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  シンベァ氏の新発見文書 タラリ 2003/09/12 18:39:27 
  Re:シンベァ氏の新発見文書 渡辺 2003/09/13 01:04:03  (修正2回)
   └ヴォートリンの記事	 ゆう 2003/09/13 07:05:28 
    └Re:ヴォートリンの記事 渡辺 2003/09/13 18:32:08  (修正4回)

  シンベァ氏の新発見文書 タラリ 2003/09/12 18:39:27  ツリーへ

シンベァ氏の新発見文書 返事を書く ノートメニュー
タラリ <vgezpxzsqe> 2003/09/12 18:39:27
『ドイツ外交官の見た南京事件』に名前の見える、デンマーク人シンベァのレポートが見つかったと言う記事を目にしました。

情報元は (China Daily June 10, 2003) 、http://www.china.org.cn/english/China/66626.htmです。

江南セメント工場(Jiangnan Cement Factory)のBernhard Alp Sindbergとありますから、同書にシンベァと書かれた人物と見て間違いないでしょう。中国人とデンマーク人が数年間デンマークの図書館で探して見つかったものだといいます。

いったい、どんな内容なのか、新しい発見がどのくらいあるのか、興味津々、一面不安です。というのは中国のマスコミですから、南京大虐殺のことならつまらないことでも記事にすることがあるのを知っているので。

情報元にはmailで問い合わせをしましたが、渡辺さんあたりはすでに情報をお持ちではないでしょうか。

ところで、南京に滞在した人物で事件について書き残したものはまだいくつもあるのではないでしょうか。

 また、南京事件に関するドイツの外交文書は発見され、資料公開され、貴重な証拠になりましたが、アメリカ、イギリス大使館などの事件に関する文書はまだ、公開されたという話を聞いたことがありません。イギリス大使館は南京に復帰後、下関の桟橋で行われていた便意兵容疑の中国人殺害に抗議していたくらいですから、本国にもレポートを送っていることでしょうが。

  Re:シンベァ氏の新発見文書 渡辺 2003/09/13 01:04:03  (修正2回) ツリーへ

Re: シンベァ氏の新発見文書 返事を書く ノートメニュー
渡辺 <oogeblxyju> 2003/09/13 01:04:03 ** この記事は2回修正されてます
Re:シンベァ氏の新発見文書

 タラリさんの投稿で、初めて知りました。
 大変、期待をしています。
 Alp ではなく、Arp ですね。邦訳ではシンドバーグという名前になっているんじゃないでしょうか。
 この人は、独語「ラーベの日記」の索引によれば、8ヵ所言及されています。(例えば、1938年2月3日の条)ということで、期待しています。

>ところで、南京に滞在した人物で事件について書き残したものはまだいくつもあるのではないでしょうか。

 実は、私も以前から、同じ疑問を持っていたんですね。
 相当な事件ですから、公文書だけでなく、個人の文書にも何か書かれているのではないかと思っています。

 中国で日中戦争にであった婦人宣教師の体験談を集めた文集が、英国で1938年に刊行されています。ヴォートリンが Nanking という記事を書いていますが、事件についてはほとんど書いていません。南京陥落前に中国人のキリスト教徒が日中両国兵士のために祈り、大戦中に自国の勝利を祈願した米国と違ったこと、陥落後に日本軍兵士に聖書を渡そうとしたが成功しなかったこと、南京で病気になったキリスト教徒の日本軍兵士が、祖父が知り合いだった中国人の世話になり、感謝の手紙を送ったことなどが書かれています。後に自殺したとは思えない、和解をテーマとした内容ですが、あるいは、肯定的な面に心を向けようとする努力だったのかも知れません。

 英国領事館の Prideaux-Brune は、「ラーベの日記」の主要な部分を南京から持ち出した人ですが、この人も何か残しているのではないかと期待しています。(当然、Timperleyの知り合いです。)
 従来の資料収集は、1938年3月頃までに集中していたようですが、埋葬記録や大局的な観察についての言及があるとすれば、むしろ4月以降ではないかと思います。
 イエール神学図書館の資料も、まだ完全には出版されていないようです。
 ジャキノ神父、Timperley、フィッチなどとも関係のあったホーンベック(Hornbeck)関係資料もまだ、十分調べられていないようです。
 『抗戦時期第二年代』という1942年に中国書かれた作品に、『還俗記』を書いた鈕先銘(Niu Xien Ming)を、柳剣鳴(Liu Jian Ming)という名前にして、その体験談が書かれているのを発見しました。時間ができましたら、また投稿します。作者は、確か郭抹若の部下であった人です。
 この資料の意義は、鈕先銘証言が1938年には知られていたことを示していることです。
 しかし、市民が虐殺されたことや、安全区で敗残兵を探し出そうとして悲劇が起こったことなどに触れていますが、幕府山捕虜については書かれていません。自国の兵士が2万以上も、捕虜になってから殺害されたとは抗日文学に書けなかったということでしょう。少なくとも、日本の警察の基準では発行禁止の対象で、中国でも同じでしょう。書かれていないから、そういう認識は当時の中国政府になかったという『正論』で見かける議論は、ばかばかしいものです。
 現在は、ジャキノ神父と赤十字関係を探そうと思っています。ジャキノ神父は、1937年8月から、上海の救済会に関わっていますので[『民国档案』1998年No.1、p.27]、相当の情報が入っていたはずです。なお、Timperley が赤十字と関係があったと思われる根拠がいくつかあったのですが、本人の手紙で確認できました。1937年には、記者の仕事に差し支えるくらに赤十字の仕事を引き受けていたようです。
 『南京安全区档案』も、救済会との関係で入手できたのではと思っていましたが、上海工部局警察処の極秘資料に『档案』の複写の一部がありました。受付印は1938年4月末頃です。これは、『戦争とは何か』などに掲載された『档案』の原本ではないかと思われ、『戦争とは何か』などでは無いとされている図が入っている他、一部の地名などに漢字がふってありました。

ということで、まだまだ資料が出てくる可能性はありますが、一つの資料で劇的に何かがわかるということは期待していません。

----
「スマイス報告」の件の返信が遅くなっていて申し訳ありませんm(_ _)m

   └ヴォートリンの記事	 ゆう 2003/09/13 07:05:28  ツリーへ

Re: Re:シンベァ氏の新発見文書 返事を書く ノートメニュー
ゆう <pmyqfxtjon> 2003/09/13 07:05:28
ヴォートリンの記事

>中国で日中戦争にであった婦人宣教師の体験談を集めた文集が、英国で1938年に刊行されています。



ひょっとして、これですか? 東中野氏の「徹底検証」からです。

******************************
右のラーベの日記や、Cの「事例五」に、金陵女子大の例が出てきたので、ここに、金陵女子大教授ミーニ・ヴォートリン師の記録を引用しておきたい。

彼女は日本軍の南京占領当時、婦女子用のキャンプとしては最大のキャンプを金陵女子大内に設けた宣教師であった。その記録が、「避難民キャンプで「豊かな生活」を共にして」と題して、「チャイニーズ・レコーダー」一九三八年七月八月合併号に出ている。なお、「チャイニーズ・レコーダーは七十年の歴史を誇るプロテスタント系の月刊雑誌であった。

<金陵女子大学の校門が初めて婦女子の避難民に開放された十二月八日から一月十六日までの間、食事と衣服を用意し、男どもの無統制な欲望から安全にするという、生きるうえで最も急を要する基本的なことにほとんど忙殺された。このキャンプはもともと最大二七五○人収容の予定で発足し、そのために学院の建物があてがわれたのであったが、この巨大な城壁の首都に<恐怖の支配>Reign of Terrorが生じて、女性が危害から安全でなくなった時、学院の全校門が大きく開かれ、ひどく動揺し興奮した女性や女子が殺到し、ついには構内の空間という空間がぎっしりと詰まって、夜にはベランダや通路でさえ頭と足が触れ合うほどの鮨詰めとなったのである。>

ヴォートリンという宣教師は、ラーベの十二月二十六日の日記によれば、日本兵の歓楽に女性を渡すくらいなら「死んだほうがまし」という、潔癖な独身女性であった。ところが、右の避難民キャンプの記録(1938年初夏執筆)には、強姦のことに全く触れていない。それは、金陵女子大学の避難民キャンプで強姦のなかったことを意味する。後になって単なるデマ宣伝と判明したから、それは記録を書く際に削除されたのであろう。

(「徹底検証」P267〜P268)

******************************

「ヴォートリン日記」を読めば、「それは、金陵女子大学の避難民キャンプで強姦のなかったことを意味する。後になって単なるデマ宣伝と判明したから、それは記録を書く際に削除されたのであろう」なんてデタラメな記述は、絶対にできないと思うのですが・・・。

それにしても、こんな資料までお持ちとは。いつもながら、頭が下がります。



なお、ご存知ない方のために、「シンベァ」あるいは「シンドバーク」氏の書いた棲霞山キャンプの記録を紹介します。私が知る限り、これが「シンドバーク」氏の残した唯一の文章です。

これ以外にも何か出てくるのでしたら、素晴らしいことです。

http://www.geocities.co.jp/WallStreet/8503/kokusaiiinkai.html##seikasan

    └Re:ヴォートリンの記事 渡辺 2003/09/13 18:32:08  (修正4回) ツリーへ

Re: ヴォートリンの記事 返事を書く ノートメニュー
渡辺 <oogeblxyju> 2003/09/13 18:32:08 ** この記事は4回修正されてます
Re:ヴォートリンの記事

>>中国で日中戦争にであった婦人宣教師の体験談を集めた文集が、英国で1938年に刊行されています。

あ、...記憶で書いたら間違っていました。
刊行は1939年で、ロンドン以外にも、ニューヨークとトロントになっています。ただし、"Editor's Preface"の日付は、1938年11月8日(上海)になっています。
ヴォートリンの記事の題名は、"In Nanking"でした。
「婦人宣教師」だけではありませんでした。申し訳ありませんでした。
Ronald Ress 編,"Christians in Action A Record of Work in War-time China by Seven Missionaries", Longmans, Green and Co., London/New York/Tronto, 1939
III. In Nanking (Minnie Vautrin), pp.28-45

>ひょっとして、これですか? 東中野氏の「徹底検証」からです。

"The Chinese recorder"は、長老教会(Presbyterian)の宣教団体の雑誌ですね。これでは、ありません。
スマイスの戦争被害報告も"The Chinese recorder"に掲載されたはずですが、残念ながら実物を見ておりません。(1934年以前のものなら、複写を入手可能ですが)
ヴォートリンが「強姦」をとりたてて言わなかったことが理解できない人は、人の心というものを知らない人です。従って、資料の扱いも見当はずれになります。
なお、ヴォートリンの日記は後日清書されたものだと思いますので、執筆時期としては The Chinese recorder の記事のほうが、時間的に先になると思います。
しかし、東中野氏は驚かないでしょうね。「後日、日本を悪者にするために、噂を元に強姦について書き加えた」と、言えばいいわけですからね。

-----
書名:
The Chinese recorder
出版:
Shanghai : American Presbyterian Mission Press , 1912-
他の書名:
The Chinese recorder : 教務雜誌||The Chinese recorder : キョウム ザッシ
The Chinese recorder : journal of the Christian movement in China
注記:
Other title information added from Vol. 46, no. 1 (Jan. 1915): 教務雜誌; and in addition from Vol. 53, no. 7 (July 1922): Journal of the Christian movement in China
変遷注記:
The Chinese recorder and missionary journal
Educational review : a quarterly journal = 教育季報 / China Christian Educational Association
The Chinese recorder and educational review
-----

最後に、ヴォートリンの南京についての記述の一部をOCRで読み込みましたので、添付いたします。
-----
[Ronald Ress,"Christians in Action", Longmans, Green and Co., London/New York/Tronto, 1939]
- p.34 -
The city fell to the conquering army on December 13th
1937. For perhaps a month, the Safety Zone, which was
about one‐eighth the area of the walled city, housed
apprommately 250,000 people. A few thousand perhaps
remained in their own homes to suffer even more cruelly
than within the shelter of the Zone. Sventy thousand
were sheltered in the 25 large camps, two-thirds of these
being in the 11 camps which were housed in Christian
institutions. At the time of greatest danger there were
30,000 refugees at the University of Nanking (a Christian
institution) being housed in academic buildings and
residences; 3,600 at the Bible Teachers' Training School,
more than 3,000 in the Theological Seminary, and at least
ten thousand women and children in the buildings of
Ginling College, the Christian college for women of
which Dr. Wu Yi-fang is president. Five months later,
- p.35 -
five of the remaining six camps still open were in these
mission buildings and they were housing at that time
almost five thousand, mostly young women and children.
Through the three summer months, the Ginling College
camp continued to protect and care for almost eight hun-
dred young women and girls for whom it was unsafe to
return to their homes.
Through the years since their founding these mission
institutions have made many worthy contributions to the
life of China through the training given to its youth, but
the service rendered through the shelter offered to the
homeless and destitute and terror-stricken during these
months of intense danger is worth all they have cost the
churches of the West. Walls and woodwork are scarred,
paint has been rubbed away by countless feet, looks and
hinges are broken and missing, but deep gratitude to the
Christian Church of the West exists in the hearts of many
who found shelter in the Safety Zone and the Mission
institutions.
-----


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