜開放について(そ... タラリ 2003/09/09 20:56:43  ツリーへ

Re: ■幕府山事件について−これからの構想 返事を書く ノートメニュー
タラリ <vgezpxzsqe> 2003/09/09 20:56:43
■3■ 軍命令に反する捕虜開放について(その1)

A.支隊の意志は何であったのか。

捕虜解放の企図は支隊中枢、「師団」、「軍」の意志に関わることであり、他の事件と異なり『兵士たちの日記』などからは読みとれる性質のものではない。そこで資料となるのは山田、両角の日記、両角ノート、軍司令部のものの日記だけである。ただし、両角ノートが虚偽の記載に満ちているのは、先に明らかにした。それだけでなく、両角の日誌なるものも、戦後になってまとめられたと言う。すなわち、戦後になって日記がまとめられ、それを元にさらに回想ノートが書かれたという不思議な経緯がある。したがって、両角日記もまた、濃厚に両角の意図を忍ばせたものと言えるだろう。


★両角ノートより
 十二月十七日は松井大将、鳩彦王各将軍の南京入場式である。万一の失態があってはいけないとういうわけで、軍からは「俘虜のものどもを”処置”するよう」・・・山田少将に頻繁に督促がくる。山田少将は頑としてハネつけ、軍に収容するように逆襲していた。私もまた、丸腰のものを何もそれほどまでにしなくともよいと、大いに山田少将を力づける。処置などまっぴらご免である。
 しかし、軍は強引にも命令をもって、その実施をせまったのである。ここに於いて山田少将、涙を飲んで私の隊に因果 を含めたのである。
 しかし私にはどうしてもできない。
 いろいろ考えたあげく「こんなことは実行部隊のやり方ひとつでいかようにもなることだ、ひとつに私の胸三寸で決まることだ。よしと期して」−田山大隊長を招き、ひそかに次の指示を与えた。

★『両角日記』

昭和十二年 十二月
十二日 午後五時半、蚕糸学校出発。午後九時、倉頭鎮着、同地宿営。
十三日(晴)午前八時半出発。午後六時、午村到着、同地宿。敗残兵多し。 南京に各師団入城。T大隊烏龍山砲台占領。
十四日 午前一時、第五中隊及聯隊機関銃一小隊幕府山に先遣。本隊は午前五時、露営地出発。午前八時頃、第五中隊は幕府山占領。本隊は午前十時、上元門附近に集結を了る。午前十一時頃、幕府山上に万歳起る。山下より本隊之に答へて万歳を送る。
(以下原文は横書き)
十五日 俘虜整理及附近掃蕩。
十六日 同上。南京入城準備。
十七日 南京入城参加。1は俘虜の開放準備、同夜開放。
十八日 俘虜脱逸の現場視察、竝に遺体埋葬。
十九日 次期宿営地への出発準備。
二十日 晴 九時半出発下関を経て浦口に渡河。

両角日記の不審な点は、
(1)十二日が山田支隊の結成、南京攻略への参加という重大な節目に立った日であるのになんらそれを記していない。
(2)莫大な捕虜を獲得したことは連隊にとっても特記すべきことであるはずなのに、一切記載がない。
(3)十六日の捕虜(開放)殺害を書いていない。
(4)十七日は開放に失敗したはずなのに、同夜開放としか書いていない。
(5)十九日にも捕虜の死体処理を行ったのにそれを書いていない。
ことである。もっとも、(3)、(5)は『兵士たちの日記』などによって明らかになったことであるから、山田日記との矛盾にとどめれば(1)、(2)、(4)がおかしい。
さて、山田日記を読み解きながら、両角ノート、日記との相違を明らかにしていくが、山田日記にも三つの違ったバージョンがあるのである。偕行社による『南京戦史資料集2』版、鈴木明の『南京虐殺のまぼろし』版、阿部輝郎による『南京の氷雨』版である。幕府山事件においては常に根本資料の改竄に注意しながら、資料を読まねばならないのである。山田日記の真贋はたちどころに明らかになる。

全体に南京戦史版が文章の格調が高く、具体性があり、イメージも鮮烈である。山田氏個人の感慨もよくわかる。まぼろし版や氷雨版から他のものが創作して追加しようとしても絶対できない文章がある。どれがどの版かを隠して出してもどれが本物かはピタリと当てられる。鈴木、阿部の改竄は明らかである。

ここからが本番である。

◇十二月十五日 晴

★『南京戦史資料集2』
捕虜の仕末其他にて本間騎兵少尉を南京に派遣し連絡す
皆殺せとのことなり
各隊食糧なく困却す
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

「皆殺せとのことなり」から「各隊食糧なく困却せり」へのつながりが悪い。書いてはいけない文章を省略して書いたのでこのような謎めいたつながりになるのである。

eichelberger_1999さんの解釈にしたがえば、中島第十六師団長が捕虜の引き取りを断って、殺してしまえばいいんだ、と取り合わなかった。そこで、捕虜の給養をさらに続けなくてはならなくなり、食糧の問題が重くのしかかってきた、ということになる。

−中島師団長は捕虜引き取りを拒否し、みな殺せとのことなり。さらに給養を続けざるを得ざるも、各部隊食糧なく困却す− とでも書けばつながりはよくなる。

つまり、この苦悩は山田が少なくともこの時点までは、捕虜の引き取りを要求・期待していたことを示す。

★鈴木明の『南京虐殺のまぼろし』(P194)によれば
この日、軍司令部の方から「捕虜がどうなっているか?」と憲兵将校が見廻りに来た。山田少将(当時)は自分で案内して、捕虜の大群を見せた。「君、これが殺せるか」と山田少将はいった。憲兵将校はしばらく考えて「私も神に仕える身です。命令はお伝えできません」と帰っていった。

という。鈴木明の聞き取りの中で唯一、引用文がきちんと連続している部分である。山田も憲兵将校もたまたまキリスト教徒だったらしい。内容も真実性が感じられる。ただし、最後の「命令はお伝えできません」は不審に思う。軍司令部が殺せと命令して、はじめて「君、これが殺せるか」という言葉が出るはずである。「命令はお伝えできません」の言葉はウソである。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
◇十二月十六日 晴

★『南京戦史資料集2』
相田中佐を軍に派遣し、捕虜の仕末其他にて打合はせをなさしむ、捕虜の監視、誠に田山大隊大役なり、砲台の兵器は別 とし小銃五千重機軽機其他多数を得たり

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

軍(上海派遣軍)司令部に派遣したが、打ち合わせの結果を書いていない。ここにも書いてはいけない文章が隠されているのである。それが何かは追って明らかにしよう。
ここでは、「捕虜の監視、誠に田山大隊大役なり、」という一文に注目したい。実に微妙な表現で、一読して裏に何かあるのに気づかれる。捕虜の監視といった、戦闘を離れた任務を大役などと持ち上げるわけはない。実際、収容所Aの捕虜監視は十七日まで第V大隊の役割であった。これは、田山大隊長を捕虜殺害実行の総指揮者に任じたということを山田本人だけがわかるように記載したのである。

捕虜の始末其の他を打ち合わせた結果、なぜ、どのようにして、捕虜殺害の実行を命じるに至ったのか。

  ■3■(その2)軍命令に反する捕虜開放に... タラリ 2003/09/12 12:58:21  ツリーへ

Re: ■幕府山事件について−これからの構想 返事を書く ノートメニュー
タラリ <vgezpxzsqe> 2003/09/12 12:58:21
■3■(その2)軍命令に反する捕虜開放について

B.誰が虐殺命令を出したのか。

私がeichelberger_1999さんの所論を読んだのは私がネット上における南京大虐殺に興味を持ち始めて間もない2002年10月頃のことであった。その当時私は幕府山事件のアウトラインも知らず、ネット上の議論を読んでも、研究本を読んでも何が争点なのかさっぱりわからなかった。eichelberger_1999さんの所論を読んだとき、私が知りもしない資料の裏表を詳しく研究し、研究者が及ばないようなことも明らかにするひとがいると驚倒したものであった。

しかし、今となってはeichelberger_1999さんの所論の最後の部分は私にとって納得できないものとなっている。

★eichelberger_1999さん
−つまり、派遣軍司令部の方針は、16師団に接収→捕虜の殺害→上海へ後送と三転したのだ考えれば、うまく説明できるのではないでしょうか−

派遣軍司令部の方針転換は飯沼守日記などの資料からは読みとれない。事実としては山田支隊の方針転換だけが「捕虜の始末其の他の打ち合わせ」の後唐突に出現したという形なのである。軍司令部の方針転換を示す具体的な資料が存在しない以上、これらの事実から歴史を構築するのが筋である。

結論を最初に提示しておこう。捕虜殺害は両角連隊長の発案であり、両角が山田の背中を押してさせたものであった。


C.打ち合わせの内容はなんだったのか

十六日に軍司令部に「捕虜の始末其の他について打ち合わせ」をしたとき、支隊側はどういう申し立てをしたであろうか。それまでの支隊の方針は捕虜は「生かすも殺すも大変なり」であるから、引き取ってもらうのは歓迎であった。軍司令部は十六師団への預かり、後送が方針であって、両者の間に対立はなかった。したがって、支隊側の申し立ては次のようなものであったはずである。

−十六師団に引き取ってもらえということだったが、十六師団は捕虜の引き取りを拒否した。引き取り先をはっきりさせてほしい−

これは内容的には「十六師団に引き取りをきつく言ってほしい」ということをも含む要請であった。

しかし、十六師団師団長、中島今朝吾の言いようを相田中佐から聞くにおよび、軍司令部ただちに窮した。本来であれば麾下の師団が命令に服しなければ、これを叱責し督促するのが筋である。ところが、軍司令部には師団長を命令に服させる自信がまったくなかった。

このとき、軍司令部には松井司令官は到着しておらず、配下の参謀たちがしきっていたのだが、松井司令官でさえ、中島師団長を統率できなかった証拠がある。後日の話でなるが、中島今朝吾が占領した宿舎の家具を私物化して日本に送るのを松井が非難した。ところが、そのぐらいのことでぐずぐず言うなと言い返し、松井はそれに対して何も言えなかったという。総司令官である松井石根大将に対してでさえ、こうであったから、飯沼守などの支那派遣軍の幕僚が捕虜を後送するから、それまで面倒を見よ、というような「ふやけた命令」など歯牙にもかけなかったのは明らかであろう。

軍司令部の参謀たちは再度、中島に命令してそれが通らなかったとすれば司令部としての沽券に関わると考えたに違いない。軍司令部は師団に督促するどころか、逆に山田支隊に対して重ねて「何を言う。すでに十六師団に対しても命令は出している。山田支隊は命令通り十六師団に引き取りをしてもらえ」と突っぱねたと思われる。

困ったのが、山田支隊である。軍司令部からは捕虜の引き渡しを命令されたが、何度行っても中島が引き取るわけはないのはわかっている。また、同時に十九日までに渡河して対岸の本隊である十三師団に合流するよう命令が下っている。このようなときに日本軍ではどのような思考態度、行動パターンをとるであろうか。

D.軍隊の命令の建前と兵士の行動パターン

無理な命令が出た場合でも日本軍の中では必ず、実行しなければならなかった。たとえば敵の陣地を占拠せよと命令された場合、無理とわかっていても突撃しなければならず、死をもって命令を遂行しようとしたことを示さねばならなかった。攻撃命令の場合は実行困難でも対処の仕方ははっきりしていた。

内務班において隊の装備、備品をなくした場合はどう対処したか。装備、備品はこれ、すべて天皇陛下のものであるから絶対になくしてはいけない。このときはしょうがないから他の隊のをとってきて、員数あわせをする。もちろん盗みは軍隊内でも犯罪であり、ばれれば当の本人が処罰を受けるのみならず、その上官の昇進に影響する。しかし、ばれなければよいのだから、この場合の盗みはむしろ内々に奨励されているといっていい。すなわち、装備・備品の充足は戦闘を遂行するための保証であり、軍隊内の秩序は建前であるから、建前は戦闘のために常に犠牲とされていたわけである。

もうひとつ例え話を引こう。
上海からの追撃戦の中である中隊長が自分の食事があまりに豪華なのに驚いて、当番兵にこれは違法に徴発をしているに違いない、適正にやれと命令した。そこで当番兵は徴発を控えて兵士同様の簡素な食事を出したところ、中隊長は飯がまずいから当番兵はもっと努力するようにと言った。そこで当番兵は元のように徴発を行ったが、食事の質はほどほどのものにしたので何もいわれなかった。すなわち、建前の命令はきいている振りだけして、それを無視し、実質的な命令である「うまいものを食わせろ」を実行すればよいのである。

E.両角業作大佐の謀議

さて、山田支隊においては捕虜を引き渡す(つまり、殺してはならない)という建前の命令と、作戦に関する実質的な命令である渡河をどう調和させたのか。

渡河に捕虜は連れて行くわけにはいかない。捕虜は勝手に逃がすのは、渡河が遅れることとは較べものにならない重大な軍規違反であるから、逃がすわけにもいかなかった。そこで両角連隊長が発案したのが、捕虜の集団脱走が起こったのでこれを射殺したという筋書きであった。両角大佐が回想ノートにおいても山田支隊長にも無断で実行したと書くことは、この発案が両角のものであったことを示している。

ただし、両角が山田に無断で実行したというのは明らかにウソである。殺害には両角連隊長の第六五歩兵連隊だけでなく、山砲兵連隊が関与している以上山田の指揮によることは明らかである。山田自身「誠に田山大隊長、大役である」などと虐殺の護送責任者をたたえているのである。しかし、彼の謀略による得失を説き、渋る山田を説き伏せ、捕虜虐殺を決意させたのは両角に他ならない。両角が軍隊内の地位とは別に山田より上に立っていたことは『両角証言の検証』の中ですでに述べた。

捕虜の殺害という形でとにかく支隊は捕虜から自由になれる、渡河できるようになる。ただし、捕虜の大多数を殺害したのでは捕虜の殺害を禁止した軍司令部の意向に反することになる。そこで、捕虜の大多数は「申し訳ないことだが」「集団脱走されてしまった」という形を装えばよい。これが両角大佐の腹づもりであった。ただし、大量の死体が残ってしまえば逃げられてしまったというのがウソになってしまう。そこで死体の処理だけは厳重にする必要があった。

これはすべて支隊、師団、軍司令部の思考・行動パターンからの推定にすぎない。実際にそれを示す文献資料というのはない。あるのは、両角回想ノートと言われる明らかな虚偽書証があるだけで、ウソとわかる部分はあるが、その部分の真実は必ずしもわかるわけではない。したがって、この推定を支持する別の根拠が必要である。それが、虐殺後の死体処理である。

F.死体を焼き、揚子江に投棄したのはなぜか。
殺害当日にはただちに捕虜の山に油をかけて火を放ち、動き出す捕虜を銃剣刺突によって殺した。これはどこの部隊でも行われたやり方であった。また、翌日は捕虜の死体の揚子江への投棄が始まった。

揚子江への死体投棄も他の部隊で盛んに行われた死体処理方法であった。捕虜をクリークや池の近くに追い込んで銃殺したり、壕を掘らせてその近くで殺害することもあった。しかし、道路沿いや城壁の近くで殺しただけで死体が折り重なっている場合もあった。その場合の死体処理は中国人に任された。すなわち、死体処理は日本軍の統一した方針ではなく、近くに適当な場所があればそれに近いことをしたが、なければ放置された。

山田支隊においては揚子江への死体投棄を意識して殺害場所としてはいずれも揚子江岸が選ばれた。魚雷営での死体投棄では一日目は流れたが、二日目には流れなかったので、翌日も岸に堆積する死体の上を渡りながら投棄が続けられた。大湾子でも投棄が始まったが、冬期の揚子江は流れが緩慢であり、岸辺に沿って大量の死体が堆積し、投棄が困難となった。

ここで山田支隊は死体の焼却という措置をとった。生き残りを判別するために油をかけて焼くのとは別にさらに焼却することは他の部隊ではおそらく例がない。ずっと後になって、死体の腐敗が進むのを嫌って、焼却する例はあったかも知れないが、殺害後早々に焼却されるということはなかった。

なぜ、山田支隊だけが虐殺死体を早々に投棄し、焼却したのか。よく考えるとこれは相当に不思議な行動である。この死体処理のために、部隊は十九日の渡河予定をわさわざ二十日に延期せざるをえなかったのである。

★山田日記
十二月十八日 捕虜の仕末にて隊は精一杯なり、江岸に之を視察す
十二月十九日 捕虜仕末の為出発延期、午前総出にて努力せしむ

もし、軍司令部からの殺害命令があったとすれば、渡河予定が迫っている以上、死体処理を予定していたとしても、困難になった時点で中止してなんらはばかることはなかったはずである。ところが、死体をすべて流しえないとわかると、これを焼却した上で投棄するという方針をとったため十九日の「午前総出にて努力せしむ」という状況になった。

なぜなのか。軍司令部の命令は捕虜の引き渡し、後送であるから、これは殺してはならない、ということを意味する。捕虜が逃亡しようとしてこれを阻止するために発砲したが、多くの捕虜に逃げられたというストーリーを完結させるには、大量の死体が残ってはいけないのである。このため、死体の投棄を始めたが、投棄した死体が河岸を埋めるという事態になった以上、どこの誰が殺されたかわからないようにする必要があったのである。軍服を焼き、顔面を焼いて何ものかを不明にする必要があったのである。

山田らがそこまで死体の焼却にこだわったのは捕虜の後送が軍司令部の一貫した方針であり、捕虜の殺害は命令違反であるから、殺害の露見は絶対避けねばならぬと覚悟していたことを示している。

  タラリさんのホームページ開設おめでとうご... 戦史おたく 2003/10/01 22:39:39  ツリーへ

Re: ■幕府山事件について−これからの構想 返事を書く ノートメニュー
戦史おたく <krdmutcwqm> 2003/10/01 22:39:39
タラリさんのホームページ開設おめでとうございます。
ささやかな疑問を書かせていただきます。
「両角業作回想ノートの検証」の(5)の二個大隊分の機関銃の件ですが、あなたはどういう資料にもとずいて二個大隊分の機関銃と言えば重機関銃で16または32挺と書いたか分かりませんが、この数字が間違いであると思います。たしかに16師団など常設師団(甲)は一個大隊で8挺の重機関銃を装備していますが、歩兵65連隊は13師団の所属であります。
13師団というのは昭和12年度の動員計画令によって編成された特設師団(乙)であることを忘れないで下さい。
私の手元にある新人物往来社から1996年に発行された「別冊歴史読本永久保存版太平洋戦争師団戦史」という本に日中戦争に動員された特設師団の編成図が載っております。
それによりますと歩兵一個大隊の機関銃中隊は4挺で編成されております。その代わり連隊機関銃隊という常設師団には無い部隊が一個連隊に一隊ありまして8挺の機関銃を装備していたそうです。
つまり、二個大隊分の機関銃とは8挺のことであろうと思います。
この数字は田山大隊長や箭内准尉の8挺とも一致しています。
ですから(5)はもう一度資料を当り直したほうが宜しいかと思います。蛇足ながら二個大隊分の機関銃を配属する。という文には軽機の数は入らないと考えます。
以上余計な事を書かせていただきました。

   └戦史おたくさま、サンキュウ、ベリベリマッ... タラリ 2003/10/01 23:44:11  ツリーへ

Re: タラリさんのホームページ開設おめでとうご... 返事を書く ノートメニュー
タラリ <vgezpxzsqe> 2003/10/01 23:44:11
戦史おたくさま、サンキュウ、ベリベリマッチです。

>タラリさんのホームページ開設おめでとうございます。

ありがとうございます。

>ささやかな疑問を書かせていただきます。
>「両角業作回想ノートの検証」の(5)の二個大隊分の機関銃の件ですが、
>あなたはどういう資料にもとずいて二個大隊分の機関銃と言えば重機関銃で
>16または32挺と書いたか分かりませんが、この数字が間違いであると思
>います。たしかに16師団など常設師団(甲)は一個大隊で8挺の重機関銃
>を装備していますが、歩兵65連隊は13師団の所属であります。
>13師団というのは昭和12年度の動員計画令によって編成された特設師団
>(乙)であることを忘れないで下さい。
>私の手元にある新人物往来社から1996年に発行された「別冊歴史読本永
>久保存版太平洋戦争師団戦史」という本に日中戦争に動員された特設師団の
>編成図が載っております。

大隊の機関銃数は「南京戦史」を参考にして書いたのですが、特設師団と他の師団の区別は存じませんでした。もうひとりの「戦史おたく」であるja2047さんがレスをくださり、一応解決したつもりでした。( この板の3ページ 「両角業作手記の検証」とそのレスをごらんください )

しかし、その後、証言を見てみますとおっしやる通りで、確かにどの証言でも機関銃の数は魚雷営では4挺、大湾子では8挺と書いてあります。

そこで、機関銃一挺の殺傷能力を調べて見ますと、16挺、32挺というと非常に大きいということがわかってきました。予定論考の最後で機関銃の数と能力についての検証を書く予定でしたが、大変助かりました。貴重なご教示ありがとうございました。

    └この板の3ページ「両角業作手記の検証」と... とほほ 2003/10/02 13:37:52  ツリーへ

Re: 戦史おたくさま、サンキュウ、ベリベリマッ... 返事を書く ノートメニュー
とほほ <yclfglvbxs> 2003/10/02 13:37:52
> この板の3ページ 「両角業作手記の検証」とそのレスをごらんください

4ページになりますね(^.^)
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